五月の出来事B面・④
次にアキラが気が付くと、布団の上で大の字になっていた。
「んあ?」
寝ぼけ眼で室内を見回す。寝入った時の同じ部屋で、室内はだいぶ明るくなっていた。
ボリボリと体を掻きながら身を起こして、現在自分が置かれている状況を確認した。
「起きた?」
シャワー室の方からヒカルの声がした。首を巡らせると、Tシャツ姿のヒカルが、化粧用のパフを手に、こちらを覗き込んでいた。
「いつまでも、パンツ丸出しで寝てんじゃねえよ」
「うが」
指摘されて、下着にTシャツというみっともない自分の姿を隠すように、足へ布団を被せた。
「お、おまえだって、そうだろうが」
「あたしゃ、おまえみたいにだらしなくないもの」
それでもボーダーの裾を引っ張って、小振りの尻を隠しながら、ヒカルは化粧の続きをするためだろうか、中折れ扉の向こうへ消えた。
「おまえは化粧なんてしないだろうが、寝ぐせぐらいは直しておけよ」
遠くなった声に、もう朝かと、窓の外へ視線をやった。
欧風庭園を目指したと思われる施設の庭には、やっと朝日が差し込み始めたところだ。
「何時だよ…」
枕元に散らかしてあったヒカルのスマートフォンに触れ、現在時刻を確認した。それは日の出の時間と思われる数字を並べていた。普段の生活では惰眠をむさぼっている時間だ。
「こんなに早く…」と軽く絶句していると、化粧を終えたらしいヒカルがやってきた。
「女は支度に時間がかかるから、早起きになるもんさ。男はいいよな、起きた直後に着替えれば、外に出られるもんな」
「あ、う、うん」
過去の自分にそんな心当たりが無いわけでもないアキラは、しどろもどろに呻いた。
「ほれ、シャワー空いたぞ」
どうやら朝も軽くシャワーを浴びたようで、ヒカルの体からは良い匂いが少しした。
寝ぐせを直せと言われたことを思い出し、アキラはシャワーを使うことにした。といってもシャツを着たまま頭だけを差し入れて、ざっと温水を浴びるだけという無精な直し方であるが。
ゴキゴキと関節が音を立てるほどのストレッチをしていたヒカルが、顎だけでバッグの方を指した。
「ブラシも入っているから」
「サンキュ」
ヨガのポーズなのか、普段はそんな関節の使い方はしないよというヒカルの体勢を見物しつつ、アキラは自分の髪をといた。
体が充分にほぐれたからだろうか、床に散らかしてある武器の方へやってきた。
「で、だ」
声を改めてヒカルが訊いてきた。
「ん? なんだ?」
「寝てる間に何したんだ? おまえ」
「何したって? って! うわあ」
ヒカルに振り返って声が裏返った。ヒカルは銀色の銃を構えており、その銃口はまっすぐアキラに向いていたからだ。
ブラシを持ったまま両手を上げたアキラに、血走った目のヒカルが詰め寄った。
「あたしに何かしただろ、おまえ」
「してないしてない」
両手を上げたまま頭を振って否定した。
「じゃあ、なんで、起きたら、あんな、格好、なんだよ!」
一言ごと区切りながらヒカルは訊いた。
「あんなって…」
昨夜の体勢を思い出してみた。すると、なぜか胸元にムカムカとした物が込み上げてきた。まるでバスに酔った時と同じような感覚であった。
だが朝飯前の胃袋に、なにか入っているわけもない。その代わりにアキラの口から強気の言葉が出た。
「おまえの方が抱き着いてきたんだろうがよ!」
もちろん寝ぼけ眼だったので、どちらが先だったなんて覚えてはいなかった。
「えっ」
しかし、普段はのほほんとしているアキラが見せる珍しい強気な態度に、ヒカルの銃口が揺れた。
「オレの方が被害者なんだからな!」
自分でも、なんでそんなに怒っているのかが分からないまま、アキラは怒鳴り散らした。
「う、悪かった」
目が泳いだヒカルは、銃を降ろして謝罪した。
二人の間に気まずい雰囲気が流れた時に、廊下へ続く扉がノックされた。
「起きてる?」
「なんだ?」
声からして昨日ハンドルを握っていたチョコであるようだ。
「三〇分後に食堂に集合。いい?」
「了解。三〇分後だな」
ヒカルは、そのまま気まずい雰囲気を引きずりつつ、体の各所へホルスターを着けていく。アキラの方は、特に武装はしていないから、皺にならないようにハンガーへかけていた、昨日と同じ服を身に着けるだけだ。
体へ三つも銃を巻き付けてガチガチに固めたヒカルが、最後にスーツの上着へ袖を通しながら、言いにくそうな口調で口を開いた。
「まあ、イヌに噛まれたとでも思って、お互い忘れよう」
「おまえは、それでいいかもしんないがなあ」
ちょっと声を荒げてアキラは言い返した。
「わ、わるかった。よく覚えていなくってさ…」
(あれ? 意外としおらしくて、いつもと違うぞ)と感じたアキラは、イタズラっ気を起こした。
「おまえの場合は、イヌというよりカバじゃないか?」
「は?」
キョトンとしているヒカルに教授するようにアキラは告げた。
「あのイビキじゃ、イヌなんてもんじゃないだろ? カバが嫌ならサイでもいいけどな」
「い…び…き? か…ば? さ…い?」
ジャキッと銀色の銃を抜きなおしたヒカルは、その銃口をアキラの頬っぺたに押し付けた。
「誰のイビキがゴリラだって?」
「オレはそこまで言ってないだろうが! だいたいゴリラに失礼だろうが! このライオンが!」
「霊長類から外れるな! レディに向かって!」
「レディとか言うんだったらピストルを振り回すな! このシロナガスクジラ!」
「なんで海に行く?!」
「クジラも哺乳類だから、ありだ! このバンドウイルカ!」
「人間の可聴域超えるな!」
「なにやってんだい」
呆れ声に振り返ると、昨日と同じスーツを着たエレクトラが、腕組みをして部屋の入口に立っていた。二人とも掛け合いに夢中で、いつ入って来たのか気が付いていなかった。
「いや、なにって…」
しゃっくりをしたようにヒカルが目を白黒させた。
「仲がいいのはいいけど、準備を怠らないでおくれよ。今日でここは引き払うんだから」
「お、おう」
了承の声を上げてから、アキラを睨み直し、渋々といった態で銃を仕舞った。
「準備ができたら、食堂に来て」
仲直りができたと判断したのか、エレクトラは行ってしまった。
荷物をまとめ、チョコに言われた時間より速かったが、食堂へ向かった。
食堂のテーブルの上には、大きいサイズの調理用バットの上に、黒い山ができていた。
そのステンレス製のバットの前には、名刺のような紙に「梅」「鮭」と素っ気なく書いてあった。
その全部がオニギリであることに気が付いたアキラの顎が落ちた。その量は、どこかの業者に頼んだような量だったからだ。いや、もしかしたら朝食用に手配してあったのかもしれない。
食堂を見回すと、相変わらず四つのグループに分かれての食事である。
離れたテーブルからチーフは手を振り、ドン・ファンは二本指の敬礼のような物で挨拶を送って来た。
そんな中で、昨夜瓶詰を食べていた彼は、今朝もその不味そうなペーストを口へ運んでいた。
その他の「船員たち」は、若いなりに賑やかな風景を形作っていた。
どっかりと席に陣取ったアルファとブラボーの両チームの間を、ロメオチームが行き来していた。どうやらオニギリが均等に消費されるように、余りぎみのテーブルから食欲旺盛なテーブルへ移したりしているようだ。他にも、お茶の補充など甲斐甲斐しく給仕しているロメオチームは、所々で他のチームの雑談に混じったりして、それなりに楽しそうだ。
唯一それを眺めているアキラを含むホテルチームの三人だけが、つまらなそうに黙り込んでいるだけである。
「情勢は?」
お行儀悪く頬杖をつきながら、ノリたっぷりのオニギリを口にしていたヒカルが、つまらなそうにエレクトラに訊いた。
