18話 五条
上から、音がした。
重い着地音。石が砕ける音。河原の地面に何かが落ちてきた。——何かじゃない。
男が立っていた。
五条大橋の欄干から飛び降りてきた。三メートルの高さから。河原の石の上に着地して、石畳にひびが走った。戦斧を右手に。金髪が朝日に光っている。血の滲んだ衣服。三条大橋で受けた傷がまだ残っている。
だが立っている。俺と堂島の間に。首筋に刃を当てられた俺の、正面に。
空気が変わった。男が河原に降り立った瞬間、場の圧が変わった。あの重さ。橋の上のときほどではないが、この男が「いる」だけで空間が歪む。堂島の傍にいたハサンの気配——もともとないが——が、微かに揺らいだ気がした。
堂島の目が細くなった。
「……来たか。英霊を連れてくるなと言うたはずやが」
男が——橋の戦士が、堂島を見ている。笑みはない。あの怒りの目。首筋に刃を当てられている俺を見て、目が変わった。怒り。純粋な怒り。この男のこんな目を見たのは、初めてだった。いや——初めてではない。あの路地で俺の腕の傷を見たとき。「遅れた」と言ったとき。あのときと同じ目。だが今回は——もっと深い。
「俺は英霊を連れてきてない」
俺が言った。声が出た。首筋の冷たさに震えながら。
「こいつが勝手に来たんだ」
嘘じゃない。一人で来た。男が勝手に先回りした。堂島の条件は「英霊を連れずに来い」。連れてきてはいない。
堂島が鼻で笑った。「屁理屈やな」
だが追及しなかった。母親の分身体は既に引いている。約束は守った。ここから先は——戦いだ。
*
「橋の上に行け」
堂島が言った。
河原は石が多い。足場が悪い。だが堂島が橋の上に場所を移したい理由は、それだけじゃない。
橋の上に移れば、橋の戦士は不退橋を発動する。だが正面に俺がいる。俺の首にハサンの刃がある。正面を攻撃すれば俺を巻き込む。不退橋は「正面からの攻撃を防ぐ」。だが正面に人質がいたら——防いでも意味がない。
堂島は計算している。橋の上で人質を盾にすれば、橋の戦士の最大の武器を封じられる。
ハサンに首を押さえられたまま、橋の上に移動させられた。階段を上がる。石段を一段ずつ。首筋の冷たさは変わらない。一段上がるたびに、見えない刃が肌を擦る。動くな、という無言の警告。
男が後ろからついてくる。斧を構えたまま。動けない。動いた瞬間に俺の首が飛ぶ。男の目が俺の首筋を見ている。見えないはずの刃の場所を、男は見ようとしている。だが見えない。見えないから動けない。
五条大橋の上。
朝の橋。車が——止まっていた。走っているはずの車が、止まっている。ハンドルを握ったドライバーが目を開けたまま動かない。歩行者も。橋の上を歩いていた人たちが、足を上げた姿勢のまま凍りついている。渡し場の力が空間を歪め始めている。時間が引き延ばされている。戦闘の気配が渡し場を刺激して、一般人の時間が止まった。
渡し場の力が強くなっている。空気が重い。土の匂い。あの匂い。最初の夜の匂い。橋の上の空気が此岸と彼岸の間で揺れている。凍りついた通行人の間を、俺と堂島と男と、見えないハサンだけが動いている。止まった時間の中で。
堂島が橋の中央で足を止めた。背後に鴨川。正面に男。その間に——俺。
「さあ——始めようか」
*
「マスターを押さえたまま——英霊を削れ」
堂島がハサンに指示を出した。
二面作戦。ハサン本体が俺の首を押さえたまま、同時に男を攻撃する。本体は一つ。だが存在感が完全に消えているから、どこにいるか分からない。首筋の冷たさはそのまま。刃が肌に触れている感覚は消えない。だが攻撃が——別の場所から来る。
男の左腕を、見えない刃が切った。
男が歯を食いしばる。斧を振る——空振り。何もいない空気を刃が通過する。
もう一撃。男の右の脇腹を掠める。血が散る。
男は橋の上に立っている。不退橋は発動している。だが——正面に俺がいる。俺の首にハサンの刃がある。正面から攻撃すれば俺を巻き込む。男は正面を攻撃できない。
回り込もうとする。横に動く。だが動いた瞬間にハサンの攻撃が来る。見えない刃。背後から。男の肩を切った。浅い。だが——「動くな」という無言の圧力。動けば切る。動けば人質も危ない。
制限された戦闘。男は全力を出せない。不退橋は正面を守る。だが正面に人質がいるから攻撃できない。ハサンは正面から来ないから不退橋は機能しない。そしてハサンは人質を押さえながら、男を少しずつ削っていく。
