好みを代償にしようとも(金木犀1)
私は、病院のベッドに付き添っていた。
微かに消毒液の匂いが漂う白い部屋の中、ベッドの上には目を閉じた少年の姿があった。
いつ醒めるとも無い昏睡状態。顔色はまるで蝋のように白く、もはや事切れたかと思わせるほど生気が無い。毛布の下の左腕から覗くチューブが僅かな生存の証である。
母に幼い頃読んでもらった物語では、呪われた少女の眠りを覚ますのはいつも、勇気ある騎士の口づけだった。目の前の光景が配役を間違えた出来損ないの悪夢に感じられ、何故か笑い出したくなる衝動に駆られる。
だが、一度笑いだしたら最後、私は正気を保っていられる自信がなかった。
私は少年の手を握り締めながらひたすら念じる。
必ず彼を救うと。必ず、再び彼と陽の光の下で笑い合うと。
少年の耳に届くことは無いその台詞を、何度も繰り返す。
「――お時間です」
遠慮がちに後ろから掛けられた声に、私は振り向かず頷く。その間も声に出さず唇だけを動かす。握った手に思いを込める。
「必ず、必ずだ。例え、この身を代償にしようとも」
最後にもう一度そう呟くと、私は立ち上がった。
* * * * * * * *
新学期が始まった。
楠ノ瀬麻紀は自分こそ日に焼けているくせに、徹に「言っちゃおうかなあ」、と意味深に笑う。リボンタイを勝手に外してブラウスの第二ボタンまで開けていて、徹は目のやり場に困る。
徹自身にとっても意外なことに、徹はクラスの中心人物の一人になっていた。
二年三組の中心が荻原有理であることに、疑いは無い。その周辺に、時に応じて高宮武や楠ノ瀬麻紀が位置するわけだが、どうやら徹もその仲間入りをしたようである。学園祭の前夜祭の印象が強烈だったのかもしれない。
だが、話しかけてくるクラスメイトたちの言葉をよくよく聞くと、徹本人に関心があるというより、一緒にいる「学園の有名人」たちのことを尋ねられているだけの気もする。
「そ、それにしても実行委員大変だったろう。日中は全然回れなかったんじゃないか」
そんな中、相変わらず桐嶋和人は徹を対象にして話しかけてくる。徹は笑顔で答えた。
「あんなに落し物とか道案内が多いと思わなくてさ。本当は色々見たかったんだけど」
桐嶋は待ってましたとばかり、小柄な身体を更に折り曲げてカバンから戦利品を出して見せた。
「そ、そうじゃないかと思って。ほら、これが荻原さんの推理劇のパンフレットに、ゆ、有為ちゃんのバンドのプログラム」
徹は、姉妹の名前を聞く度に心の奥深いところに漣が立つ。二人とは、あれからまだ話す機会がなかった。
「で、こ、こっちが杉山のけ、研究論文で――」
「え、杉山も推理劇だろ」
桐嶋は、ようやく反応した徹に笑い皺を作った。太い眉が一層垂れ下がる。
桐嶋の話によれば、学園祭は一人一つの参加と決まっているわけではなく、掛け持ちしても構わないとのことだった。杉山の論文には、左下に小さく「歴史同好会」と印刷してある。そんな同好会があることすら知らなかったが、上級生達と好奇心旺盛な杉山が手を組んだらしい。
「これが、さ、参宮学園の歴史について調べた力作なんだ。し、真の年とか、宝玉とか」
宝玉という言葉に思わず桐嶋の手にある冊子を奪う。
参宮学園の宝玉と真の年について――そう書いてあった。
徹はその夜、自宅のベッドで杉山の論文を一心不乱に読んだ。
――参宮学園の前身は弦桐寺であり、以前から宝玉伝承のある場所であった。古来、帝王の腕輪や賢者の杖、導師の宝玉といった聖具が世界各地にその名を残しているが、中でも導師の宝玉は東アジアにそのルーツがあると言われている。龍玉などの名前で存在が記されており、日本においても古くは蒙古襲来に際して幕府が宝玉を用いたと伝えられている。
徹は思わず唾を飲み込み、先を急ぐ。
――弦桐寺の宝玉に霊力は感じられず、レプリカに過ぎない。そう結論づける論者も多いが、その一方で、ある特異日にのみ霊力が満たされるとする説も根強い。曰く、春分の日に「夢見の宝玉」に転じる、と。
――古来より彼岸の中日は、「龍天に登る」と説かれてきた特異日である。中でも数十年に一度、満月と春分とが重なる夜には宝玉が外部の霊気を取り込み、在りし日の力を取り戻すと伝えられてきた。これが「真の年」である。とはいえ、真の年に実際に何が起こるかは不明である。前回の真の年に何が起きたかの記録も残っておらず――
最後まで読んで、徹は大きく溜息を漏らした。
力作だとは思うが、結局のところ書いた本人にも分かっていないことが多すぎる。
冊子を閉じようとして、末尾に折込まれた表に目を留めた。歴代のナンバーワンとなった連のメンバーと、春分の日の月齢が記載されていた。
(確かに力作だな)
昨年は、瓜谷悠・荻原有理、と記されている。五年前には鳴神菖蒲の、そして十五年前には、リタの母親と思われる名前があった。
徹は再び冊子に目を戻し――そして、自分の迂闊さを呪った。ゲームのルールを知らなかったのは、どうやら自分だけだった。
今年度、即ち来年の春分の月齢は十五、満月。そう書いてあった。
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