向かいの席で、オニギリを一個だけ食べただけで終わりとばかりに、お茶を飲んでいた彼女は、つまらなそうにこたえた。
「いまのところ変化なし」
テーブルの上に置いた彼女のスマートフォンはウンともスンとも言っていなかった。
「この後の手筈は?」
「仕事に使う車を受け取りに移動後、空港で待機」
「アルファとブラボーは救急車だっけ。あたしたちは? あのワンボックスか?」
「いちおう、もう一台用意した。そちらに移る」
「了解した」
「で?」
エレクトラが湯飲みを傾けてズーッと啜ってから訊いてきた。
「運転手はエシェックでいいとして、そっちの娘はどうするの?」
目線だけで、ヒカルの横で食事をしていたアキラを指差してきた。
「後部座席で護衛役と思っていたんだが?」
ヒカルのこたえにエレクトラが眉を顰めた。普通、護衛対象は後部座席に座ることが多いからだ。
「あたしが依頼されたのは、運転手だし。それに、おまえも助手席の方が、色々と都合がいいんじゃないか?」
「そお?」
「あたしに命令しやすいし、素人が視界に入らないから」
「まあ、そうね」
ほとんど即答だったエレクトラの言葉を聞き、自分が役立たずの自覚があるアキラは、それでも自尊心が傷ついた。とは言ってもアキラの目的は、この怪しげなバイトをやり遂げる事ではなく、ヒカルにくっついておくことだから、変な事を言い返す気も起きなかった。
その態度を誤解したのか、エレクトラが少しだけ身を乗り出してきた。
「自分の実力を知っている娘は好きよ」
「そ、そんなこと、ないです」
ぐっと乗り出すことで強調された胸元へ視線が奪われたアキラの脇を、ヒカルがギュウとつねった。
「あいて」
「大丈夫よ、取りはしないわ」
苦笑いのような物を浮かべてエレクトラは言った。それでも胸元を手で押さえたのは、性的な危機感を感じたからであろうか。
「それに、あたしは異性愛者だし」
「だから問題なんだよ」と呟いたヒカルの声は、幸い相手には届かなかったようだ。
その時、テーブルに置きっぱなしのスマートフォンが、可愛い鐘の音を立てた。
アキラとヒカルどころか、食堂にいた全員がソレに注目した。
「動いたわ」
画面を確認して、エレクトラはヒカルへ語りかけるように言った。
「社長の動きは普段の日常と同じ。代わりに秘書室長の成田が、出張先の群馬から移動を開始したわ」
「誰の報告だ?」
チーフがわざわざ席を立ってやってきて、遠慮なくエレクトラの横の席に座った。
「ターレット・オフィサーよ」
エレクトラの言葉に、彼女の座る椅子に両手をついたドン・ファンが、だいぶおどけた声を上げた。
「偽物を追跡してないだろうね」
「それは、彼を信じるしかないわ」
眉を顰めてエレクトラが言い切った。その手の中で再びスマートフォンが鳴った。
「あ、また…。調布の自家用機が準備を始めたみたい」
「その成田っていう男の武装は?」
チーフがスマートフォンへチラチラ視線をやりながら訊いた。
「国内線どころか自家用機よ。銃だろうが刀だろうが持ち込みし放題」エレクトラはお手上げとばかりに肩をすくめた。つまり予想がつかないということだろう。
「おいおい。刀は無いだろう」
ドン・ファンはさらにおどけて言った。
「そんな物騒な物を持ち歩くのか? 持っていてもナイフぐらいだろ」
「ちなみに、居合道の有段者らしいわよ」とのエレクトラの言葉に、首を竦めてこたえた。
「銃ならばもっと簡単に隠し持てるな」
チーフが腕組みをして、全員に注意するように言った。
「その時は、あたしが銃だけを撃ち落とす」
エレクトラが食堂の床を顎で差した。そこには米軍制式小銃が広げたマットの上に置かれていた。寝かされているのではない。ドンと両側に張り出した大容量ダブルドラムマガジンがぶち込んであり、それが支えとなって自立しているのだ。
本体上部に本来ならばあるはずのハンドレールは外してあり、その代わりにつけたピカティニーレールにオープンタイプのドットサイトが鎮座していた。
「どこに戦争へ行くんだい?」
あのトリガーハッピーなヒカルの口からとは思えない呆れた声が出た。
「仕方ないでしょ。エルサレムから帰ってきて、まだ他の銃を調達できていないんだから」
「いちおうウチらの銃もあるが?」と、ヒカルがアキラの足元に置いたガンケースを目で示した。
「目標は無力化だよな」
確認するようにドン・ファンが声を上げた。
「殺しちゃわないようにしないとね」
その魅力たっぷりのエレクトラのウインクに、一同が絶句した。
「相手がナイフとかなら、どうやって無力化する?」
チーフから出た当然の質問を待っていたかのように、ピーテンが黒い棍棒のような物を持ち出した。
「これで対処する」
「?」
不思議そうに手を出したチーフが、受け取った途端に納得した顔になった。
「スタンガンか」
柄に仕込まれた押しボタンを押し込むと、明るい室内でも見分けられるぐらい派手な電撃が、カーボンファイバー製らしい本体に纏わりついた。
「こいつで気絶させてストレッチャーに縛り付け、あとは病院へ運び込む。そうすりゃ月曜の朝まで、代わり番こに病室の見張りさ」
軽いお使いのような口調でピーテンは言った。
「二四時間監視って、意外と大変なんだがな」
その気楽な様子に不快感をチーフは示した。
「さてと…」
食堂に置かれた大きな振り子式時計で時間を確認したエレクトラは、声を改めて一同の顔を見まわした。
「そろそろ時間よ」
「なんか、動きは?」
ハンドルの上に乗せた足先をブラブラさせながら、ヒカルが苦痛に耐えるような声を出した。さすがに借り物とはいえ汚したくないらしく、靴は脱いであった。
「特になし」
その横で、ダッシュボードに乗せられたエレクトラの足先が、まるでこたえるように揺らされた。こちらもお揃いの様に、靴は脱いである。
朝食を終えた一二人は、二台のワンボックスに分乗し、二軒の病院を梯子するように移動した。
それぞれの病院には事前に話は通っていたらしく、変装用の白衣も含めて、患者移送用の救急車を、なんの障害も無く借りることができた。
ワンボックス二台に救急車二台が加わり、合計四台と増えた車列は、それから国道沿いのコンビニに立ち寄ると、一台の自家用車と合流した。
もちろん事前に手配しておいた物だ。
この自家用車が、エレクトラが全体指揮を執るための車であった。何の変哲も無いように見える黒いクラウンである。グレードは低くもなく高くもなく、ただ目立たないように選ばれた車のようだ。
チーム分けは事前に打ち合わせたとおりである。
五台の車は、程なくして名古屋空港のメインゲートに並んだ。そこで入場の手続きを済ますと、なんの障害も無く敷地内へと進入した。
救急車の方は、空港内にある消防隊の詰め所脇に並んで停めてある。アルファとブラボー二つのチームは車両の近くで待機しているはずだ。
貸し出した側の管理者という名義で、名古屋空港へ乗り入れたクラウンは、空港内で働く車たちが待機するスペースの端っこ、管制塔の近くに隠れるように停めてあった。
ワンボックス二台の方は、一旦は空港に入ったが、いまはどこか外で待機しているはずだ。
手筈がうまく行けば必要ないが、万が一の場合に備えての予備だ。
配置が完了してしまえば、後はターゲットが不時着して来るまでやることは無くなってしまった。
「暇だ」
後部座席で横になっているアキラも、苦痛を感じている声になっていた。
「待つのも仕事さ」
前二つのシートは、倒せる限界まで寝かしているので、首を捩じるだけで相手を見ることができた。
このクラウンを受け取ったコンビニで買っておいた食料も、すでに食べ尽くしていた。残りは飲み物が少々だけである。
