第6話
俺はミキとマキに送ってもらい家まで帰ってこれた。家に帰って母さんが俺を見て発した第一声は「あんた、何でここにいるの?」だった。あれだけの壮絶で感極まる別れだったのに、戻ってきたらいつも通りってどういうことですか?
「そういえば、瑞希ちゃんと周君が来たよ。心配してるだろうから連絡してあげなさいね」
それだけ言うと母さんは台所に下がって行った。
「何なんだよ。拍子抜けしたぜ」
「それは私が帰ってくるって教えたからな」
ミキが自慢げに自分の胸を張る。お前、そういうことは俺に言っとこうよ。
「そういえば、何でお前らあんなところにいたんだ? さっきははぐらかされたけど、今なら教えてくれてもいいだろ?」
ミキとマキは二人で顔を見合わせて真剣な顔つきになった。
「それはだな、奏音がお嬢様の為に駆け回っていると知ったから、何か力になれないかと思っていろいろ調べてたんだ。そうしたら、お前が連れていかれたことを知って助けに行こうと参上したところに、お前が出てきたってかんじだな」
助けに参上するって俺を連れだす方法などあったのだろうか?
「話は変わるが、これでお嬢様を河原林様から救う方法ができたな」
「何か見つかったのか?」
俺は自分の家のことで振り回されてしまっていたが、今重要なのは紅葉を守ること……。俺にはその方法は思い浮かばなかったが、ミキとマキに何か案があるならそれは願ってもないことだ!
「何を言ってるんだよ。お前は花山院の御曹司だったわけだろう? なら、お前がお嬢様に婚約を申し込んで河原林様との婚約を破棄させればいいだけの話じゃないか!」
ミキとマキはこれで完璧だと頷いている。
「それは俺にあの家に戻れってことだよな? それはできる限り避けたいのだけれど、他に方法はないのか?」
「他に何もなかったから奏音は悩んでいたのではないのか?」
もっともなことを言われ俺は何も言い返せなかった。でも俺が花山院の御曹司として婚約を申し込むということは、何の解決にもなっていないのではないだろうか? 俺は確かに紅葉のことが好きだが、玲央の様に紅葉を無理やり手に入れようとは思わない。もし、俺が婚約を申し込んだとしても紅葉からしたら結婚させられるかもしれない相手が増えただけで何も変わっていない。むしろ、面倒事が増えるだけではないだろうか?
「お前たちはそれでいいのかよ? 俺が婚約を申し込んでも、結局は紅葉が無理やり結婚させられることには変わらないんだぞ?」
何度も言うが俺は紅葉のことが好きだ。しかし紅葉は俺の財産目当てで俺に近付けさせられたのだ。この方法では紅葉の為にはなっていない!
「前にも言ったように私たちはお前とお嬢様との仲を認めてるんだ。今更反対などしないさ」
俺はミキとマキが楽観的過ぎると思わずにはいられなかった。俺は紅葉のことを一番に考えていると思うし、ミキとマキも一番に考えていると思っていた。でも、ここにきてミキ、マキと考えがこうもずれていることを考えると本当に紅葉のことを考えているのかと疑ってしまう。
「お前たちはどうして紅葉が望んでないことをそんなに認めることができるんだよ!」
「私にはどうして奏音が渋っているのか理解できないね」
ミキも隣で頷いている。
「お前はお嬢様のことが好きなのだろう? お嬢様を河原林様から救いたいのだろう? ならなぜ、方法が見つかったのに行動しないのだ?」
「俺は玲央の様に嫌々婚約させるなんて嫌なんだよ!」
ミキとマキが目を白黒させている。
「だってそうだろう? 紅葉は最初から俺が花山院の御曹司だから近付いてこさせられたんだぜ。俺と婚約することは嫌と思ってるに決まってるじゃないか!」
「えっと、本当にそう思っているのか? 確かに婚約は話が早すぎる気もするが、奏音のことは嫌がってないと思うぞ? 今までお嬢様は奏音と一緒にいるとあんなにも楽しそうにしていたじゃないか!」
そうは言っても、紅葉は普段から笑顔を振りまくことは慣れている。俺といた時に楽しそうにしていたからといっても、それが本心からなのかどうかはわからない。
「奏音は気にすることなどないさ。さあ、お嬢様のところに行こう!」
ミキとマキは俺を紅葉のところに連れて行こうと急かす。
「でも……」
「お嬢様に聞いたら早いじゃないか! 行くぞ!」
俺はミキとマキに連れられて行くことになったが、身の細る思いだった。
ミキとマキに連れられて池宮城邸にやってきた。連日訪れている俺を警備員や家臣たちは横目で見ていく。ミキとマキの先導で屋敷の中を歩き、目の前に紅葉の部屋の扉が現れた。この先には紅葉がいる。俺は紅葉に尋ねるのが怖かった。もし、今までの紅葉の態度が全て演技だったら……。そうさ、紅葉が俺のことを好きになっているなどそんな都合がいいことはない。ファーストコンタクトは最悪だったし、紅葉にとって俺は親の言うことを聞いて近付いた人間だ。好きになる要素などどこにもないじゃないか!
