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五月の出来事B面  作者: 池田 和美
3/7

五月の出来事B面・③



「こんなとこ、大丈夫かよ」

 ちょっとへっぴり腰になったアキラの前を、堂々と胸を張ったヒカルが歩いていた。

「なんだ、だらしない。少しはハッタリを利かせられないもんかねえ」

 半分だけ振り返ったヒカルは、咥えていたキャンディの柄を、ピコンと一回跳ね上げた。

「どこ行くんだよ」

 背筋を伸ばして進むヒカルに訊いた。

「バイトの面接だが? なにか変か?」

 とても不思議そうに聞き返された。今のヒカルは、紺色をした清隆学園高等部の制服から、黒いレディススーツに着替えており、それなりに施した化粧と相まって、優良企業に勤めるOLといった雰囲気を纏っていた。町で偶然出くわして「これから面接なのよ」と言われても納得する格好である。

 しかし、場所が場所であった。

 二人は研究所の更衣室で着替えると、昨日借りたレンタカーで新宿まで来ていた。

 新宿とは言っても、アキラがよく来る新宿駅の方ではなく、箱根山の方から回った怪しげな町であった。

 レンタカーを停めたのは、不愛想な雑居ビルが立ち並ぶ隙間に取り残されたようなコインパーキングであった。

 まだ夕方には早いが、背の高いビルの背中に阻まれて、太陽の光はアスファルトに届いていなかった。

 そこから、どこをどう歩いたのか。ここでヒカルに置いて行かれたら、同じ都内だというのに、家に帰るどころか、どこかの駅に辿り着くことすらできそうも無かった。

 軽自動車どころか自転車ともすれ違うのが難しそうな路地をクネクネと進み、どう見ても商業施設の搬入口のような土地を横断、道というより建物の隙間という場所を通過した。

 その通ったどの道も、一〇メートルも直線が続いていればいい方で、曲がり角に鉤、行く手を塞ぐように横断する配管や、いつからあるか分からない水たまりと、一瞬たりとも気の抜けない様子であった。

 そんな大都会の裏側のような場所である。

「ほんとに、大丈夫なんだろうな」

 どう見てもまともでない男が行く先に寝転がっていたが、ヒカルはまるで倒木を扱うように、そいつを脇の排水溝へ蹴り飛ばした。

「慣れれば、これ以上の近道はねえんだ」

 水というより油にしか見えない飛沫が上がっても、ヒカルはいつもの顔のままであった。

「行くぞ」

 心配げに排水溝を覗き込むアキラへ、ヒカルは冷たさの混じる声で告げた。

 蹴り落された男は、顔が汚水に浸かっているというのに、ピクリとも動く気配は無かった。

 どこかで新鮮な肉を求める小動物の鳴き声している気がした。

「ちょ、いいのかよ」

 慌ててヒカルに駆け寄る。しかしヒカルは気にした風もなかった。

「あんなの、この町じゃ生ゴミと同じくらい散らかってるぜ。相手してたらキリがねえ」

「でも…」

「大丈夫だって…」ヒカルは目を鋭くした。口元のキャンディの柄が不機嫌そうに揺れていた。「ありゃ死んだふりして襲ってくる追い剥ぎだ」

「え」

 ヒカルと男が沈んだ辺りを見比べて、アキラは泣きそうな顔になった。

「こういうトコなんだよ、ここは。カナエに感謝しろよ、こんな汚い場所とは無縁の生活させてもらってんだから」

 そのまま振り返りもせずに歩き出す。アキラは慌てて背中を追った。するとだいぶ離れてから大きな水音が立ち、獣の叫び声のような罵詈雑言が飛んできた。

 どうやら死んだふりは本当だったようだ。

 次に二人が角を曲がると、ケバケバしいネオンサインが重なっているような路地に出た。

 反対側から来たら行き止まりにしか見えない狭い道には、まだ昼間だというのに、すでに酔っ払いが数人歩いていた。

 どうやら新宿の繁華街まで、駅とは反対方向から辿り着いたようだ。ヒカルに続いてアキラも次の四つ角を右に曲がった。

 すると暇を持て余したような若い男が数人、路地を塞ぐように立っていた。車どころか自転車すら置き看板で通れないような道である。来た道を戻るか、それとも退いてもらうかしか進む方法はないようだ。

