女伯爵の館2
見覚えのない部屋の景色。窓の締め切った厚手のカーテンの隙間から差し込む光に、寝過ごしたとベッドの上で上半身を起こしたルディは違和感を覚えた。
制服の上着は脱いだが、昨日はそのまま眠ってしまったのに、今着ているのはさらっとしたローブ状の白い寝間着だ。
「えっと‥‥‥」
身体はすっかり復調しているようで、寝起きの気怠さを感じるくらいだったのに、ベッドから降りて部屋を見回す。
昨日はそれどころではなくて部屋の様子など見る余裕がなかったが、改めて見ると何とも広い部屋だ。
ベッドも天蓋付きの立派な物だし、机やワードローブ、書架などの家具も上品な造りの見るからに高級品という感じだった。そう言えば、ハルドレッドが元は貴族の別邸だったと言っていた。
ベッドの脇に置かれた脇机にシャツが畳んで置かれていて、その横のハンガーに制服一式が掛かっていたのを手に取る。
ノックの音に返事を返せば、華やかなフリルが飾る可愛いエプロンをつけ、裾は長いが動きやすそうな服を着た若い女性が入ってきた。
綺麗に結われた茶色の髪に濃い紫色の瞳、目元が優しい感じで人当たりの良い笑顔を浮かべた背の高い彼女の年齢は、デューレイアより少し年下くらいだろう。
「おはようございます、ルディシアール様。お体は大丈夫ですか?」
「おはようございます。はい、もうすっかり。あの、昨日着替えさせてくれたのは」
「男の使用人でアルセアドです。わたしはお手伝いさせてもらいました」
にっこりと微笑む女性に、なんとなく恥ずかしい気持ちでルディは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いいえ、お気になさらず。申し遅れました、わたしはこのお館に仕えさせて頂いていますロスファネア・ドミ・ジェランと申します。他の者は後ほど、リュレ様よりご紹介頂けることと思います」
「は‥はい‥‥よろしくお願いします。それで、リュレ様は」
「一階のテラスにいらっしゃいます。今日は暖かく、お天気がよろしいですから。ルディシアール様のご朝食もそちらにご用意させていただきます。お着替えをされましたらご案内いたします」
それから洗顔はこちらでと、部屋の小さめのドアを開けると、浴槽や洗面台があり、横のドアを開けるとお手洗いがあった。
良くわかったけど、どうにも気になったのでルディは言ってみた。
「あのロスファネアさん、僕に敬語なんていらないです」
そうしたら彼女は、子供を諭すようにニッコリ笑って、そうはいきませんと言う。
「ルディシアール様はリュレ様のご子息になられたのですから、慣れて頂かなくては困ります」
「でも、あの、それは‥‥‥」
ロスファネアは駄目押しにもう一度にこやかに微笑む。
「お召し替えのお手伝いをいたしましょうか?」
「いいです。あの、一人で着替えさせて下さい」
お願いですから見ていないでくださいと、ルディは言いたかった。気持ちが通じたのか、ロスファネアは部屋の外で待ってくれている。
「ううっ‥‥なんか、違う」
気絶するように眠ったのに、身体がさっぱりしているのも、下着も替わっていたのも、考えないようにする。
こんなのは慣れていない。慣れろと言われても無理かも知れないと、ルディは急いで着替えながら気が重くなった。
すっかり陽が高くなっていて、随分ゆっくり寝ていたのがわかる。テラスに置かれた椅子に座ってお茶を飲んでいたリュレが、テーブルにカップを戻し、ルディに声をかけた。
「身体は大丈夫そうだな」
「はい。済みませんでした」
勧められた席に腰掛けたルディに、リュレは穏やかに微笑みかけた。
「わたしも少々やり過ぎた。昨夜ブランに文句を言われたぞ」
「えっ、先生が来たんですか」
「お前がわたしに虐められていないか、気になったそうだ」
まったくアレも甘くなったものだと、リュレは思う。もっとも、あの男が懐に入れたのはルディだけで、他はどうでも良いという基本スタンスは変わらない。
「デューアが、お前があまり可愛いので虐めたくなると言っていたが、わかる気がするぞ」
「わからないでくださいっ」
思いっきりルディは突っ込んでしまった。なんてこと言うんだあの人はと、心の中でルディは絶叫した。いじめっ子がこれ以上増えたら、本気で命が危ない気がする。
ルディの遅い朝食を運んできたのは、小柄な少し歳のいった女性だった。
淡い金の髪は頭上で纏められていたが、少し白髪が交じっている。澄んだ青緑の瞳は穏やかな知性を感じさせ、物腰は柔らかいが隙のない綺麗な動きをしていた。
「リザ、皆をルディシアールに紹介したい」