「奏音、何立ったまま固まってんだよ!」
目の前の扉を開こうとしない俺に痺れを切らしたのか、ミキが俺の背中を勢いよく押した。
俺は突然のことだったのでバランスを崩し、扉を開き紅葉の部屋の中に倒れ込んだ。
「誰ですか!」
突然部屋に入ってきた俺に神経をとがらせてこちらに視線を送ってきたが、それが俺だとわかると緊張を解いて近付いてきた。
「何をやっているのですか? そこには躓きそうなものなどないはずですけれど?」
顔を上げるとそこには紅葉がシャンパンカラーの透き通った瞳を俺に据えている。ああ、どうしてこんなにも紅葉に見つめられるだけで心がざわめくのだろう。紅葉にただ振り回されていた頃には感じなかった感覚だ。
「紅葉、君を玲央に渡さないための方法が見つかったんだ。聞いてくれないかな?」
俺が立ちあがると、紅葉は返事代わりに部屋の中に案内してくれる。紅葉は俺を腰まで沈むくらいクッションの効いたソファに座るように促し、自身も俺の前に座った。すると直ぐに紅茶が運ばれてきて前のテーブルに置かれた。紅茶を持ってきたメイドが部屋から出るのを確認してから俺は紅葉に話しだした。
「昨日、ここに来て玲央との婚約を解消する方法を見つけてくるって言ったよな。とても昨日のこととは思えないよ。実を言うと、方法なんてあの時何も考えてなかったんだ。でもさ、あれからいろいろあってその方法が見つかったんだ」
紅葉は見つかるとは思っていなかったのだろう。本当ですかと俺に尋ねる。少し表情が柔らかくなったかもしれない。
「でも、この方法は紅葉からしたら何の解決にもなっていないと思う……」
「どういうことですか?」
「紅葉は知っていると思うが……、俺は花山院の跡取りにさせられるらしいんだ。だから、俺と婚約して玲央との婚約を破棄すればいいんだ。でも、紅葉からしたら相手が玲央から俺に代わるだけで何も変わらないよな」
俺の言葉を聞いた紅葉はあたふたと慌てだした。
「奏音が花山院の跡取り? 本当ですの? それに奏音と婚約! そんな、私と婚約などして奏音はよろしいのですか?」
紅葉は俺が花山院の跡取りということを知らなかったらしい。
「じゃあ、花山院の為に俺に近付いたんじゃないのか?」
「ええ、奏音とは偶然が重なって会うことが多くて御近付きになれたと思うのですけれど」
「偶然ね……」
「それより、奏音は私と婚約をしてくださるのですか?」
「俺は昨日も言った通り紅葉のことが好きだ。だから、もし紅葉がいいと言ってくれるなら俺は紅葉と付き合っていきたい。どうかな?」
紅葉は恥じらいながらコクンと頷く。えっと、紅葉がOKしてくれたんだよな?