アキラに教えを垂れたヒカルは、それでもやはり何もしないというのが辛かったのか、ポケットから柄付きキャンディを三本取り出した。
その束をエレクトラへ差し出したが、昨日までの経験からか、彼女は手を振って辞退した。
次にヒカルは、白い喉元を晒すようにのけぞり、ヘッドレスト越しにそれをアキラへ差し出した。
「サンキュ」
何もないのも寂しいので、アキラは一本貰うことにした。口に入れてそれがコーラ味だったことに安心する。
そんなアキラを見てヒカルが口へキャンディを放り込みながら言った。
「シリトリでもやるか?」
「小学生かよ」
アキラがうんざりしたような顔になった。その顔を、ヒカルは猫が嗤うように目を細めて見た。
「シリトリの『リ』」
「本当にやんのかよ! 『リンゴ』」
「『ゴーヤ』」
「え?」
三人目の声がして、二人は目を点にして振り返った。
助手席のエレクトラは、相変わらずつまらなそうにスマートフォンを弄っていた。その変わらない様子に、まさか彼女が言ったのかと、聞いた方の自信が無くなったあたりで、再び彼女は口を開いた。
「『ゴーヤ』だ。言ったぞー」
心ここにあらずといった声ではあったが、ちゃんとシリトリにはなっていた。
「ってか、普通は様式美で『ゴリラ』だろうが」
「それじゃつまらないだろ。だから『ゴーヤ』」
「『ヤ』かよ」
様式美とやらで「ラッパ」と言いたかったらしいヒカルが、点いていない室内灯を見上げた。
「『やか…』はだめだし。じゃあ『ヤ』」
「なんだよ、それ」
アキラの非難にヒカルは振り返った。
「弓矢の『ヤ』だよ。『ヤ』」
「じゃあ『ヤオヤ』」
「えー、また『ヤ』なの?」
画面から視線を外したエレクトラが、二人の顔を交互に見比べた。
「おまえが様式美を破るからだろ。ほら『ヤ』だぞ」
「じゃあ『ヤケイ』」
「お、ロマンチストだな。じゃあ、あたしは『イカケヤ』」
「なんだよ、それ」
アキラは眉を顰めた声を上げた。
「どこにある店だよ」
「店の屋号じゃねえよ。昔は鍋釜に穴が開くと、鋳掛屋っちゅう修理してくれるところに持って行って直してもらったもんさ」
「…」
車内が静かになった気がして、ヒカルが二人の顔へ視線を移した。
「なんだよ、その顔」
「いや…」
珍しくアキラとエレクトラが顔を見合わせた。
「さすが昭和生まれは違うな、と」
「え?」
エレクトラの言葉に、まるでエビが撥ねるようにアキラは身を起こした。
「しょうわ?」
「ええ?」
今度はエレクトラが驚いた顔をした。
「カナリヤ諸島の大騒動とか、パラオ墜落事件とか、色々な事件に絡んだって『ネモ船長』から聞いたわよ。違うの?」
「あのクソ中年…」ヒカルは、歯ぎしりが聞こえてくるような程に顔を歪めた。「余計な事を」
「どっちも冷戦時代の仕事ですってね」
エレクトラが、尊敬しながらも少し勝ち誇ったような、そんな複雑な表情でヒカルを見た。
「へー」
アキラは顔に落ちてきた一房の前髪を払いながら、渋い顔を崩さないヒカルを見た。もちろん「冷戦」などという前世紀の出来事は、アキラにとって教科書に書かれていた程度の知識でしかない。
その様子を見て、ヒカルが慌てて身を起こすと、エレクトラを厳しい顔で睨みつけた。
「余計な事言うな」
「あら」
こらえきれない程の微笑みを申し訳程度に手で隠したエレクトラは、目尻の下がった視線でヒカルを見た。
「カノジョにはナイショだった?」
「う」
チラリとアキラに目をやってから、ドスンとシートへ背中を戻した。
「おまえだって、色々と触れられたくない昔話はあんだろ。ベルリンの教会でのアレとかよ」
「う」
今度はエレクトラが渋い顔になった。
そのまましばらく二人は睨みあうと、それぞれがドアウインドから外へ視線を放り投げた。
「や、やめときましょ」
「そ、そうだな」
年上の二人が休戦したことを、なんとなく感じ取ったアキラは、小さめの声を出した。
「じゃあ、また『ヤ』だから、『ヤシキ』」
「『キ』かあ」
エレクトラの視線が再び車内へ戻って来た。
「『キプロス』でどう?」
「『スシヤ』」
「ずりーぞ」
脊髄反射でアキラがヒカルへ文句を言った。
「『ヤ』ばっかじゃねえか」
「偶然だろ」ふふんと鼻で笑ったヒカルが、アキラの悔しそうな顔を見て、口元のキャンディの柄を動かした。
「や、や、や」
アキラが壊れた録音装置の様に「や」を連発する。冷静に考えればいくらでも出てこようが、同じ言葉が続いて少しテンパってしまったようだ。
ふとクラスメイトの笑顔を思い出した。
「あ『ヤエバ』」
その単語を聞いた途端に、ヒカルの表情が変わった。
「『バ』か。濁点は取ってもいいのか?」
二人の間に流れた微妙な空気に気が付かないのか、また手にしたスマートフォンの画面を見ながらエレクトラが訊いた。
「?」
返事が無かったので顔を上げて、一番視界に入れやすいヒカルを見た。ヒカルはヒカルで、厳しい顔をして後部座席を睨みつけていた。
「???」
頭に生やしたクエスチョンマークを増やしたエレクトラは、体を捩じって後ろのアキラを見た。
まるで忠犬が飼い主に怒られたような顔をして縮こまっていた。
「どうしたんだい?」
「なんでもないよ」
エレクトラが訊ねても素っ気ない返事しか返ってこなかった。
「言いたくは無いけど。仕事に支障が…」
「わかってるよ」エレクトラを遮ってヒカルが口を開いた。「それよりも鳴ってるんじゃないか? 電話」
顎で彼女の手元を示した。たしかに音は出ていないが、スマートフォンのバイブレーション機能が作動していた。
「電話じゃないわよ」
どうやらメール等のデータが着信したようである。エレクトラは画面を操作して新しい情報を呼び出した。
「む」
顰められた眉が、良くないニュースだったことを示していた。
「なんかあったか」
聞きたくは無いが情報は重要である。
「予定が少し変わりそう」
「ほう」
「ターゲットが社長の家族に代わったみたい」
「家族?」
「ああ。社長の奥さんは都内でフラワーアレンジメントの発表会があるからノーマークだったんだけど…」
「その奥さんが九州まで行くのか?」
「いーや、ちがうようね」
エレクトラは画面に表示されたデータを読み直した。
「なんか政財界の奥さまたちの集まる会だから、抜けられないみたい」
「じゃあ、なんだ? 子供にでも頼むのか?」
「そのようね」
冗談を口にするような調子だったヒカルに、固いエレクトラの声が被さられた。
「社長には息子と娘が一人ずついるんだけど、例の秘書室長が、娘の方を学校から連れ出したみたい」
「学校って。何歳だよ、そのコ」
「一五で高校に通っている。息子の方はまだ中学生」
「高校生なら九州ぐらい行けるだろ。箱入りじゃない限り」
と言いつつヒカルがアキラの方を向いた。自分がバカにされた気がして、今度はアキラの方から睨み返した。
「もしかしたら囮か?」
エレクトラが再びスマートフォンを操作した。どうやら大きなデータを受け取っているらしく、時間がかかるようだ。
「そうかもな」お気楽な調子で頭の後ろで腕を組んだヒカルは言った。「普通の親なら、高校生の娘に、修羅場は経験させたくないだろ」
「引き続き秘書室長を追いかけるようだけど…。どうやら社長の娘と、その友人一同が飛行機に乗るみたい」
「その社長令嬢って、どんな美人だよ」
皮肉めいた口調でのヒカルの質問に、エレクトラはスマートフォンを返して画面を示した。
「これって…」
アキラが声を絞り出すように呻き声のような物を漏らした。ヒカルの方は口元のキャンディの柄をヒョコリと動かしただけだ。
「新たにマークされた人物。社長の娘である藤原由美子の画像よ」
小さな液晶画面には、どうやって盗撮したか分からないが、教室で机に向かっているクラスメイトのバストショットが映し出されていた。
