五月の出来事B面・⑤
夜の暗闇に沈む空港。その一角に潜むアキラたちが乗った黒いクラウン。
一見、航空機の騒音すら遠くて静寂に包まれているような絵ではあった。が、その車内は喧騒に包まれていた。
運転席でハンドルを握るヒカル。助手席で遠くを見つめるエレクトラ。そして後部座席で息を潜めるようにして体を丸めているアキラ。その誰もが声を発していなかった。
うるさいのは後席の足元に置いた無線機である。
先ほど、この空域には非常事態が宣言された。そのおかげで定期便を含む航空機は、一機を除いて空港周辺に近づけなくなった。そのため行先変更やら上空待機やらを航空機たちへ指示するために、管制塔が忙殺されているのだ。
もちろん、その一機とは標的にしている人物が乗っている機体である。
いつもとは違う業務に加えその量が多いために、管制官たちが英語でがなる声に、殺気が混ざり始めているのが、手持ち式の無線機越しにでも分かった。
英会話の聞き取りが怪しいアキラでも、その切迫した事態は察することができた。これがすべてエレクトラの所属するグループの策略なのかと思うと、ちょっと怖くなってくる。不安そうにヒカルの後頭部を眺めていると、その横面を張り倒すような鋭い音が、アキラの耳に届いた。
音の方角へ振り返ると、飛行機たちが翼を休めている駐機場脇から誘導路へ、満艦飾の赤い車体が出てきた。近くで聞けば回転灯の明滅と同期しているだろうサイレンの音は、距離がある分ずれて聞こえた。
突然、エレクトラが片耳を塞ぐような仕草をした。
そちらの耳には超小型のインコムが嵌めてあるはずだ。
「アルファ、ブラボー、両チームとも出動」
短く連絡内容を口にした。相変わらず片目だけ閉じていたヒカルが、無言でエンジンを始動させた。
「消防隊の後ろにつけて」
無線から漏れ出る通信に、日本語が混ざり始めていた。消防隊も同じ周波数で、管制塔などとやり取りを開始したのだ。その一層うるさくなった車内で、エレクトラがわざわざ赤色灯の方を指差して言った。
「まだだ」
エンジンをかけただけで、クラウンを発車させていないヒカルは断言した。
「まだ火事屋たちに余裕がある。降りてくる機体が見えてからの方が安全だ」
全員が別の物に注目していれば、不審な車が近づいても目立たないということだろう。ヒカルの言うことに一理を感じたエレクトラは、黙ってうなずいた。
「きた…」
滑走路から上空へ撃ちあげられる様々な色の明かりを、一瞬だけ反射する物があった。
十人乗れば満席になるようなビジネスジェットである。
日本の空では官民合わせても、そう珍しい機体でもない。ただ一点、その機体に変なところがあるとすれば、全ての明かりを点けていないことだろうか。いや、もう一つあった。エンジン音がまったくしないのだ。まるでグライダーのように、静かで滑り降りてくるかのような飛行なのだ。
パイロットは平均以上の腕前を持っているのだろうか、見ている者を不安にさせるような挙動は一切見られない。まるで空中に見えない坂道があるかのような、安定した着陸であった。
タイヤが滑走路に触れた瞬間に、接地面から煙が上がった。それを見ていたアキラは、聞こえる距離では無いのだが、ゴムが擦れる「キュッ」という音を聞いた気がした。
普段ならば逆噴射などで滑走距離を短くできるのだが、翼のスポイラーを立てただけで、そのまま着陸滑走が始まった。
消防隊には、一本しかない滑走路のどちらから進入して、どこらへんで止まるかの予告がされているのだろう。一台だけ黄色い回転灯を灯した車が、後を追うように走るだけで、飛行機の方が消防隊の待つ位置へと近づいてくる格好だ。
「行くぞ」
不要にエンジンを吹かさないように、ヒカルがアクセルを控え気味に開いた。クラウンは闇の中をヘッドライトも点けずに、誘導路へ踊り出した。
一定の間隔でビジネスジェットのタイヤからは煙が上がっていた。どうやら過熱しすぎないように、断続的にブレーキをかけているようだ。
滑走路を減速する機体を斜め前に見ながら誘導路を走る格好となった。減速具合からビジネスジェットが停止してから、消防隊の後ろへ辿り着く形になりそうだ。
「余裕こいてるから、間に合いそうもないじゃない」
エレクトラが不機嫌そうな声を上げた。
「そこ、入って」
滑走路へと繋がる分岐点が見えてきたので、エレクトラが標識を指差した。
「だめだ」
ヒカルはにべもなく言った。
「あそこから行ったら、機体の後ろに回り込むことになる。それじゃあ、目立ちすぎる」
おそらく消防隊も迫って来るビジネスジェットに注目しているだろう。エレクトラの指示では、そんな視界へ車が乗り込む形になるだろうことは、アキラでも分かった。
「じゃあ急ぎなさいよ!」
「急いでるさ」
ヒカルはアクセルを一層踏み込み、ビジネスジェットを追い越した。前方に誘導路の端が見えてくる。そこは少し広くなっており、大きな旅客機が、方向転換して滑走路へ安全に進入できるようになっていた。
アキラは、ビジネスジェットの機体が、赤や黄色など、色とりどりの明かりを綺麗に反射している様子に、目を奪われていた。
地面から飛行する飛行機は、どれも小さく見えるものだが、こうして着陸した機体を見上げると、夜の空港というだけでなく、まわりの緊急車両たちの様子も相まって、名も知らぬ神鳥が自らを崇める神殿へやってきたようにも見えたからだ。
クラウンが誘導路から滑走路へ進入して行くにつれ、横から正面へと視界が移動した。
子供っぽく口を半開きで見上げていると、パーンという音がした。
「?」
その瞬間、車内に静寂が訪れた。あれだけ騒いでいた無線機すら沈黙したのだ。
視界の端で、カメラのフラッシュが焚かれたような、そんな一瞬だけの光が灯った気がした。
エレクトラのスマートフォンが、まるで非常サイレンのような音が上げた。一瞬も躊躇わずに耳へ手をあてながら、彼女はヒカルを振り返った。
「やられた!」
「なにが?」
怒鳴り声に怒鳴り声を返した。
「アルファが沈黙。足を奪われたわ」
「足って、あれか?」
滑走路上を、ビジネスジェットが着陸してきた方向へ、一台の救急車が走り出していた。
「追って!」
「おうよ」
ヒカルは床までアクセルを踏み込んだ。グーンとシートへ押し付けられるような感じがして、クラウンがとんでもない加速を開始した。
外見は街で見かける物と何ら変わるところがないが、何かしらの改造を受けているのだろう。ゴハッという吸気音がすると、さらに加速が強くなった。
最初は小さな赤色の点だった救急車の後ろ姿が、みるみる大きくなってきた。
ヒカルはヘッドライトをハイビームで点灯させた。カッと照らされた救急車は、リヤハッチが開けっ放しになっているので、車内の様子まで見ることができた。
普段ならストレッチャーが載せられているスペースに、よろよろと周囲の色んなものに掴まりながら立ち上がる人物がいた。風に肩までの髪が乱されているのが分かった。
「イフリートとハデスが負傷。ドン・ファンは置いてきぼりですって」
現場にいる誰からの報告かは分からないが、エレクトラが状況を口にする。
「ブラボーはアルファを回収、撤退して。ロメオは怪我人を収容する手配を」
インコムへ命令を下しながら、左手でダッシュボードを開いた。
「なんだ? あたしの得意な方法で止めるのか?」
チラリと見たエレクトラの左手に、先程用意していた自動拳銃を見たヒカルが、楽しそうに訊いた。
「高校生と思って侮っていたわ」
ドアに設けられたパワーウインドのスイッチを肘で入れながらエレクトラは忌々しそうに言った。
「閃光弾を使ったみたい。イフリートは、それで目を灼かれたそうよ」
身内が傷つけられたことによる怒りを隠そうとせずに、エレクトラは開いた窓から銃を前方へ構えた。救急車の車内で立ち上がった人物が、揺れる車内に苦労しながら、助手席へ回り込んでいくのが見えた。
「どうでもいいが撃ち殺すなよ。『ネモ船長』は捕獲が望みだろ」
「お嬢さんわね! それ以外はどうかしら!」
リヤハッチだけでなく、助手席のドアまで開けっ放しになっている救急車に向けて、エレクトラは引き金を絞った。
夜闇を追い払うような発砲炎で、アキラは目が眩んでしまった。
瞳孔が収縮する一瞬の痛みの後に、視界が戻って来た。
「なによこれ!」
エレクトラがヒステリーな声を上げた。
「全然当たらないじゃない!」
続けて二発撃ったが、前方を走る救急車に変化は無かった。
「そんなションベン弾、この風の中で当たるかよ」
ヒカルがバカにするように言った。
「なんですって?」
まるで噛みつくように振り返るエレクトラに、ヒカルはハンドルから離した右手で、自動拳銃を指差して言った。
「九ミリパラなんか、弾が軽いから風に流されちまうっつうの」
たしかにハンドルの向こうに見える速度計は、高速道路でもめったに見られないほどの数字を示していた。その証拠とばかり、エレクトラが開けたウインドからは、容赦なく強風が吹きこんでいた。
「じゃあ寄せなさいよ」
「いや」
救急車の左側へ回り込みながら、ヒカルは嗤った。
「こいつなら、風は関係ねえ」
ヒカルの右手にはいつの間にか銀色の銃が握られていた。エレクトラの真似をするように、肘でパワーウインドを操作して、外の風を迎え入れた。
「タイヤを」
「この速度じゃ、そうもいかねえ」
エレクトラの指示にこたえながら、ヒカルは引き金を絞った。
ドンという携帯武器ではありえないような音と、クラウンの表面処理を一部分だけ焼いて変色させながら、まるで火炎放射器のような火が、銃口から噴き出した。
救急車の助手席側についていたドアミラーが、バラバラに砕け散った。
先程までそのドアは開いていたが、いつの間にか閉めていたようだ。
「どうするのよ」
「まず、目を奪う」
今度は自家用車を、救急車の真後ろの位置へ移動させながらヒカルは言った。
「ミラーを壊せば、後ろの確認がしづらくなる」
「撃ち返して来たら?」
「銃だけ撃ち落とすって、朝に言ってなかったっけか?」
「…」一瞬絶句したエレクトラは、二人の間から顔を出してすっかり観客気分のアキラに振り返った。「銃を取ってちょうだい」
「え」
さすがに実弾を装填した自動小銃を手渡すのには、抵抗があった。しかも向けられる相手は、クラスメイトの女の子なのである。
「はやく!」
血走った目で睨まれて、渋々と床の銃を取り上げた。
その間にヒカルが二発目を発砲した。
「ちっ。やっぱしルームミラーは難しいな」
ヒカルが放った銃弾は、それでもどこかに当たったのか、救急車が蛇行を始めた。
それに合わせて、位置関係が崩れないように、ヒカルも自家用車を蛇行させ始めた。
その揺れる車内で、アキラは銃床を前にして自動小銃を差し出した。
「ちょっとまって」
エレクトラは上着のポケットに、手にしていた自動拳銃をねじ込んだ。こんなに揺れるのでは、片手で受け取ることができないからだ。