「本当にいいのか? 夢じゃないよな? ありがとう、紅葉!」
俺は嬉しさのあまり紅葉をぎゅっと抱きしめた。女の子ってこんなに柔らかいのか。いい匂いもするし……。
「かっ、奏音。少し痛いです」
顔を真っ赤にしている紅葉をもっと抱きしめたくなるのを何とか抑えて、紅葉から離れた。
「ごめん。あまりにも嬉しくてさ」
「私も嬉しかったです」
紅葉は俺の顔をもう見ていられないといった様子で俯いている。俺は夢見心地で頬が緩むのを抑えて、もう一度紅葉を抱きしめた。
俺は紅葉とのことを会長に話に行った。会長は終始頷くだけだった。俺が話し終わると会長は立ち上がり一言だけ言った。
「紅葉、お前はそれでいいのかい?」
会長が紅葉を見つめる。俺も紅葉に視線を合わせると、紅葉も俺の方を見て微笑を浮かべたあと、顔を引き締め会長を見る。
「はい、お父様。私はもう決めました。これからが大変だと思いますが、私は奏音と二人で乗り越えていきたいのです」
「そうか……。では、私もできる限りのことはしよう。今更かもしれないが、紅葉の気持ちも考えずに婚約者を決めてしまって悪かった」
深々と頭を下げる会長を前に娘である紅葉は慌てている。普段、誰にも頭など下げることがないであろう池宮城財閥の会長が自らの娘に頭を下げているのだ。会長の心からの行動なのだという気持ちが覗えた。
「お父様、やめてください。私はお父様が謝られる理由が分かりませんわ。なぜなら私は池宮城の人間であり、池宮城財閥の為に私がすべきことだったのですから」
俺は紅葉が今まで本当にそう思ってきたことを知っている。それは池宮城の教育の賜物であり、支配の結果だ。会長からしたら紅葉を複雑な気持ちで見守ることしか出来なかったのだろう。取りだしたハンカチで目尻に溜まった涙を拭きとっている。
「大丈夫ですよ。俺が紅葉を幸せにしますから!」
「それは少し気に喰わないんだが……」
俺は会長の最後の言葉に乾いた笑いしか出なかった。
会長には納得してもらえたが、一番の問題となるのは何と言っても婚約相手の玲央だ。話をつけるために会長、紅葉、俺の三人で河原林の屋敷に乗り込むことにした。
池宮城の会長が自分で来たということもあって、アポイントがなくても河原林の屋敷に入ることができた。
通された部屋には何十人も座れるだろう長机があり、その先に玲央と髭を生やした男性の二人が座っている。玲央の隣に座っているのは、多分玲央の父であり、河原林財閥の会長なのだろう。どっしりと椅子に腰かけた姿がとても様になっている。
俺たち三人は玲央達と向かい合うように座らされた。お互いに長机の短辺側に座っているので、間の距離は十メートル以上あるだろう。
「今日はどういった要件でお見えになったのですかな?」
玲央の父親の声はそれほど大きなものではなかったが、この部屋は音響設備がしっかりしているのか、これほどの距離があるのにも関わらずはっきりと聞くことができた。もっとも、そうでなければこの様な態勢で話をしようなどとはしないだろうが。
「この度アポイントも取らずにこちらへ訪問したのは、以前からしていた玲央君と紅葉の婚約を破棄させていただくことをお願いするためです」
会長が話し始めてくれたその言葉を聞き、玲央が顔をしかめる。
「ほう、それはまた一方的なお話ですね。私たちが何か気に障ることでもいたしましたか?」
玲央とは対照的に父親は眉一つ動かさずに対応する。
「その様なことはまったくもってございません。この娘に結婚したい相手ができたのです。私としましてもこの娘の意思を尊重して上げたい……」
「そちらの少年がそのお相手ですか? 私としては構いませんが」
玲央の父親がそう言いかけると玲央が少し焦ったような声を上げ父親の言葉を遮った。
「玲央、落ち着きなさい。悪い様にはしないから」
玲央の父親は玲央を諭して落ち着かせた後、顔をこちらに向け再び話しだした。
「失礼。もし、玲央との婚約を破棄してその少年と結婚することになったとして、貴方の財閥はどうするのですか? 玲央との婚約の話だって、池宮城に我々河原林が援助を行うために関係を密接にしようという目的の為のものでしょう? 玲央との婚約を破棄したら、もちろん援助など行いませんよ?」
ここにきて玲央の父親は初めて表情を変え、不敵な笑みを浮かべた。玲央も安心しきった顔を見せている。
「申し訳ありませんが、そちらの少年に池宮城を立ち直らせる様な力がある様には見えませんが?」
「池宮城が傾いているのは、元々私の責任です。娘達に背負わせるのではなく、私の力で立ち直らせて見せます」
「それができないと思ったから、私達に助けを求めてきたのではなかったのですか? そんなに池宮城を潰したいのなら私は何も言いませんけれどね。しかし、そんなに一方的に婚約破棄をなさるのでしたら慰謝料を請求できますよね? さてさて、いくらくらいにいたしましょうか?」
玲央達は池宮城が経済的に厳しいことを知っていて、慰謝料を請求してくる。こういったものの金額は経済力によって変わってくるのもだから、慰謝料もとんでもない金額になることを想像することは容易い。
「今ならまだなかったことにしても構いませんよ? 玲央は貴方の娘さんと結婚を望んでいるようですしね」
「結構です。私は娘達の好きにさせることにしましたので」
「私は親切で言っているのですよ?」
玲央の父親は会長が思った通りに動かないことに苛立ちを覚え始めているようだ。
「心使いはありがたいのですが、もう決めたことですから」
会長の言葉に玲央の父親の中で何かが切れたのだろうか?
