第三章 売るものが、何もない
営業マンに無いのは、商品か、それとも気力か。
今夜の俺には、両方が無い。
寄り合いが始まる、というので、俺もリーゼに肩を借りて、村の集会所まで歩いた。
集会所は、村の中央の、屋根の傾いだ木造の建物だった。床は土をならしただけで、入り口のところだけ、磨り減った石が二枚、かろうじて並んでいた。
中には、二十人ほどの村人が、車座になっていた。男も女も、みんな痩せていた。子どもの姿は、ほとんどなかった。
膝の前に、各々、小さな包みを置いている。中身は、麦の粒、塩、糸、煤けた羊皮紙の切れ端。
俺はすぐに気づいた。
これは、寄り合いではなく、最後の財産持ち寄りだ。
たぶん、誰かに渡すか、あるいは魔物に襲われたとき、生き残った者が、まとめて逃げるための。
「外の人だ」
と、誰かが言った。
「黒髪の」
「村長が、なにか言っとったやつか」
「魔物の前に、別のものが落ちてきたか」
声に、敵意はなかった。あるのは、関心の希薄な、疲れだけだった。
俺は、村長の隣に座った。リーゼは、土間の壁際で、薪を抱えて立っていた。
「ササクラ殿」
村長が、口を開いた。
「この村は、半年、商人を見ておりません。塩は底をつき、薬草は枯れ、麦は今夜の分までしか、もちません」
「はい」
「今夜、結界が崩れれば、皆、終わりです。ですが、もし崩れずとも、明日には、誰かが、雪の中を、死を覚悟で街道に出るしかない」
「その役を、決める集まりです」
別の老人が、言葉を引き継いだ。
くじ引きの紙が、回ってきていた。
俺は、しばらく、その紙の流れを見ていた。
くじを引いた者が、雪の中、魔物が出るかもしれない街道を、ひとりで歩いていく。半年の間、誰も、戻ってこなかった、その道を。
胸の奥が、変な動き方をした。
俺は、自分の手のひらを、ノートの表紙に当てた。
「あの」
声を出すと、車座の何人かが、こちらを見た。
「俺、その役、できないでしょうか」
しん、と、集会所が静まった。
リーゼが、土間の壁際から、薪を取り落とした。
「お前さん」
村長が、目を細めた。
「お前さんは、外の人。事情を知らぬ。やめなされ」
「事情は、たぶん、まだ分かっていません」
俺は、頷いた。
「でも、たぶん、これは、俺の仕事に近いんです」
「仕事?」
「ルート営業、っていう」
その単語を、俺は、ゆっくりと言った。
頭の中で、自分の十年のノートが、めくられていく感覚があった。
「商品を、決まった場所に、決まった日に、届けて、また帰ってくる仕事です。届けるものは、村と村のあいだの、薬草でも、糸でも、塩でも、いいです」
「そんなもの、お前さん一人で、何ができる」
「分かりません」
俺は、正直に答えた。
「でも、十年やってきました。三十六軒、雨の日も、雪の日も、毎週、回り続けました。誰かに頼まれたわけじゃないんですけど、回らないと、なんとなく、落ち着かないんです」
何人かの村人が、ぽかんと、口を開けた。
「お前さん」
老婆の一人が、ぽつりと言った。
「商人ギルドの、本流の言い方、するな」
「商人ギルド?」
「街の、北の」
老婆は、皺だらけの指で、北を指した。
「ギルドの古い言い伝えでは、優れた行商は、自分の道を、ルートと呼んだ。神話の言葉で、神々の道、と同じ綴り、と聞いたが、わしらには、もう、本当の意味は分からん」
ルート。
俺は、もう一度、ノートの表紙に手を当てた。
俺が、ずっと、回ってきた、三十六軒の道。
それと、神話の道が、同じ綴りだという。
偶然なのか、それとも、ノートが俺に呼びかけているのか、まだ分からない。
ただ、不思議と、体の奥が、温まった。
「俺、明日、ハム村まで、歩きます」
「ハム村は、北だ。雪深い」
「行ったことのある人は」
「半年、誰も」
俺は、頷いた。
「では、今晩、結界が、もてば」
俺は、自分でも信じられないくらい、まっすぐに、村長を見た。
「明日の朝、出ます」
村長は、しばらく、俺を見つめた。
それから、ゆっくり、頷いた。
「死ににゆくな、と言いたいが、お前さんが落ちてきたのも、ひょっとして、何かの理由かもしれぬ」
「分かりません」
「分からんで、いい」
老婆が、顔の皺を、もう一段、深くした。
「分かってから動く奴より、分からんで動く奴のほうが、結局、商売はうまい」
俺は、苦笑して、頷いた。
寄り合いが終わったあと、リーゼが、薪を抱えたまま、俺の傍に立った。
「ササクラさん」
「うん」
「ハム村まで、私も行く」
「だめ」
「だめって、どうして」
「お父さん、薬がいるだろ」
リーゼは、口を、ぐっと結んだ。
「だから、薬を、もらってくる」
「薬を、もらいに行くのが、俺の仕事だよ」
「私の村のことよ」
「そう。で、俺は、商人だ」
俺は、ノートを、彼女に少しだけ、見せた。
「商人ってのは、家族の代わりに、遠くまで行く仕事なんだ」
リーゼは、目を、瞬いた。
涙ではない、何か別の、見たことのない光が、そこにあった。
「……ありがとう」
「礼は、薬を、ちゃんと持って戻れたら、聞く」
夜が更けてから、俺は、村長の家の隅で、毛布をかぶった。
ふと、ノートを広げ直して、寄り合いで聞いた村人の名前を、覚えている限り、書き込んだ。
イーラ婆さんは、塩を分けてくれた。
鍛冶屋のロドルは、自分の鎌を、研いでから渡してくれた。
小さな少年のミーナは、手のひらに、玉ねぎを一個、乗せて寄越した。
それぞれの顔と、それぞれの差し出し方を、ノートに書き分けた。
書き終えたとき、胸の中の何かが、きゅっ、と縮んだ。
俺は、十年間、誰のためでもなく、ただ書いてきた。
書くことが、自分の存在の証だ、なんて、考えたことはなかった。
ただ、書かないと、自分が今日ここにいた、という事実が、どこかに、消えていきそうで。
その癖が、こんな世界で、こんな夜に、役に立つかもしれない、というのは、十年前の自分には、信じられないだろうな、と思った。
外で、結界の祠が、鈍く、青く、瞬いていた。
雪が、止まなかった。
リーゼが、土間の方から、こちらを見ていた。
何か言いかけて、結局、何も言わずに、また薪をくべた。
火がぱちぱちと爆ぜる音だけが、しばらく、家の中を満たしていた。
俺は、ノートの新しい頁に、字を書いた。
明日、ハム村への道。
書いた瞬間、視界の端の文字が、また光った。
【記録】に新規ルートが仮登録されました。
俺は、目を、ゆっくり、閉じた。
明日、出る。
それだけが、決まっていた。
風が、油紙の窓を、ことり、と叩いた。
その音は、十年前、初めて訪問した取引先の、店の引き戸の音と、よく似ていた。
俺は、毛布の中で、足を、まっすぐに伸ばした。
寒さよりも、明日、何時に出ようか、ということばかり、考えていた。
朝の出発時間を決めるのは、いつだって、楽しい仕事だった。




