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Dead Line ——境界の儀  作者: 一条信輝


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19話 不退

 首筋の冷たさが、教えてくれた。


 右だ。刃は右から当たっている。首の右側に冷たさがある。見えない。音もない。だが冷たさだけは消せない。渡し場の力が刃に宿っていて、その冷たさが綱を通じて紋に反応する。


 三条大橋では分からなかった。方向が。どこにいるか探そうとしていた。だが今は違う。刃は首筋にある。位置は分かっている。分からないのは角度だけだ。右から。右から当たっている。なら——左にずらせばいい。首の代わりに、肩が切れる。首じゃない。


 死なない。


 男の声が聞こえていた。「橋の上じゃ退かねえんだ、俺は」。あの声。血を流しながら笑っていた。あの男が退かないのに——俺がここで縮こまっているのか。首筋の刃に怯えて、動けないまま、あの男が切られるのを見ているだけなのか。


 違う。


 俺が決める。俺が動く。


 体が動いた。


 左に——首を、体ごと、倒した。


 刃が走った。


 首筋から肩へ。鎖骨の下を。一直線に。深い。今までの比じゃない。皮膚が裂けて、肉が開いて、血が噴き出した。右肩の付け根から鎖骨の下まで。服が裂けた。温かい血が胸を伝って流れ落ちる。


 痛い。


 目の前が白くなった。膝が折れた。橋の石畳に崩れ落ちた。血が広がる。赤い。朝日に照らされて、やけに鮮やかな赤。


 だが——首じゃない。


 生きてる。


 首筋の冷たさが消えていた。刃が離れた。人質が——解けた。


 「——今だッ!!」


 叫んだ。喉が裂けた。声が割れた。橋の上に、俺の叫びが反響した。凍りついた通行人の間を。止まった車の間を。五条大橋の上に。


 男に向かって。



      *



 男が変わった。


 変わった、という言葉では足りない。


 五条大橋が震えた。男が足を踏み締めた瞬間、橋そのものが揺れた。石畳にひびが走った。足元から放射状に。蜘蛛の巣のように。ひびの隙間から光が漏れた。赤い光。綱と同じ光。


 男の周囲の空気が爆発的に重くなった。最初の夜、裂け目から現れたときの圧。橋の上で分身体を斬ったときの圧。あのどちらとも比較にならない。桁が違った。呼吸ができない。肺が潰されるような重さ。だが不思議と苦しくなかった。この圧は——敵意じゃない。殺意じゃない。ただ圧倒的に「いる」。この男が、ここに、橋の上に、「いる」。それだけで世界が軋んでいる。


 凍りついていた通行人が圧に弾かれて後退る。車が横にずれる。街灯が軋む。渡し場の力が男を中心に渦を巻いている。鴨川の水面が橋の下で波立っている。橋の擬宝珠が振動で音を立てている。


 男の傷が——光っていた。


 二十以上の浅い傷。腕の三本。脇腹の重なった傷。肩。背中。太もも。その全てから、赤い光が漏れていた。血ではない。綱の光だ。紋と同じ色の光が、傷口から噴き出している。男の体を赤い線が走っている。傷の数だけ。戦った証の数だけ。あの夜の廃屋でできた傷。路地でできた傷。三条大橋でできた傷。ここ五条大橋でできた傷。全部、俺を守るためにできたもの。その全てが今、光になっている。


 涙が出た。


 なぜか分からない。痛みのせいじゃない。恐怖のせいでもない。目の前のものが——あまりにも凄くて。あまりにも美しくて。傷だらけの体が光っている。血まみれの男が、橋の上に立っている。退かずに。俺のために。


 鳥肌が立っていた。腕の毛が逆立っている。肩の傷が熱い。血が流れている。だがそれすら感じなくなるほど——目の前の光景に、心が持っていかれている。


 ——こいつは、こんなに強かったのか。


 あの夜、「化け物だ」と思った。あのときの比じゃない。あのときの百倍。あのときの千倍。千年分。


 男の体の輪郭が揺らいでいた。大きくなっている——いや、大きくなったのではない。存在が濃くなっている。半透明だった体が完全に実体化し、さらにその向こうに——もう一つの輪郭が見えた。重なっている。今の男と、千年前の男が。五条大橋の上に立つ男と、スタンフォード・ブリッジの上に立った男が。二つの姿が重なって、一つになろうとしている。


 男の目から飄々さが消えていた。怒りも消えていた。笑みも消えていた。残っているのは——ただ一つ。橋の上に立っているということ。退かないということ。千年前と同じ。名前がなくても。記憶がなくても。ただ、橋の上で、退かなかった。それだけが、この男の全てだった。