「そうですか、なら好きにしなさい。しかし、覚えていなさい。後から後悔してももう遅いですからね」
玲央が父親は顔を赤々とさせ、対照的に玲央は父親の言葉に顔を青ざめる。玲央にしたら父親が悪い様にはしないと言ったから大人しく聞いていたのに、父親がこう言ってしまった以上紅葉と結婚することは絶望的だろう。玲央は勝手な奴だったが、紅葉のことを好いていたことは本当のことだ。玲央に悪い気もしてしまうが、しかし俺だって紅葉が好きだし、譲る気など毛頭ない。
会長が失礼しますとだけ言って立ちあがり部屋を出ようとする。俺と紅葉はそれに置いていかれないように後を追った。
外に出ると空は青々と晴れ渡っていたが、西方には暗雲を確認することができた。
また一歩俺は紅葉に近付くことができたが、まだ解決しなければならない問題は多い。その一つに俺が飛び出してきた花山院との関係回復がある。会長は自身で池宮城を立て直すと言っていたが、流石に難しいだろう。元々、河原林の代わりに花山院が支援するようにするということで紅葉と玲央の婚約を取りやめにしてもらってのだ。会長は約束を果してくれたのだから、次に誠意を示すのは当然俺だろう。
紅葉達に車で送ってもらい花山院の屋敷の前にやってきた。紅葉は俺のことを心配してくれて、私も一緒に行きますと言ってくれたが、それは俺の問題である。それにこの場で紅葉を連れて行って、この人と結婚したいので援助してくださいなどと言ってもうまくいかないだろう。俺は紅葉に感謝の言葉を述べて、車を出してもらった。紅葉を乗せた車が見えなくなるのを確認した後、屋敷の門と向き合った。すると、中から監視カメラか何かで俺を見ていたのだろうか? 大型のトラックで再悠々と通ることができる大きな門が野太いうなりを上げてゆっくりと開く。次第に広がって行く俺の視界。再び見る花山院の屋敷は、その一つ一つに経てきた歴史が感じられ、どっしりとした屋敷を包む空気に押しつぶさせそうになる。
「奏音様、お帰りなさいませ」
そんな声がどこからか聞こえ、辺りを見回していると自分の正面に俺とそんなに歳の離れていないだろう和服の女性が深々と頭を下げて立っていた。俺は目を疑った。なぜなら彼女が立ってえいた方向は、俺が声を聞く前まで見ていた方向であり、まるでどこから現れたのか見当もつかなかったからだ。
顔を上げた彼女は無機質な表情をして、心の奥深くまで見透かされそうな鋭い瞳で俺を見つめてくる。
「御館様に申しつけられてお迎えに参りました。御館様が待っております。こちらへどうぞ」
彼女は体を反転させるとそのまま歩いて行ってしまう。俺はその後ろ姿を何も考えられずに見つめていると、彼女に促されたので慌ててついていった。
通されたのは前に爺さんと話をした部屋だった。前と違っていたのはそこには既に爺さんが煙管を蒸かして待っていたことだ。
「お主が戻ってくることは分かっていた。私の為に花山院の跡取りになることにしたのだろう? そういえば、この前お主が出て行ったときに割った壷だがあれは二億円もするものだったのだぞ? それを粉々にしてくれたからな。当分はお主に金は与えないからな」
右手に持った煙管を灰皿に打ちつけながら、はっはっはと豪快に笑っている。その様子を見るとこれは冗談のつもりで言ったのだろう。爺さんにとっては思惑通りに戻ってきて嬉しいのかもしれない。
「爺さん、実は頼みがあって戻ってきたんだ。今、池宮城財閥が傾いているのを助けたいんだ」
「何故お主がそんなことをする必要がある? 他の財閥のことなど知ったことか。お主もそんなことを気にするな」
爺さんはつまらないことを言い出すなと付け加えてくる。
「どうしても何とかしたいんだ! 援助をしてくれないのなら、俺は爺さんの後は継がない」
「ふん、お主がわしに交渉するのか? 笑わせてくれる。お主はおとなしくわしの言うことを聞いていればいいのじゃ」
「じゃあ、どうしたら池宮城を助けてくれるんだよ」
ここで引いてしまったならば、紅葉は結局玲央の元へ嫁ぐことになってしまうだろう。行動を起こしてた以上、もう後には引けない!