エレクトラが自動小銃を受け取るのと、ヒカルが三発目を発砲したのが同時であった。
その途端に、救急車は蛇行をやめた。
「やりい」
銀色の銃を持った右手だけでヒカルがガッツポーズを取った。
「ルームミラーも片付けたぜ」
残るは運転席側のドアミラーだけである。ヒカルは距離を詰め、少しだけ救急車の右に、車体をはみ出させた。
四発目の発砲と同時に、救急車がひょいと左へハンドルを切った。発射された弾丸は虚しく前方の空間へ消えた。
「ちっ。ちょこざいな」
「今どき、そんな事口にする人、珍しいんじゃない」
エレクトラがからかった。
「るっせーな」
今度はヒカルが口を尖らせる番だった。
「右に並んで」
エレクトラがそんなヒカルの様子に構わずに、自動小銃を叩きながら言った。
「こいつで止めるから」
「どうやって。この距離だと、当てたら即死だぞ」
銀色の銃を股間へ落し、両手でハンドルを握ったヒカルが訊ねた。
「路面に跳ねさせて、トルコンのオイルパンに穴を開けて、フルードを抜いてやる。そしたら止まるはずよ」
「確かに、撃ち抜くことができればな。できるのか?」
「朝飯前」
「よし」
ヒカルは限界に達していたと思われていた黒いクラウンを、さらに加速させた。もうウインドから入って来る風は、質量を持った固い物質に感じられるほどだ。
グーンと出て救急車の右横に出た。左の窓から、まだ点滅させているLEDの赤い光がリズムを取っているように差し込んできた。
その時、アキラは運転席に座る人物と、窓越しに目が合ったような気がした。確かに相手は赤い瞳をしていた。
エレクトラは狭い場所で扱えるようになっている自動小銃を、左手一本で車外へ出した。いくら短く作ってあるとはいえ、車内では取り回しが利かず、路面を狙うことが難しかったからだ。
右手をハンドガードへ添えようとした時に、白い壁がぶつかってきた。
いや、それはアキラの錯覚であった。正確には、自分が狙われていると感じた救急車の運転手が、車体をぶつけてきたのだ。
ゴキリと不気味な音がした。
「ぐ」
ぶつかった二台の間に、エレクトラの左手が自動小銃ごと挟まれていた。
薄く銃の形に側面を凹ませた救急車が離れた。それはエレクトラの腕を挟んでしまった事への後悔というより、もう一度激しくぶつけるための予備動作に見えた。
その隙に、ズルズルと引きずるようにして、エレクトラは自分の左腕を車内へ回収した。左手一本で持っていた自動小銃も、まるで紐に結んであったといった様子でくっついてきた。
ヒカルが鋭い目でアキラを見た。アキラは黙って頷き、足元の獲物を手にした。ヒカルも頷き返すと、運転席からの遠隔操作で、後席左側のウインドを下ろした。
再び体当たりされても嫌なので、アキラは短機関銃の筒先だけを窓から出す。単眼鏡形の照準器を覗き込み、狙いをタイヤとタイヤの間につけた。
アキラは引き金を引いた。向こうにはクラスメイトが乗っていることを、同乗していた者が傷つけられたことによる怒りから、忘れてしまっていた。
しかし短機関銃は、五発ほどの弾丸を吐き出したところで作動を止めてしまった。
アキラが引き金を戻したわけではない。反動をしっかりと受け止めなかったために、遊底が排莢した後に、ちゃんと後退できずに次の弾を噛んでしまったのだ。
扱いの慣れている者ならば、すかさず作動桿を引いて閉鎖不良を解消するのだが、アキラはこの銃に慣れていなかった。しかし、その必要は無かった。
五発ほどしか発射されなかった弾丸であるが、劇的な結果を生み出していたからだ。
しっかりと照準器で狙ったつもりのアキラであったが、まだこの銃はゼロインが終わっておらず、弾丸は狙ったところへと飛んで行かなかった。
救急車の車体へと直接着弾し、その内の一発が右前のタイヤを撃ち抜いていた。
パッと救急車が視界から消えた。
作動不良を起こした短機関銃に気を取られていたアキラが、リヤウインドを振り返ると、そこに光の乱舞があった。
救急車の回転灯が異常明滅しているのではない。救急車自体が回転灯になったかのように、その場でクルクルと回っているのだ。
一秒間だけ眺めてから、アキラは(あ、スピンしてるんだ)と気が付いた。その途端、体が斜め後ろにある前席方向へ引っ張られた。
突然かけられた加速度に戸惑いながらも、首を捻じ曲げて運転席を見る。ヒカルがサイドブレーキを引いて、クラウンを滑走路上でドリフトさせるように停車させようとしていた。途中でハンドルをこじって、ターンへ持って行き、救急車へクラウンの車体を正対させた。
その間、アキラは座席から放り出されそうになるのを、踏ん張って耐えるしかなかった。
救急車は、滑走路脇のセフティゾーンへと突っ込んで止まった。
「大丈夫か?」
それを確認したヒカルが、サイドブレーキを戻しながら、助手席に声をかけた。
エレクトラはシートにうずくまる様にして左腕を押さえていた。そして突然、他人に対してするように、自分の左手に張り付いてしまったかのような自動小銃をむしり取った。
右手一本でそれを振り回そうとして、ダッシュボードへ筒先をひっかけた。
「うがああ!」
まるで獣の咆哮のような声を上げて、さらに狭い車内だろうとお構いなしに、それを振り回そうとした。
ガツンガツンとシートや、運転席のヒカル、怪我が心配で後席から顔を出したアキラに、自動小銃のアチコチがぶつかった。
「いてえっ! 落ち着けって」
ヒカルは一動作でエレクトラから自動小銃を取り上げると、大声を上げた。
「あいつ! 撃ち殺してやる!」
武器を取り上げられたエレクトラは、ポケットに放り込んでいた自動拳銃を手にした。
「落ち着けって!」
ガツと銃床の底で、ヒカルはエレクトラの顎を突いた。たまらず咳き込んで体を折る彼女の様子から、第二撃は必要ないと思ったのか、手にした自動小銃をアキラの方へ差し出した。アキラが構えていた短機関銃と、渡された自動小銃の二挺を持て余しているのを見ながら、エレクトラへ教えを垂れるように言った。
「目的は捕獲だろ。『ネモ船長』の指示を忘れるな」
「誰も『無傷』でなんて、命令されちゃいないよ」
「落ち着けって」
アキラに自動小銃を任せたヒカルは、ハンドルに手を戻しながら前方を見据えて言った。
「社長の家族に怪我をさせたら、後々面倒な事になる。そういった事も考えての指示だろ」
「じゃあ、娘には手を出さない」
負傷のショックから抜け出してきて、痛みを感じ始めたのか、エレクトラは食いしばった歯の間から声を出した。
「だが、あの男は全殺しだ」
「殺人はやべーって」
血だまりに沈むクラスメイトなんて物を見たくないアキラが、慌てて口を挟んだ。
「あ?」
町のチンピラが素足で逃げ出すほどの迫力で、エレクトラが後席のアキラへ視線をよこした。背中に汗を掻きつつも、ここは引き下がれないとばかりにアキラは、その視線を受け止めた。
「人殺ししたら、ここまで目立たないようにやってきたことが、台無しになる」
「ちげーねー」
サイドブレーキを解除して、ゆるゆると自家用車を進ませ始めたヒカルが、ポケットから新しい柄付きキャンディを取り出しつつ笑った。
「うちのルーキーに言われるとはな。落ち着いて、大きな事を考えるんだ」
しばし黙ったエレクトラは、右手で左肘を掴むと、とても不機嫌だが理性の戻った声を出した。
「半殺しにする」
「銃はやめとけよ」
(あ、そこまでは止めないんだ)とアキラが豆鉄砲を食らった顔をしていると、エレクトラは耳まで赤くなる程、全身に力を込めた。
「ふん!」
その気合の入った鼻息と共に、エレクトラは左肘を引っ張った。彼女の左肘は、人体でそんな方向に、曲がりもしないし向いてもいけない角度になっていた。が、その一回で、元の位置へと戻った。そのさなかに、エレクトラの体内から、人体からけっして聞こえてはいけない石と石がぶつかり合うような、なんとも言いにくい音が車内へ響いた。
「折れたか?」
ハイビームにしたヘッドライトを効率的に使えるように、緩く蛇行させながらヒカルが訊いた。
「ええ。靱帯もやられたかも」
「で? 戦えるか?」
「このぐらいで騒ぐなんて。素人じゃあるまいし」
それでも痛むのか、後席から見ていたアキラには、エレクトラの首筋に脂汗が浮きはじめているのが見て取れた。
「いたゾ…」
不気味なほど静かな声をヒカルは出した。ハイビームの先に、一組の男女が立っていた。
救急車のリヤハッチから、ちょうど出てきたところだった。
「ちがう…」
ついアキラの口から声が出てしまった。
エッグイエローの上着に、白いロングパンツを合わせ、手には黒い書類ケースを持っている少女は、おそらく由美子で間違いないであろう。
学校での制服姿の印象が強すぎて、一見しただけでは別人に見えなくもない。ただ伸びてしまったという感じの髪の長さや、強い意志を感じさせる目など、由美子の特徴は少しも失われていなかった。
違うのは男の方である。
まず身長が孝之とは全然違かった。平均よりも確実に高く、そして全体の肉付きはそうでもなかった。長目の髪は緩くウェーブがかかっており、今は前髪で目の辺りに影を作っていた。
長袖の青と白のボーダーシャツにブルーデニムを身に着け、何かを背負っているのか、由美子の手を引く動作が少しぎこちなかった。
何も知らずに町で見かければ、気にもならない好青年といった感じ。しかし対峙している今は、らんらんと赤く輝く瞳が、アキラたちが乗るクラウンを睨んでいた。時折風が前髪を揺らして遮ろうとするが、明らかなこちらへの殺意が感じられる眼だった。
その殺気を浴びて、ヒカルは腿で挟んでいた銀色の銃へゆっくりと手をかけた。助手席のエレクトラも、改めて自動拳銃を構えた。
緩慢な動作で男が由美子と手を繋ぎ、そして横へ走り出した。
滑走路上を走るならば車の方が有利だが、セフティゾーンである芝生の上では若干人間の方が有利である。柔らかい土がタイヤを滑らせるからだ。
由美子の小さい背中と、やはり青い色のディパックを背負っていた男が、並んで走っていた。それを真っすぐに追いかけずに、ハンドルを操って凹みにタイヤが捕らわれないように、うまく距離を詰めていった。
「ちぇっ、ランクルにしておけばよかった」
四輪駆動車ならそんな苦労は必要ないはずで、車を手配したエレクトラが揺れる車内に辟易とした声を出した。
「次はT七二でも借りておいてくれ」
「ドリー・パートンじゃ、町中を走れないでしょ」
「中東じゃ当たり前に走ってるんだがなあ」
前席の二人が軽口を言い合っているが、オフロードを走り始めて振り回される車内では、アキラにその余裕は無かった。なにか喋ろうとしたら、確実に舌を噛みそうだ。
二つの光の輪の中で、一組の男女の姿が確実に大きくなっていた。
半分こちらを振り返った男は、ベルトの辺りに開いている方の手をやった。そこから何かを取るのが見えた。アルファチームを振り切った時に使用した閃光弾の残りだろうか?