「うわ」

 普通の街を歩いていても話しかけてほしくないような、あからさまな派手な格好をしている連中であった。尻込みしているアキラを余所に、ヒカルは靴の踵を鳴らすようにして仁王立ちになった。

「通れないよ、脇によけとくれ」

「あ?」

 濁りに濁った声が帰って来た。一斉に振り向いた半ダースの強面に、ヒカルは少しも動じていなかった。

「聞こえなかったのかい? どいておくれ」

「ああ?」

 さらに濁った声で威嚇して来る男たち。

 まあ見くびられても仕方のないことだろう。何も知らない者から見れば、時期は少々違うが就活中の新卒者に見える女と、もう一人は男物の薄い青色をしたロングパンツに臙脂のTシャツ、肘まで捲り上げた春らしい色のジャケットという動きやすい格好をした少女なのだから。

「なんか聞こえたか?」

「さあ」

 そよ風が吹きましたという態度の男たち。

 ヒカルの額から青筋がまとめて五本ぐらい切れる音が聞こえた気がして、後ろに立つアキラはとても不安になった。

 ペッと柄だけになったキャンディを道に吐き捨てた。

 その態度に相手の目つきも悪くなった。

 一触即発というヤツである。

(もし争い事になったら、オレも加勢しなけりゃいけないんだろうか?)

 などとアキラは、へっぴり腰ながら考えた。

「おいおい」

 と、そのタイミングで、脇にあるレンガ壁の隙間から、白いスーツを着たスマートな男が出てきた。

 声をかけられた強面たちが、素直に振り向いた。

 シルエットに似合った洗練された仕草で、男が顎をしゃくると、ペコリと小さく頭を下げた強面たちが、男が出てきた建物の隙間へと並んで消えて行った。

「すみませんね、お嬢さん」

 その背中を見送った男は、爽やかな笑顔をヒカルに向けた。

「<ゴーテル>の。教育がなってないんじゃない?」

「そんなこと言わずに」と苦笑いのようなお愛想笑いをしてみせる男。「お嬢さんがあまり店の方へ来て下さらないから、若いもんが顔を覚えられないだけですよ」

「ふーん。ま、いいか。今度、お店に寄るわね」

「是非ともそうして下さい」

 丁寧に頭を下げた男は、アキラの顔を下から盗み見た。それを分かっているのかいないのか、ヒカルは何でも無さそうにアキラに声をかけた。

「さ、とっとと行くよ」

 一連の流れを後ろで見ていたアキラは、開いた口が塞がらなかった。

(まるで安物のチンピラ映画だ)

 そんなことを思っていたが、ヒカルは違うように取ったようだ。

「なんだよ。こんな事でビビってんのか?」

「いや、あの…」

 煮え切らない返事を口に浮かべると、ボリボリと前髪を掻いたヒカルは、アキラに一歩近づいた。

「ん」と手を出してくる。それを「?」と見おろすアキラ。

 しばらくその手の平と、ソッポを向いたヒカルの顔を見比べてしまった。

「ほら、手を繋いでやるよ」

 ヒカルはキッといつもの表情を見せると、強引にアキラの右手を取った。

 そのまま歩き出すヒカルに、引っ張られるようについていった。

 充分に離れた頃に訊いてみる。

「なんだよ、ありゃさ」

「地元の顔ききだよ」

 フンと鼻を鳴らしたヒカルが教えてくれた。

「若いころにシメたことがあってね。それから、あたしに逆らうことは無くなったね」

「シメたって…」

 アキラが絶句していると、置いて行くぞと言わんばかりにヒカルの足が早まった。だいたい若い時と言われても、相手は中年を通り越した年齢であった。果たして何年前になるのだろうか、想像がつかなかった。