「そうだな……、では池宮城の娘との関係を断ってもらおうか。もう連絡を取り合わずにわしの言うことを聞いて後を継ぐというのなら考えてやらないこともない」
「なっ!」
「わしがお主達のことを承知していないとでも思っていたのか? わしを誰だと思っているのじゃ? わしはわしの直系であるお主にこの花山院を継いでもらいたいと思ってはおる。じゃが、お主がダメだったときの為に既に跡取り候補は別に手配してあるのじゃ。わしの言うことを聞けないというのならば今すぐこの花山院から出ていくがよい」
勝手に連れてきておいて、今度は出て行けという。俺のことなど自分の目的を達成するための一つの駒くらいにしか思っていないのだろう。そんな爺さんの下で生きていくことなど、俺には選択できなかった。
「なら、俺は爺さんの後は継がない。帰らせてもらいます」
「勝手にせい」
爺さんは煙を俺の顔に吹きかけると俺よりも早く部屋を出ていった。
俺は爺さんとの話し合いがうまくいかなかったことを報告しに池宮城邸を訪れた。俺は紅葉と一緒になるために行動をしたが結局だめだった。追い詰められた俺の頭の中には両親の顔が浮かんだ。
そういえば、俺の両親は結婚するために駆け落ちをしたのだったな。今なら親達の気持ちがよく理解できる。
「紅葉、悪い。爺さんを説得できなかった。爺さんときたら紅葉ともう会わなかったなら、池宮城を助けてやるなんて言うんだぜ? 俺には紅葉がいないとだめだっていうのに」
「そうですか……、それは残念でした……わ」
紅葉の今にも消えてしまいそうな小さな声に俺は自分が大きな過ちを犯してしまったことを思い知った。
俺は自分が頑張ったということを紅葉に認めてもらい、慰めてもらいたかったのかもしれない。一番不安なのは、玲央との婚約を破棄してしまったことで池宮城が窮地に追い込まれた紅葉だろう。その紅葉に俺は池宮城を助けることができなかったなどと、より不安になることを深く考えずに言ってしまった。
つまり、俺は子供だったのだ。こんな場面で俺は自身の弱みを見せ、紅葉を精神的に追いこんでしまっている。好きな人にこんなことをしている俺など男じゃないと思う。ここは虚勢でも大言でも、堂々と振舞い安心させてやることが必要だった。俺は何をやっているのだろうか……。
「でもさ、俺が何か他の方法を考えるから。心配するなよ」
かなり今更の気もしたが、一応言っておいた。
「ありがとうございます。でも、もういいのです。お父様の言うことを聞かずに婚約を破棄した私が間違っていたのです」
「そんな悲しいこと言うなよ。俺が玲央との婚約を反対したから行動を起こしたんだろう? 間違っていたというなら、婚約破棄を薦めた俺が間違っていたんだ。それにあの時、玲央よりも俺を選んでくれたことが本当に嬉しかったんだ。それなのに、俺を選んだことを後悔するなんてそんなことはして欲しくないし、俺はさせないよ」
「いえそんな、奏音は何も悪くはありません。私が与えられた役目を放棄したことがいけなかったのですから」
紅葉は自分が悪かったと言い、俺は俺が悪かったのだと言う。傍から見ればとても滑稽な状況なのかもしれないが、俺達は至って真剣だ。
コンコンコン。
そんな状況の中、紅葉の部屋の扉がノックされた。なんて空気が読めない人だろうか? いや、読めているからこそこの雰囲気を払拭しに来てくれたのかもしれない。
紅葉が入ることを許可するとゆっくりと扉が開いた。扉の向こうに立っていたのは紅葉の兄だった。
「お兄様でしたか。どうされましたか?」
紅葉は平然を装っているが、声が少し震えていた。
「紅葉、君は玲央君との婚約を破棄したそうだね? そそのかしたのは奏音君だね? なんて事をしてくれたんだ。君達のせいで今池宮城は一大事さ」
言葉とは裏腹にやれやれというジェスチャーをして、軽く微笑む。この前会った時も思ったが、この人は何を考えているか全く分からない。
「さて、紅葉は君が引き取ってくれることになったのだろう? 君は晴れて花山院の跡取りかい?」