それを確認したヒカルがゆっくりと撃鉄を起こし…。
その時、鋭いホイッスルの音が、辺りを支配した。
「なに?」
「まずっ!」
顔を見合わせる前席の二人。しかし意表は突かれても、そこは百戦錬磨のヒカルらしく、手が勝手に動いてライトを消していた。
真っ暗になって何も見えなくなった視界に、赤い光が差し込んできた。
車内に差し込んだ赤い光は、座席の背中を照らしていた。
(ということは…)
アキラは首を捩じって、その光が何なのか確認しようと振り返った。
ちょっと離れた滑走路上を、赤色灯を点けたツーボックスタイプの車が、サイレンを鳴らしてやって来るのが見えた。
「こちらは小牧地方警務隊です。そこの車、停車しなさい」
「なにもんだ?」
エンジンの回転数を上げながらヒカルは誰ともなく訊ねた。
「空軍のMPでしょ」
自動拳銃を再びポケットへねじ込んだエレクトラが、怒鳴り声で返した。
「この空港、軍民共用ですもの」
「…」
銀色の銃ごとハンドルを握っていたヒカルは、ちょっと考えてから口を開いた。
「空自の警務隊か。やっかいだな」
「警務隊って?」
さらに席の中でもみくちゃにされながら、アキラは訊いた。
「自衛隊のお巡りさんだ。捕まったら、ヤバい」
初心者に分かりやすいように言い換えてくれるヒカル。アキラはもう一度リヤウインドを振り返って、接近して来るパトカーを確認した。
「もうお前なんか、三人がかりで犯されまくり。前から後ろからケツの穴まで、好きなようにヤられ放題」
「軽口が出るなら大丈夫ね」
ゾッとした顔をしているアキラを無視して、それが何でもない事の様にエレクトラが言った。ヒカルはセフティゾーンを突っ切らせ、クラウンを滑走路と誘導路の間に設けられた車両用道路に飛び込ませた。
わずかな路面との高低差で、車体が撥ねてタイヤが宙に浮いた。
抵抗が無くなった駆動輪が、過回転の悲鳴を上げたので、アクセルペダルから足を離したところで着地した。タイヤがグリップを取り戻したところで、ペダルを蹴り飛ばすような勢いで再度踏みつけた。
「こちらは自衛隊小牧基地所属の小牧地方警務隊です。すみやかに停車しなさい」
「だれが止まるか! ばーか!」
スピーカでの呼びかけに、ヒカルが答える。もちろん離れているし、この速度だ、相手に聞こえるわけが無い。鋭い視線のまま助手席のエレクトラを見た。
「で? どうすんだい?」
「そうねえ…」
右手一本で苦労しながら、ドアポケットから自分のスマートフォンを取り上げたエレクトラは、チラリと後席のアキラを見てから言った。
「救急車が奪われたから追いかけましたって事にする?」
「銃を積んでなけりゃな」
ルームミラーで後方を確認しようとしてよく見えなかったのか、幅の狭い通路を飛ばしているというのに、ヒカルはリヤウインドを振り返った。
追跡車のヘッドライトが眩しかったのか、少しだけ目を細めて「さすがに…」咳払いをして声の調子を整えると「モデルガンなんですぅ」と、どこから出したか分からないような猫を被った声を出してから表情を引き締め「なんていう言い訳は通じないと思うぞ」
「それもそうね」
「まだ距離がある。逃げ切れる」
頭へ入れておいた空港の配置図を思い出しながら、ヒカルは前へ向き直った。
「えっと、それじゃあ…」
言い淀むエレクトラに、ヒカルは命令するように言った。
「ロメオチームの誰かを、この車の所有者に仕立て上げろ。そんで正体不明のテロリストに盗まれたことにすりゃあ、追いかけられた方に事情を聞こうとして、拘束時間が長くなるだろ」
「りょ、了解」
すぐにエレクトラがヒカルの案を実行するために、連絡を取り始めた。
「こっちは、派手に行くぜ」
バリバリと音を立てて、口に入れていたキャンディを噛み砕きながら、ヒカルが嗤った。
飛ばしていたせいで、道路の終わりが近づいてきた。そこは反対側と同じく、滑走路と誘導路とが緩いカーブで繋がっており、目の前は半月型の広場となっていた。
ヒカルは迷わずそこへクラウンを突っ込ませた。滑走路上を走るパトカーがまだ「停まりなさい」とかスピーカで喚いているが、一切無視だ。
二、三か所と通話していたらしいエレクトラが、右手を下ろした。
「あなたが考えそうな事は、誰でも思いつくのね」
「どういう意味だ?」
唇に残ったキャンディの柄をピコピコ上下に動かしながらヒカルが聞き返した。
「もうチーフとピーテンで、そう動いているって」
「仕事、早いな」
「当たり前でしょ。みんな『ネモ船長とゆかいな仲間』なんだから」
「『ゆかい』いるか?」
クラウンは質が違った路面の境目でバウンドし、舗装された広場へと躍り出た。ほとんど同時に、斜め後ろからタイヤが路面を切りつける鋭い音が聞こえてきた。曲線に沿ったハンドルさばきをしながら、パトカーはクラウンの前へ、横から突っ込む形で進路を塞ごうとしていた。
しかしハンドルを小揺るぎもさせなかったヒカルの判断は正しかった。クラウンはパトカーの前を通り抜け、広場の向こうへ続く管理用道路へ走りこんでいた。
後ろで盛大なブレーキ音がした。パトカーが反対へ車体を傾けながら、全部のタイヤでドリフトして進行方向を立て直し、再びクラウンを追いかけ始めた。
アキラが振り返ると、広場でやったドリフトの分だけ遅れて、こちらと距離が離れたパトカーは、クラウンと同じ道に入るところだった。
さらにその後ろの遠くでは、夜闇の中に、同じような赤色灯が複数灯っていた。まだだいぶ離れているが、どうやら追っ手は一台だけではないようだ。
「ちょ、ちょ、ちょ」
エレクトラが慌てた声を上げるので、アキラは前に向きなおした。
左手に誘導灯の明かりがあるのを嫌ったのか、そちらへの分岐である丁字路を過ぎてすぐに、ヒカルは再びセフティゾーンへクラウンを乗り込ませていた。
前方に闇が迫って来た。
ガタガタと揺れる車内で、エレクトラは右手と両足を突っ張って叫び声を上げた。
「どこ行くのよ!」
「あいつを振り切るんだろ!」
興奮度合いに比例しているのか、ヒカルの咥えたキャンディの柄は天を向いたままになっていた。
「ぶちかますぜ!」
そのままクラウンは、空港敷地の境を一周する外周道路を横断する形に突っ込んだ。
遠くの街明かりの中で、空港と外部を仕切るフェンスが視界一杯になる前に、ヒカルはアキラへ視線をよこした。
「おう!」
一言上げた雄叫びのような声で、ヒカルの言いたいことが分かったアキラは、まだ手にしていた銃を床に放り出すと、開けっ放しの左側のウインドから体を乗り出した。
握った拳を、行く手を遮る金網へと向けた。
「ロケットパアァァァァァァァァンチ!!!!」
明実に『再構築』の時に与えられたアキラの必殺技である。
先程まで見ていた飛行機の離陸とは比べ物にならない勢いで、アキラの左肘から先が飛び出した。
そのまま投網に飛び込んだ大魚の様に、金網に命中すると、それを外側へ大きく膨らませた。そこで止まってしまうかと思えた次の瞬間、支柱の一本を根こそぎ引っこ抜きつつ、ワンスパン程の金網が拳に纏わりついたまま引きちぎられた。
直後にクラウンが、外周道路に沿って設けられた水堀のような水路との段差で宙を飛んだ。そのまま境界線を文字通り飛び越えた。
フェンスの向こうには狭い路地が待ち構えていた。そこへジャンプの勢いを殺しきれずにクラウンは飛び込んだ。アクセルの代わりに今度はブレーキペダルが床板と友達に成れそうなほど踏み込まれた。
急制動で安定しない車体を、うまくハンドルでコントロールして、公園と畑の間に伸びる道路で、ヒカルはクラウンを停車させた。
一つの迷いもなくサイドブレーキを引いたヒカルが、ドアを開いた。手にはまだ銀色の銃が握られたままだ。
追って来たパトカーが空港内の外周道路で止まったのを確認すると、道に落ちたフェンスの残骸へと歩み寄った。
金網に捕らえられるように巻き取られているアキラの左腕はすぐに発見できた。ヒカルはそれが紙で出来ているかのように両手で金網を引き破ると、アキラの腕を回収した。
停車したが、片腕になったためにドアを開けるのが遅れたアキラが、やっと道に出てきた。ヒカルはアキラの胸へ、拾ったものを投げこんだ。
「おっと」
一瞬だけ取り落しそうになったアキラだが、自分の左腕を愛おしそうに抱きしめる。ただ肘との接続はすぐにできない。元の姿に戻るには、明美による『微構築』が必要なのだ。二人の体を維持するのに必要な『生命の水』に満たされたシリンダーに入って、色々と『施術』を受けなければならないのだ。
「よし、行くぞ」
もう空港の方はまるっきり無視して、ヒカルはクラウンへ戻ろうとした。
「う、うん」
停まったパトカーから、見慣れない制服を着た複数の人物が降りてくるのが目に入った。敷地の境にある水路の手前で、立ちすくんでいる様子が分かった。しかしアキラは、速足でクラウンへ戻った。開けっ放しにしていた後部ドアへ飛び込んで、慌てて席に着いた。
「なに慌ててんだよ」
悠然と乗り込んできたヒカルが不思議そうに訊いた。
「追いつかれちまうぞ」
「大丈夫だ」
咥えていたキャンディの柄をポケットにしまい、ヒカルは新しい物を取り出した。
「あいつらが敷地の外に出られると思ってんのか? 与えられた以上の事はできない、悲しい連中だぞ」
「それでも急いだ方がいいかもしんない」
アキラはリヤウインドではなく、助手席をシート越しに除きこんで言った。
「だいぶヤバそうだ」
助手席では脂汗を浮かべたエレクトラが、体を丸めるようにして痛みに耐えていた。
「痛むのか?」
眉を顰めたヒカルが訊ねると、エレクトラは首を縦に振った。言葉を出すのは辛そうだ。
「救急車を借りた病院でいいか?」
「だめ」
慌てて脂汗だらけの顔で振り返った。
「不自然でしょ。救急車が奪われた病院に、救急の患者が運び込まれるなんて。せめて隣の県へ行かないと」
「了解」
背中のホルスターへ銀色の銃を戻してから、ヒカルはハンドルを握る。そのままライトを点けてクラウンを出した。
「それより…」エレクトラは辛そうな顔でアキラを見て「そのコのソレ。なんなのよ」
「えっと…」
胸の中の左腕を見おろして、アキラはなんと説明してよいか言葉に詰まった。
「あたしが、ただの女を連れてるとでも思っていたのかい?」
自分の事の様に自慢げにヒカルが訊ね返した。
エレクトラはヒカルの顔へ振り返り、百言の代わりに溜息を一つ吐いた。
「それもそうね」
それだけで気持ちを切り替えたのか、再びアキラを振り返った。
「荷物を取って」
ゆっくりと走り始めた車内で、エレクトラは殺気すら感じさせる鋭い目になっていた。アキラは、シートへ左腕を置くと、足元に散らかった銃をかき分けて、緑色をした円筒形のバッグを取り上げた。
「ああ、うっとおしい。それも」
と、運転席の後ろ辺りを指差した。そこではいまだに無線機が雑音混じりの日本語と英語を垂れ流していた。
まず無線機の電源を落として車内に静けさを取り戻し、右手と口を使ってバッグ上面のジッパーを開いた。
無線機と交換に、ピルケースが出てきた。数種類のタブレットやらカプセルやらは、数錠ずつ効能が違う物のようだ。そこからエレクトラは、車外から差し込む光に透かして、二錠の白い粒を選び出した。
水が無いので、そのまま口の中へ放り込んだ。
「麻薬は、ごめんだよ」
畑が終わり、大通りへと出た。ヒカルはハンドルを左へと切った。クラウンは広めの道を、制限速度をちょっと超えた速度で快適に走り出した。
「ただのロキソニン。また胃が荒れちゃう」
バリバリと口の中で錠剤を噛み砕きながらエレクトラが忌々し気に言った。それを聞いて小さく噴き出したヒカルが、チラリと助手席へ視線をやって言い返した。
「中間管理職ゆえのストレスだと思っておけよ」
「ストレスねえ…。たしかに」
「最近はいい薬あるだろ? 胃が荒れないやつがさ」
「あれはダメよ。即効性に劣るから」
「じゃあ我慢するしかねえな」
「銃」とアキラに手を出すエレクトラ。何を言われたか一瞬分からなかったアキラがキョトンとしていると、荷物からテープを取り出しながら半分振り返って来た。
「M四取って」
「ああ、はい」