 最敬礼がネオンサインに紛れてからも、何度か角を曲がり、そしてやっとヒカルの足が止まった。

「ここか…」

 両手を腰に当てて見上げたのは、キャバレー風の店と、喫茶店を装った店の間に建つ雑居ビルであった。

 右手に残る温もりに名残惜しさを感じながら、アキラもビルを見上げた。

「こんなトコ入って行くのかよ」

 半分剥がれた化粧パネルやら、元は大理石風だったらしい茶色く汚れた床など、決して入りたいという欲求が湧く場所では無かった。

 開けっ放しのまま固着したようなガラス扉を抜けると、右にエレベーター、左に階段室があった。

 エレベーターには、いつ貼られたか分からない程に黄ばんだ紙で故障中の表示があった。

「階段か」

 二人して、入っているテナントを表示している階段脇の看板を見上げた。

「何階よ?」

「三階だ。毎日登ってるだろ」

 二人が所属している清隆学園高等部一年一組はB棟の三階に位置した。

 二階のステンドグラスを嵌め込んだ入り口のパブを通り過ぎ、二人は三階へ。すると狭い階段上のスペースに、一揃えの事務机が置いてあった。

 そこに筋肉と脂肪でできたダルマが二つ。いや、プロレスラーのような男が二人立っていた。

 二人組の可憐な少女に見えるアキラとヒカルを見て、短く刈り込んだ髭を歪めた。どうやら笑顔になったらしい。

「なんだ、ねえちゃん」

 半分ゲラゲラと笑ったような声で、エンジ色のタンクトップを着ている方が声をかけてきた。

「オレたちと遊びに来たのか?」

 反対側の男は、ゴリゴリの筋肉を見せびらかすように、上半身には何も着ていなかった。その代わりと言っては何だが、肩口に彫り込んだハート型の刺青が目立っていた。

「『ネモ船長』に会いにきた」

 その二人が、まるで食卓を通過した小蠅のような存在であったかのように、ヒカルは眉を顰めてから用件を口にした。

「船長に?」

 不思議そうな顔を見合わせた二人は、沸き上がって来る衝動を抑えきれずに笑い出した。

「こりゃケッサクだ!」

「船長が、こんな小娘に用があるとはな」

「ほら、ロリコンとか言われてたし」

「オレたちも、あとでおこぼれもらえるかな!」

「ひーっケッサク!」

 腹を抱えて笑っている二人を前に、アキラは嫌な予感がした。そして、そいつは的中すると相場は決まっていた。

 ジャカリという金属音と共に男どもの笑い声が消えた。

 予感は半分だけ合っていた。二人の脂肪分たっぷりの顎に、それぞれ銀色と黒色の銃口が下からめりこんでいた。『再構築』されて人とは違う目になったアキラですら、見落とすぐらいの早業であった。

 残りの半分が違ったのは、そのまま発砲しなかったことだ。

「『ネモ船長』に会いに来たんだが?」

 ヒカルが変わらぬ口調でもう一度用件を口にした。

「ご、ご在室です…」

 さすがに相手が本気かどうか分かるようだ。もちろん冷たい感触で、突きつけられている物が、オモチャとは違うことも充分理解している声だった。

 その時、大正時代から建っているような、飾りガラスが嵌め込まれた木製のドアが開かれて、新たな人物が顔を出した。

「なにを騒いでるんだい?」

 癖毛の金髪をショートカットにしたような女性であった。絶対に日本人ではない顔立ちをしているが、口にした日本語には訛りは一切なかった。身近な香苗やヒカルなどの女性があまり化粧をしないためか、アキラには厚化粧に見えた。

「おう、エレクトラか。『ネモ船長』に取り次いでおくれ」

 銃を二人に捻じ込ませたままという勇ましい格好で、ヒカルはとても気軽にその女性に話しかけた。

「あら、エシェックじゃないの」

 とても意外そうな顔をした相手は、笑顔を作り直した。エシェックというのは、ヒカルが今の名前を香苗につけてもらう前に使っていた呼び名であるそうだ。アキラは、自身と明実の護衛を引き受けた時に教えてもらったことがあった。