実の妹である紅葉を物のように扱っていることが気にいらなかったので、文句を言ったのだけれどもまともに取り合ってもらえず質問に答えるように促された。
「それが、うまくいかなくて花山院の跡取りにはなりませんでした」
「はい? 私の聞き間違いかな? 奏音君は花山院の跡取りになれなかったと聞こえたけれど? もし、本当だとしたら君たち二人は勝手な恋愛ごっこに私達を振り回して、池宮城を追い込んだということだよね」
「そんな言い方はないだろう! 俺達は真剣なんだ。結果として駄目だったけれど、少なくとも紅葉は池宮城のことを思っているんだ」
俺は紅葉の兄に声を荒げ反論したが、紅葉は俯いてごめんなさいと謝った。紅葉は兄に強い態度に出れないらしい。確かにこんな嫌味ばかり言い続ける兄など、苦手になっても仕方がないと思う。
「では、この責任はどちらが取ってくれるのかね? 遊びでなかったというのなら、大人らしい対応をしてもらわないとね」
傷つき痛めている心の中に土足で踏み込んでくる俺達の目の前にいる人の皮を被った悪魔に対し、俺は怒りを通り越して殺気をはらむまでに至った。
「そんなに睨まないでおくれよ。私は何も間違ったことは言っていないだろう? それとも、まだ親に尻拭いをしてもらわないといけなかったかな?」
俺達が何も言えずに黙っていると、扉に体当たりでもしていたかのように執事らしき人が飛び込んできた。
「なんだね君、落ち着きがなさすぎだよ。誉れ高い池宮城の執事としてそんなことでは恥ずかしいよ」
嫌味の標的にされた執事は困惑しながらも、要件を話した。
「申し訳ありません。ですか、緊急事態なのです。先ほどから河原林が池宮城系列の会社の株を買い漁り始めました」
「M&Aかっ! 河原林め、婚約を破棄したことへの腹癒せのつもりか。お前達のせいでこんなことになってしまったぞ、どうしてくれるんだ」
突然の事態に俺や紅葉は何も言葉を発することができなかった。河原林が最後に言っていたことはこういうことだったのだ。
「お前たちなどどこかに行ってしまえ、 邪魔だ。私は買収に対抗しなければならないのでな。さてお父様と話しあわなければ」
それだけ言うと紅葉の兄は執事を連れて、早足で紅葉の部屋を出ていった。
紅葉は扉が閉まるのを確認するよりも前に泣き崩れてしまった。
言葉にならない泣き声を上げる紅葉を俺は慰めたが、なかなか泣き止むことはなかった。
俺は何とか紅葉を泣き止ませると後をミキ、マキに任せて、河原林邸を目指した。こんなことになってしまったのは俺の責任だ。何とかしてやめさせることができなければ、紅葉に会われる顔がない。
ここにやってくるのも何度目だろうか? 門番も直ぐに俺を認識し、連絡をとって中に入れてくれた。
巨大な玄関の扉を開くと玲央が腕を組んで俺を見下すようにして出迎えてきた。
「どうしたんだい、奏音? 君は私と紅葉さんとの婚約を破棄させたのだから、もうここに用はないはずだけれど?」
玲央は分かっていて俺が来た理由を聞いているのだ。俺の方が立場が弱いことが分かっているから、かなり俺を見下している。
「今回来たのはそれについてじゃないんだ。今河原林が池宮城の株を買っているだろう? それをやめてくれないか?」
俺はこれが無理なお願いだと分かっていた。だから俺は普段のノリではなく、真剣に深く頭を下げて頼んだ。
「そんなこと無理に決まっているじゃないか。今は河原林を大きくする最大のチャンスなんだよ? 俺は池宮城を吸収して、紅葉さんを嫁にするんだ!」
「そんな事しても紅葉は喜ばないぞ!」
「そんなことわかっているさ。池宮城を吸収したら、紅葉さんは悲しまれるかもしれない。しかし、こうしなければ池宮城は救えないし、そして何より紅葉さんを救えない!」
こいつは紅葉が俺と一緒にいると不幸になると言いたいのだろう。確かに、今の俺は池宮城を救えなかったばかりか紅葉を泣かさしてしまった。でも、俺はもう弱さを見せない。紅葉に心配をかけさせないと心に決めたのだ。だから、俺はこんなところでは諦めない!