アキラは足元に散らかしていた自動小銃を持ち上げた。
何をするんだろうと見ていると、弾倉を抜いてから作動桿を引いて、装弾されていた弾丸を抜き取った。それから前後二個所のピンを押して、自動小銃を上下二つに分解した。
上部から滑り出す遊底などの部品を荷物へ納めると、銃身を持ってアキラへ上部だけを差し出してきた。
「置いておいて」
アキラがそれを自分の左腕の横へ寝かせている間に、エレクトラは銃床を含む下部ごと、自分の左腕をテープでぐるぐる巻きにした。
「そんなモンしか添木ないか?」
ヒカルが片目だけでエレクトラの応急手当てを見て言った。
「高速はダメよ」
道路案内に高速道路を示す物が流れてきた。それに従って交差点に進入しようとするヒカルに、エレクトラが声を上げた。
不思議そうに前を見たまま首を傾げるヒカルは、それでもクラウンを交差点で直進させた。
「カメラがあるもの。同じように、なるべく広い道は避けて」
「無茶言うなよ」
前を見たまま眉を顰めるヒカル。
「今は、お前さんの治療が優先だろ」
「でも…」
「なら、途中で車を替えるか?」
「そうね」
ちょっと思案顔になったエレクトラは、インコムが嵌っている右耳へ手を当てて、通信を開始した。
「そこの交差点を右に」
「こんなところか?」
普通の市街地へ入って行くような信号である。しかし彼女の自信ありげな言葉に、ヒカルはハンドルを回した。
「ちょっと行ったら川にぶつかるから、そこを右。私は現場を離れるから、全体指揮はピーテンに移すわ」
インコム越しに指示を出しながら、エレクトラは前を指差した。
「了解」
ヒカルは何か言いたげだったが短く了承し、市街地に適した速度でクラウンを走らせた。
「アルファの連中は、借りた病院の救急外来でおかしくないでしょ。運転してたんだから、関係者ということで」
全体指揮を任せたはずなのに、まだ通信を切ることができないようだ。朝に分かれた時の、ピーテンの顔を思い出してみた。百戦錬磨というより、まだこれから経験を重ねるために修行中といった雰囲気であったから、戸惑うことも多いのだろうと思われた。
しばらく市街地を走ると、本当に川にぶつかった。橋が無かったので、ヒカルは言われたとおりに右へ舵を切った。
「そこの保育園のところで停めて」
「こんなトコでか?」
キョロキョロとヒカルは周囲を見回しながらも、指示通りにクラウンを停車させた。ライトを消し、さらにエンジンまで止めた。
遠くに町の喧騒が聞こえるが、やっと静寂がやってきた。微かに聞こえてくる水音が心地よかった。
川辺の冷気で急激に冷やされていくのか、ボンネットからチリチリという金属が収縮する音が聞こえてきた。
「ここでワンボックスに乗り替えましょう」
「こいつは?」
「チョコに任せるわ。始末屋へ乗って行ってもらう」とヒカルへ告げると、まだ切っていなかったらしいインコムへ「あたしは予定Sの場所で待っているから、早く来てね」と指示をしてから、耳から抜いた。
「一本いるか?」
ヒカルがポケットから柄付きキャンディを取り出した。
「ハードボイルドだったら煙草じゃないの?」
「生憎、タバコは止めたんだ」
本当かどうか分からない調子でヒカルは片方の頬だけで笑って見せた。
東名高速をワンボックスが結構な速度で飛ばしていた。
行きと違って、ハンドルを握っているのはヒカルで、アキラは助手席に座っていた。
重傷を負っているエレクトラは、後部座席で目を閉じている。眠っているのかもしれない。
川沿いでチョコが運転するこの車と合流したアキラたちだったが、エレクトラを押し付けることはできなかった。
物騒な物も含めて荷物を載せかえると、ただちに発車した。
その際チョコに、護衛対象のエレクトラが重傷を負うなんて、役割を果たせていない失格だとなじられた。ヒカルはヒカルで、運転手として雇われただけで護衛じゃないと言い返し、睨みあうこととなった。が、アキラの左腕が無くなっているのを見て、チョコは急に押し黙った。
おそらくエシェックの身内であるルーキーですら片腕を無くしてしまうほどの荒事があったに違いないと、勝手に誤解してくれた様子である。と言ってもアキラの腕は、必殺技として使用しただけで、明実が東京に帰ってきたらプラモデルを直す感覚でくっつくのだが。
そんな重傷者を、二人も同じ県内の病院へ運ぶことはできないと、裏の仕事ならではの事情で、ヒカルが運転するワンボックスは一路、浜松へ向かっていた。
どうやら『ネモ船長とゆかいな仲間たち』ご用達の医者が、浜松駅近くで開業医をしているようだ。
「ふああ」
気の抜けた声でヒカルがアクビをした。咥えたキャンディが落ちそうなほどの大口を見て、アキラが呆れた声を出した。
「ちゃんと前見て運転してくれよな」
夜間の東名高速は、都市間物流を担っている大型トラックが、それこそ溢れるほど走る場となる。今も国内で有名な運送会社のトラックと並走中であった。
黒い猫が窓越しに車内を覗き込んでいた。
ちょっとでもハンドルを切り間違えたら、アキラのすぐ横でゴウゴウと鳴っているタイヤに巻き込まれるのは確実だろう。
そんな死と隣り合わせだというのに、ハンドルを握っているヒカルには、緊張感がなかった。
「このぐれえでビビってたら、運転免許返上しなきゃならなくなるぜ」
「そうだろうけどよ」
アキラは、ヒカルと地鳴りのような音を立てる隣のタイヤとを見比べた。その事に気が付いたヒカルは、アクセルを開いて大型トラックを追い越しにかかった。
「ふああ」
また同じようなアクビをしてから、ドアミラーを確認し、走行車線へ車体を戻した。
それを待っていたかのように、スポーツタイプのベンツが甲高い排気音を立てて追い抜いて行った。
「たりー」アクビを我慢しているのか、歯を食いしばりながらアキラの方へ視線をやってきた。
「?」
ヒカルの言いたいことが分からずに、アキラはキョトンとした。
「おめえが運転できりゃあなあ、交代しながら行けるのによ。エレクトラはあの様だし」
「オレだって」
肘より先を無くした左腕を差し上げてみせた。ちなみに肘から先は、二人のバッグへ仕舞ってあった。
一瞥したヒカルは鼻で笑った。
「オートマなんて、片手で運転できるぜ。ほら」
と、開いたウインドに右肘をかけて頬杖をすると、気楽な調子で左手一本だけでハンドルを捌いて見せた。しかもパワーステアリングなのをいいことに、指先で摘まんでいるような運転法だ。
「片手どころか指三本と、足一本だ」
「…」
それを恨めしそうに見たアキラは、プイッと助手席側のウインドから、真っ暗な中に街灯が点線の様に並ぶ夜景へ目を移した。
「わかったよ、免許取ればいいんだろ」
「そういうことだ」
勝ち誇ったヒカルへ、アキラは純粋に訊いてみた。
「で? 車の免許って、何歳から?」
「へ?」
高速を運転中だというのに、ヒカルが助手席のアキラを振り返った。
「あ?」と一瞬だけ不可解な顔をした後に「あー…、あー、あー」と続けて声を上げた。
それから我に返ったのか、わき見運転で前を行く大型車との車間距離が縮まっていたので、アクセルを緩めて減速させた。
「おまえ、まだ一八じゃないもんな。ガキ」
「ガキで悪かったな」
ムッと膨れた顔がガラスに映っていた。それを見たのか、それとも適当なのか、ヒカルが運転しながら頭を下げた。
「悪かった、謝るよ」
アキラの反応が薄いことを感じ取ると、少し慌てた様に言葉を繋いだ。
「まずバタバタから取ってみろよ」
「ばたばた?」
ヒカルの口から出た単語が分からずに、アキラは運転席を振り返った。
「バタバタはバタバタだろ?」
「なんだよ、それ?」
「ちゃんと原動機付自転車って言ってあげないと、分からないんじゃない?」
突然後ろから口を挟まれて、アキラは振り返った。脂汗で金髪を額に貼りつけたエレクトラが、苦し気な微笑みを浮かべていた。
「起きてたのか」
こちらはルームミラーで確認したヒカル。
「あなたたちが煩くて、寝ていられないわ」
「げんどうきじ…?」
アキラが、まだピンと来ていない様子だったので、エレクトラは言葉を替えた。
「スクーターよ。町で買い物のオバサンが乗っているでしょ」
「あー」
やっと二人の言わんとしていることを理解したアキラは、ポンと手を打とうとした。もちろん片手である今はそれに失敗し、右手は宙を切った。
「まずは出来るところから。それから次へ挑戦すればいいわ」
「いいこと言うねえ」
エレクトラの助言に、ヒカルがちょっとからかう調子で言葉を返した。
「ま、誰にでも最初はあるってことさ」
「最初ねえ」
アキラは、行きの車内での会話を思い出した。
「で?」
不思議そうにアキラは二人へ訊ねた。
「スクーターのことバタバタって呼ぶのか?」
「ペケペケとも呼ぶよ。なあ」
同意を求められたエレクトラは、背もたれに体重をかけ直して、痛みで歪んでいる顔で微笑みを作った。
「呼ぶみたいね。船長とか、チーフとか、オジサマ世代が」
「オジサマ世代…」
アキラが目を点にして呟くと、面白くなさそうにヒカルが口を尖らせた。
「方言なのかなあ」
「死語じゃないの? ナウいお嬢さん」
どうやら年上と会話することに慣れている様子のエレクトラが、声にからかう響きを混ぜて言った。
「それを言うなら『ナウなヤングにバカうけ』」
ヒカルは訂正を入れた後に、アキラへ視線をやった。
「まあ、免許が無くても運転できればいいんだし」
「そら、おまえはそう言うだろうなあ」
ヒカルの免許証を見たことがあるが、アキラはそれを正規な手段で手に入れたとは露とも思えなかった。
「射撃だってそうさ」
シートに座り直すようにして背筋を伸ばしたヒカルは、またチラリとアキラを見た。
「免許が無くてもできりゃあいい」
「免許どころか、ココじゃ拳銃を持っているだけで違反だからねえ」
何か思うところがあるのか、エレクトラがしみじみとした声で言った。
「アメリカじゃ重機関銃だって所持可能だっていうのに」
「え?」
初耳の情報にアキラが振り返ると、ヒカルが呆れた声を出した。
「あそことココじゃ環境が違いすぎるだろ」
「ま、極端よね」
痛むであろう左腕を庇いながら体勢を変えるエレクトラ。同じ姿勢で体がこってしまったのだろう。
「昔は免許なんて無かったんだ。なんでも運転できりゃ勝ちなんだよ」
話を戻してヒカルは言った。
「何だったら、後で練習してみるか?」
「ウチの車で練習するのはやめてよね」
エレクトラから、左腕の痛みが原因でない、眉を顰めた声が出た。
「ケチくせーこと言うなよ」
唇を尖らせるヒカルであったが、エレクトラの意見も一理あると考えたようだ。
「大体あなたって、どこまで運転できるのよ?」
一日中運転させてからのセリフとは思えない質問が出た。
「そら自動三輪から始まって、レオパルドまで蹴飛ばすことでき…」
「じどうさんりんって?」
前を見て運転しながら、胸を張って自慢げに語るヒカルの言葉を遮るように、アキラが訊ねた。
「は?」
ヒカルが目を白黒させながら驚く番だった。
「知らねーのか? ミゼットとかヂャイアントとか。ついこの前まで走っていたろ」
「うーん」
アキラは人差し指を自分のオデコに当てて考える振りをした。
「あなた、今までどこで生活してたのよ」
こちらはジト目のエレクトラだ。
「まさか微笑みの国や獅子の国? いまじゃ中国だって普通のトラックが走っているわよ。それとも土曜日の放課後でラベンダーの香りでも嗅いだのかしら」
「失礼なこと言うな」
キッとルームミラー越しにエレクトラを睨んでヒカルは言った。
「そこら辺には一〇年もいなかったぞ」
「いたんじゃない」
呆れた声のエレクトラにルームミラー越しにニカリと笑って見せるヒカル。
「まあ自動三輪は冗談なんだが…」
「あ、角の田中さんチ。トゥクトゥクを配達に使ってるぞ」
アキラが家の近くの酒屋の主人が日使いしている輸入車を思い出した。それに対し、ヒカルが声を出さずに牙を剥いて威嚇してきた。
その怖いぐらいの視線に、ヒカルが言わんとしていることが分かり、アキラは口を手でふさいだ。
「え?」
幸い聞き取れなかった様子のエレクトラが、キョトンとした顔をしてみせた。
