5.海へ
海の底へ行く手段とは。
村長のモーリと巫女のカナンから神殿に立ち入る許可を得た三人はその夜、彼らの家で一泊させてもらう運びとなった。
その主たる理由は、アクティアの村に宿屋が無いためだった。
わざわざこの村を訪れる者は極めて少なく、宿泊する用のある者はもう幾らか歩いた所にある港町バルコに行ってしまう。
故にアクティアの村には宿屋が必要ないのだ。
しかしながら、三人は翌朝神殿に行く予定であり、話が終わる頃にはすっかり夜になっていて外を歩くのは危険なために、村に留まらざるを得なくなっていた。
そこで、ティアが自宅に泊まってはどうかと提案し、モーリはそれを快諾してくれたのだ。
カナンは三人が自宅に宿泊する事に何も言いはしなかったものの、決して歓迎していないというわけではなさそうな様子だった。
そして、村に朝が訪れた。
海の向こうから目映い光を放ちながら太陽が姿を見せ、海と村を明るく照らす。
目覚めと共に聞こえてきたのは、海鳥達の高くも穏やかな声と波の優しい音だった。
着替えて居間へ向かうとティアとカナンが朝食の準備をしており、三人も出来上がった料理を盛り付けたり、運んだりするのを手伝った。
漁村なだけあって、食事は魚料理を中心としたものだ。
料理が居間の食卓に並んだところで、モーリも自室からやって来て朝食の時間となった。
新鮮な魚料理を主とした朝食の美味しさに幸せを感じていると、海の方からは漁帰りの漁師達の声が聞こえてくる。
朝に漁へ向かう漁師達は日の出よりも早い、まだ夜とも言えるようなほど暗い時間に仕事を始め、漁に行かぬ者達が起きて活動を始めた頃に戻って来るのだ。
漁師の仕事についての話をモーリから聞いたマルスは、よく寝坊する自分には向かない仕事な気がすると思うのだった。
腹も満たされ、朝食の片付けを手伝って準備が終わったところで、モーリはカナンとティアも連れてマルス達を村の船着き場へと案内した。
船着き場には帆の張られた漁に使う船と帆の無い手漕ぎの小さな船が着けられている。
「神殿まではこの船を使って行くといい。案内はカナンに任せるよ」
モーリは一艘の帆が張られていない手漕ぎの小舟を指しながらそう言った。
彼の指示を受けたカナンは渋々といった様子で小さく返事をし、先に船に乗り込む。
「ティアも付いて行くといい。大きくなって巫女に選ばれた時のための勉強にね。それと、カナンを頼むよ」
「うん、分かった! 任せて!」
モーリはティアにも同行するよう伝えると、彼女は張り切った様子で返事をした。
正直ティアは気難しい姉の事を思うと、同行するのが姉一人というのが少々不安でならなかった。
口も態度も悪い姉だが、彼女の良い面もたくさんある事を妹であるティアは知っているし、よく喧嘩したり怒ったりするものの姉の事は大好きだ。
だが、気難しい性格故に初対面の相手には誤解されやすく、揉め事になる場合も多かった。
だからこそ、マルス達三人が姉の言動で不快な思いをしないように、そしてそれ以上に、大好きな姉が嫌われてしまう事を避けるために、ティアは同行の依頼に張り切って返事をしたのだ。
返事をしてから、ティアは返事同様に張り切った足取りで船に乗り込む。
「さっ、三人も早く早く!」
船の上からティアに呼ばれて三人も桟橋を歩いて船へ向かい、伸ばされた彼女の手を借りながら順々に船へ乗り込んで行く。
足が船の上に乗ると、体重によって船が揺れる。
慣れない感覚にマルスは思わずひっくり返りそうになったが、ティアが手を引いてくれたおかげでそうはならずに済んだ。
全員が乗り込み、船の上に腰を下ろしたところでカナンがマルスとアイクに何かを手渡してきた。
「漕いで。案内するから」
そう言ってカナンがマルスとアイクに手渡してきたのは、船の櫂だった。
船など自分で漕いだ事のない二人は、戸惑いながらも櫂を海に突き立て水を掻き分ける。
二人は時折顔を見合わせつつ漕ぎ方がこれで合っているのかと確かめていた。
慣れない二人の櫂の動きに合わせて船がゆっくりと、どこかぎこちなく進み始める。
「じじ様、いってきまーす!」
「気をつけるんだよ」
ティアが明るい声で桟橋の上にいるモーリに呼び掛けて手を振ると、優しい声と共に彼も手を振り返してきた。
朝陽に照らされて白く光る海を掻き分け、船はマルス達を乗せてゆっくりと進んで行く。
彼らを見送るように海鳥の高い鳴き声が岸辺から聞こえてきていた。
* * *
村を出てから二十分ほどが過ぎただろうか。
ずっと船を漕ぎ続けていたマルスとアイクの腕が疲労で悲鳴を上げかけていた。
普段あまりしないような慣れない動きに加え、思ったよりも船を漕ぐのには力が必要だった。
そして海には日差しを遮る物が無く、おまけに今日は雲一つ無い快晴で、暑さが容赦なく襲ってきている。
「も、もう無理……ちょっと休ませて……」
とうとう力尽きたマルスが、櫂を置いて船の縁にぐったりと頭を乗せた。
彼を見てアイクも一度櫂を置いて大きく息をつき、疲労の溜まっている腕を回したり揉んだりする。
マルスは海に漕ぎ出したら、もう少し海の美しさを楽しめると思っていたのだが、漕ぐのに必死でそれどころではなかった。
「だらしないわね。このくらいで音を上げるなんて」
「内陸国の人は船なんてほとんど使う事ないから慣れてないだろうし、仕方無いでしょ」
