ある魔王の憂鬱 ※本編読了後推奨
憂鬱だ。
実に憂鬱だ。なぜ己はあの冷たく暗い場所から引きずり出され、こんな埃っぽく暑い場所にいるのであろう。
怠惰を司る魔王ベルフェゴールは物憂げに頬杖をついた。
本当にやる気はない。こればかりは譲れない。このやる気のなさ故に己は怠惰の魔王になどされたのだと分かっているベルフェゴールは何度目かわからないため息をついた。
これを聞き取ったのだろう。隣に座るメフィストフェレスが顔を引きつらせ、己の方を睨むように見たのに気づいた。
だが振り向いてはやらない。あえて無視だ。だって面倒くさい。
そしらぬ顔をしてため息ばかりついているそんなベルフェゴールにメフィストフェレスもため息をつき、嫌味のように言い始めた。
「ルシファー様を初めとした魔界の者全員が忙しく働いているのです。ベルフェゴール様も働いてくださいね。あのお子様……いえ、神が消えて我々が為すべきことは数多くあります。怠惰の魔王だから働かずとも良いなんて言い訳通用しませんよ」
メフィストフェレスの言葉にベルフェゴールは目を閉じ、顔を背けた。口うるさい彼から怒りの気配を感じ取ったが、無視である。相手にする労力がもったいない。
そんなベルフェゴールとメフィストフェレスの様子を見ていた人間が恐る恐る声をかけてくる。彼は人間の勇者だ。
「な、なあ。そんなんで大丈夫か?」
チラチラとベルフェゴールの様子を伺いながら勇者シェイドはメフィストフェレスに尋ねる。
「あのー、そっちの魔王サマやる気なさそうなんだが」
「勇者殿。そのような心配は無用です。今回我々がここに赴いたのは、他ならぬルシファー様の命。命じられたことを果たさねば、我々は即座にこの世から消滅でしょう」
たとえ魔王の一人であったとしても、という付け足しに勇者シェイドは安心したように頷いた。ちらりと彼を見れば、神がいなくなってからの多忙続きで少しやつれているようにさえ見える。
気の毒なことだ、とベルフェゴールは勇者に同情した。生まれながらに余計な責を負わされ、そして馬車馬のように働かされる。想像しただけでぞっとした。己には絶対無理である。
「そういうわけです。ベルフェゴール様、どうかルシファー様のお怒りをかわぬよう己の責務を全うしてくださいませ」
今回、ベルフェゴールに任された仕事はルシファーを除けば彼でないと出来ない仕事であった。メフィストフェレスはそのサポート役である。
先日、原初のエルフとの戦いで神は消えた。そして世界中が原初のエルフの創り出した理性のない異形化エルフたちに襲われていた。
魔界は総出で出来る限りの異形化エルフ駆除にあたり、目の前の疲れ切った勇者はそれを手伝いつつ各国の王や神殿に事情を説明してまわっている。
あの崩壊の日ともいえる日から少し日が経った今日、魔界からはベルフェゴールとメフィストフェレスが人間界の勇者を訪ねたのには訳がある。今まで置いておいた余り長くも放って置けない問題の解決にルシファーがやっと腰をあげたのだ。
いつだったか混沌の意思の人間界への介入によって、一つの街がまるまる消えてしまった。それが王都と呼ばれる場所であったからこそ、問題は大きかった。ルシファーならばそれを何とかして戻すことは可能であったが、勇者一行にあれやこれやと難題をだして先延ばししていたのである。
その真意は不穏な動きをする原初のエルフと神であった幼女を接触させたかったこと。まだ神である自覚のない彼女の覚醒を促すことにあった。
王都が消えて人間界では大騒動であったが、ルシファーにとっては大事の前の小事であったのだ。
しかし事態は急変し、世界中が異形化エルフに襲われる有様だ。この国に事情を説明し、協力を要請しようにも王族がいないのでは話にならない。そういう訳で重い腰をあげ、ルシファーは消えた王都を戻すことにした。
残された問題は、消えていた王都が突然戻ったことで起こる混乱と時を止めていた王都の者たちに世界のこの有様をどう説明して納得させるかである。ルシファーと勇者一行は散々話し合い、元々疲れ果てていた彼らの出した結論はこれだ。
王都の者たちを初めとした、世界中の者たちの記憶を操作したらいいんじゃね、と。
もはや面倒すぎて説明する気力すら彼らには残ってない。