福岡空港の駐機場を、一台の軽自動車が走っていた。
車体に書かれたロゴは、空港に出入りする航空会社と契約している石油会社の物であった。最近の飛行機は、だいたいケロシンを燃やすターボプロップエンジンか、ターボファンエンジンであるが、自家用機の中には、いまだにガソリンで動くレシプロエンジンを搭載している機体も多かった。
もちろん違う燃料では、動かないばかりか爆発などの事故を起こす可能性すらある。
給油の時に間違えないように、作業員だけではなくダブルチェックする点検員が、便利に動けるように配置された車。そんな感じの軽自動車であった。
ただ、狭い車内に閉じ込められたように乗り込んだ三人の男たちは、只者ではない雰囲気を纏っていた。
全員がレスラーかと間違える程の筋肉の塊で、後部座席に詰め込まれている男に至っては、頬に堅気の商売に就いている者とは思えないような傷跡が走っていた。
軽自動車は、自家用機が駐機されているスペースを、地面に描かれた車両用通路を守って横断し、外れにある空港使用料が年間契約で支払われた機体ばかり並べられているスペースまでやってきた。
夕暮れが近づいているためか、駐機場にはオレンジ色のナトリウム灯がすでに灯されていた。
すると進行方向に一機のビジネスジェットが見えてきた。ついでにその手前で、同じロゴが入ったタンクローリーが、不自然に停車しているのも分かった。
「?」
詰め所で渡された作業手順書では、いま着陸してきたばかりのビジネスジェットに、ケロシンを満タンに補給することになっていた。
双発で乗客数が一〇人ほど乗ることができそうな機体は、駐機場の一番端で翼を休めていた。こんな手前で停車していたら、給油ホースが届かないため、作業は進められないはずだ。
運転手は、タンクローリーの後ろに軽自動車を停めた。ウインドを下げて狭い車内から上半身を乗り出して、前方を確認した。
「どうした?」
助手席の男も同じようにして上半身を外気にさらした。
車を横に並べて確認するのが簡単な方法だが、それは空港内で禁止行為とされているためにできないのだ。
「さぼりか? しょうがねえなあ」
後部座席に詰め込まれていた傷跡がある男が、ドアを開いてコンクリートへ足をおろした。
本当は作業以外に車外へ出ることも禁止行為の一つであったが、そうは言っていられない。このビジネスジェットは夜に再び空港を後にする予定なのだ。早く作業を始めないと、時間が足りなくなって、依頼された補給量が確保できなくなる恐れがあった。それでは契約違反となってしまう。
左右だけでなく後ろを確認した男は、慎重にタンクローリーに近づいた。
すると若くて痩せた青年が、口をヘの字にして運転席に納まっていた。
「おい、どうした?」
ドアを、ハンマーのような拳でノックしながら男が訊ねると、プリプリと怒った様子で青年がタンクローリーのウインドを下ろして顔を出した。
「聞いてくださいよ」
見ただけで犬が尻尾巻いて逃げ出しそうな人相をした男が相手であったが、着ている作業服に騙されたのか、丁寧ながらも気安く話し始めた。
「あそこに部外者が居て、機に近づけないんですよ」
「部外者?」
言われてビジネスジェットに振り返ると、その車輪の横に白い人影があった。
よく見ると、それは白いセーラー服を着た少女に見えた。
「誰だありゃ?」
「知りませんよ。保安部呼びます?」
「そうだなあ…」
男は自分の顎を撫でた。実を言うと、彼はこの会社の人間ではない。この服は変装で着ているだけで、本業は別だ。
その本業からすると、ビジネスジェットへの給油が滞るのは、歓迎すべき出来事の内であった。
彼の仕事は、タンクローリーの作業員へ書類改竄を命じ、そして目標のビジネスジェットへ二、三の細工をすることだったからだ。
「どこかのお嬢さんかもしれないぞ」
ここら辺に駐機している機体のほとんどが、地べたを這いまわる車の代わりに、気安く飛行機が使える、そんな身分の者たちが所有している物ばかりである。そんなオーナーたちの機嫌を損ねたら、一介のブルーカラーなぞは簡単に首が飛んでしまうだろう。
「そうなんっすよねえ」
青年が面白くなさそうな顔を、さらに歪めた。
「燃料自体はどうなんだ?」
男の質問に青年はクリップボードを取り出した。
「一応往復分を積んで飛んできたみたいですから、帰るぐらいはできるんじゃないですかねえ」
民間機は行程の二倍以上の燃料を積んでおくのが常識である。このビジネスジェットも基本には忠実だったようだ。
「じゃあ、給油はいいんじゃないか?」
男は青年に愛想笑いのような物を浮かべた。別に原因があって給油が妨げられたのなら、男にとって歓迎すべき事態だ。
「オレたちがパイロットへ報告しておくよ」
「そちらは?」
不思議そうに青年が訊いた。
「こっちは、燃料系統のチェックに駆り出されたんだ。なんか燃料キャップを点検してくれってさ」
それはまったくの嘘ではなかった。ただ男たちが交換しようとしている燃料キャップの方が、上空で抜け落ちるように細工がしてあるだけである。あとは燃料計に間違った数字が出るように、ちょいとアビオニクスにハッキングするだけである。
「それって、ウチの仕事なんすかねえ」
「まあ、どうだろうな」
ニヤリと嗤って青年のボヤキにこたえ、男は乗って来た軽自動車へ振り返った。
「切り返すのに邪魔なら、こちらの車を下げるが?」
「えー」と青年は一回だけ、タンクローリー後部に設けられた後方監視カメラの映像が映るモニターへ目を走らせ、それから広い駐機場を見渡すように首を巡らせた。
「あっちから回って帰れますから、大丈夫ですよ」
キーを回してエンジンを始動させながら青年は軽くこたえ、男が離れると同時にゆっくりとタンクローリーを動かし始めた。
「じゃあ、説明の方。よろしくお願いします」
「おう。まかせておけ」
巨木の根元の様に、筋繊維が縒り合されて形作られた太い腕を振って、男はタンクローリーを見送った。そこへ男が乗って来た軽自動車が、スライドドアを開けっ放しで滑り込んできた。
「なんだってんです?」
運転手の問いに、男は再び白いセーラー服の少女の方を向きながら簡単に言った。
「なんか近づけねえってさ。ウチの他の人間か、それか同業他社かもしれんな」
開けっ放しのスライドドアから安物のベンチシートに腰を下ろし、男は顎をしゃくりながら言った。
「どちらにせよ、話しをしてみないことにゃ、わからんな」
そのまま軽自動車は、構内速度を守って、仁王立ちしている少女へと近づいた。
「にしゃらは、誰や!」
呂律の回らない声で、白いセーラー服を着た少女は、男たちに誰何した。
「?」
街中ならいざ知らず、こんな空港の構内で出会うには珍しい人種である。
体格は良いとは言えない。成人女性より小さく、まるで中学生の様にも見えた。髪の毛は短くしており、それが地毛なのか、とても強い癖でピンピンとあちこち跳ね上がっていた。
その左手には木刀が握られていた。
そして、その顔色は、まるで茹でたタコの様に真っ赤であった。
血走った目は、敵意というか害意しか感じられず、横綱の蹲踞というぐらいに座っていた。
「酔ってるのか?」
運転手がまさかと思ったことを口にした。
そう、その少女は酒に酔った挙句に、よりによって空港へ紛れ込んだ学生にしか見えなかったのだ。
身に纏っている白いセーラー服も、近所の学校の物だろう。
「誰も、こん飛行機に近づけなかれらな」
ところどころ声がひっくり返った叫びを上げた少女を見て、車内の三人は顔を見合わせた。
なにも言葉を発していなかったが、それぞれの顔には、こうはっきりと書いてあった。
(どうする?)