「かしこまりました。後ほど、こちらに参ります」
さりげなくルディの食事が終わる頃を見計らって来ることを告げ、リザと呼ばれた女性は一礼して背を向けた。
「ところでルディ、部屋は用意させたが、不足があれば言ってくれ」
「部屋ってあの部屋ですか?」
「そうだ。気にいらんか?」
「いえ、だって、あんな立派な部屋」
「お前の部屋だぞ。これからここがお前の家だ」
くすくすと、おかしそうに笑うリュレは、呆然とするルディに食事を勧める。
長い間この国を守るために力を尽くし、魔術師の育成や庇護、地位の向上に努めてきたリュレに崇拝の気持ちを捧げる者は数え切れない。
一方でリュレは才能のある者を愛した。
力を求めるのは、魔術師にとって本質的なもの。そして何より異名持ちが同類に執着するのは、存在に起因した本能に近いとリュレは思っていた。ブランしかり、ルディシアールしかりだ。
それだけに同類に対しては好き嫌いの差が激しくなる傾向が自分に限らずあることを、リュレは知っていた。ブランとルディは前者だ。それに手の掛かる者程、構い甲斐があるというものだ。
ルディの食事が終わるのを見計らって、館に勤める者達がテラスに集まった。男性三人、女性二人の五人だ。
「紹介しよう、わたしの息子として迎えたルディシアールだ。王都魔法学校の二年次生徒でブランの教え子でもある。四元素属性、治癒、空の魔法を使う」
「よろしくお願いします。あの、ルディと呼んで下さい」
品定めされているような視線に緊張しながら、ルディはペコリと頭を下げた。
「そう緊張するな」
もともと人見知りする質のルディが固まりかけているのに、リュレは微笑ましいものを見るような視線を向ける。
「家令のハルドレッド・カレル、土の魔術師です。よろしくお願いします、ルディ様」
昨日玄関で出迎えてくれた男性が一歩前に出て自己紹介する。
焦げ茶の短髪が撫でつけられ綺麗に整えられている、三十代前半に見えるが、後日聞いたところ四十三歳になるそうだ。魔力の強い魔術師は年を取りにくくなるので、かなり力のある魔術師なのだろう。
中肉中背、落ち着いた容貌の中に鋭さを秘めた黒瞳が印象的だ。
家令というが、実質この館の執事も兼任しているという。
「リザリアナ・フランカーナです。こちらのロスファネア、アルセアドとお館のお世話をさせていただいています。水の魔法を使えます」
リザリアナはリュレがリザと呼んだルディに朝食を運んでくれた女性で、ロスファネアとは朝に顔を合わせている。
ロスファネアは火と水の魔術師だった。
「アルセアド・ウェア、風の、特に雷魔法を得手としています。ハルドレッドさんについて執事の見習いをしています」
ロスファネアとアルセアドは同じ歳で、二十歳になったばかりだという。背が高い好男子といった明るい雰囲気を纏う彼の髪は、銀に近い金髪だ。
「この館で料理人をさせていただいているケイレイ・キリド・ノエと言います。料理のお好みなどがありましたらおっしゃってください」
先代の料理人から引き継いで館の厨房を取り仕切っているケイレイは、火の魔術師である。丸坊主に近い頭をしており、うっすらと生えた髪は濃い茶色だった。
中背だがムキムキの筋肉質である迫力のある体格は、一見しただけではとても料理人には見えなかった。深い緑色の瞳をしていて、見た目通りの歳であるならば三十歳前後といった感じだ。
全員が魔術師というのにはルディも驚いたが、魔法ギルドの理事であり、魔術師に知己の多いリュレであるから、自然と魔術師が集まってしまったらしい。
「あと通いの庭師がいるが、館に住んでいるのはこちらの五人だ。たまに領地の管理を任せているウィレリアと補佐のモルドダールが来るが、紹介はその時にしよう」
もともとリュレはヴェーア伯爵家の本家の出である。現在ヴェーア伯爵家はリュレの弟の子孫が継いでいるが、百二十年前にクリシス女伯爵に叙爵されたときに、所領を王室から与えられたのだという。
「わたしは面倒だからいらぬと言ったのだが、女伯爵としての体面があるからと当時の王に押しつけられた」
森と農地がほとんどを占めるのどかな土地で、体面のための領地であるということもあり、さほど広くはないから、経営は信頼する人任せで何とかなっているとリュレは軽く笑った。
リュレは彼らにルディのことを頼むといって下がらせたが、アルセアドに用意してあった魔石を持ってくるように言う。
「お前の腕を見ておきたい」
そう断って、リュレはアルセアドに持ってこさせた小箱を開け、ルディの前に置いた。
中にあるのは最上級の魔石が三個。つまりこれはそういうことなのだろうと、ルディがリュレを見ると、彼女は鷹揚に頷いた。