「玲央には悪いが紅葉は俺が幸せにする! 池宮城も救って見せる。だから、池宮城を買収しないでくれないか?」
「庶民のお前に何ができる? それに私は私から紅葉さんを奪っていったお前を許すことができない! お前の頼みなど聞けるものか!」
玲央は冷静さを失いかけてきている。玲央から見たら俺は好きな人を横からかすめ取って行った憎き奴なのだから、そんな奴から真剣に頼まれても、頭に血が上るのは当たり前かもしれない。
「そこを何とかできないか?」
「くどい! 俺はお前の戯言にもう付き合う気はない。早くこの屋敷から出ていけ!」
玲央は警備員に俺を屋敷の外につまみ出すように言うと、俺は二人の大男に両腕を掴まれ外に引きずられる。
「離せ! 俺はまだ玲央に用があるんだよ」
俺は玲央のところに行こうと全力で暴れるが、全然逃げられそうにない。その間に玲央は屋敷の奥に歩いていってしまう。
「おい、玲央。何とか言えよ!」
俺は抵抗虚しく、門の外に捨てられた。
俺にはもうどうすることもできなくなり、最後にやってきたのはここだった。できることならここだけにはもう来たくなかった。ここに来る前に紅葉にお別れを言っておくべきだっただろうか?
「三度わしの前に現れたのだから、『三度目の正直』というやつかのう? 流石にもう戻ってくることはないだろうとは思っておったのじゃが、何か心情の変化でもあったのか?」
「まあ、そんなところだよ」
「先に言っておくが、わしは条件を変える気はないからな? わしを説得するつもりだったのなら諦めることだ」
爺さんは一昨日この屋敷を訪れた時と同じように煙管を吹かしている。三度目と言うこともあってか、俺にはもうほとんど興味を失くし、庭を見つめながら俺に話してくる。
「分かっている。俺は爺さんの傀儡になっても構わない。紅葉に会えなくなってもいい。だから、池宮城を助けてやってくれないか!」
「頼み方がなっていないが……、まあいいだろう。その言葉、後で忘れたとは言わせないぞ? わしとしてはそこまでして池宮城を助けようとするお前の気持ちが理解できないが、約束は約束だ。その頼み今すぐに聞いてやろうではないか!お前には今日らここに住み、花山院が経営する学校に転校してもらう。同じ学校では関係を断つなど無理だからな。いいな?」
「ありがとう……」
俺は心の底から素直にお礼を言える気持ではなかったが、爺さんは俺の言うことを聞いてくれた。
「だから言っておるだろう? 口のきき方がなっていない! これから花山院の跡取りとして生きていくのじゃからそんなことではだめじゃ」
「ありがとうございました」
俺はもうこれから爺さんの言うことを聞いて生きていくことを了承したのだ。言われたことはやるしかない。
「そうじゃ。これからは厳しくやっていくからのう、覚悟しておきなさい」
爺さんは心を落ち着けるかのように煙をゆっくりと吐く。
「お前がわしの跡取りになってくれてわしは嬉しいぞ。お前の母親があの小僧とここを出ていったときは、どうなる事かと心配したものだ。本当によかった、よかった」
爺さんは前に俺が訪れたときのように豪快に声を荒げて笑う。それに対し、俺は爺さんに合わせて愛想笑いをすることしかできなかった。
「突然ですが、家庭の事情で悠木さんは転校することになりました。」
俺はクラスメイト達の前に立たされ転校することを担任に話してもらっている。
爺さんの配慮で俺は最後にお別れを言うために学園に来ることを許された。
「奏音ちゃん、そんなの聞いてないよ! どうして話してくれなかったの」
「そうだぞ奏音! 俺達は親友だと思っていたのは俺だけなのかよ!」
瑞希と周の言葉に謝ることしかできなかった。爺さんにはこれから友達と会うことも許されていないのだ。こいつらと会うことも今日が最後になってしまう。
俺はこの日の授業は全くもって頭に入って来なかった。何時間も授業はあったのに俺は休み時間も含めてその間微動だにしなかったらしい。
放課後になり、紅葉を迎えに行った。先に紅葉には後で会いに行くからそれまで来ないでくれと言っていたので、紅葉は待ちくたびれていたらしい。しかし、紅葉とは誰にも邪魔されない場所でしっかりお別れを言いたかったのだ。