なにせ修羅場には慣れた男たちである。あのぐらいの女の子を排除するなど、朝飯前であった。確かに手にした木刀は脅威かもしれないが、真剣を持った相手とすら渡り合って来た男たちである。
一対一でも負ける気がしなかった。
(お前が行けよ)とか(めんどくさいっすよ)とか、ひとしきり目で会話した後に、ボリボリと頭を掻きながら、全員が降りることにしたようだ。
後部ドアから降りた頬に傷跡のある男は、チラリとナトリウム灯に設置されているはずの監視カメラの方を見やった。
ここならばギリギリで監視区域ではないはずである。
「は? なんぞ? うちっとやろうっちゅうと?」
少女は、見上げるような男たちが近づいてくるというシチュエーションに対し、酔っ払いらしい行動でこたえた。つまり裏返った声でギャンギャン喚き始めたのだ。
それに対する男たちは、まるで彼女が強気の子犬であるかのように、ちょっと引けた腰で近づいていった。
「おじょうちゃん…」と、赤ん坊が見たらヒキツケを起こすような愛想笑いを浮かべると、なだめるために手を振りながらさらに近づいた。「オジサンたちの仕事の邪魔だから、どいてくれない?」
「だれぞ、のくもんと!」
少女が叫ぶなり、ドスリという重い音がした。
「?」
出遅れた二人が音の正体を訝しんでいると、少女に一番近づいていた助手席の男が、コンクリートへゆっくりと倒れて行った。
壁のように視界を遮っていた男の体が倒れると、そこに木刀を振り切った形で残心している少女の姿があった。
少女の足元に倒れた男はピクリとも動かなかった。
「なんだあ?」
男たちの動体視力では捉えきれなかったが、少女が左手に提げていた木刀で撲ちかかったのに間違いないようだ。
シュッとまるで真剣についた血糊を払うような仕草で木刀を一払いした少女は、ニヤリと嗤った。
「今宵ん村雨蘭丸ば、血に飢えよー」
ちなみにまだ日没までちょっとだけある時間である。
「ちっ。どこぞの営業妨害かよ」
傷跡のある男が面倒臭そうに呻いた。もちろん着ている作業服の会社に対する妨害でなく、男たちの本業に対する妨害である。
「おい」
「はい」
声をかけられた男は軽自動車に戻るとダッシュボードを開いた。そこから短めの黒い棍棒を取り出した。それはただの黒い棒ではない。柄に仕込まれたスイッチを入れることで、相手の体に何万ボルトの電気ショックを与えて気絶させるスタンガンとなるのだ。
が、傷跡のある男は、運転手を罵倒するように口を開いた。
「バカか。リーチの差で負けるだろうが」
武器を使った格闘の場合、手にした武器が長ければ長い物ほど、相手よりも有利になる。脇差よりは刀、刀より槍が有利である。侍たちが戦った戦場での最強は長巻であった。
「へ、へえ」
運転手はすぐに車内へ上半身を戻し、ダッシュボードに突っ込まれていた車検証の下から、さらに別の物を取り出した。それは一見銃に見える物体であった。しかし銃口から飛び出すのは銃弾ではない。引き金を絞って発射されるのは、複数の電極である。
銃の形状をしたスタンガン、日本ではテイザー銃と呼ばれる種類の武器だ。もちろん電極が命中した相手には、棍棒状のスタンガンと同じだけの電撃が流れる仕組みとなっている。
これで撃たれた者は、その強力な電撃で抵抗する力を失ってしまう。もちろん木刀で払われる可能性もあるが、発射される電極は一つではないし、電極と銃本体を繋ぐ電線からも電撃は与えることもできる武器だ。
テイザー銃は人数分隠されていたが、一人はすでにコンクリートの上に転がっていた。
運転手が傷跡のある男へテイザー銃を一挺渡し、自らも構えた。それを見た少女は、初めて両手で木刀を握って、そろそろと構えを取った。いわゆる八双の構えという形であった。
「飛び道具っち卑怯者や」
さすがに酔ってはいても自分の不利が悟れるのか、少女が怒鳴り声を上げた。
「素直に退いてくれれば、こんな物は使わないんだけどね」
一応の降伏勧告の代わりに、傷跡のある男が少々嘲笑の混じった声をかけると、少女は右足だけで地団駄を踏んで見せた。
「ここで退いたら恥ずかしか。博多娘ん名折れじゃ」
「だったら喰らえ」
少女への返答と同時にバンという乾いた音が立った。
「ぐっ」
「?」
だが少女は倒れずに、引き金を絞ったはずの傷跡のある男が、銃を構えていた右手を押さえてうずくまってしまった。
運転手と、二人と対峙する少女が、訳が分からず呆けた顔になった。その隙間のような瞬間に、うずくまっていた傷跡のある男が軽自動車に飛びついた。
「?」
「なにしてんだ」
まだ呆けている運転手に、傷跡のある男が怒鳴り声を上げた。
「どこかから狙われているぞ!」
傷跡のある男がそう言った瞬間に、運転手の手の中で衝撃が発生した。
その痛みよりも驚きでテイザー銃を取り落してしまった。コンクリートに落ちる武器には構わず、運転手も訓練された者の動きで、傷跡のある男へ抱き着くような勢いで軽自動車のバンパーあたりへ飛び込んだ。
「フランジブル弾だ」
自分がまだ握っていたテイザー銃を、運転手に見せながら傷跡のある男は言った。
「フランジブル弾?」
テイザー銃の黒い本体に、まるでチョークをぶつけたような模様ができていた。金属の粉を超高圧で圧縮して固めてつくるフランジブル弾は、まったく貫通力のない弾丸である。固い物に命中すると、その瞬間に粉々に砕けてしまう。だが弾丸が消えても、飛んできた運動エネルギーは消えたりしないので、非致死性兵器として使用されることがあった。
運転手がテイザー銃を取り落したのは、手の甲に殴られたような衝撃があったからなのだが、それも貫通力の全くないフランジブル弾ならではの仕業であった。
「どこからです?」
とりあえず追撃が無いようなので、体は狙撃手から隠せているのだろう。運転手に訊かれて、傷跡のある男はそうっとフロントウインドから車内を覗くような感じで、弾丸が飛んできたと思われるおおよその方向を確認した。
パッと確認したら、すぐに首を引っ込めた。
「国際ターミナルの屋上だ」
福岡空港は、滑走路を挟んで国際線用ターミナルと、国内線用ターミナルが向き合う形になっていた。その最上階には屋内展望デッキが設けてあるはずだ。狙撃はそのさらに上から行われたようだ。
「あそこから、どれだけあると思っているんですか」
まさかの場所に、運転手が目を剥いて驚いてみせた。それが本当なら、空港を斜めに横断するように狙撃したことになるはずだ。
「二〇〇〇メートルぐらいあるな。不可能じゃない」
「狙撃の世界記録って、どのくらいでしたっけ」
「公式には三四五〇メートルだったな」
「は?」
狙撃手を伺うような体勢だった運転手は、傷跡のある男を振り返った。
「フィートとかじゃなくて?」
「メートル法で、だ。たしか発砲から着弾まで一〇秒以上かかったはずだ。非公式なら四キロ超えなんて記録もあるぞ」
「げ」
運転手は顎と肩を同時に落とした。
「どちらにしろ、この距離でオレたちの獲物だけを狙う腕前だ。今の装備じゃ太刀打ちできねえ」
悔しそうに傷跡のある男は呻くと、目だけで運転手を振り返った。
「おい。おまえはあいつ引き摺ってこい」
まだコンクリートで伸びている助手席の男を顎で示した。
「オレは射線に入らないように運転席に入る」
「あれをですか?」
筋肉の塊のような体のくせに、運転手は情けない声を上げた。コンクリートの上で伸びている男の横には、仁王立ちになった木刀を持つ少女がいるのだ。
「じゃあ、おまえは鉛玉の方がいいんだな?」
「いえ、行かせて頂きます」
口調を改める運転手を嘲るように見やった傷跡のある男は、再びフロントウインド越しに、国際線ターミナルを確認した。
キラリと管制塔の根元で光るものがあった。
「いた…」
「ふむ」
屋上の床に大型の黒い武器が備えられていた。その横で、双眼鏡を覗いている車椅子の女が、面白くなさそうな声を漏らした。
大人の女性である。暖かそうな白いセーターに包まれた胸部は、それなりに自己主張していた。黒いロングスカートに包まれた足は、右だけどこにもなかった。
後ろで大きめのバレットにて留めた長い髪が、空港を吹き抜ける風に舞っていた。
彼女は鋭い眼光で、肉眼では人間が米粒の様に見える距離を隔てた世界を眺めていた。と言っても、彼女に双眼鏡が必要かは不明であった。なにせ顔の半分は、真新しい包帯が巻かれており、そちら側の眼球は隠されていたからだ。他にも、双眼鏡を持つ手が包帯でグルグル巻きにされていた。
