14.迷って、ごめん
オレはなんて薄情で、最低な奴なんだろう。
エレノアに自身らの無事と、ブローチの事を報告したマルス達はその晩、彼女の屋敷で一泊させてもらう運びとなった。
ブローチのために懸命に戦ってくれたせめてもの礼がしたいという、彼女のたっての希望だった。
これまでの旅の話などに花を咲かせながらエレノアと共に夕食を取り、順に入浴を済ませた三人はエレノアとルストに就寝の挨拶をしてから、各々の割り当てられた部屋に向かった。
並んだ三部屋を個々で使って良いと言われており、三人は部屋の前まで来るとそれぞれ就寝の挨拶をしようと顔を見合った。
「……あのさ」
いつもは一番に「おやすみ」と言い出すはずのマルスの口から出たのは、何かを切り出そうとする言葉だった。
その声はやけに重々しく二人の耳に聞こえ、二人は不思議そうな顔をしながら彼の言葉の続きを待つ。
「二人が呪い魔法で倒れてからの話、さっきしたでしょ」
マルスが何の話をしようとしているのかまるで読めない二人は、僅かに首を傾げながら彼の言葉に頷く。
夕食までの時間に二人は自分達が意識を失っている間に何がどうなっていたのか、当時の詳しい状況をマルスに聞いていたのだ。
それが一体どうしたのかと言いたげな表情で、二人はマルスを見る。
「その……何て言うか…………ごめん」
彼の口から出たのは謝罪の言葉だった。
海色の彼の瞳にはいつものような輝きがなく、酷く沈んでいるように二人の目に映る。
「どういう意味だ? 謝られるような事をされた覚えもないし、むしろ謝るべきは俺達の方だと思うが……」
アイクは怪訝そうな顔をしながらそう聞き返した。
敵の呪い魔法に倒れ、結局ブローチの奪還をマルスとルストに任せてしまった自分達が謝るのなら分かるのだが、彼から謝られる理由がアイクには分からなかった。
それはパルも同じで、彼の言葉に頷きながらマルスの顔に再び視線を向ける。
「オレ……二人を助けなきゃいけないのに……敵を倒すのを、躊躇った」
深い反省の色が滲んだ声でマルスは答える。
あの時呪い魔法に倒れた二人を救うには、イヴリスの命を奪うという選択肢しかなかった。
そうしなければ二人の呪いは解けずに、あのまま死なせてしまっていたかもしれない。
だが、マルスは二人の命が懸かっている状況で、イヴリスを倒す――否、殺す事を躊躇った。
ここで彼を殺す事は本当に正しい事なのかと、迷ってしまった。
「二人の事、凄く大事だし、死なせたりなんかしたくない。したくないのに……オレは、迷って動けなかった。それに、二人のためじゃなくて自分のためにしか、あの時オレは迷いを消せなかった」
マルスは迷って立ち止まってしまったのは、自分の弱さだと思っていた。
ルストのように大切なもののために非情になれない自分を、躊躇ってすぐに動けなかった自分を、なんて薄情な者なのかと責めた。
一瞬でも迷いが消えたのは、怒りに身を任せて我を忘れた時だけだ。
だが、その怒りですら二人を想ってのものではなく、彼自身が大切に出来なかったものを持っていて守れる立場にあるというのに、それを踏みにじったイヴリスへの怒りだった。
二人のためではなく、自分のための怒り。
マルスから迷いを消したのはそんな怒りの感情だった。
大切な二人のために非情になれない自分が情けなくて、恥ずかしくて、申し訳なくて、堪らなかった。
「本当に、ごめん。こんな最低な奴で……」
マルスはもう一度謝罪の言葉を口にして、頭を下げた。
彼が酷く思い詰め、自分を責め、反省している事は手に取るように分かる。
「……最低なんかじゃ、ないよ……」
柔らかな声でパルは言った。
マルスはゆっくりと彼女の顔色を窺うように、下げていた頭を上げて彼女を見る。
彼女の表情はマルスの事を蔑んでも、失望してもいなかった。
「マルスは、優しいから……。あの盗賊の人達も、助けたいって……思ったんでしょ……? だから、迷っちゃったんだよね……?」
彼女からの問いかけにマルスは小さく頷いて答える。
「マルスが優しすぎるのは、知ってるから……。でも、迷っても……ちゃんと、私達の事、助けようとしてくれた……。だから、最低なんかじゃないよ……」
頷いてから俯いてしまったマルスの、固く握り締められた右の拳をパルはそっと両手で包む。
ややひんやりとした彼の拳を自身の胸の高さまで持ってくると、自然と彼の顔も上がって目が合った。
パルは自分が彼の立場に立っていたら、きっと迷わず敵を殺めていただろう、そう思う。
彼女は自分には魔法と高い身体能力といった他人を守れる力があるというのに、何よりも大切な両親を守れなかったという強い後悔がある。
だからこそ、彼女は大切なものを守るためには――今回のマルスと同じ立場に立たされたら、敵を殺める事を躊躇わないだろう。
アイクもまた彼女と同じで、マルスの立場に立たされていたら、躊躇いはしなかっただろう。
彼はまだ大切な誰かを失うという経験をした事が無い。
無いからこそ、失う事を恐れている。
だから、大切な人の命と敵の命を天秤に掛けた時、彼は迷いなく大切な人の命を選ぶだろう。
だが、マルスは違った。
彼は大切なものを守るために、他の誰かを犠牲にする事が正しいのかと悩んだ。
自分にとっては正義でも、他人にとっては悪なのかもしれない。