「紅葉、迎えに来たぞ」
「奏音、私は貴方に話したいことがたくさんありますわ」
「俺もだ、でも場所を変えないか?」
ここは紅葉のクラスでありまだ数人ではあるが生徒達が残っている。俺も紅葉も今や有名人になってしまっているので、ここでは話しずらい。
俺達は学園の屋上にやってきた。もうこの時間になると日も傾き、空をオレンジ色に染め上げている。
「紅葉。実は俺、花山院の跡取りになることに決めたんだ。だから、俺はこの学園から転校するし、もう紅葉に会うことはできないんだ。だから、俺のことは忘れてくれないか?」
「何でそんなことを勝手に決めてしまったのですか。私は貴方のことを忘れることなどできません」
「でも、あのときは他に方法がなかったんだ。そのおかげで池宮城は河原林に吸収されることなく、立て直しできかけているだろう?」
俺が跡取りになることを認めると、約束どおり爺さんは池宮城を立て直すために動いてくれた。今や、池宮城は河原林の脅威から逃れ、順調に立て直している。
「確かに花山院財閥のおかげで池宮城は立ち直りつつあります。ですから、もう私達の間にはもう問題は残されてないのですよ? 家柄も私達なら問題無いではありませんか」
「でも、これが爺さんとの約束なんだ。爺さんが約束を果してくれたのだから、俺も果さなければならない」
「その約束と私、どちらが大事なのですか!」
紅葉は白く透き通った肌を赤らめて、感情的になっている。トパーズの様な美しい彼女の瞳は真直ぐ俺を見つめて、視線を逸らそうとしない。
「そんなこと、言うまでもない。紅葉が大事に決まっているさ。でもね、もし俺が爺さんとの約束を破れば、爺さんは池宮城を援助しなくなり、池宮城は再び傾いてしまう。そうしたらまた紅葉が悲しむだろう? 俺は紅葉に悲しんで欲しくないんだ」
「貴方と会えなくなっても私が悲しむとは思わないのですか?」
俺が今まで幾度となく魅せられたきた彼女の瞳に涙が溜まりだす。俺は彼女に近付きそっとハンカチで彼女の涙を拭きとる。
「思ったさ。だけどね、俺以外の誰かが紅葉を幸せにすることはできるかもしれないけれど、今池宮城を救うことができたのは俺だけだった。だから、俺は紅葉を悲しませないために池宮城を救うことにしたんだ」
「私は貴方以外の人など考えられません」
「そう言ってもらえて、俺も嬉しいよ。でも本当に仕方がなかったんだ」
紅葉は俺の言葉を聞くと涙を流し、声を上げ泣きはじめた。
そんな紅葉を俺はそっと抱き締めて、頭を撫でた。
永遠に続いて欲しいと思う俺たち二人を置いて、次第に日は傾き辺りは暗くなっていく。
太陽は俺達を照らすことを諦め、次の人々に温もりを与えに行ってしまった。見上げれば、星屑の海が広がっている。
俺達は寄り添い学校の屋上にまだ座っている。
「紅葉は泣き虫なんだね。初めて会ったときはそんな風には思わなかったよ」
「私は貴方以外の前では泣きません」
「そっか……、紅葉の涙は俺だけが見れる特別なものなんだね」
「そうですよ、だからもっと大事に扱って欲しかったですわ」
紅葉はもう泣いていないが、瞳の周りは薄らと赤くなっている。
「俺は大事に扱ったつもりだったけどな?」
「ハンカチの生地が少し痛かったですわ」
「そうか? それは悪かった。もっとそっと拭いてやればよかったな」
「そうですよ」
二人はどちらからでもなく、笑いはじめる。
「こうやって奏音と話すのもこれで最後になってしまうのですね。もう少し、奏音と早く出会えていれば……」
「過去のことなど考えても仕方がないさ。だから、これからのことを考えた方がいいよ」
「そうですわね。奏音は花山院の跡取りになるのですもの、これから大変ですわよ」
「そんな、脅さないでくれよ」
紅葉とこうやって楽しく話をしたのはかなり久しぶりの様な気がしてならない。ここ数日は本当に大変だったから仕方がないかもしれないが……。
こうして二人で過ごす最後の時を迎えた俺達はそれぞれの道を歩みだした。この二本の道はもう交わることがないのだろうか……。