彼女から少し離れた位置では、灰色のつなぎ服を着た少女が、屋上へ寝そべるようにしていた。
引き締まった体がそうした姿でいると、ネコ科の肉食獣のようでもあった。
もっとも彼女は自身の体には不釣り合いなモノを構えているのだから、その印象は当てが外れているとは言えなかった。
巨大な対物ライフルが、滑走路の向こうの世界を睨みつけていた。
少女は、それを銃に備えられた二脚だけでなく、小さなディパックを支えの補助にして構えているのだ。
まるで綿菓子のようなフワフワの髪をした少女は、銃に取り付けられたスコープで、拡大され、かつ視野の狭い風景を眺めていた。
使用している光学機器によって、二人には、軽自動車の影からチラチラとこちらの様子を窺っている男たちの様子がよく見えた。
少女はまるで含み笑いをしているような印象であった。彼女が覗いている円い風景の中には、緑色をした数字やら棒グラフが投影されていた。その値は一刻も休むことなく値を変動させていた。専門的な知識が無ければ、目に煩い模様でしかないその数値も、ちゃんと少女には意味があるものとして読み取ることができているようだ。
男の一人が、腰が抜けたような格好で、地面に倒れている三人目へ近づこうとしていた。
男の手が、力なく伸びている男の片足へ届こうかという時に、大きく息を吐いてから肺へ酸素を溜め込んで指示を待った。
「武器を」
離れてはいても確実に聞こえる車椅子の女の指示で、少女が引き金を絞った。
短く、そして鋭く布団を叩くような音が響いた。
木刀を提げた少女のそばから、倒れている男の足首を引っ張って下がるもう一人の男。そんな風景の中で、二人の男の横に落ちていた黒い物体が、クルクルと回って誰からも離れた方向へと飛んだ。
結果を確かめる前に作動桿を引いて、次弾を装填した。
回収役の男が驚いたのか、首を竦める様子が滑稽であった。
しかしその間に、軽自動車に貼りついていた三人目の男が、運転席側のドアから車内へと潜り込んでしまった。
「弾種変更」
事態が変わったことに慌てず、車椅子の女が冷静に告げた。銃を構えていた少女も、指示が出るのが分かっていたのか、言葉の途中で銃下部の箱型弾倉を引き抜き、別の物に交換。作動桿を引いて装填していた一発を抜きつつ、新しい弾丸を薬室へ押し込んだ。
男が乗り込んだ軽自動車は、タイヤを空転させる勢いでバックし、それからこちらに横を向けるように停車しなおした。
これでは倒れた一人を回収する作業を、こちらから狙うどころか、見ることもできない。
「パンクさせる?」
冷静かつ芯の無いフワフワな声で少女は訊ねた。
「いいえ、帰ってもらおう。それで充分」
女のこたえに、銃床を当てていない方の肩を小さくすくめてみせた。
二人の限られた視界の中で、男が後部スライドドアから回収されているのが見られた。
「最後に、排気管を」
「難しい注文ね」
それがパンケーキを上手に引っ繰り返してと頼まれた程度の様子で少女はこたえた。
「地面に跳弾させて放り込むしかないけど?」
「こちらの攻撃意思が伝わればいい」
「了解」
少女は狙撃眼鏡から、文字通り目を離さずに頷くと、その限られた視界から軽自動車が外れそうになるほど横へ銃口を振った。
再び大きく息を吐いてから酸素を肺へ溜め込んだ。
引き金が絞られ、また布団を叩くような音が響いた。
双眼鏡から見える風景の端っこの方、何もないコンクリートの表面で火花が散った。
それから一秒後に、軽自動車から盛大な煙が上がった。
排気管に穴を開けられて、車体の真下から薄い青色の煙が漏れ出したのだ。
視界の中の男たちが再び首を竦めると、大急ぎで軽自動車を発車させていた。
「戻って来るか?」
「戻って来るかも」
ほぼ同時に口を開き、それがおかしかったのか、無表情だった二人が、ホッとした息を漏らした。
少女は作動桿を引き次弾を…。その途端に金床へ金鎚を叩きつけたような音が響いた。
コロリと少女が左側へ転がった。
「ミチ?」
屋上へ大の字になり、赤くなり始めた空を見上げる格好で、少女はピクリとも動かなかった。目は大きく見開かれ、腹の上には重い対物ライフルが倒れ掛かっていた。
「ミチ!」
車椅子を操作して、女が少女へ近づこうとした。
「だめ」
動かなくなったと思った少女が、とても冷静な声を出した。
「今度は、こちらが狙われている」
「向こうも狙撃手を配置していたか」
双眼鏡を目に当てながら、今まで見ていた方角とは九〇度違う方向へ視線をやった。
「大丈夫か?」
「撃たれた。痛い」
それが何でもないように少女は答えた。
「見て」
乞われて大の字になっている少女を見ると、彼女の腹の上に倒れ掛かった対物ライフルに変化があった。
排莢口に、金色の長い物体が刺さっていた。その物体のせいで、遊底は完全に前進することができずに、途中で止まっていた。
どうやら弾丸は最初から少女ではなく、銃本体へ命中したようだ。
弾丸が直接当たっていなくても、あれだけ銃に密着していたのだ、充分に彼女へもダメージはあったようだ。
弾丸は確かに、発条で前進しようとしていた遊底へ、排莢口から食い込んで止まっていたが、その着弾の衝撃は銃床を伝わって少女の横面を叩いていた。
見れば少女の右頬が、ビンタをくらったように赤くなっていた。
少女はそれでも無表情に、寝たままで腕を伸ばして対物ライフルへ手をかけた。
作動桿を引いて、遊底の前進を阻害していた、その金色の物体を抜き取った。
それは普通の銃弾よりも長く、そして弾尾が絞り込まれたボートテール型をした銃弾であった。
「どこから?」
「さあ」
寝転がったまま肩を竦めた少女は、クルリと銃を抱え込むように回転すると、屋上を這って女の横まで来た。
「使えそうもない」と銃弾が食い込んでいたあたりを指差した。命中の衝撃で排莢口が押し込まれるように変形しており、遊底の閉鎖ができなくなっていた。
「まあ義理は果たしたというところで、サトミには納得してもらうしかないな」
「負け?」
少女の短い質問に、女は微笑みを返した。
「引き分けだな。こちらは向こうの妨害工作に対して、嫌がらせ程度のことはできた。これで、向こうは、他にどんな敵がいるか分からないという悩みを抱えることになった。それはサトミにとって有利な状況だ」
「この後。あの飛行機はどうなるの?」
「さあて、どうだろ」
ちょいと左拳を唇に当てて考えた女は、自分なりのこたえを口にした。
「向こうにも優秀なスナイパーがいるみたいだから、我々が使用したような弾丸で、燃料系へ穴を開けることは可能なんじゃないかな。結局、向こうの計画通りに、あの飛行機は不時着する事になると思う」
「じゃあ、やっぱり負けだ」
「いやいや」
励ますように女は言った。
「どんな状況になるか予測はできるから、それを依頼主に知らせておけばいい。そうすれば向こうが最善策で動くことになるだろう」
そこまで語って、女は屋上に這いつくばったままの少女が、ジト目で見ているのに気が付いた。
「教えない気だ」
「何の事かな? さてケイたち後片付けチームを呼んで、我々は退散することにしよう」
「ノブヨも忘れずに」
「あ」
少しだけ急いで女は双眼鏡を顔に当てた。
木刀を提げた少女は、まだそこで仁王立ちになっていた。
「あれ、どうやって回収しようか」
あたりはすっかり暗闇に覆われていた。
すべてが暗い風景に沈んだ草むら。そこにアキラたち三人が乗った黒いクラウンが、息をひそめるように停まっていた。
本当は決められた駐車スペースに停めていないと違反なのだが、日暮れと共に場所を移動したのだ。
ここは滑走路を包む安全地帯内を走る車両用道路である。周囲にはまったく光源が無いため、車体の色と相まって、闇に紛れることは容易だ。
何かあったら、滑走路でも、それに並行して伸びる誘導路にでも飛び出すことが可能な位置だ。
空港をせわしなくエアバスやボーイングの中型機が離発着している。暗闇の中をタキシングして移動している様子は、なにか記念日のイルミネーションのようだ。
もちろん、それらは衝突防止用の印であり、見る者が見れば意味がある物だった。こんな近くで眺められるなんて、その筋のマニアならば垂涎の撮影ポイントなのだろうが、今熱心にそれらを見ているのはアキラだけである。
アキラがいくら元男の子だったからと言って、色とりどりの明かりそれぞれが意味することは、ほとんど分からなかった。ただぶつからないようにピカピカ光らせているのだろう程度の知識しかなかった。