「ウチのバカどもが迷惑をかけたようね。そのまま撃っちゃってもいいわよ。って言っても、中身が入ってないから、ぶちまける物が無いからつまらないだろうけど」

「あ、あねさん~」

 筋肉ダルマたちが情けない声を上げた。

「そりゃ残念」

 冷たく言い放つと、ヒカルは銃を引いた。

「弾がもったいないから、やめとくわ」

 黒い拳銃は後ろ腰に回したホルスターに、銀色の銃はそれから両手を使って背中に隠したもう一つのホルスターへ戻した。

「今日は千客万来なのよ。だから待合室で順番を待っててね」

 ドアの向こうにエレクトラと呼ばれた女性の顔が引っ込んだ。入り口番の二人が、情けない愛想笑いをしてから、体を縮こませて道を譲った。

 左右に不穏当な視線をやるヒカルに、アキラが並んだ。

室内(なか)じゃ黙ってろよ」

 ヒカルの注意事項に振り返ると、迫力のある微笑みが返って来た。

「ここじゃ、あたしの方が専門家だからな。何があっても、一言もしゃべるな」

「わ、わかった」

 気を呑まれて頷くと、笑顔の質が変わった。

「よし、じゃあ行くぞ」

 ヒカルは気合を入れた声を出してから、開けっ放しになっていたドアをくぐった。

 そこはよくある開業医の待合室のような空間であった。

 六畳ほどの空間に、年代物のソファが放りっぱなしのように置いてあり、正面には次の間に続くだろう黒いドアがあった。天井から下げられた蛍光灯は仮設なのだろうか、ケーブルが剥き出しのままであった。

 そのソファに先客がチョコンと座っていた。

 エレクトラは反対側にあった小さなカウンターに引っ込むと、タブレットを弄り始めた。

「あら? 珍しいところで会うのね」

 涼やかな声で話しかけられ、二人は先客を振り返った。

 革が破けてスポンジが飛び出したようなソファに座っていたのは、薄い緑色をした大時代的なピナフォアドレスに、フリルやレースでたっぷりのディテールが施された真っ白いブラウスを合わせた女性だった。脇に置いた実用性の乏しそうな日傘と合わせて、二世紀ほど過去からタイムスリップしてきた英国貴婦人といった趣である。

 今のヒカルと同程度に抑えた化粧をし、艶々の唇には何も塗っていないように見えた。アキラは初対面の相手だと思ったが、違ったようだ。

「なんで、おまえがここにいるんだよ」

 ヒカルから臍を曲げた声が出た。

「?」

 黙っていろと言われたことを思い出し、顔色だけでヒカルに質問すると、忌々しそうに顔を歪めて教えてくれた。

「サトミだよ。わからないのか?」

「え」

 思わず声が出たので、慌てて両手を使って口を押えた。

 清隆学園高等部を出る時にぶつかった、同級生の新井尚美が命を狙っていた相手である。

 高等部の生徒のはずなのに、お化粧までして、いまはどこから見ても貴婦人といった姿であった。もしかしたら、この大時代的な衣装も尚美の手製かもしれないが、アキラには分からなかった。

「こんなところで出会うなんて、何かの縁かしら」

 ニコニコと美しい顔を微笑ませて、自分の横をポンポンと叩いて着席するように促してきた。声は地声なのか作り声なのか判断できないが、鈴が鳴ったような透明な声である。ガラッパチで、いがらっぽいヒカルとは対極の声色であった。

「順番が回って来るまで、お喋りしましょう」

「けっこうだ」

 サトミの誘いを一刀両断したヒカルは、なるべく離れた場所に腰をおろした。アキラは会釈してからその横に座った。

 腕組みをして座り、中空を睨みつけていたヒカルが、まるで独り言を漏らすように口を開いた。

「おまえもバイトか?」

「いいえ」

 ニッコリと目を細めるサトミ。

「私は、お願いがあって来たの。…というと、あなたは彼に味方するの?」

「それはこれから決める」

「じゃあ」

 二人の方へ身を乗り出して、サトミはさらに笑顔を強めた。まるでネコが腕の中に獲物を収めたような顔だった。

「私たち、敵同士になるかもね」

「だったらどうしたって言うんだ?」

 機嫌悪そうにサトミを睨みつけると、ポケットから柄つきキャンディを三つ取り出した。

「手加減しろとでも言いたいのか?」

 ヒカルは取り出したキャンディの内、一本を残してアキラに押し付けた。

「?」

 表情で問うと、顎をサトミの方へ振ってみせた。どうやらお裾分けしろという意味のようだ。

 ヒカルがキャンディを分けてくれるなんて、梅雨前なのに明日は雪かなと、不遜な事を想像してしまった。

 ちょっと離れていたが、体を伸ばしてキャンディを手渡した。

「ありがとう」

 なにかこたえるべきかと思いながらも、ヒカルの指示を守ることにして頭を下げるだけにする。笑顔に鋭い視線を混ぜてくるサトミの底が知れなくて、慌ててアキラは手にしたキャンディの包み紙を解いた。

「ぐ」

 思わず声が出そうになって我慢する。まだ手にしていた包み紙を開いてみた。そこに書いてあったのは<スイカ味>の文字。どうしてこんな味がというより、こんな味まで商品化しているんだという風に感心してしまった。

