第3話 一目惚れ(3)
言っちゃった。
ナシルは口にして返事を聞くのが怖くて目をギュッと瞑った。しかし返事はなく、静寂が長引くほどナシルの中で不安がますます募っていった。
「フォルス・・・あ、あの方のことか」
やがて書類をめくる音と共にペテールの低く重みのある声が聞こえてきた。
「却下する」
ペテールの返事に、ナシルは目を開けた。予想していた返事だった。予想していたはずなのに、実際にこの耳で聞くと、衝撃というか失望感は大きかった。
「り、理由を教えてください。なぜダメなんですか」
「本当に理由がわからなくて聞くのかい」
ペテールが初めて書類から目を離しナシルに目を向けた。ペテールの眼差しから伝わってくる圧迫感に、ナシルはグクリト唾を飲み込んだ。
「ナシル、君は神に選ばれしものである。わしの後を継いで次の大神官にならなければならない。そんな危険な旅に君をいかせるわけにはいかないのじゃ」
「それでは、そんなに危険な旅にあの人を一人で行かせるつもりなんですか」
「護衛をつけるから大丈夫じゃ」
「ですから、その護衛を僕に任せてください。広い世界を旅して回るのはいい経験になると思います」
「そうかもしれないが、たかが経験のために次の大神官となる者を、そんな死地へ送るわけにはいかない」
ペテールの頑なな意志に、ナシルは何も言い返すことができなかった。次の大神官になるということは、将来教会の未来を導いていく存在になるということである。それほど重要な人物である以上、暗殺やさまざまな危険にさらされがちだ。危険から保護するため、次の大神官が誰になるのかは、大神官と候補者本人だけ知ることになっている。なのに次の大神官となる運命を背負うナシルが自ら死地へ向かおうとしているのだから、ペテールは反対せざるを得なかった。
「あと、誰を護衛につけるかはすでに決めてあるのじゃ。君が心配する必要はない」
「その人の代わりに僕を行かせてください」
「却下するって言ってたはずじゃ」
ナシルの懇願にも関わらず、ペテールは一切譲らなかった。
「その件についてはすでに決定済みなんじゃ。日課に戻りなさい」
「ですが大神官様」
「日課に戻りなさいって言ったが」
ペテールの声が鋭くなった。これ以上の反論は受け付けないという意思がはっきりと込められていた。これ以上は何を言っても無駄だと悟ったナシルは唇を強く噛み締め、大神官の執務室を後にした。
******
「ナシル今日に限って機嫌悪そうだな。なんかあった?」
「別に何も」
聖書勉強の時間。隣席のジュダの問いに、ナシルは黒板に視線を固定したまま答えた。
実はジュダの言った通り今ナシルはあまり気分が良くなかった。ペテールに頼みを断られたこともあったが、それ以上に自分が背負っている大神官になる運命にわずかに腹を立てていた。
大神官の運命さえなければ俺に護衛を任せたかもしれない。
実はナシルは自ら望んで大神官候補になったわけではなかった。生まれた時から教会で育ち、ある日ぺテールに次の大神官は自分だと告げられた時も、喜びというよりはただ渋々と自分の運命を受け入れていただけだった。しかし今のナシルは初めて自分の運命を憎んでいた。自分の運命に怒りを覚えていた。自分の運命のせいで自分が惹かれた女と共にいられないことが、苛立たしくて仕方がなかった。
これは神官としては明らかにアウトな考えだった。神のみを敬い、髪を何よりも第一に考えなければならない神官が、たった一人の女性のためにこのような感情を抱くなど、神官失格だった。それでもどうしようもなかった。それほどまでにナシルはフォルスに深く惹かれているのだ。
「主は九十九匹の羊よりも迷い出た一匹の羊を探しに行きました。これがどんな意味を持つか知っている人?」
授業を進めていた神官の問いかけに、手を挙げる者は誰一人いなかった。誰も答えないのを見て、神官は一人を指名して質問した。
「ナシルこれが何を例えたのかわかりますか」
「えぇーと、九十九人の義人よりも、回心するたった一人の罪人を喜ぶという意味だと思います」
神官に指名されたナシルは立ち上がって答えた。ナシルの返事が気に入った神官は満足の笑顔を浮かべた。
「正解です」
神官はナシルに小さく拍手を送った。ナシルは少し照れ臭さそうに席に座った。
九十九匹の羊を置いて一匹の羊を探しに行くという例え話は有名である。人の常識では理解できない行為だ。一匹よりは残りの九十九匹の羊をきちんと世話した方がはるかに得なはずなのに、それでも主は迷い出た一匹の羊を探しに行くのだ。
「そういえばあれ聞いた?」
ジュダは神官にバレないようにこそこそ囁くように言った。ナシルは首を傾げた。
「お前が言ったあのフォルスってやつ。来週にこの教会を去るらしいぜ。聞いたところによると、旅に出るらしい」
「知ってる」
昨夜フォルス本人に直接聞いた話だった。
「じゃこれは? その護衛としてパウル神官様を送り出すらしい」
「マジで?!」
ジュダの情報に、ナシルは思わず大声を出してしまった。そのため、講義さえ中断されその場にいた全員の視線がナシルへ注がれた。
「すみません」
ナシルは何度も頭を下げて誤った。やがて再び授業は開始された。ナシルはジュダの方へ顔を向けて尋ねた。
「嘘じゃないよね?」
「もちろん。今朝大神官様の執務室にパウル神官様が入っていくの見たんだ。こっそり外で盗み聞きしてたんだが、確かにパウル神官様に護衛を任せるって聞いたぞ」
ジュダの言葉に、ナシルは眉間に皺を寄せた。護衛が決まったということは、もはや万が一にもナシルにそれを任せる可能性がわずかでも残っていないという意味である。ナシルの中に微かに残っていた「あんだけ頼んだから聞いてくださるかもしれない」という期待さえ、完全に消え去ってしまった。