「次でいいのか?」
見え見えであるがヒカルは話題を変えようと、ちょうど見えてきた緑の看板を顎でさした。
「よいしょ」と声を出して身を乗り出したエレクトラは、そこに書かれていた道路案内を確認すると頷いた。
「そうね。そこのパーキングに出口ができたから」
案内標識に見慣れない「SIC」なる掲示がされていた。どうやらETC専用の出入り口が設けられているようだ。何度も「SICご利用のお客様はPAを利用することはできません」という案内看板が出てきた。
普通にパーキングエリアへの分岐のように減速車線へ入る。遠くにコンビニの看板が見えてきたところで、急カーブで左に道が分岐していた。
ヒカルは速度計を何度もチェックして減速を確かめると、有料駐車場の出口のようなゲートの直前でサッとそっぽを向いた。
「右に出て国道の方向」
エレクトラの指示に黙ってうなずくヒカル。アキラは、先程の失言を反省して、口をつぐむことにした。
一般道へ降りたが、まわりは工場や畑に緑地であった。しばらく郊外の道を進んだ後、秋葉街道を案内する道路標識が多くなってきた。
「寄るか?」
先程とは違うコンビニの看板を見つけて、ヒカルはエレクトラに訊いた。彼女は首を横に振ってこたえた。
交差点で何時間かぶりの赤信号で停車する。高速巡行していた感覚だったので、アキラは外の景色が流れないのがとても不思議に感じられた。
ヒカルは道路標識のままに、その交差点を右折した。
片側二車線の道へ出た。
もう夜も更けているので、交通量もそんなに多くは無い。ヒカルは快調にワンボックスを飛ばした。
「なんか喋れよ」
ヒカルがちょっと怒ったように言った。
「?」
アキラが不思議そうに見ると、不機嫌そうに口元でキャンディの柄が揺れていた。
「眠気がやってくんだろ。なんでもいいから、喋ろよ」
「なんでもったって…」
アキラが困った顔をしていると、ヒカルがチラリとだけ鋭い視線をよこした。
「運転できねえんだから、そのぐらいやれ」
「ひでえなあ」
なにか理不尽に怒られている気がして、アキラはボヤいてみせた。
「そこ、直進」
後ろからエレクトラの声がした。目の前の信号で本線は斜めへ分岐している。ヒカルは指示通りにワンボックスをまっすぐ進ませ、裏街道へと入った。
「えーっと」
改めて喋ろうとすると、話題が無いことに気が付いた。家族の事などは、後部座席のエレクトラに聞かれてはまずい情報だ。ちょっとの間、口を半開きにして考えた。
「最近の円相場は…」
「マヌケが」と口汚く罵るようにヒカルは口を開いたが、顔は笑顔になっていた。どうやらアキラの苦悩を分かってくれたようだ。
左手に等間隔に並ぶ鉄骨構造が見えてきた。どうやら線路があるようだ。そう見て取った瞬間に、赤い色に白線を入れた電車がワンボックスを追い抜いて行った。
前面形状が今どき珍しい湘南型であった。まさに田舎のローカル線といった風情である。
「しばらく道なりで」
エレクトラはそう指示すると、やっと緊張が解けてきたのか、少し浮かせていた腰を下ろすとシートへ寄りかかり、大きく息をついた。
「このまま行くと、新浜松だと思ったんだが?」
ヒカルがハンドルから右手を放して前方を指差して訊いた。
「そこからは、また指示するわ」
面倒くさそうに告げると、彼女はベンチシートに寝転がってしまった。どうやら痛みに耐え続けて体力を相当消耗してしまったようだ。
信号で止まったことをよいことに、ヒカルは運転席からエレクトラを振り返った。ベンチシートへ横になったエレクトラは寝てしまったのか、身じろぎもしなかった。
車内に差し込む信号機の明かりで、信号が青に変わったことを察したヒカルは、前方へ向き直ると、とても丁寧に発車させた。
「全治六か月というところか?」
「なにが?」
独り言のようなヒカルのセリフに、アキラは聞き返した。
「彼女だよ」
心配なのか、またルームミラーで車内を確認しながらヒカルは言った。
「左腕の骨折に、打撲。靱帯損傷だともっとかかるかもな」
「そんなに?」
「本当は、もうちょっとちゃんと手当をしてやれば、少しはましになるんだが…」
ちょっと思案したヒカルは、その思いを振り払うように声色を変えた。
「救急箱一つも無いもんな」
「薬、飲んでたぜ?」
「あんなの気休めだよ」
アキラ反論を一刀両断するヒカル。
「ちゃんとした添木で固定するだけでも楽になるんだが…」
添木に使えそうな物が積んでいないか頭の中で検索してみた。自動小銃に短機関銃、それに…。
「オレの腕でもいいんじゃないか?」
「よせよ」
ヒカルが眉を顰めた。
「昔…」
よろよろと車道へはみ出した自転車を大きく避けながら、ヒカルは砂を噛んだような顔で言った。
「アフガニスタンで、死んだ男の足を切ったことを思い出す」
「なんで?」
「このマヌケが」と力なくヒカルは言った「だからツレが骨折して、その手当てに使うためさ」
「手だってよかったろ?」
「ヘソから上は無くなってたんだ」
「うっ」
ただの下半身だけの死体でなく、腹腔から内臓をぶちまけた物を想像してしまい、アキラは苦い顔になった。
「銃身の方がいいか?」
ごつい銃床を添木代わりにしているエレクトラを、ルームミラーで確認して、ヒカルは呟いた。
「銃身? あー、ライフルの?」
「他にどんな銃身があるんだよ」と怒りを我慢しているような声を出した後、前を見たまま上半身を寄せてきた「自前の銃身は無くしちまったろ」
コロッとイタズラ気たっぷりな声に変えて、ウインクを飛ばしてきた。
一瞬、言われたことが分からなくてキョトンとした。
「誰のせいだと思ってんだよ」
今度はアキラが怒りを押し殺した声になった。
「少なくとも、あたしのせいじゃないな。それはそうと、今更だが銃身を添木にするか?」
「その必要ないわよ」
いつの間にかに目を覚ましたのか、面倒くさそうに本人から返事があった。
「もう着くもの。そこの道、左へ入って」
どっこいしょと体を起こしたエレクトラは、周囲を確認して細い道を指示した。
「こんなところか?」
その道は自家用車ならば普通に入れるが、ワンボックスだとすれ違いにも苦労しそうな道幅しかない様子だった。しかも右側に並んでいる電信柱が、けっこう路肩より離れて立っていた。
「まあ、いいけどよ」
運転しにくいなあとかブツブツ言いながらハンドルを切るヒカル。
「ちょっと先に、自動販売機を並べた酒屋があるから、そこを左ね」
「ん?」
ヒカルが眉を顰めた。
「戻ることになるんじゃないか?」
「ちょっと行き過ぎてしまったの」
悪びれずにエレクトラがこたえた。
「だから、ちょっと戻って」
「しょーがねーなー」
電信柱に差し掛かるたびに「よっ」とか「ほっ」とか掛け声をかけてワンボックスを進ませていく。するとやがて前方に三差路がやってきた。
確かに自販機がたくさん並んだ酒屋が建っていた。
「ここだな」
エレクトラの返事も待たずにヒカルはハンドルを切った。ワンアクション遅れて彼女が顔を出し、周囲を確認すると一つ頷いた。
「あとは道なりに行くと、公衆電話が立っているから、ソコよ」
道には対向車どころか、歩行者すらいなかった。電信柱に申し訳の様に取り付けられた街灯が、ポツポツと路面に丸い輪を作っているが、明るいところよりも暗い部分の方が多い。ヒカルはライトを上向きにして、道の奥まで照らしてワンボックスを徐行させた。
遠くにスタンドタイプの公衆電話が、何かしらの店先に立っているのがわかった。
気はせくが、こんな道ではスピードを上げられるわけがない。ジリジリとしながらも、ヒカルが一本ずつ電信柱を避けていくのを待つしかなかった。
「そこ…」エレクトラが公衆電話の反対側にある駐車場を指差した「そこへ停めて」
「こんなところにか?」
たしかに木造モルタル建築らしいアパートの敷地に沿う形で、縦に二台停められるほどの舗装されたスペースがある。しかし雑草は生え放題で、縦方向に沿ったアパートとの境のブロック塀は崩れているところがあった。とてもまともな駐車場に見えなかった。
それでもヒカルはワンボックスをそこへ乗り入れさせ、バックをかけてもう一台分のスペースを確保した状態で停車させた。
「そこよ」
右手で公衆電話が立っている店を指差した。閉まっているシャッターの上に屋号が書かれたテントが張ってあった。
「文房具屋じゃねえか」
屋号を読んだヒカルが文句を言うように訊いた。
「ホントにココか?」
「ええ」
苦労してスライドドアを開けようとするエレクトラ。慌ててアキラは先に降りると、外から彼女の代わりに開けてやった。
「肩、貸すよ」
「本当は遠慮したいんだけど…」と意味ありげに運転席から降りてくるヒカルを見てから「それじゃ、おねがい」
アキラはエレクトラの右腕を肩に回し、肘までしかない左腕で背中を支えてやった。
「閉まってるが?」
先に立ったヒカルが不思議そうに訊いてきた。
「勝手に開けちゃって大丈夫だから」
エレクトラの指示で、ヒカルは閉まっていたシャッターを上へ押し上げた。
一般的な個人営業の文房具店がその向こうに現れた。シャッターを開いた音を聞きつけたのか、奥から人が出てきた。
見上げるような大男である。無精ひげを生やしてはいるが、頭髪は短く刈り込んでいて清潔にしているようだ。年齢はアキラの父親と同じぐらいに見えた。
身に着けている物はニッカボッカにタンクトップという、文房具店経営というより鉄筋工を続けて二〇年といった男であった。足元に至ってはボツボツがたくさん生えた健康サンダルだった。
ただ、その上から使い込んでよれよれになった白衣を羽織っており、医者と言われれば、そうではないかという雰囲気であった。
「おー、入ったら閉めといてくれ」
とても太い声でシャッターの所にまだいたヒカルに命じた。アキラはエレクトラが進むに合わせて、奥へと足を踏み入れた。
「痛そうだな」
身長だけでなく上から見下ろして男が訊いた。
「痛いのよ。ドクター」
「とりあえずコッチに」
ドクターと呼ばれた男は、土間で続いている隣室への扉を開いた。
消毒液の臭いが鼻につく空間へと進入した。暗い室内だったが、すぐにドクターが壁のスイッチを入れて、今度は眩しくて目が痛くなる程になった。
書類の乗った事務机の前に、二脚のボロい椅子。脇には黒い診察台が置いてある。広さは縦方向へ若干引き延ばした六畳ほどある。
事務机の前に置かれた椅子の背もたれに、聴診器がかけられていた。ドクターはそれを肩にかけると、その椅子へ座った。
ヒカルは、向かいの椅子にエレクトラを座らせてやった。
「じゃあ、まずは前を開いてもらおうか」
「え?」
聴診器を手にしたドクターが、とても真面目な顔で言った。その途端に彼の後頭部がスリッパで叩かれた。
「腕を怪我した相手に、聴診が必要なわけないだろ」
「あいて」
脇の扉から現れた女性が、鼻息を荒く言い切った。
「まったくスケベは相変わらずか」
脂汗を掻いたまま、エレクトラは苦笑して見せた。
「女体に触れずにして、何の楽しみがあるというのだ」
ドクターは新しく現れた女性に、座ったまま振り返って言い返した。
「これさえなけりゃあ、腕のいいセンセなんだけどね」
困ったように腕を組んでいるのは、これまた大柄な女性だった。年のころは中年を少し過ぎたぐらいで、美しさというよりも母性を感じさせる面差しだった。
身に着けているのはドクターとお揃いの白衣である。彼女は前をちゃんと閉めているので、他はジーンズを履いているぐらいしか分からなかった。
「で?」
叩かれた辺りを撫でながら、ドクターがエレクトラに訊いた。
「どうした?」
「車と車の間に挟まれてしまって。こう…」と、あの時を再現するかの様にエレクトラは、いまだテープでグルグル巻きにしている左腕を差し上げた。
「挟まれて、グッキリと」
「レントゲンだな、モトコ」
「はいよ」
モトコと呼ばれた女性が、登場してきたのとは違う、部屋の奥に設けられた扉へ消えた。
向こうの部屋も照明が点けられ、程なくして車輪のついた大きな機械を推して出てきた。
「診察台に横になって。左手がこっち」