そんなアキラでも、機体の前方へ投射されるまとまった光の束の使用法ぐらいは分かる。車のヘッドライトと同じで、暗闇で前方を確認するための明かりだ。
その光が、暗闇に潜むクラウンをサッと撫でていくが、車内では他にこれといって変化はなかった。
ヒカルは腕組みをして、口をヘの字にして目を閉じていた。もしかしたら眠っているのかもしれない。助手席のエレクトラも、横向きで体を丸めていた。まるで中学生が布団の中で隠れてスマートフォンをチェックしているような体勢だ。
沈黙が降りた車内に、ターボジェットの轟音が突き抜けて行った。
また一機、旅客機が離陸を開始したようだ。
その時、エレクトラの操作するスマートフォンが可愛い鐘の音を立てた。
「動いたか?」
運転席で目を閉じたままヒカルが訊ねた。
「ええ。社長は相変わらず東京。秘書室長は移動して、今は羽田。オジサンの所を訪ねた社長令嬢とご友人一行は、二手に分かれたそうよ」
「二手?」
「いまシグナル・オフィサーから入った情報よ。さくら五七四号から岡山でサンライズエキスプレスへ乗り継ぐ切符が予約されたみたい。飛行機は福岡空港にあるし、片方は電車ね」
「ふーん」
気のない声を上げたヒカルは、ひょいと肩眉を上げて見せた。
「で? どっちが本命だ?」
「タクシー会社の『協力』によると、社長令嬢が黒い書類入れを持って空港へ向かったみたい」
「じゃあ、こっちか。人数は?」
ヒカルがした当然の質問に、エレクトラがチョキを出した。
「?」
声による返事が無いので、面倒臭そうにヒカルは左目だけ開いた。
「二人?」
「ええ。社長令嬢と、その彼氏」
「カレシ…」
アキラとヒカルの脳裏に、教室で由美子にヘッドロックされている孝之が浮かび上がった。想像の中でも髪の毛は寝ぐせだらけで、活動的という評価とは真反対の印象しかなかった。
いくら孝之が男の子だからって言っても、どこから見ても荒事には強そうな印象は無かった。逆に思い起こされるのは午前中に分かれたアルファとブラボーの二つのチームの面々である。
特にブラボーチームの三人は、筋肉ムキムキな連中が揃っていた。
頭のいい奴なら、余分な怪我を負うことを避けるために、見ただけで降参するだろう。
「これなら、あたしにゃ出番はないな」
お気楽そうにヒカルは頭の後ろで手を組んだ。
「そう言うなよ」
孝之の名誉のために、アキラは口を尖らせて反論した。
「もしかしたら、ああ見えて、空手の師範代かもしれないぜ」
「なに?」
片耳に嵌めた骨伝導通話機で、他の「船員たち」へ指示を出していたエレクトラが、二人の会話を聞きつけて眉を顰めた声を出した。
「二人とも、ターゲットを知ってるの?」
その質問に、二人は曖昧な微笑みで顔を見合わせた。それが我慢できなかったようで、エレクトラは、今度は怒気を含んだ声を上げた。
「社長令嬢の顔を見てからおかしいし。仕事に支障が出るから、隠し事はなるべく減らしてもらえないかしら」
「顔見知りなだけさ」
アキラの表情に何かが浮かぶ前に、ヒカルが気楽な調子で言った。
「ただの顔見知り。これがヒットする依頼なら、こっちにも考えることがあるが…。まあ、スタンガン使って病院へ運ぶだけだろ。じゃあ邪魔するほどの動機はねえよ」
「本当に?」
まだ探るように訊いてくるエレクトラに、まるで耳の周りに蚊が飛んでいるような仕草をしたヒカルは、事も無げに言った。
「仕事は仕事さ。ただ男の子にスタンガン使うと、大事な時に役立たずになっちまうから、そんで恨まれるのが嫌な程度か?」
「よっぽどのことが無い限り、そんなことは無いわよ」
「よっぽどのこと?」
後学のためにと興味が湧いたのか、ヒカルは再び閉じていた左目を開いて訊ねた。
「…直接押し付けるとか」
少しの間だけ言い惑ったエレクトラが教えてくれた。それを聞いて、また喉が晒される程のけぞって後部座席を向いたヒカルが、いたずらっ子の様に微笑んで言った。
「だとよ。よく覚えてけよ」
「なんでオレが」
「肝心な時に役立たずだと、女に嫌われるぜ」
「だから、なんでオレが!」
いまは図らずに「女の子のようなもの」になってしまった身である。しかし睨み返したアキラに、ヒカルは何でもない事の様に言った。
「いつか男になるかもしれねえじゃねえか」
いちおう第三者であるエレクトラが同席していることは気にしているようだ。
「で? 到着は一時間後くらいか?」
ふざけた声色を変えて、ヒカルはエレクトラに訊いた。
「定期便だと一時間一〇分ぐらいね。でも夕方の空路は混むから、出発が遅くなるんじゃないかしら」
飛行機に搭乗したからと言って、電車と違ってすぐに目的地へ出発できるわけでは無い。大抵の空港では滑走路の順番待ちとなる。あまりに混みすぎていると、離陸待ちの飛行機で誘導路に列ができるぐらいだ。着陸待ちの飛行機は待機エリアで虚しくグルグル回っていなければならなくなる。それで過去には燃料切れを起こして墜落した事件すらあった。もちろん現在では対策が取られており、そういった事件事故は起きないようになっているはずだ。
「でも、準備は怠らないようにしないとね」
エレクトラは、弄っていたスマートフォンを、ドアに設けられたポケットに放り込むと、アキラを振り返った。
「荷物、取ってもらえるかしら」
「これか?」
荷物と言っても、車内にはワンボックスと別れる時に積んだ緑色をした円筒形のバッグと、物騒な物、それとコンビニ袋へ詰め込んだゴミしかない。それぞれの個人的な荷物はトランクに放り込んであった。
アキラが戸惑っていると、エレクトラがまずバッグを指差した。
「まず、そっちから無線出して」
「こっち?」
バッグに入れられていた、まるで電話の受話器だけを数倍に大きくしたようなメカを取り出し、彼女へと渡した。
エレクトラは上部に取り付けられたスイッチやダイヤル、それにボタンなどを操作して電源を入れると、英語放送のような電波を受信した。
「?」
訳が分からないアキラへ、電源を入れたまま返してきた。
「適当に流しておいて」
「お、おう」
電源を入れたまま、物騒な物を並べた床の端へおろした。
「この空域の、航空無線だよ」
シートから身を起こして、背中から銀色の銃を抜いたヒカルが教えてくれた。銀色の銃を後ろから覗いて、ちゃんと弾丸が装填されていることを確認すると、ホルスターへ戻した。次は腹へ回したウエストポーチ風のホルスターから抜いた黒色の銃だ。弾倉を一回抜き、その側面にある抜き穴から装弾を確認すると、再び銃へ装填し、遊底を引いて薬室へ初弾を送り込んだ。
助手席のエレクトラも、バッグから四角い黒い自動拳銃を取り出した。ヒカルと同じ手順を踏んで初弾を送り込んだ銃を、ダッシュボードへと収めて、バッグをアキラへ押し付けるように返した。
「次はソッチ」
アキラの足元にある物騒な物を指差した。
朝に見せられた米軍制式小銃である。どっかりとしたドラムマガジンは狭い車内では邪魔になるが、スタンド代わりとして差しっぱなしになっていた。
丸ごと持ち上げようとするアキラを手で制してきた。
「ちゃんと小さいマガジン用意してあるわよ」
見ればいつ取り出したのか、エレクトラの手には菱形をした小さい弾倉があった。おそらく無線と一緒にバッグから取り出したのだろう。
本物を扱ったことが無いアキラであったが、この銃は世界的にも有名な物なので、エアーソフトガンなどの遊戯銃として模型化もされている。アキラはそちらを使ったことがあったため、本体からドラムマガジンを抜くことはできた。
伸縮型の銃床を最短にし、エレクトラへお尻から手渡した。
ドンと弾倉を差し込んでから側面にある小さなレバーを押し込んだ。バシャリという大きな音がして遊底が前進し、初弾が薬室へ送り込まれた。
安全装置を指で撫でるだけでなく、目でも確認してからアキラへ返却された。
「下に寝かしておいて」
「うぃす」
「そっちもだ」
受け取って床へ下ろそうと屈んだところで、今度はヒカルから声がかけられた。アキラは黙ってガンケースに入れてきた短機関銃を拾い上げると、ヒカルへ手渡した。
「またぁ」
エレクトラがヒカルの手にした短機関銃を見て目を細めた。
「クリス・ベクターなんて、新し物好きなんだから」
「いや、特売で安く手に入っただけだ」などと近所のスーパーでお刺身を買い込んだ主婦のようなセリフを返していた。アキラは相場を知らないが、あの老人は「安くしておく」と言っていたのだから、間違いでは無いのだろう。
「それ、本当にグロックのマガジン使えるの?」