フォルス様と一緒にいられない。
その事実がナシルの胸を強く締め付けた。認めたくなかった。想像すらしたくなかった。フォルスが自分ではない別の男と旅に出るということを。想像すればするほど胸が痛み、涙が出てしまいそうだった。
「ジュダ僕決めた」
「なにを」
「僕なんとしてもあの人の護衛になる」
ナシルは真剣な声で言った。ジュダに言っている言葉でありながら、同時に自分自身に言い聞かせているようでもあった。ナシルの目には覚悟が宿っていた。
そんな中、後席の少女がナシルの肩をどんどん叩いた。ナシルは振り返った。ナシルとジュダと同じ神官服を着て、胸まで届く長い灰色髪の可愛らしい少女が、ふくれっ面でナシルとジュダを見つめている。少女の名はアビガでナシルとジュダと同じ見習い神官である。
「ナシル静かにしてよ。神官様の声が聞こえない」
「ごめん、アビガ」
アビガに注意されたナシルは頭を下げて誤った。
「俺あいつ怖い」
「ジュダ静かにしろってば」
「ひいっ、す、すまん」
ジュダの小さい囁きを聞き逃さずにアビガが鋭い眼差しで睨みつけた。それからジュダはビビったのか、アビガの顔色を伺いながら授業が終わるまで何も言い出さなかった。ナシルもまた、静かに授業を受けているように見えたが、心の中では別のことに集中している。
僕が必ずフォルスの護衛になる。
******
「ナシル一体どうするつもりだよ。どこ行くんだ」
ジュダがナシルの後をついて歩きながら問いかけたが、ナシルは答えずただ前を見て歩き続けるだけだった。午後の日課が終わり夕食を取った後、ナシルは何も言わずに席を立ち食堂を出た。そして廊下をつかつかと歩きながらどこかへ向かっていた。いつもとは違う奇妙な様子に違和感を覚えたジュダはナシルの後をついてきているのだ。
「ナシル俺が聞いてるだろ。返事を・・・うわっ」
いきなりナシルが立ち止まったため、ジュダはナシルにぶつかった。ジュダは額をこすりながら顔を上げた。ジュダとナシルの前には真っ白な神官服を着た人が立っていた。ジュダとナシルより頭一つ分ほど背の高い彼はパウルで、ジュダが言っていたフォルスの大神官が護衛に任命した神官である。
「パウル神官様お願いがあります」
「私にか? 言ってみろ」
「パウル神官様の護衛任務、僕に譲ってください」
ナシルの言葉に、ジュダはギョッとした。危うく神官の前で大声を出すところだった。
ナシルイカれてんのか。
もし前にパウルがいなかったらジュダはそう言っただろう。だって大神官に直々に任された任務を自分に譲れというのは、教会の掟に大きく反する行為だった。いや、教会の掟以前に、礼儀にも反する行為だった。
「ナシル。君は今何を言ってるのかわかってるのか」
「はい。僕が何を言っているのかはっきりわかってます。わかった上でお願いしているのです。どうかその任務を僕に譲ってください」
パウルの怒鳴りにも、ナシルは瞬きひとつせずはっきりと言い切った。普段なら怖気づいて引き下がるナシルだが、この件については引き下がるわけにはいかなかった。
「この、聖書勉強に熱心で祈りも真面目だから目にかけてやっていたが、ずいぶん礼儀をわきまえなくなったんだ。罰だ。これから一週間、教会の庭の手入れをお前一人で担当しろ」
「パ、パウル神官様さすがに一人で庭の手入れは無理なんじゃ」
「お前も一緒にしたいのか」
「いっ、いいえ」
パウルの眼差しに怯えたジュダはナシルの後ろに隠れた。どうにかしてナシルの味方になってやりたかったが、どうすることもできなかった。教会の庭は広く美しいことで有名で、それを見に訪れる者も多い。だが、そなん広い庭を一人で手入れというのは、死ねと言われているのと変わらなかった。
「それやれば、その任務を僕に譲っていただけるのですか」
「なんだと」
それでもナシルは引き下がらなかった。むしろこれをチャンスに、自分が護衛の役目を得ようとした。
「一週間庭の手入れすれば、僕がフォルス様の護衛を務めるんですか。お答えください」
「ナシル!」
「ハハ、ナシル急にどうしたんだ」
いつもと違うナシルの様子に、ジュダは彼の腕を掴んで止めようとした。
『パウル神官様どうやらナシルの体調があまりよくないみたいです。僕が連れて行ってしっかり面倒を見ますので、どうかあまり怒らないでください」
「僕は今とても正気だーー」
「いや、お前今体調悪い。ほら、熱もあるな」
ジュダは慌ててナシルの口を塞ぎ額に手を当てた。ナシルは「うっ、うっ」と何か言おうとしたが、ジュダは口から手を離してくれなかった。
「はは、これでは僕たちはこれで失礼します」
ジュダはお辞儀し、隣で何度も抵抗しているナシルの頭を無理やり下げさせた。そして、ジュダはナシルを強引に部屋へおt連れて行った。
「あれ、なんの騒ぎかしら」
ちょうど近くを通りかかっていたフォルスがナシルとジュダを見て首を傾げた。何事か気になったフォルスはパウルの背中を小突いた。するとパウルは振り返った。
「あの神官様何かあったのですか」
「なんでもありません。ただ見習いたちが騒ぎを起こしただけですので、お気になさらないでください」
「はい」
フォルスの問いに、パウルは軽く頭を下げて礼を尽くして答えた。特に気にする必要はないと言われはしたものの、フォルスは何故か気になってナシルとジュダから目を離せなかった。
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