 ヒカルを見てみれば、普段通り口の中で転がしている様子。反対側に振り返れば、絹の手袋に包まれた細い指の間で、まだ包みすら解かれていないキャンディが揺れていた。

 ちなみにサトミのキャンディには、某赤い牛のロゴが踊っていた。どうやらコラボ商品のようだ。

 よくこんな変な味ばかりポケットから出てくるなと、ジト目でヒカルを振り返ってしまった。

 その時、小さく鈴の音が聞こえたような気がした。

 カウンターの向こうで何やらやっていたエレクトラが、スキップを踏むように出てきて、次の間との黒いドアを開いた。

 中から洒落た男が出てくる。ラテン系の血筋を連想させる堀の深い顔にカイゼル髭という、まるで「自分の作品は、自分にすらわからない」と迷言をのこした芸術家に似ていた。髪もポマードで固めてオールバックにしているため、気難しそうな広い額がこれ見よがしに目立っていた。

 そんなお洒落に気を使っている様子は着ている物にも出ていて、ランバンらしい黒に近い紺色のスーツに、首元に赤いネッカチーフというファッションであった。

 手にしていたボルサリーノを頭へ置きながら、ドアを開けてくれたエレクトラに微笑みかけ、待合室に視線を走らせた。

 まず派手なサトミの上に一秒間。その次に一人飛ばしてヒカルに半秒ほど。最後に見下すようにアキラの上を目が通過した。

 ヒカルはチラリと目をやっただけ。サトミに至っては完全無視であった。

「では、サトミさん」

 とても言いにくそうにエレクトラが案内した。

 サトミはお上品に立ち上がってからヒョコンと膝を曲げて挨拶をすると、ドアをくぐっていった。

「それではエレクトラ、今度食事でも一緒にしましょう」

 先客だった伊達男は、まるで付け足しの様に彼女へ告げると、階段へと続くドアを開けて出て行った。入り口の二人が「おつかれっす」とかした挨拶には無返答だったようだ。

 エレクトラはそのままサトミと一緒に、ドアの向こうへ入ってしまったので、待合室には二人だけが残された。

「必要ねえかもしれねえが」

 不機嫌なままヒカルが口を開いた。

「いま通ったのは、業界じゃ『ネズミの目ラットアイ』って名前で、チィとは知れたスナイパーだ」

「す…」

 声が出そうになったが、ヒカルが唇に人差し指を当てたので、慌てて口を手で押さえた。

「知り合いは『リアル・ゴルゴ』って呼んでたなあ」

 ちょっと遠い目をしてみせるヒカルの横顔を、そのポーズのまま眺めたアキラは(その知り合いっていうのも怖いんだが)と思っていた。

「ん?」

 顔の下半分を両手で塞いでいるというのに、アキラの思っていることを感じ取ったのか、不思議そうにヒカルが振り返った。

 そのまま、しばらくジト目で睨んできた。

「知り合いが誰だって顔をしてんな」

 ここで首を振って否定してもよかったが、あえて無反応を装ってみた。

「昔の男のことを女に訊くなんて、エチケット違反だぞ」

 そうイタズラ気に笑うヒカルを見ていられなくて、アキラは上半身ごとそっぽを向いた。



「残念だわ」

 部屋から出てきたサトミは、振り返ってドアの向こうに言葉を投げた。

「本当に」

 泣きそうな顔をしてみせてから、退出を促すようにドアを開き続けているエレクトラをチラリと見やった。

 それから待合室の方へ首を巡らせると、ソファの上で待っている二人を見おろした。

「それでは、お二人さん。ご機嫌よう」

 わざわざハンカチを取り出して、別れの挨拶とばかりに振って見せる。そこにいるのは頭を下げたアキラと、無反応なヒカルという取り合わせ。いや、ヒカルの咥えているキャンディの柄が一回だけ上下に往復した。