 だが千年前と一つだけ違うことがある。


 今回は——死ぬ気がない。あの少年が自分の肩を切らせてまで鎖を断った。あの少年のために——死ぬわけにはいかない。千年間、死に対して淡泊だった男が、初めて生に執着している。その執着が、男の体を、橋を、空気を、世界を——震わせている。


 生きると決めた男の全身から、渡し場の力が溢れ出していた。


 不退橋——完全発動。


 男が正面を向いた。戦斧を構えた。五条大橋の中央に立った。


 正面の空間が壁になった。見えない壁。だが確実にそこにある。あの夜の見えない壁とは次元が違う。あのときは刃を弾いた。今のは——空気すら通さない。正面に吹いていた風が、男の前で止まっている。空間そのものが、男の前で凍結している。


 橋の上に立つ、退かない男。


 千年前の原型が、完全に顕現していた。



      *



 俺は倒れていた。橋の石畳の上に。肩の傷が熱い。血が止まらない。視界が暗くなりかけている。


 だが——目は開いている。


 見えないものが見えた——のではない。だが「感じ取れた」。綱を通じて。冷たさの方向。ハサンの位置。完璧じゃない。距離は分からない。だが方角は分かる。紋が教えてくれる。


 「6時——!」


 叫んだ。声が掠れている。肩の痛みで息がうまく吸えない。だが叫んだ。背後。ハサンが背後にいる。


 男が体を回した。正面を6時に合わせた。


 ハサンの攻撃が来た。見えない刃。背後から——いや、今は正面。男が正面を合わせ直した。


 弾かれた。


 見えない刃が、見えない壁に弾かれた。金属が何かに衝突する音。衝撃波が橋の上を走った。欄干が軋む。石畳がさらに割れる。


 「3時!」


 右から。男が回す。弾かれる。


 「10時!」


 左斜め前。回す。弾かれる。


 「真上——12時の上!」


 男が斧を頭上に突き上げた。上からの刃が壁に弾かれる。衝撃が橋全体を揺らした。


 あの訓練。あの絶望。そしてこの瞬間。


 目では見えない。だが綱で感じ取れる。冷たさの方向。紋が教えてくれる。完璧じゃない。十回のうち七回しか当たらない。三回は外す。外した三回は男が自分で対処する。体を回して、斧で空間を薙いで、来るかもしれない方向を潰す。


 だが七割。七割正しい方向を叫べる。それだけで——ハサンの「全方位からの自由な攻撃」が、七割封じられる。


 俺の声と、男の斧。二人で一つ。あの訓練の延長線。だが訓練のときとは別物だった。訓練は声と動きを合わせる練習だった。今のは——命を合わせている。俺の命と男の命が、綱を通じて一つの動きになっている。


 ハサンが追い詰められていく。


 右から——「3時!」弾かれる。

 左から——「9時!」弾かれる。

 上から——「12時!」弾かれる。

 右斜め後ろ——「4時!」男が回す。弾かれる。

 左下——「8時!」男が斧を低く構える。弾かれる。

 真後ろ——「6時!」弾かれる。


 全方位。どこから来ても。俺が叫び、男が正面を合わせ、不退橋が弾く。一撃ごとに衝撃波が走る。橋の石畳がさらに割れていく。欄干が崩れ始めている。


 ハサンに残された選択肢が消えていく。一つずつ。確実に。猟犬に追い詰められる獲物のように。どこに逃げても。どの角度から来ても。弾かれる。


 正面しか残らなかった。


 ハサンが——正面から来た。


 存在感を消したまま。見えないまま。だが正面から。不退橋の正面から。他に道がなかったから。千年の暗殺者が、生涯で一度もやらなかったであろうことを——正面からの、真っ向の攻撃を仕掛けた。


 不退橋が受け止めた。


 見えない刃が、見えない壁に——完全に、止まった。ハサンの全力の一撃を。微動だにせず。空気が弾けた。衝撃波が橋の上を走った。だが男は——揺らぎもしなかった。


 橋の上に、一瞬の静寂が落ちた。世界が息を止めた。鴨川の水音すら消えた。風が止まった。凍りついた通行人も、壊れた車も、崩れた欄干も、全てが静止した。


 静寂の中で、男が笑った。


 あの薄い笑みではなかった。もっと深い。もっと獰猛な。もっと原始的な。歯を剥いて笑っていた。千年前の戦士の笑み。名前もなく鎧もなく、橋の上に立って四十人を斬った男の笑み。人間の形をした嵐。