そう考え、立ち止まるところが二人とマルスの決定的な違いだった。
それは彼の両親の教えによるものであり、彼自身の優しさであった。
「それにね……私達のせいで……マルスが優しさを失くしちゃうのは……嫌だから……」
幼い頃から彼のお人好しとも言える優しさを見て、触れてきたパルには、彼が自分達のせいでその優しさを失ってしまう事が嫌だった。
彼女もまた、彼の優しさという強さに救われた一人だったから。
戦争で両親を失い、絶望に突き落とされ、笑顔すら失くした彼女を立ち直らせてくれたのは、マルスの優しさと笑顔だった。
彼も同じく両親を亡くしたというのに、彼は笑顔を絶やす事なく、パルの痛みに寄り添ってくれた。
そんな彼の優しさを知っているからこそ、パルは自分達のせいで彼がその優しさを失ってしまうのは嫌だったのだ。
「俺もそう思う。それに、俺とパルが今こうして無事でいられるのは、マルスとルストさんが必死に戦ってくれた証拠だ。たとえどれほどお前が迷ったとしても、立ち止まったとしても、お前が救ってくれた事に変わりはない」
アイクはパルの言葉に頷き、そう言った。
ルスト一人になってしまっていたら、今自分達はこうして会話などしていられなかったかもしれない。
彼がどれほど迷い、立ち止まったのだとしても、今こうして自分達が無事にいられるのは、偏に彼が戦ってくれたおかげなのだ。
「だからもう自分を責めるな。俺達はそんな事望んでいない。……いつもみたいに笑って『ごめんごめん』なんて適当な謝り方をしてくれた方が、よっぽど良い」
最後はアイクなりの冗談だった。
普段は決して口になど出さないが、アイクは思い詰めた顔で自分を責める彼も、笑顔を見せてくれない彼も見ていたくはないのだ。
時と場合によっては癇に障る事もあるが、自然と周囲を笑顔にしてしまう彼の笑顔がアイクも好きだった。
彼がこれ以上自分を責めないように、そう考えてアイクはいつもの彼の様子を持ち出し、冗談めいた口調で言ったのだ。
普段なら癇に障るような謝り方でも、今の自分をひたすらに責める謝り方に比べればずっと良いようにアイクは感じていた。
「て、適当なんかじゃ…………いや、うーん……まあ、適当だったかも……」
マルスは思わずいつもの謝り方について否定しようとしたが、思い返してみると、アイクへの謝罪は大体がその場しのぎに適当にしていたものばかりだ。
アイクから視線を逸らして、マルスは右の頬を人差し指で掻く。
「なんだ、否定はしないのか。まあ、俺としては普段の行いの方をより深く受け止めて、今くらい真面目に謝罪してほしいものだな」
「くぅぅ……言い返せる気がしない……」
マルスの肩の力が抜け、いつもの和やかな空気が漂い出したのを感じ取ったアイクはこのまま雰囲気を変えてしまおうと、いつもの如く軽い嫌味を言ってみた。
雰囲気を変えるような役はいつもマルスがするものだったが、今の状況では自分がその役をするしかないと彼は思ったのだ。
マルスは自分のこれまでの行いを振り返ると彼の言葉が正論でしかないため、何も言い返せない事に悔しげな呟きを漏らす。
その時、二人の様子を見ていたパルが、堪えきれなくなったのか小さく吹き出すように笑い声をこぼした。
彼女の笑い声につられるようにして、アイクも笑い出す。
「笑わないでよ」
そうマルスは言うものの、彼の顔にも笑みが浮かんでいる。
いつの間にか二つだった笑い声は、三つに増えていた。
いつもの笑顔がマルスに、三人に戻っていた。
そうして一頻り笑った後、一息ついてからマルスは二人の顔を見る。
「……ありがとう、二人共。おやすみ」
いつもの明るく柔らかな笑顔を浮かべて、マルスは二人にそう言った。
ようやく彼が自然な笑顔を向けてくれた事に安堵しながら、二人は彼の感謝の言葉に頷き、「おやすみ」と挨拶を返した。
そして、雲の隙間から差し込んだ柔らかな月光が窓から三人を照らしたと同時に、三人は各々部屋に入っていき、ようやく眠りにつくのだった。
* * *
マルスは天井を見つめて微睡みながら、魔族の事を思い返していた。
(兄さんを連れ去ったのが魔族かもしれないって事は分かったけれど……)
記憶に残る、五年前に兄を連れ去った謎の人物の容姿と、今日戦った三人の魔族の容姿を思い浮かべながら、彼は胸中で呟く。
(兄さんが連れ去られたあの日だけじゃなくて、もっと前に……どこかで魔族を見た気がする)
兄が行方知れずとなった日よりももっと前に、彼はどこかで魔族の姿を見たような気がしていた。
しかし、記憶があまりにも朧気だった。
思い出そうとすればするほど、記憶にかかる靄が濃くなっていく。
「あ~もやもやする! もう寝よ寝よ!」
蟠りの残る頭を両手で乱雑に掻くと、体を丸めるようにして毛布の中に潜る。
外界からの刺激が遮断され、柔らかな暗闇と温かさに包まれると、自然と瞼が重みを増していく。
だが、思考するのを自ら中断させたというのに、その意思とは裏腹に彼の意識は勝手に記憶を遡っていた。
(あれは……家の、中……?)
眠りに落ちる一瞬前、ふと彼の頭に自宅の光景が浮かぶ。
遠い記憶の中に朧気にある魔族の記憶と、自宅の光景がなぜ結びついたのか。理由はまだ思い出せそうになかった。
彼の意識はそこで眠りに落ちていった。