三条大橋の再現。いや——もっと悪い。あのときは俺が自由だった。叫べた。「どこだ」と叫ぶことはできた。通用しなかったが、声は出せた。方向を探すことはできた。
今は声すら出せない。首筋の刃。大声を出したら——反射的に刃が動くかもしれない。動かなくても、ハサンに俺の意図が伝わる。声を出して男に情報を渡そうとしていると分かれば、その前に首を切られるかもしれない。
黙って見ているしかない。男が切られるのを。血が散るのを。あの背中が——あの広い背中に、赤い線が増えていくのを。
目の前で。手が届く距離で。何もできない。
男が斧を振る。空振り。見えない敵に斧は当たらない。だが振らないわけにはいかない。振り続けなければ、ハサンが一気に詰めてくる。斧の風圧で牽制している。振り続けることで、「近づくな」というメッセージを発し続けている。
だがその間にも、見えない刃が側面から、背後から、足元から、男の体を削っていく。一撃ごとに浅い。一撃ごとに小さい。だが積み重なる。十。十五。二十。
男の動きが鈍くなり始めていた。傷の数ではなく、綱を通じた消耗。俺の体力を使って回復しようとしている。だが回復が追いつかない。傷が増える速度のほうが速い。俺の体も重くなっていく。膝が震える。視界が暗くなる。
*
「……やめろ」
声が漏れた。抑えきれなかった。
「こいつを傷つけるな」
堂島が俺を見た。あの暗い目。
「お前が言うか」
声に怒りはなかった。ただの事実を述べる声。
「お前を守るために、あの英霊が血を流してるんやぞ。——お前がここに来たからだ」
正論だった。反論できなかった。俺がここに来たから、男が戦っている。俺が人質になっているから、男が全力を出せない。俺の判断が——男を追い詰めている。
あの朝、「俺が決める」と言った。男の反対を押し切った。俺が決めた。その結果が、これだ。男の背中に赤い線が増えていく。俺の判断の代償が、男の血で支払われている。
だが。
来なかったら母親が消えていた。あの影が母親の肩に触れて、感覚が消えて、彼岸に引きずり込まれて——堂島の娘と同じように。
どちらを選んでも誰かが傷つく。正解がない。母親を選べば男が傷つく。男を選べば母親が消える。正解がない選択を、俺は選んだ。その結果がこれだ。これが俺の選択の重さだ。
堂島が続けた。「お前の気持ちは分かるで。守りたいもんがある。そのために何かを犠牲にせなあかん。——俺もそうや」
娘のために。堂島は娘を取り戻すために、俺を人質にし、男を削り、勝とうとしている。俺は母親を守るために、罠に自分から飛び込んだ。
同じだ。構造が同じだ。守りたいもののために、誰かを犠牲にする。堂島と俺は——やっていることが同じだ。
男が切られ続けている。腕。脇腹。肩。太もも。背中。浅い傷が増えていく。暗殺者の技術。同じ場所を繰り返し切る。浅い傷を重ねて、深くする。左の脇腹はもう三度切られていた。浅い傷が重なって、血の量が増えている。
男の衣服が赤黒く染まっていく。橋の上で。五条大橋の上で。訓練で声を枯らした橋の上で。凍りついた通行人の間に、男の血が橋の石畳に落ちて、赤い点を作っていく。
綱を通じて消耗が伝わってくる。男の傷が増えるたびに、俺の体が重くなる。膝が震える。視界の端が暗くなる。このままでは——男が倒れる前に、俺が意識を失うかもしれない。
だが——退かない。
一歩も。
斧を構えたまま。血を流しながら。傷が増えながら。それでも橋の上に立っている。俺の正面に。凍りついた通行人と、止まった車と、重い空気の中で。この男だけが動いている。この男だけが、戦っている。
男が振り返った。一瞬だけ。血だらけの顔で。
笑っていた。
あの笑み。薄くて、飄々として、底が見えない笑み。血と汗にまみれた顔の中に、あの笑みがあった。最初の夜から変わらない笑み。何度も見た笑み。おにぎりを食ったときも、橋の上で語ったときも、「まあ、なんとかなるだろ」と言ったときも。同じ笑み。
「坊主——見てろ」
声が低い。だが軽い。飄々とした声。血を流しながら。傷だらけで。それでも——軽い。
「橋の上じゃ——退かねえんだ、俺は」
男の目が変わった。笑みの下にある何かが、表面に浮かんできた。