 エレクトラは貴婦人にでも応対するように、外へ続くドアも開けてサトミを見送った。

 と、思ったら、そのまま後を追うように出て行ってしまった。

 涼やかな音色が室内から響いた。

 しかし、それにこたえるべき人間は一人もいない。仕方なさそうにヒカルは立ち上がり、アキラも後に続いた。

「失礼する」

 いちおう開けっ放しの黒いドアをノックする。それにアキラも続いた。

 向こう側の部屋には何も無かった。

 かろうじて安物の事務机と、それに似合わない安楽椅子が一脚。あとは壁も床も、天井すらもコンクリートが剥き出しで内装工事がなされていなかった。

「やあ、いらっしゃい」

 そんな部屋で、一人の人物が待っていた。

 穏やかそうなオジサンだなというのが最初の印象だった。

 彼はオーダーメイドらしい背広に身を包み、本革で出来ているらしい高級そうな安楽椅子に座っていた。

 客の二人が案内も無しに入ってきたことを確認すると、座り心地よさそうな椅子から立ち上がって、スチール製の事務机を回り込んできた。

「久しぶりだね、エシェック」

 ニコリと、まるで慈愛のあふれる宗教家のような微笑みで、まずヒカルに握手を求めた。

「久しぶりです『ネモ船長』」

 ヒカルが、あの銃砲店で使ったような丁寧な言葉づかいでそれに応じた。

 まるで営業職のサラリーマン同士のような「最近はどう?」「まあ、色々と」などという当たり障りのないやり取りが交わされた。

「シロクニさんのことは、僕も聞いたよ」

 ヒカルに『ネモ船長』と呼ばれた男は、自分の胸に手を当てて目を閉じ、しばらく黙り込んだ。どうやら、その人物に対して黙祷を捧げているようだ。

「彼には色々と世話になった。君にもね」

 再び口を開いたと思ったら、色気のあるウインクがついてきた。

「世話をしたつもりは、あまり無いのですが」

「そんなことないさ」

 手放しで褒めるネモ船長は、いま気が付いたようにアキラへ視線を移した。

「彼女は、とても面倒見がいいよねえ」

 アキラは同意を求められ、首を縦に一つ振った。言われてみればたしかに、ヒカルは口とガラは悪いが、なんやかんやと今までアキラは世話になりっぱなしである。

「さてと」

 二人の頭越しに、開けっ放しのドアを見通すように視線をやって、そこに誰も居ないことを確認したのだろう。笑顔を作り直すと『ネモ船長』は事務机の向こう側へ戻った。

 安楽椅子には座らず、両拳を呼び鈴しか置いていない机へ置いて、下から伺うような視線になった。

「ビジネスの話しにしようか」

「ええ」

 ヒカルは立ったまま腕組みをした。

「まず、そちらは? 紹介してくれ」

 彼は優しい雰囲気のまま、目線はヒカルに、声だけでアキラを指差した。

「あたしのフレンズよ」

「フレンズ?」

 いぶかしげな顔をして見せるので、ヒカルは忌々しそうに言葉を変えた。

「言い換えれば、新しい相棒ってヤツ」

「あいぼう、ねえ」

 何か笑いをこらえているような顔でアキラの方へ顔を向けると、体を上から下まで眺めるように見てきた。いやらしさは全然ない。というより一切の感情が感じられなかった。どちらかというと「この肉塊はグラムいくらだろう」といった冷静な視線であって、向けられたアキラに底知れない恐怖を感じさせた。

「そんなに腕利きというわけでもなさそうだけど?」

「まだ若葉マークの初心者(ルーキー)というところ、かな」

「初心者ねえ」

 困ったように微笑みを作る『ネモ船長』。それに釣られたのか、ヒカルまで困ったような笑みを浮かべた。

「なんて呼べばいいのかな?」

「ルーキーじゃダメかな?」

「うちの『船員たち』にもそう呼ばれる者がいるんだが…」

「そんなケチ臭いこと言うんだ」

 ヒカルがフフンと鼻を鳴らした。アキラは『ネモ船長』が怒り出すのではないかと心配になった。

「まあいいか。いまは猫の手も借りたい様な台所事情でね。人手が足りないんだ。ルーキーちゃんでも手伝ってくれるというなら、だいぶ助かるんだが」

「お得意の『船員たち』は? 腕利きばかり揃っているでしょう」

「それが、仕事の規模が大きすぎてね」

 天板に手を着いた姿勢のまま肩を竦めてみせた。

「週末の福岡から東京への上り便を、全て監視しなきゃならなくなった」

「それは航空便?」

「電車もバスもだ。自家用車やバイク、それに自家用ジェットまで対策を考えている」

「自家用ジェット?」

 あまり日本では聞きなれない単語に、ヒカルは腕組みを解いた。

「どんな金持ち? それ」

「前からウチのお得意さんだった『企業』が、今年に入って本格的に動き出したんだ。ウチはその所謂コンサルティングってヤツを引き受けた。相手は日本の軍産複合体とも言える企業グループで、最新式レーダーに関する大事な特許を抱えていて『企業』はそれが欲しいらしい」