エレクトラはわざわざダッシュボードに仕舞った自分の銃を取り出し、マガジンを抜くとヒカルに差し出した。
エレクトラが持っている合成樹脂を多用した自動拳銃と、ヒカルが手にしている短機関銃は、弾倉が共用できることが喧伝されていた。
「残念ながら」
ヒカルは目の前でプラプラ揺らされる弾倉を悔しそうに見つめた。
「こいつは九ミリじゃねえんだ」
「は?」
一瞬訳が分からなかったのか、目を丸くして見せるエレクトラ。それから気を取り直したのか、弾倉を銃に戻しながら訊いてきた。
「そういえば四五ACPが標準だったわね、ソレ」
「それが…」とても言いにくそうにヒカルは告げた。「一〇ミリAUTOなんだ、コレ」
「はぁ?」
先ほどに増してエレクトラは目を丸くして見せた。
「どういうことよ」
「どういうったって」
説明に困ったように、ヒカルはアキラを見た。
「普通、趣味で弄るような連中じゃない限り、そんな変な弾は選ばないでしょ。特にあたしたちみたいな仕事をしてると、弾が手に入りやすい方が、頭のいいやり方でしょ」
「そうなんだが…」
苦笑のような物を浮かべたヒカルは、相変わらず片目を閉じたまま、ポケットへ手を突っ込んだ。
「もともと、あたしはリボルバー派なんで、そんなに弾数はいらねえんだ。そしたら巡りあわせで銃の方がこっちにやってきたっていう寸法さ」
「ふーん」
エレクトラが全然信じていない様子で鼻を鳴らした。
「一本いるか?」
ご機嫌取りに差し出されたキャンディを、今度は受け取った。
「いちおう使ってみての感想だが。そう悪い弾じゃあなかったぜ」
「手に入れにくいこと以外わね」
「日本じゃ、どんな弾でも同じだろうけど」
ちょっとだけヒカルが反論した。それに言い返しもせずに、包装を解いたキャンディを口の中へ放り込むエレクトラ。二、三回舌で転がした後に、口から出して確認した。
「なによこの味」
「え? たぶんラムネ味じゃないか?」
包装紙をチラ見で確認したヒカルが告げると、しみじみとした態でエレクトラは口の中へキャンディを戻した。
「まともな味もあるのね。おいしいじゃない、コレ」
「気に入ってくれて嬉しいぜ」
ヒカルはアキラへもキャンディを差し出した。遠慮なく貰っておくことにし、口の中へ放り込んだ。
「ヴッ」
とんでもない声が漏れた。その様子に、前席の二人が振り返った。
「どうした?」
顔色を赤くしたり青くしたりしているアキラを見て、ヒカルが心配そうに訊ねた。
「トイレなら、我慢しないで言ってよ」
こちらはエレクトラだ。
「なんだよ、これ」
口から吐き出すように取り出したそいつは、遠くの明かりに透かして見たところ、ド真っ赤で体に悪そうな色をしていた。
「あ、そいつはアタリだ」
アキラが変になった原因に心当たりがあったのか、ヒカルは前を向いて自分の分の包装を解き始めた。
「何味よ?」というエレクトラが発した当然の質問に、平然とヒカルが「地域限定の、デスソース味」
「なんだよこれえ」
真っ赤になった舌を出しっぱなしにして、アキラは悲鳴のような声を上げた。
「あまいのに、からい! からいというより、いたい!」
「そらあデスソース味だからなあ」
なにを当たり前のことを言っているんだという態度のヒカル。キッと一瞬だけ厳しい目を作ると、アキラへ死刑宣告のようなことを言った。
「あたしから貰ったモンを、途中で捨てたら、怒るからな」
アキラはその視線を受けて、泣きそうな顔になりながら、そのド真っ赤な球体を、再び口へ放り込んだ。
「ちょっと待って…」エレクトラが真剣な顔で訊いた。「今まであなた、口に入れる時に、特に味を選んでいなかったわよね」
「それが? なにが当たるか分からなくて、楽しいじゃねえか」
「自分にも、これが当たる可能性が、いつでもあったっていう事よね?」
「だから、それがどうした?」
「待ち伏せしていたり、潜伏している時に、コレに当たったらどうするつもりだったのよ?」
「別に?」
不思議そうにヒカルは言い返した。
「辛いなあって思うだけだが?」
「はぁ? あなた、バカなの?」
「失礼な事を言うな。バカでマヌケは、あいつだけで充分だ」
迷わず後席で悶絶しているアキラを指差した。
「だって、デスソース味なんでしょ?」
「それが?」
とても理不尽な事を言われたとばかりに、ヒカルは眉を顰めた。
「普通は、ああなるんじゃない?」
狭い後席でアキラは放心したように動かなくなっていた。どうやら悶絶する元気すら奪われてしまったようだ。顔色だけが信号機の様に、黄色を挟んで赤色と青色を行ったり来たりしていた。
「大げさなんだよ」
ヒカルはアキラの唇からはみ出していたキャンディの柄を引き抜くと、自分が咥えていたキャンディと引き換えるようにして、口の中へ放り込んだ。
「ほらな」
今までアキラが見せた悶絶が演技だったと言わんばかりに、平然と舌の上で転がし始めた。
「そ、そう?」
それにしてはアキラの様子が変だと言わんばかりのエレクトラ。アキラは全身が脱力して、キャンディを引き抜かれた時のままに口を開けっ放しにしていた。
「まったく」
ヒカルは自分の右手に残った、デスソース味と引き換えに出したキャンディを、その口の中へ放り込んだ。
「甘!」
アキラが器用にも座ったまま座席から飛び上がり、髙くない天井に頭をぶつけた。
「驚きすぎだろ」
ヒカルが嗤うのを、エレクトラが呆れたように見ていた。
「いちゃつくんだったら、仕事が終わってからにしてくれない?」
「そんな、いちゃついてなんてないぞ」
慌てて顔を引き締めるヒカルであったが、青い絵の具に一滴だけ朱色を混ぜたような顔になっていた。
「こいつの味覚がお子様なだけだ」
「いいよ、お子様で」
指差されたアキラは怒るでなし、幸せそうに微笑みながら新しいキャンディを手に取って嘗めていた。
「大人だって、あんな物を寄越されたら、口の中が壊れるから。ゼッテー」
「壊れる…」
わざわざ自分も、キャンディを口から取り出して、その幾分か小さくなった球体を遠くの誘導路の明かりにうつしながら、不思議そうにヒカルは言った。
「そんな変な味かなあ」
「だってキャンディなのに辛いんでしょ?」
エレクトラがだいぶ眉を顰めた声を上げた。
「んー、まあ、ちょっとだけな」
「貸してみなさいよ」
ほとんど、かっぱらいのような手つきで、エレクトラはヒカルの指から、キャンディを抜き取った。
「あ~、やめといた方が…」
アキラの忠告は間に合わなかった。
「いやあ、お疲れ。お宅たちも大変だね、救急車の代打なんて。まあ、なんにも無い休憩室だけど、お茶だけは飲み放題だから、遠慮しないで。えーと、オレ? オレはススキって言います。二号車の運転機関士。あー、車の機械を扱う役って言えば分かりやすいかな? ごめんね、ウチの連中が不愛想で。ああ、ちょっと人見知りしているだけだよ。でも、なんで二台ある救急車を、同時に車検に出すかねえ? 普通は一台ずつだよねえ。お宅は知らない? あ、知らないか。まあそうだよね。そうだなあ、トランプでもやる? もちろん掛け金は無しで。オレが勝っても取り立てに行けないもんな。え? 大した自信だって? そらあ、他にやることと言えば体鍛えることと、メシ食うことだけだもの、トランプは強くなるさ。上の人たちなんか、同じ話し何回もしてるけど、飽きないのかねえ。え? 何の話しかって? 出るんだよ、ココ。え、何って? 決まってるじゃん。コレだよコレ。ユーレイ。ほら台湾の飛行機が落ちて、いっぱい死人が出た事故があったから、ソレじゃないかって。知らない? なんでも国内で二番目に人死にが出た事故だって、有名らしいよ。お宅が知らないとなると、そんなに有名じゃないのかな? ほら上の人がまだ若いころにあった事故だから、印象に残っているんじゃないかな。その日から、事の大小問わずに、空港内で事件や事故が起きる時に、聞こえるらしいんだよ。女の鳴き声が。え? 迷信? ま、まあ、そうなんだろうけどさ。一回問題になって、なんとかっていう大学の偉い人が調べに来て、結局、アンテナが風で揺れて、低周波? そんなやつが発生して、ここまでの距離でエネルギーが減衰して人の耳に、そう聞こえるようになるとか。え? タネ明かしが早い? だってお宅たちは今日だけしかいないんだろ。それで話しのオチを知らないままに帰るなんて、後で気になっちま…。おい…。いま、なんか聞こえなかったか? 滑走路の方から。いや、聞こえたよ! まるで『女が間違えてデスソースを口に入れちまった』ような叫び声がさ…」
つづく