モトコと呼ばれた女性の言われるままにエレクトラが横になるのに、アキラも片手ながら手伝ってやった。
「じゃあ上着は邪魔だから、こちらで預かるわね」
モトコの上着を脱がした手で、後ろに迫っていたドクターへチョップを喰らわせた。
「そこ。無意味に脱ごうとしない」
「だってよ…」オヤツの前で待てを指示された子犬のような瞳でドクターは言った。
「美人がベッドで待っているんだぜ? ここは男として…」
それ以上ドクターは二の句が継げなかった。容赦なくモトコが股間を蹴り上げたからだ。
「うわあ」
この場にいる中で、唯一同情したのはアキラだけだった。
「さてと」
股間を両手で押さえてのたうち回っているドクターを無視して、モトコは機械の電源を壁のコンセントと繋いだ。
背後にあるコンソレットを操作すると、機械に息吹が入って行った。
「じゃあレントゲンを撮るわね」
機械の脇にあるポケットから重そうな板を取り出すと、診察台で横になっているエレクトラの左腕の下へ敷く。それから機械へ戻ると、前に着いた機械腕の先端についたごついカメラのような装置を、左腕に触れんばかりの高さまで下ろした。
「これは邪魔ね」
白衣のポケットから鋏を取り出すと、左腕に巻かれたテープを切断し、添木代わりにしていた銃床を外した。
「はい、これは専門家に」と手の空いているヒカルへと差し出した。壁に寄りかかっていたヒカルは、反動をつけて前に出ると、黙ったままそれを受け取った。
「女の子ですものね」
モトコは機械の最下段から、重そうな布団のような物を取り出し、エレクトラにかけた。「じゃあ、他の人は離れて。あー、センセはソコにいて下さい。永久脱毛ができるんで」
「うひゃあ」
慌てて飛びのいてきたドクターが、アキラとぶつかった。
「おっと、すまんな。キミも左腕か?」
「え、あ…」
ぶつかった反動で倒れそうになったところを背中に手を回され、切断面に見える左肘をもう片方の手で取られた。
「きれいな処置だな」
ドクターがその部位を観察して言った。実は必殺技を発射した後は、どういった理屈かは分からないが、皮膚が回りこんできて綺麗な半球状となるのだ。
「どれどれ、オヂサンによーく見せてごらん。まずは邪魔な上着を…」
再びモトコのスリッパが炸裂したのは、言うまでもないことだった。
「はは~ん」
レントゲンで撮影された映像は、事務机のモニターに投影されていた。
「ポッキリ逝ってるな」
「いってますね」
横から覗いているモトコも同意した。
「すぐ治りますか?」
これは診察台の上に寝たままのエレクトラだ。
「あのなあ…」ドクターは呆れたように言った。
「人間の体は工業製品じゃないんだ。特に骨折ってのは、自然治癒力に頼るしか治す方法はないんだよ。折れてます、じゃあゴハン粒でつけときますねってわけにゃいかないんだ」
ドクターの口調はクレーマーに対するどこかの店員のような物になっていた。
「そんな気軽に治せる方法があるなら、俺が知りたいってもんだ」
そのセリフに、アキラはヒカルと顔を見合わせた。
「ギプスで固めて半年。それから経過を見て…」
「長すぎます」
怒鳴るでなしに、エレクトラはドクターの言葉を遮った。
「この後も仕事が目白押しなんです。すぐに直して下さい」
「あのなあ。だから、何度も言わせるなよ」
ドクターは呆れたような声を上げた。
「まあ、単純骨折のようだから、手術して鉄板を入れれば、使えるようになるのは早いと思うが」ふたたびレントゲン写真をマジマジと見たドクターは、お勧めできないとばかりに頭を振った。
「歳取ってから、季節の変わり目にシクシクと痛むようになるぜ?」
「いま、必要なんです」
エレクトラの強い意志に、ハアとため息。
「じゃあ…」
映像をよく見るために座っていた椅子から立ち上がると、ドクターは白衣を脱ぎ始めた。
すかさずモトコがスリッパでつっこみを入れた。
「手術着に着替えるのに、なんでツッコミをくらわなきゃならん!」
頭頂部にスリッパを食い込ませたまま、ドクターは背後のモトコを振り返った。
「あ、ごめんなさい」
両手で拝むような仕草をしながら、全然悪びれずにモトコは言った。
「手術をするのはいいが、一発ヤらせろとでも言うのかと」
「それは、今から言おうとしていたところだ」
「結局言うんかい!」
モトコはすかさずドクターにツッコミを入れた。
「本気の冗談のような本気は置いておき…」
頭に乗ったスリッパが二つになったドクターは、エレクトラを振り返った。全然めげてなどいない。反省は後からするタイプのようだ。
「さすがに術後一ヶ月は入院してくれるよな?」
「えっ…」
「医療に関係するものとして、本当はもっと長く入院していて欲しいのよ」
これはモトコだ。
「幸い、二階の部屋は空いている」
隣の部屋へと背中を見せながらドクターは言った。
「その間に、俺が夜這いできる可能性も…」「まだ言うか、このヤブは」「えーヤブなんていうなよ」
そんな掛け合いをしながら、二人は奥の部屋へ行ってしまった。おそらく手術の準備を始めるのだろう。
「エシェック」
エレクトラは、黙って自分の診察を見ていたヒカルを呼んだ。
「おう」
ヒカルが横になったままの診察台に歩み寄る。手には先ほど渡された銃床がまだあった。
「車から私の荷物を持ってきて」
「通信機もか? 仕事熱心だな」
「そっちじゃなくて」
苦笑いのような物を浮かべてエレクトラは言った。
「私の着替えが入っている方よ」
ワンボックスには武器の他に、昨日泊まったために着替えなどの荷物も積んであった。たしかエレクトラのバッグは円筒形だったはずである。
「了解。これはどうする?」
手にした銃床を振って訊ねると、エレクトラは難しそうな顔をした。
「降ろしてもらってもいいし、車と一緒に運んでもらってもいいし…」
どちらか決めかねているようだ。
「さてと!」
勢いよくドクターが戻って来た。すでに前から着る手術着を身に着け、マスクやギャザーキャップまで着けていた。
「全身麻酔をした後に、色々と…」
などと妄言を吐きながら指をワキワキと動かしていたドクターが、突然仰け反った。後から入って来たストレッチャーに轢かれたのだ。推しているのはもちろんモトコだ。
「どこまでふざけるんですか、ドクター。いい加減怒りますよ」
ストレッチャーを診察台の横へ停めたモトコも、手術着で身を固めていた。
「だって、可憐な女性なんて、どのくらい久しぶりか」
「あら。私は可憐じゃないと」
「あっ」
慌てて口をつぐんでも、もう遅かった。ツーンとそっぽを向いたモトコは、エレクトラに笑顔を向けた。
「じゃあ上は脱いでくれる? 肩まで開くかもしれないから、ブラもね。手術中の安全は、私が保証するから」
「信じてる」
まるで清水の舞台から飛び降りるような覚悟の声が出ていた。
モトコに手伝ってもらいながら、エレクトラの肩が出たあたりで、アキラの耳が引っ張られた。
「あいっててて」
「ほら、荷物取りに行くぞ」
「出たらシャッター閉めといてくれよな」
ドクターの声が背中を追いかけてきた。
「放せって」
店舗の方へ戻り、各種ボールペンが並べられた辺りで、アキラはヒカルの手を振り払った。
「いてえんだよ」
アキラは引っ張られた耳を押さえて文句を言った。本気で痛かったので、涙声になっていた。
「ふん」
そんなアキラを見もせずに、ヒカルは背中を向けた。
「外はカナエそっくりだが、中身はあのドクターと同じなんだな」
「誤解だって」
あんなスケベ八段のような男と一緒にしてもらいたくなかった。
片手のアキラではシャッターが持ち上げられないので、ヒカルが開けた。
「ふん。どーだか」
ワンボックスに戻ると、カギを開けて、横のスライドドアを開いた。そこで立ったまま自動小銃の組立を始めた。まずエレクトラの緑色したバッグから遊底などを取り出し、床へ散らかしてあったアッパーレシーバーに差し込む。それから前後二つのピンで、エレクトラの腕から回収した銃床部分と結合。以上である。
「あいつの荷物って、どこだ?」
車内に上半身つっこんで、三列並んでいるシートの、最後列の足元を覗き込んでみる。暗いので、手でまさぐる形になった。
アキラはその背中を見ていたが、背後でシッャターが開く音がしたので、振り返った。
室内が明るいので逆光になっているが、手術着を着たままのモトコということが見て取れた。
「どうした?」
ヒカルも耳で気が付いたようだ。エレクトラの荷物を引っ張り出しながら振り返った。
「血でも足りなくなったか?」
「違うわ」
モトコは手に大きな木箱を提げていた。その木箱を手前にいるアキラに差し出しながら用件を口にした。
「いま緊急連絡が入って、シグナル・オフィサーが富士市辺りで、怪我をして立ち往生しているんだってさ。あなたたち、助けに行ってくれない?」
「あたしらは、身内じゃないんだがね」
引っ張り出したエレクトラの荷物をモトコに渡しながらヒカルは言った。
「本当は、ドクターか私が駆け付けることになっているんだけど、ほら…」
心配げに建物の方を振り向いた。
「いまは手術中だろ。私も手が離せなくてさ」
「別料金になると言ったら?」
ヒカルの冷たい物言いに、モトコは黙って肩をすくめた。
しばらくその様子を眺めていたヒカルは、疲れた様に溜息をついた。
「わかったよ」
ぱあっとモトコの顔が明るくなった。
「だが、あたしらにできるのは、拾いに行くことだけだ。怪我してたら何にもできないぜ?」
「そいつに色々入っているから」とアキラに渡した木箱を顎で示した。見れば緑十字のマークが入っていた。どうやら救急箱らしい。
「そいつでどうにもならない怪我なら、遠慮なく救急車を呼んじまっていいから。仕事より『船員たち』の命が優先だ」
「救急車を呼ぶほどではないが、大怪我をしていたら? ここに連れてきていいのか?」
「それは大歓迎さ」
「そのオフィサーとやらと、どう連絡取ればいい?」
「あー」
ボリボリと被ったキャップ越しに頭を掻いたモトコは、ちょっと困ったような口調になっていた。
「あなたたちは本当に身内じゃないだね。こういう時は、二〇チャンネルを使用することになっているんだ」
「二〇チャンネル?」
ついアキラの口から声が出た。高校生の間隔でチャンネルと言われても、普通は巨大なネット掲示板に連想が飛んでしまう。だが、そんな大きな数字を冠する掲示板は無かったように記憶していた。
「緊急だったら一六チャンネルじゃないのか?」
分かっている口調でヒカルが聞き返した。
「いや、そこは四六時中、保安庁が聞き耳を立てているから使わないんだ」
「あ、なるほど…」
納得した顔のヒカルは、ワンボックスの車内を振り返った。
「だけど、この車に無線が載せてあるのか?」
「ないのかい?」
逆に訊かれてヒカルは、夜空を見上げた。
「あー」
思いつく物があったのだろう。声を上げてヒカルは頷いた。
「あったわ」
「それじゃ、よろしく」
エレクトラの荷物を抱えたモトコが、一歩下がった。
「シグナル・オフィサーは、東海道線の原駅にいるって。こっちからは東京よりになるわ。近くに行ったら無線で確認しておくれ」
「了解」
ヒカルは手にしていた自動小銃を放り込むと、スライドドアを勢いよく閉めた。
高速道路を一時間半ほど飛ばした。
先程より夜も更けて、大型トラックの割合がさらに多くなっている。そんなところをスポーツカー並みの速度でワンボックスを走らせるものだから、アキラは何度も肝を冷やした。
「富士って言ってたよな」
インターチェンジの表示が現れてきたところで、ヒカルが訊いてきた。
「ああ」
ボーッとして半分ぐらい寝ていたアキラが、慌てて意識を取り戻した。
「富士の原駅だったか」
「カーナビくらいつけとけってんだ」
カーラジオすらついていないダッシュボードをバシンと叩いて、ヒカルが忌々し気に行った。突然の乱暴な行動に、アキラが首を竦めていると、ヒカルは忌々しそうに言った。
「このまま帰っちまうか?」
「えっ」
ヒカルのセリフにアキラは振り返った。その視界の端に、東京までの距離を示す緑色の看板が通過した。