 斧を振り上げた。


 ゆっくりと。


 両手で柄を握り直した。足を踏み締めた。五条大橋の石畳が、足の下で砕けた。体を弓のように引き絞った。背中の筋肉が隆起した。傷口から赤い光が噴き出した。渡し場の力が斧の刃に集中していく。刃が光った。白い光。太陽のような。


 五条大橋の上空に、朝日が斧の刃に反射して、一筋の白い光が走った。京都の朝の空を、光の線が一瞬だけ横切った。


 振り下ろした。


 音がした。


 空気を裂く音ではなかった。世界を裂く音だった。橋が叫んだ。石畳が叫んだ。鴨川が叫んだ。斧が触れたのはハサンの体だ。だがその衝撃が、橋を通って、川を通って、京都の地面を通って——響いた。


 橋が割れた。石畳が。欄干が。空気が。男を中心に、五条大橋の石畳が放射状に砕けた。衝撃波が橋の両端まで走った。凍りつきかけていた通行人が吹き飛ばされた。車のガラスが全て砕けた。鴨川の水面が爆ぜた。水柱が上がった。朝日が水柱に反射して虹を作った。


 千年分の一撃。


 名前のない男の、千年分の一撃。



      *



 ハサンが——見えた。


 一瞬だけ。消滅する寸前。存在感の消去が解けた。


 黒い衣。白い面。痩せた体。分身体と同じ姿。だが——面の奥に目があった。暗殺者の目。千年前に「山の老翁」と呼ばれた男の目。


 その目は、堂島を見ていた。


 最後の瞬間に。主を見ていた。暗殺者が。自分が仕えた男を。守ろうとしていた男を。


 ハサンが黒い靄になって散った。五条大橋の上に、靄が舞い上がって、朝の空に溶けていった。


 堂島の体が揺れた。


 手の甲の紋が消えた。光が消えた。綱が断たれた。英霊を失ったマスター。


 堂島が膝をついた。橋の石畳に。両手をついた。うつむいた。白髪混じりの髪が額にかかっていた。


 「……美咲」


 低い声。掠れた声。誰にも聞かせるつもりのない声。娘の名前。八年間呼び続けた名前。もう取り戻せない名前。


 堂島の体が薄れ始めた。透けていく。端から。指先から。英霊を失ったマスターは、渡し場の力に耐えられない。綱が盾だったのだ。それが消えた。彼岸の力が堂島を引きずり込み始めている。


 堂島が顔を上げた。俺を見た。あの暗い目。だが——暗さの中に、何かが光っていた。怒りではない。悲しみでもない。もっと——穏やかな何か。


 「……お前の英霊を、信じろ」


 声が遠くなっていく。体が透けていく。足元から消えていく。


 「俺は——信じきれなかった。だから——こうなった」


 間。堂島の口が動いた。最後に。


 「渡し場を閉じるとき……境界の力が……一度だけ……」


 言葉が途切れた。堂島の体が消えた。五条大橋の石畳の上に、何も残らなかった。


 ジャケットの胸ポケットから、写真が一枚、石畳の上に落ちた。


 鴨川の河原で笑う少女。前歯が一本抜けた笑顔。手に持った丸い石。


 朝の風が写真を攫って、鴨川に向かって飛んでいった。



      *



 凍りついていた通行人が動き始めた。時間が戻った。車が走り始める。歩行者が歩き始める。何事もなかったように。誰も何も覚えていない。


 俺は五条大橋の石畳の上に倒れていた。肩の傷が深い。血が広がっている。意識が朦朧としている。


 男が傍に来た。斧を地面に突き立てて。膝をついた。俺の肩を見た。


 「……派手にやったな、坊主」


 声が——戻っていた。あの飄々とした声。覚醒が解けている。傷だらけの体。だが笑みが浮かんでいる。いつもの薄い笑み。


 俺は答えようとした。声が出なかった。痛みと消耗で。だが口元だけが動いた。


 男がそれを見て、笑みを深くした。


 堂島が消えたことを思った。あの暗い目。「美咲」と呼んだ声。写真が風に飛ばされていく光景。「信じきれなかった」という最後の言葉。「渡し場を閉じるとき……」。


 勝った。


 だが——勝ったのか。堂島は消えた。娘の名を呼んで。あの男の望みは永遠に叶わなくなった。


 手の甲の紋が脈打っていた。温かかった。戦闘の後に、初めて温かかった。男が隣にいるから。二人とも生きているから。温かい。だが——その温もりの後ろ側に、別のものがある。言葉にならない。勝利でも敗北でもない。ただ——虚しい。


 勝ったのに。生きているのに。虚しさが、勝利の後ろ側に、静かに立っていた。

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