「できるか?」
「やります」
どうせ拒否権はないのだと、ルディは宙から杖を取り出した。
「杖を使うのか?」
異名持ちの特徴の一つが、杖無し無詠唱の魔法行使だ。ルディもブランの教えで、すべての魔法を無詠唱で使っているとリュレは聞いていた。
「魔石を作るときは呪文と杖を使った方が、失敗もなく固くできるので、封呪に慣れるまではこのやり方でやっています」
「なるほど、基本に忠実にか。確かに魔石に魔法を封じるにあたっては、個性は極力排除し確実に発動できるよう術を固めねばならん」
ルディが自分の技量を正確に把握しているからこそ、確実な手段を取っていることは好ましいと、リュレは指導者のブランの判断を評価した。
空の魔法を使うと聞いたが、目の前で何気なく宙から杖を取り出したルディに、少し離れたところで控えていたアルセアドは目を見張った。
アルセアドは王都魔法学校に戦闘科の三年次まで在籍していたのだが、経済的な理由で中退を余儀なくされた。それが縁があって、大先輩であるハルドレッドに引っ張られてここに勤めることになったのだ。
実は女性を含め、この館の魔術師達はそこらの傭兵顔負けに、皆腕が立つ者揃いである。
中でもハルドレッドは普段は防御一辺倒だが、実はデューレイアより強いくらいだ。
崇拝する金の魔術師の屋敷に勤め、見習い執事の仕事をこなしつつ、ハルドレッドから魔法と武技両方の指導を受けることができ、アルセアドとしては非常に充実した日々を送っている。
だから、王都魔法学校の二年次生徒であり、リュレがその才能ゆえに養子にまでして後見についたルディの実力が気になっていた。
「えっと<転移>ですよね」
ルディは慎重な手つきで魔石を一つ取り出し、机に敷いた柔らかな布の上に置いた。白銀の短杖を両手で持ち、先端を魔石に当てる。
「砦を築き陣を描く。
封じるは魔法の軌跡、魔術の理。
沈黙をもって礎となす。
我魔力を捧げ世界の理に請願す。
天地を繋ぐ路を開かん。
空と海に境界を築く。
現なる身は記憶の彼方。
往きて還る彼の地へ重ねる<転移>
砦を閉ざし鍵をかける。
解放の主命は凍結を持って時が抱く<封呪>」
一気に詠唱し、<転移>を魔石に封じると、杖を引いてほうっと息をつく。
何度やっても緊張する。
なにせ素材が最上級の魔石なだけに、回数がそれほど熟せていないためでもある。
もっとも、空魔法は他のどの魔法よりルディに馴染み、使うのが楽だから、失敗することはまずあり得なかった。
残る二つの魔石にも同様の手順で<転移>を封じる。
「ふむ、良い出来だ。ルディ、確認するがこれで跳べるのは一人だと言っていたな」
魔石を翳し見て、リュレは封じた魔法が安定しているのを確認する。
「跳ぶのも跳ばすのも一人です。ただ転移する距離は関係ありません」
「お前なら一度に何人跳ばせる?」
それにはちょっと考えて、正確にはわからないと答えた。なにしろ空属性に目覚めてから、今日でまだ四日目である。
「先生と二人で跳んだことはあるけど、それ以上は試したことないから。多分四人、うーん頑張れば五人くらいはいけるかなぁ」
「他者に触れずとも転移させることは可能か?」
「あまり遠くにいる人はわからないけど、見えるくらいの距離にいれば」
実際に、ブランとは触れ合わない状態で何度か跳んでいた。
転移の魔石は、術者本人か触れている相手しか転移させられない。触れずに跳ばせるのは、人を通せる空間連結魔法が使えるルディであればこそだ。
「ルディ、当面は人前では触れて跳ばせろ。お前が触れずに転移させられることはなるべく知られぬ方が良い。いざという時の有用な手札となる」
「先生にもそれは言われました」
さすがにブランはそのあたりはきちんと抑えている。
同様に、魔導具無しでの人を通せる規模の空間連結魔法も、人前での使用は避けるように言われているという。
「<転送>はどうだ?」
人間など生き物の移動は<転移>で、物を移動させるのは<転送>である。
「箱馬車くらいの大きさなら余裕です。家丸ごとだと流石にキツイと思います。やってみないとわからないけど」
あっさりと、わりと恐いことをいってのけたルディに、リュレはこの自覚の無い子供をどうしようかと考える。
これでもまだ魔力は成長途中なのだから、少しばかり考えさせられるものがある。
「ルディ、昼食を済ませたら行くところがある。昼食まで好きに過ごすと良い。そうだな、アルセアド、ルディに館を見せてやってくれ」
ただし館の敷地からはでないようにと、リュレは念を押した。