アキラの慌てた様子に、前を見ながらヒカルは鼻をくくったような顔になってみせた。
「あたしたちの仕事は、エレクトラの運転手だったはずだ。それはもう終わってる。こんな残業に付き合う道理はねえ」
「そうは言っても」
弱気にアキラは言った。
「助けを待ってる人を見捨てるのも、なんかね…」
「まあ寝覚めが悪いってヤツか」
ちょっと考え込む表情を作ってから、ポケットに手をつっこんだ。柄付きキャンディが二本出てきた。
「ほれ」
ヒカルは二本とも押し付けてきた。
「なんだよ」
また変な味じゃないだろうなと、アキラは外からの光にかざしてみた。大丈夫、二本ともラムネ味だった。
「一本剥いてくれ」
「自分でやれよな」
口では文句を返しつつも、アキラは片方を膝の上に置いて、一本を歯で噛んで包み紙を剥がした。口だけこちらに向けるような変な顔をしていたヒカルへ差し出すと、前を向きながら食いついてきた。
そのまま意地悪して引っ張ってみた。
「釣れた」
「バカやめろ」
それでも柄に歯を立てて離さないヒカルの根性に感心する、というよりも安全運転をして欲しくて、アキラはキャンディを手放した。
「まったく」
チラリと叱る眼でアキラを睨んでから、再び前を向いてくれた。
緑の標識が目的地を示していた。左の減速車線へ分岐し、料金所へ向かった。
「で?」
自分の分のキャンディを剥きながら、アキラは訊いた。
「これからどうするんだ?」
「その~、なんとかオフィサーと連絡を取らんとな」
「どうやって?」
素直な質問が出た。車は左カーブからETCゲートを通り抜け、国道一三九号線との合流になる丁字信号で停まった。大丈夫だ、包装紙をすり替えているなんていう意地悪は無しに、ちゃんとラムネ味だった。
「エレクトラが空港で使ってた無線機、あったろ」
「後ろに放り込んだままだと思うけど」
後席へ振り返るが、荷物は大概床へ置いてあるので、確認はできなかった。
「たしか緑色のバッグだったよね」
首をのばしてやっとバッグの持ち手が視界に入った。
「そいつで連絡を取ればいい」
「チャンネルって?」
「そらもちろん周波数のことだろ」
「バンド?」
アキラがヒカルに振り返ったところで、信号が青になった。
「通信に使う電波のことだよ。なんだよ、そこからかよ」
「そこからって…」
明実に変な体にされたとはいえ、それまでのアキラは普通の生活をしていた身なのだ。電波と言われても、携帯電話のアンテナマークで示される強弱ぐらいしか興味が無かった。
「まさか短波とか、長波とか、そこからなのか?」
通行量が少なかったこともあって、運転しながらヒカルがアキラへ顔を向けてきた。とても渋い物を口にした表情になっていた。
「まてまて」
助手席に座り直してアキラは両手を振った。
「まず、前を見て運転しろ」
外を確認して、ヒカルの表情がまた変わった。
「どっちだ?」
いちおう道路標識の新幹線マークを頼りに、ワンボックスは道を選んで走っていた。
「カーナビは無くても、地図ぐらい積んでないか?」
「どうだろ」
助手席で周囲を見回して、それらしい物は発見できなかったアキラは、ダッシュボードを開いてみた。車検証ぐらいしか入っていなかった。
「しょうがねえな」
広い道幅をいいことに、ヒカルは路肩に寄せてワンボックスを停めた。
昨日から着たきり雀のスーツの内ポケットから、スマートフォンを取り出した。
地図アプリで現在位置を検索する。外の景色と見比べて、ヒカルは一つうなずいた。
「原駅だったよな」
「ああ」
画面をスクロールさせて確認し、納得いったようだ。
「この先を左、そしてまっすぐだ」
電源を落としてポケットへと戻した。
「さっきの話しの続きだ」
ヒカルの口元でキャンディの柄がピコピコ動いていた。
「あいつらが『船員』を名乗ってるんだから、無線と言ったら、そら船舶無線のことだろ」
「船舶無線?」
「船のための無線だよ」
言われてもピントが来てない顔のアキラに苛立ったのか、ヒカルが乱暴に言った。
「飛行機で使うのが、航空無線。じゃあ海で、船が使う無線は?」
「あー」
「ちょっとソコどいてくれだの、お先にどうぞだの、海の上だって無線で話ししながら運転してるんだぜ」
「そりゃそうか」
ポリポリと頭を掻いて納得した。
「船舶無線は国際的に周波数が決められてんだ。たしか浜松の女が二〇チャンネルって言ってたろ。その周波数で、そのなんとかオフィサーと交信できんだろ」
「それで無線機か」
「わかったら取ってこい」
ヒカルに促されて、アキラは一旦ワンボックスを降り、後ろのスライドドアを開いた。
すぐの床には物騒な荷物が散らかしてある。いま、お巡りさんに車内を調べられたら、一発で捕まる自信があった。まあ、そんな感想を抱きつつ、エレクトラの使っていた緑色のバッグは中列と後列の間へ押し込んだはずだと、車内後方を覗き込んだ。
荷物は放り込んだままになっていた。片手なので、まずバッグごと車外へ引きずり出す。そして中列のシートへ置くと、左肘で端を押さえながら、なんとかジッパーを開くことに成功した。中を覗いて一番目立つのは、合成樹脂を多用した自動拳銃だった。
それを避けて、ごつい無線機本体を取り上げた。
ワンボックスが急ブレーキなどしてバッグがひっくり返らないように、床に置いた他の荷物へ割り込ませておいた。
「それそれ」
シートベルトを外しもしないで振り返ったヒカルが、運転席から手を伸ばした。
「はいよ」
その手に渡してから、アキラはスライドドアを閉めた。
助手席に戻ると、さっそくヒカルが無線機を弄っていた。スイッチやダイヤルを押し込んだり回したりしていた。それがしばらく続いたが、その周波数とやらの調整が終わったのだろう、あんな大きな外見をしている機械を軽々と左手で持ち、形通り電話の受話器のごとく、マイクを口元に寄せた。
「こちらエレクトラ。シグナル・オフィサーどうぞ」
何度か呼びかけても返事は無かった。
「だめじゃん」
「まだ距離があるのかもしれない。とりあえず、駅へ向かうぞ」
アキラがシートベルトを締めたのを確認すると、ヒカルは無線機を押し付けてきた。
アキラが掴んだのを確認すると、ワンボックスを出した。
広い道は、しばらく行くと大きな立体交差になっていた。そこを先程確認した通りに左折し、国道一三九号線へ入った。
大きな右カーブを進みながらヒカルは、アキラへ命令してきた。
「一〇分おきぐらいに呼びかけろ」
「オレが?」
右手一本で無線機を持ったアキラが眉を顰めた声を上げた。
「だいたい、コレどうやって使うんだよ」
アキラの質問に、わざわざ振り返って酸っぱい顔を見せるヒカル。
「この通話ボタンを押せば、こちらの声が電波に乗る。押しっぱなしだと、向こうの言っている事を聞くことができないから、話すことを話したら、ボタンから指を放して耳を澄ますんだ」
「お、本格的だな」
「本物だ」釘をさすようにヒカルの声が固くなった「それと、誰が聞き耳を立てているか分からないから、うかつな事は喋るなよ」
ヒカルに言われて、アキラは無線機を見た。
「誰に繋がるか分からないのか…」
「そうだ。電話じゃねえんだ。つか、電話でも気をつけろ」
そして促すように顎を振った。
「えー…、なんだっけ?」
アキラの口から出たセリフに、ヒカルはハンドルを握ったままコケそうになった。
「貸せ」
左手を出されたので、素直にのせた。
「こちらエレクトラ。シグナル・オフィサーどうぞ」
スイッチを放してスピーカに耳を澄ませる。サーッという弱い空電の音がするだけだ。
「ほら」
アキラは受け取って、ヒカルの真似をすることにした。
「こちらエレクトラ。シグナル・オフィサーどうぞ」
もちろん返事はなかった。だが今度は遠くで誰かが話している声が、スピーカの空電の音に混ざっていた。
「次は英語でだ」
「え?」
アキラが驚いて振り返ると、何でもない事の様にヒカルは言った。
「英語で呼び出せ」
「えー…。じすいずえれくとらすぴーきんぐ。しぐなるおふぃさーぷりーず」
再びハンドルを持ったままコケそうになったヒカルは、ガリリと口の中のキャンディに歯を立てて、左手を出した。
受話器のような無線機を当てると、流暢な英語で話し始めた。
「This is Erectra。Signal Officer Plerase」
「はえー」
再び無線機が突っ返される。アキラは面倒臭くなって、ヒカルへ文句を言うように告げた。
「もう、おまえがやれよ」
「運転させておいて、通信までやらせるのかよ」
怒り声を上げるヒカルに、首を竦めるアキラ。
大きな交差点でワンボックスを左折させてから、叱られた犬のような顔になっているアキラに告げた。
「次はフランス語だ」
「フランス語ぉ?」
素っ頓狂な声が出た。
「フランス語なんて、知らねえぞ。なんて言うんだ?」
「C‘est Electra…」そこまで口にしてヒカルは溜息をついた。
「ホントにおまえは何にも知らないんだな」
「勘弁してくれよ」
肉体的疲労だけでなしに、アキラは疲れた声を出した。
「オレは、普通の、日本の、高校生なんだからな」
「高校生という身分に甘えるな」
釘をさすようにヒカルは言った。
「必要なら、何でも覚えなきゃいけないんだ」
「まるで年上の説教みたいだな…」
言ってからアキラは、相手が外見は「女の子のような物」であるが、中身は違うことを思い出した。
ヒカルはジロリと視線だけを寄越した。
「いいかアキラ…」
言い聞かせるようにヒカルは言葉を繋いだ。
「日本じゃ、中学を卒業したら就職していいんだぞ」
「そらそうだけどよ」
民法を専門に習っていなくったって、それぐらいの知識はあった。だが身近に中卒で就職した友人なんていなかったので、ピントがこない。
「義務教育でサラリーマンから大工まで、どんな職業にでも就けるように、教えてもらっているはずなんだ。まあ中卒でサラリーマンとして雇ってもらえるかは別としてな。高校は、より深い勉強をするところ。大学は専門的な研究をするところ。もう自分がやりたいことを見つけ、必要な知識は、教わるんじゃなしに、自分で見つけなきゃいけないんだ」
そこで、運転しながら、ヒカルはアキラを見た。
「アキラ。おまえのやりたいことはなんだ? もう決まっているのか?」
「ま、まあな」
シートで体を伸ばしながらアキラはそっぽを向いた。
「だけど、その考えてた未来に、こんな身体になる事も、鉄砲をバンバン撃つ相棒ができることも、入ってなかったぜ」
「お」
安全運転のために前へ向きなおしながら、口元のキャンディの柄がクイッと上を向いた。
「あたしを相棒って言ったな」
「お、おまえが最初に言い出したんだろ。この仕事を受ける時に」
「そうだったか?」
本当に覚えていなかったのか、それとも演技だったのだろうか、ヒカルは惚けた声を出した。
「じゃあ仕事に戻るか。あたしがエシェックで、おまえはルーキーだ」
「おう」
開きっぱなしの踏切を一時停止なしに越え、鉄道と道路を一気にくぐりぬける立体交差を走り抜けた。
鉤状に道が曲がり、さらに広い道へ合流したと思ったら、そこが国道一号線であった。
東海道という単語は会話で使ったことはあるが、実際にこうして走るのは、ほぼ初体験であった。といっても周りは農地らしく、明かりはあまり無い。右側の遠くに街灯を確認できるだけだ。それでもアキラが感慨深く道を眺めていると、道が緩いカーブで市街地へ向かった。
道路標識に鉄道駅の案内が出た。
「東田子の浦駅? 原じゃないぞ」
アキラが看板を読んで不安になった。ヒカルも少し自信が無いのか、キャンディの柄が揺れていた。
「次か、その次の駅かもしんねえ」
先程スマホで確認した周辺地図が頭に入っているのか、それとも朝からの緊張でいい加減疲れたのか、ヒカルは投げやりに言った。
「こちらエレクトラ。シグナル・オフィサーどうぞ」
アキラは言われた無線機への呼びかけを忘れなかった。
だが、スピーカから聞こえてくるのは、どこか遠くで知らない者同士が会話しているような、そんな空電だけであった。こちらと混信していないのか、それとも気にしていないのか、遠くで会話している同士がアキラの声に反応することは無かった。