「札束の戦争には、あたしは役立たずだと思うけど?」

 アキラもそうだろうなと思うヒカルの返答に『ネモ船長』も苦笑いを見せた。

「もちろんウチが引き受けたんだから、札束の方ではなく、そういう方の仕事なんだが…」

 とても色気のある仕草で、また肩を竦めて見せた。

「もうその段階は終わりを迎えつつある。グループ企業の根幹たる持ち株会社の社長が自ら動き出して、今度の株式総会で敵対的株主に対抗するため、株式の新規発行を含む増資などの対抗案を提出する模様だ」

「じゃあ、あたしに何をしろと?」

 ここまで来ると、ただの高校生のアキラには理解不能な次元の話になっていた。単語は分かる気がするが、右から左へ難しい単語が耳を抜けていくばかりである。

「その議決権を持っている株主の中に、現社長の親族…、叔父だったかな? がいて、この人物と社長の仲はあまりよろしくないらしい」

「そこにつけいる隙があると?」

「そういうことだ」

 彼は引き出しを開くと、中からコピー用紙を何枚か取り出して、机の天板に滑らすように散らかした。

 その数枚の紙には、安いプリンターで出力したような粗い画像が、印刷されていた。

「これが今回監視対象下に置いている藤原文孝(ふみたか)氏。けっこうヤリ手で、札束の方は完敗らしい」

 会社の公式HPからダウンロードしたのだろうか、恰幅の良い中年男性のバストショットが、けっして安物でない背広を着た姿で印刷されていた。

 アキラは、初めて見るはずのその男性を、どこかで見た事があるような気がした。

「まあ、この週末が山場だろうね。七月の株式総会に向けて、持ち株の確認があるのだが、この社長さんの支持は完璧だ。その親戚とやらを除いてね」

 もう一枚の紙が並べられた。そこには最初の人物がだいぶ歳をとったような禿げ頭の老人が写っていた。

「こちらが藤原弘幸(ひろゆき)氏。彼が反対票を投じたら、まだ勝負の行方はわからない」

「で? 無理に反対させるのか?」

「まさか。ウチは、とっても平和的なコンサルタントを営んでいる業者だよ」

 ニッコリと微笑んだ『ネモ船長』は何のことは無いように言い切った。

「こちらの誠心誠意、真心のこもったお話しを聞いていただいて、それでの解決を望んでいるさ」

「ふーん」

 ヒカルから全然信じていない声が出た。

「まあ、この程度の工作に負けるようじゃあ、やはりグループを任せてはおけないと、弘幸氏が言い出すことは確実だろうけど」

「で? 脅迫? 誘拐? 殺人?」

「いやいやいやいや」

 彼が慌てて否定した。

「聞いていなかったのかな? ウチは平和的なコンサルタント業だって」

 三枚目のバストショットが並べられた。

「今度の週末が、総会の一か月前。それに伴い株式の確認が必要になる。そのために、この弘幸氏から、社長側は株式総会議決権委任状を取り付けようと動いていると思われる」

 新たな写真に写されているのは、黒い背広を着たキツネ目をした人物であった。粗い画像越しであるが、どことなく特殊な訓練された者が持つ、カタギの商売でない雰囲気を感じさせる男であった。