ぐったりとしている二人に向けた溜め息混じりのカナンの呟きに、ティアは僅かに眉をひそめながら窘めるように返す。
海辺で漁業に携わって暮らしているカナン達にとって船の扱いは慣れたものだが、内陸国で船とはほぼ無縁の暮らしをしてきたマルス達にとってはなかなかに難しく、体力を使うものだった。
「まあ、いいわ。ちょうど目的地はこの辺りだし」
「えっ、ここ?」
妹の言葉には特に何も返さず、カナンはそう言って海に目を向ける。
彼女の言葉に反応したマルスは、船の縁に乗せていた頭を起こして辺りを見回した。
だが、どこを見ても海の青が広がるだけで、神殿らしき物もその入り口らしき物も見当たらない。
聖霊の声が海の中から聞こえたのならば、神殿は海の中にあっても何ら不思議ではないのだが、入り口や目印になるような物は海の上から見ても分かるような所にあるのではないかとマルスは思っていた。
だが、それらしい物は無く、これまでと同じ青色がゆらゆらと揺れているだけだ。
「ここからは、船降りて行くわよ」
カナンはマルスの言葉に明確な返答をせず、船の中に置いてあった錨を海に沈めて船を固定する。
錨が下ろされた事で船に僅かな揺れが起こった。
「でも、ここからどうやって……」
「泳いで行くに決まってるでしょ。まあ、ヒュムのあんたらじゃあ溺れ死ぬような距離だけど」
相変わらずの素っ気ない物言いではあったが、今度はマルスの質問にしっかりとカナンは答えた。
皮肉ったような言い回しだが、彼女の口調には嫌味っぽさはない。
それだけ深い所に神殿はあるのだろうと三人は思うのだった。
「アタシが良いって言ったら、海に降りて。溺れ死にたくないならね」
カナンはそう言うと、海に飛び込んだ。
非情に慣れた動きで、あまり水飛沫や音を立てない見事な動作だった。
一瞬でカナンの体が完全に海の中に消え、その数秒後に海から彼女が浮き上がってきた。
海から顔を出して、顔に付いた海水と髪を手で払うと、カナンは両手を広げて魔力を集中させる。
そして、彼女が魔力を解き放った瞬間、突如彼女の前方に広がる海に直径一メートル程の丸い窪みが出来た。
これは何なのかと三人が窪みを凝視している間に、カナンは同じ窪みを幾らか間隔を開けて船の周囲に計三つ作り出していく。
「それぞれ、その窪みから海に入って」
カナンに言われ、三人は顔を見合わせてから船の周囲に出来た窪みをもう一度覗き込む。
窪みからは青く澄んだ海の中がよく見え、差し込む日の光を浴びて泳ぐ魚達の鱗が三人を呼ぶかのように煌めいていた。
三人は恐る恐る船から足を出し、窪みに爪先を付ける。
そのまま重力に任せるようにして、三人は窪みの中へ降りた。
どぷん、と音を立てて体が海に沈む。
だが、不思議な事に水の冷たさを感じない。
服が濡れるような感覚もしなければ、体が水に触れている感覚すらしなかった。
「どうなってるの?」
「魔法よ、魔法。風魔法と水魔法を合わせた物ね。大きい水泡を作ったのよ」
カナンから返ってきた答えを聞いて、マルスは息を吸い込んでから水の中に潜ってみる。
そこで初めて気がついた。
自分が透明な球体の中にいるという事に。
それはカナンが魔法で作り出した巨大な水泡の中だった。
「凄い……! ……って、あれ? 水の中なのに喋れるし、息も出来る」
思わず口から出た言葉が地上と何ら変わりなく響いて耳に届いてきて、マルスは驚きの表情を浮かべる。
水泡の中は地上とそう変わらないらしく、呼吸も出来れば話す事も出来た。
そして、水泡の中で泳ぐ動作をしてみれば、水泡ごと体が前に進んで行く。
マルスは不思議な初めての体験に興奮げな笑みを浮かべながら、再び海上に顔を出した。
彼同様にアイクとパルも初めての魔法に対して驚き、感心したような表情を浮かべていた。
特に魔法への関心が強いパルは、何度か水に顔を付けてはその不思議さを感じ、どうしたらこんな魔法が出来るのかと考えを巡らせていた。
「水魔法と、風魔法……二つの魔力は、どのくらい……? どうすれば、こんな風に……」
「……複合魔法は魔力の調整が難しいけど、コツさえ掴めればあんたでも出来るわよ。二つの魔力をなるべく均等にするイメージでやってみたら良いんじゃないの? あとは、どんな魔法にしたいかはっきりしたイメージを持つ事ね」
無意識に考えている事が言葉になっていたパルの呟きを聞き取ったカナンが、相変わらずの素っ気ない口調ではあるものの、二つの属性魔法を合わせた複合魔法の使い方について彼女に助言した。
カナンからの思いも寄らない助言に、パルは驚いた顔を彼女に向ける。
「……あり、がとう……」
戸惑いの滲んだ、どこかたどたどしい感謝の言葉をパルはカナンに伝える。
カナンは特に言葉を返さなかったが、軽く肩を竦めてその言葉を受け止めた。
そして、パルから視線を逸らして海を見据える。
「じゃ、行くわよ。ティアも付いて来て」
「うん、お姉ちゃん!」
姉からの言葉掛けにティアは大袈裟なほどに頷く。
そして、カナンとティアは大きく息を吸い込み、海へと潜った。
姉妹の姿が海の青へと消えたのを見て、三人も一応息を吸い込んでから海の中へと潜っていく。
賑やかだった海の上は、一瞬のうちに静まりかえる。
誰も乗っていない船だけが、波に揺れていた。