やがて東田子の浦駅の表示も行き過ぎてしまった。
左手は農地らしく、やはり暗闇が多かった。右手は川を挟んで市街地のようだ。だが、もう夜も更けているので、点線のような街灯や、工場らしき明かりの塊しか目に入らなかった。
「あれか?」
やっと道路標識に、原駅の表示が出てきた。
「この先を右にか…」
「もしかしてさあ…」
独り言ちているヒカルに、アキラは何の気も無しに訊いた。
「もう、そのシグナル・オフィサーってやつ。電話に出られないんじゃあ」
「電話じゃねえし」
間髪も入れずにヒカルが言い返し、そして暗い声を出した。
「せめて骨ぐらいは拾ってやらんとな。無縁仏として警察に回収されるのもかわいそうだろ」
「あ、いや、そういうわけじゃなくて」
最悪の状況を想定しているヒカルに、慌ててアキラが言った。
「ケガが酷くて、ボタンが押せないとか、ほら」
分かるだろとばかりに、肘から先が無くなった左腕を揺らしてみた。
「どちらにせよ、はやく合流した方がよさそうだな」
道路標識を確認したヒカルは、右折レーンへとワンボックスを入れた。
「呼びかけてみろよ」
「う、うん。こちらエレクトラ。シグナル・オフィサーどうぞ」
すると無線機で呼びかけてから、初めて反応があった。
ザリザリという耳障りの悪い雑音が入ったあと、男の声がスピーカから流れ出した。
「こちらシグナル・オフィサー。エレクトラじゃないな?」
とても無理して出しているような声である。
「あー」
ボタンを押さないままに返答しようとし、それじゃあこちらの音声が向こうへ届かない事に気が付き、押そうとしたが、アキラは何を喋っていいのか見当がつかなかった。
「貸せ」
ヒカルが運転しながら左手を伸ばしてきて、アキラの手から無線機をもぎ取った。
「代理の者だ。いま、どこにいる?」
「…。エレクトラは?」
絞り出している声に、疑い探るような色が加わった。
「いま浜松のドクターに手術を受けている。あたしたちは、そこのモトコとかいう女に頼まれて迎えに来た」
ヒカルの説明に、しばらく返答が無かった。
「もう駅につくぞ。そこでいいのか?」
ワンボックスは駅前広場へ進入しようとしていた。
「合言葉は?」
「は?」
「代理なら、合言葉を教わっているだろう」
男の言葉に、アキラとヒカルは顔を見合わせた。ヒカルの唇だけが動いた。無音だったが(合言葉なんか聞いたか)と言っていることが分かった。アキラは慌てて首を横に振った。
ヒカルはちょいと肩をすくめると、遠慮なしに無線機へ告げた。
「チーズを一切れ持ってないかって? 合言葉なんて、教わってないぞ?」
「そうか。それで正解だ。だが、まだ信用はできない…。救急箱ぐらいは持っているんだろ」
「ああ、モトコに渡された」
「なら、敵でもいいか」
バスもタクシーもいない楕円形の空間は、すっかり闇に包まれていた。駅名表示を照らすように設けられた照明が、かえって周囲の暗さを強調していて、けっこう不気味であった。
安全確認のためだろうか、プラットホームの方には煌々と明かりが点いていた。そこを、ちょうど深夜運行の貨物列車が、凄い音を立てて通過していくところだった。
ヒカルは、路面の表示のままにワンボックスの舵を切り、時計回りに徐行を開始した。
遠い光源で闇を透かすようにしながら、誰かいないかを探して回る。
「どこにいるんだ?」
「ああ、すまん。駅じゃないんだ」
青色吐息の声は、全然謝っているように聞こえなかった。
「駅の東側にある踏切の近くに伏せているんだ」
「ふみきり?」
ワンボックスを停車させると、ヒカルは無線機をアキラへ押し付けた。懐から出したスマートフォンで周辺地図を呼び出した。
「あー、これか」
すぐに見つかったのか、そう声を上げたヒカルは、再び無線機を受け取ってボタンを押した。
「じゃあ、そこで待ってろ。すぐいく」
ポイッと無線機をアキラへ向けて投げ捨てると、アクセルを踏んでハンドルを切った。
グーンと加速しながら、さらに右ハンドルでの横Gまで加わって、アキラの体はドアへ押し付けられた。
ワンボックスは線路沿いの道に出ると、暗い路地裏を走り始めた。線路とは低い柵だけで分けられているような道である。やがて左手に人ほどの四角い影が並んでいるのが見えた。
そこから、あまり進まないうちに、歩行者用の狭い踏切が、安全のために大光量の投光器に照らされているのが見えた。
「ここいらか…」
周囲を見回しながらヒカルはワンボックスを停め、ライトをハイビームにした。
その途端に、フロントウインドに、何か大きな物が貼りついた。
「うわ」
まるでホラー映画のようなシチュエーションに、アキラはシートの上で体を丸めてしまった。
「なんだ?」
こちらは、すでに銀色の銃を手にしていたヒカルである。
車内灯を点けると、ガラスに押し付けた横面で、眼球がギラギラと輝いていた。
「こいつか?」
ボロをまとった浮浪者風の男である。顔面は赤く染まっており、本当にホラー映画のワンシーンのままの絵面だった。
ヒカルがギヤをパーキングへ入れ、サイドブレーキを確認してシートベルトを外した。アキラも言われる前に従うことにした。
「おい。おまえがシグナル・オフィサーか?」
開いたドア越しに訊ねると、男はその場でキリキリと回転して、アスファルトの上に崩れ落ちてしまった。フロントウインドに赤い手形が残った。
「救急箱!」
ヒカルは車内を指差してアキラに命じると、ドアを回って仰向けに倒れた男に駆け寄った。
アキラはすぐに後部座席へ放り込んでおいた救急箱を取りに走った。
こうしてヘッドライトの明かりで観察すると、男が身に着けている物はボロなどでは無かった。元はそれなりのスーツであったようだが、あらゆるところが傷だらけで、裂けたり切れたりしているのだ。
ヒカルは最初に向けていた銀色の銃を背中に仕舞うと、男のボロくなったシャツに手をかけ、遠慮なく引き裂いた。
「う」
アキラは救急箱を、右手一本で抱きしめてしまった。
擦り傷や打ち身など、どんな乱暴な事が行われたか分からない程、男の体は傷だらけであったからだ。
ヒカルは冷静に、男の腹部のあちこちを押しながら訊いた。
「何があった?」
「走っている列車から落ちたんだ」
痛そうに答える男。
「無茶しやがる」
「だが、無茶のかいはあったぜ」
男は体に下に敷いていた何かを手に取って、二人に見えるように差し上げた。それは黒い書類ケースであった。
空港で由美子が持っていた物に非常に似ていた。
ただ、あれから乱暴に扱われたのか、表面は傷だらけになり、取っ手が無くなっていた。
「これが、目的の物か?」
「ああ、そうだ。君が誰だか知らないが、これを『ネモ船長』のところへ運んでくれ」
「自分で運べ」
「そうしたいんですがね。あちこち痛くて…」
そのまま安心感か、それとも痛みのためか、男は瞼を閉じた。
それを見届けるとヒカルは上体を起こした。そのままアキラへ怖い顔を向けてくる。
「は、はやく手当しないと」
慌てているせいか、アキラには地面に置いた救急箱の蓋が開けられない。その手をヒカルが掴んだ。
「?」
「もう遅い。あと三〇分…、いや一〇分もしない内に死ぬ」
「え…」
振り返ると、相変わらず怖い顔であった。
「腹を触れば固くなっているから分かる。内臓破裂だ。救急車を呼んでも間に合わない」
「そ、そんなあ」
ペタンとアキラは座り込んでしまった。
「なんとかできないのか?」
「おまえこそ、何かできるのか?」
「ただの高校生だぜ、オレ」
泣きそうな声にヒカルは、アキラの手を放すと、どこか遠くを見るように言った。
「そういうことだ」
アキラはボロ雑巾みたいになった服を纏わりつかせた男と、背筋を伸ばしているヒカルを何度も見比べた。
「幸い、そこは墓場みたいだ。運ぶ手間が省ける」
ヒカルは道の反対側の白い壁を指差した。先ほどヘッドライトにチラリと照らされたのは、どうやら墓石だったようだ。
そんな諦めた態度のヒカルに、アキラは怒りすら覚えた。
「おまえ、なんとかしろよ!」
怒鳴りつけながら迫ると、珍しくヒカルは女の子のような反応をした。困ったように目線をずらしたのだ。
「助ける方法が、あるんだな?」
いつもなら逆ギレして「あたしが何でもできるって思うなよ」ぐらいは怒鳴り返してくるヒカルの、らしくない態度に、アキラは問い詰めることにした。
「ああ、いいや、まあ…」
「言えよ。早く言え」
困った顔を作ったヒカルは、チラチラと男の顔を見ながらアキラへ言い訳の様に話した。
「一つだけあると言えばある。奥の手だ」
「どんな方法だ?」
「あたしらの『生命の水』を使うんだ」
「『生命の水』? それって…」
ヒカルの言う『生命の水』というのは、何度も言うが『再構築』で『創造物』となった二人の生命維持に必要な液体である。アキラも、普通の人の様に食事や睡眠を摂る他に、月に二回ほど『生命の水』を注射していた。明実の説明によると、これがないと『創造物』は生きていくことはできないらしい。自分の『創造主』が死んでしまい、『生命の水』の供給が断たれたヒカルの分は、アキラと同じ物が明実から支給されていた。
「あんなのを、どう使うんだよ?」
注射器の中で自ら青色に発光している液体を思い浮かべて、アキラは訊いた。常人に見せたら一〇人中一〇人が、やばい毒物だというような代物なのだ。
「『再構築』には、魔法陣と、それとシリンダーや儀式が必要なんだが。怪我を直すぐらいなら『生命の水』を注射するだけでも効果が出る…」
希望を示されてアキラの顔が明るくなった。
「…時もある。だが体質があわなけりゃ、とどめを刺すことになりかねねえ」
「なんだよ、それ」
アキラは口を尖らせた。
「それだけ命ってのは便利にできちゃいねえのさ」
少し顔を曇らせたヒカルは、アキラへ言った。
「普通の風邪でだって、死ぬ奴は死ぬ。あたしだってアキザネの『生命の水』が合わなかったら、死ぬ運命だったんだ。まして普通の人間に合うかなんて、やってみないと分からないってことさ」
アキラは沈んだ顔をして見せるヒカルと、地面に横たわる男を見比べた。
「どうする? ほっといても、もう死ぬぜ」
ヒカルの声が追い打ちをかけてきた。
「『生命の水』ったって、どこにあんだよ」
「ここさ」
ヒカルは真っすぐアキラの左胸を人差し指で突いた。
「あたしら『創造物』は、心臓に『生命の水』が詰まってる。教えた事なかったか?」
そういえば、いつだかヒカルに言われたことがあった。
「まさか、自分の心臓を取り出せって言うんじゃないだろうな?」
「そこまで言わねえよ。あたしの荷物の中にポンプ…、注射器や針は入ってる。そいつを使って、ちいとだけ吸い出しゃいい」
「自分の心臓から?」
アキラが聞き返すと、ヒカルはうなずいて答えた。
「針を突き刺して?」
「そうだよ。そして助けるって言いだしたのは、おまえなんだから、自分の心臓を使えよな。あたしはゴメンだぜ」
「りょ、量は?」
今度は自分の体と、男を見比べながらアキラは訊ねた。
「だから、分かんねって」
ひょいとヒカルが肩を竦めた。
「多すぎたら拒絶反応で死ぬだろうし、少なすぎたら治りきらずに死ぬだろうし。もちろん、このままでも、死ぬだろうし」
「オレは片手なんだぞ」
「じゃあ、あたしがぶっ刺してやろうか?」
ニヤリと嗤ったヒカルから距離を取るように、アキラは一歩さがった。
「思い返せば色々と、マヌケなおまえにゃイライラさせられっぱなしだ。ここいらで、一発やらせてもらうってのも、アリだな」
「ほ、本気か?」
「あたりまえだ」
真面目な顔に戻ってヒカルが言った。
「心臓なんて体の奥の方にあるんだから、殺すつもりでぶっ刺さないと、針が届かないだろ」
「痛みとか?」
「痛いだろうなあ。なにせ体の奥まで針をぶっ刺すんだから」
「その後、オレはどうなる?」
アキラの疑問に、ヒカルは思案顔になった。
「死ぬことはない。死ぬことはないと思うが…。まあ、ちょっと覚悟はしておけってやつ?」
悪戯気な微笑みを浮かべるヒカルと、地面の男。再び見比べたアキラは、大きくうなずいた。
「わかった。やってくれ」
つづく