そこでベルフェゴールに白羽の矢が立ってしまった。ベルフェゴールは万能に近いルシファーを別とすると、他者の精神、特に記憶を操るのに長けている。同じように他者の精神に干渉するのに長けたメフィストフェレスがサポート役に選ばれ、こうして睨まれているのが現実だ。
「ベルフェゴール様。せっかく外に出られたのだから、なけなしのやる気をだしてください。今回の件ではあなただけが頼りです」
メフィストフェレスの言葉にベルフェゴールは己がここに連れてこられるまでいた場所を思い出す。今の自分にとっては家とも呼べるあの場所を。
ベルフェゴールは原初のエルフが騒動を起こす少し前、ルシファーより罰を受けていた。
魔界健康ランドで同じく魔王の一人であるアスモデウスとコーヒー牛乳の最後の一本を奪い合い、ランド内で戦闘に及んだからだ。裁判の結果、コキュートス内を引き回しのうえ氷漬け百万年の刑に処せられた。
氷漬けにされていたベルフェゴールはこの厄介な任務を押し付けるために叩き起こされたのだ。今回、ベルフェゴールだけでなくアスモデウスも人間界での異形化エルフ掃討のため、氷漬けから解放されている。彼は一時的なものとは言え解放を喜んでいたが、己は違うとベルフェゴールは唇を噛みしめる。
あの場所から出されて早数日。もうすでにあの場所が恋しい。暗く冷たいスイートマイホーム。
ベルフェゴールが氷漬けに処せられると知った時、魔界中の者たちが自業自得だと思う反面、百万年も気の毒にと思ったのを知っている。
だが、自分にとってこれは気の毒なことでない。何と言っても氷漬けになっていたら仕事が出来ないではないか。それも刑罰という名のもと、公然とサボれるのだ。こんな美味しい話はない。
同情する者たちを尻目に、長く付き従ってきたベルフェゴールの部下たちは
『さすがはベルフェゴール様。ていうか今回の件、わざとっしょ。アニキ、グッジョブ!』
と羨ましがり、尊敬の眼差しでベルフェゴールを見つめたものだ。上司も上司なら部下も部下。彼らも生粋の怠惰である。
「ベルフェゴール様!」
物思いに耽っていたベルフェゴールにメフィストフェレスの苛立たしげな呼びかけが飛んできた。しかしそちらを向くのも面倒くさい。ベルフェゴールは俯いて、ボソボソと話し始める。
「メフィストよ。この様に任務に励むのは怠惰の魔王として間違っているのではあるまいか」
「は……?」
「わたしは怠惰だ。怠けずしてどうする」
メフィストフェレスが怒りのあまりに身体を震わせている。だがそんなことは知ったことでない。己は面倒くさいことが嫌いだ。仕事はもっと嫌いだ。
「これはルシファー様のご命令です。背かれる、と。それなりの覚悟は出来てのお話でしょうか」
最悪、命が無くなりますよというメフィストフェレスの忠告にベルフェゴールは首をかしげた。
「なるほど。しかしそこで、怖いよー、ちゃんと働くよーというのもおかしな話であろう。むしろ生きているのは面倒くさい、どうぞ処刑なさりますよう、と命差し出してこその怠惰……」
果たして死ぬのは怖いのだろうか、とベルフェゴールは考える。いや、己はじゅうぶんな程生きた。飽き飽きするほどに、だ。
意外と死ぬのは怖くない。だが、と思う。怒り狂ったルシファーはちょっと怖い。
そしてメフィストフェレスは命がなくなるなどと言っているが、この自分の性格をルシファーはよく知っている。他の魔王たちも同様にだ。もしかして与えられる罰は死などよりずっと辛い強制労働や、某女魔族との結婚だったりするかもしれない。何せあらかじめ法で罰則が定められていた健康ランドでの一件とは違う。どんな罰を与えられるかわかったものでない。
そう思いつくと、ベルフェゴールは真っ青になり震えた。思わず立ち上がる。
こんな恐ろしいことはない。
これはおとなしく働いておくべきだ。そして一刻も早くあのスイートマイホームに帰る。そうすれば百万年は安泰だ。
「メフィスト、わたしはやる気がでた」
「それはようございました」
「なあ、この魔王様大丈夫なのか?」
「大丈夫です、勇者殿。ではそろそろ参りましょうか」
作戦会議は終了だとメフィストフェレスが立ち上がる。他の者たちもそれに従い立ち上がった。
かくしてやる気ないベルフェゴールのおかげで世界中の人間は記憶を操られ、歪な形ではあったが消えた王都の問題は一応の解決をみたのだった。