「その委任状を、わざわざ取りに九州は福岡まで行くと考えられているのさ」

「この男は?」

 示された目標を覚えるためか、ヒカルはその人物の写真を手に取った。

「いちおう成田と名乗っている男だ。腕利きだそうだよ」

 彼が楽し気に聞こえる声で告げた。

「どのくらい?」

「キミと同じぐらいって言ったら信じてもらえるかな?」

 イタズラ気に表情を盗み見てくる『ネモ船長』に、つまらない冗談を聞かされた顔を返したヒカルは、写真を机の上に戻した。

 と、背後でドカドカと遠慮のない足音が複数した。遠くで何やら指示する声が聞こえたと思ったら、一人分の足音だけは待合室を抜けて、三人がいる奥の部屋までやってきた。

「あ、失礼しました」

 室内からの三人分の視線を受けて、入って来たエレクトラは我に返った顔となり、慌ててドアを閉めて出て行こうとした。

「いいんだよエレクトラ」

 彼が優しい声をかけた。

「いま、ちょうど仕事の話で、君を呼ぼうと思っていたんだ。で?」

「本当に、もうしわけありません」

 エレクトラが最敬礼に頭を下げた。立ったまま床へ頭蓋骨をめり込ませるような勢いだった。

「ただでさえ人手が足りないっていうのに、二人ほど使えなくなりました」

「へえ」

 彼が感心した声を漏らした。

「ただのご婦人じゃないと思っていたけれど…、なかなかだね」

「なあに? まさかサトミに、ちょっかいかけたの?」

 ヒカルの質問に、エレクトラはハンカチを取り出すと、冷や汗だろうか、びっしょりと額に浮いた水分を拭った。

「僕がそんなことを命じるとでも?」

 心外だなと言わんばかりに『ネモ船長』が微笑んだ。

「わたくしが勝手にやったことです」

 次から次に湧いてくる水滴に、あっという間にハンカチは絞れるほどになった。

「君は自分の判断で『船員たち』に欠員を生じさせたんだね」

「いや、でも…」

「まったく」

 エレクトラの言い訳を遮りながらも、絶望した風でもなく、ただ仕掛けられたイタズラが面白くなかった程度に肩を落とした『ネモ船長』は、ヒカルを振り返った。

「君は、さっきのコを知っている様だねえ」

「ええ、まあ」

 曖昧な微笑みを返す。それをじっくり見た『ネモ船長』は短く聞いた。

「何者?」

超危険人物アンタッチャブル

 ヒカルの即答に短く絶句した『ネモ船長』は、すぐに先ほどまでの余裕のある態度を取り戻した。

「さっきのコ。今回の件から手を引けって言いに来たんだよ」

「それは面倒ですね。あたしを雇わなきゃならないくらいには」

 そのヒカルの切り返しに『ネモ船長』が笑い声を上げた。心から思っているのか、笑い声には本当に楽し気な響きが混じっていた。

「それじゃあ、たったいま欠員も出来たようだし。エシェックにはエレクトラに、ついていて欲しい」

「船長」

 エレクトラが非難するような声を上げた。が、イタズラ気に微笑む彼がチラリと目線をやると、まるで水をかけた火の様にしぼんでしまった。

「エレクトラには名古屋空港に待機する班を指揮するように仕事を与えてある。君には、彼女の運転手でもしてもらいたい」

「りょーかい」

 気安い調子でヒカルは一歩前に出ると、エレクトラに右手を差し出した。

「よろしく、エレクトラ」

「こちらこそ」

 一瞬だけヒカルの右手を見たエレクトラは、無表情を装いながらその手を握った。



「…その場合は、量子力学的に考えると、それまで観測されていなかったのだから、裏でも表でもなかったということになるな。そこで由彦が観測してしまったから、裏表が反対だったと決定したということだろう。まったく、体操着ぐらいは間違えないで着てもらいたいものだね、ノブ…。失礼、電話が鳴ったようだ。…。さとみ? ほう、久しぶりじゃないか、君の方からかけてくるなんて、明日は隕石でも落ちてくるのかな? 対衛星誘導弾(フライング・トマト・キャン)の在庫は無いのだが…。うん? 頼み事? 珍しい。君がそんなことを言うなんて。…。分かっているとも、君と私との間ではないか。え? まあ新しい楽譜ぐらいは、ねだってもバチは当たるまい? で? 対象は抹殺か? 君が逮捕などと生易しいことは言わないだろう? 響灘(ひびきなだ)にコンクリート詰めにして沈め…。確保すら必要ない? 君らしくないな。まあいいだろう。(エネミィ)は殺害も捕獲もなしで、排除する。これでいいのだろう? 了解した。詳しい情報は、あとで私のパソコンの方へ送っておいてくれたまえ。ああそれと、夏には検診があって上京するが、その時に食事でもどうかね? もちろん君一人だけでなくともいいよ。うん、うん。わかったよ。それじゃあ夏に。…。まったく、突然何の用事かと思えば…。いまの相手? いやいや昔にちょっとあった、面白い少年だよ。え? カレシ? ははは、面白いこと言うなあ和代は。そうそう美智、君に頼みごとができたようだ。少々手伝ってもらいたいことが、あるんだが…」



「ねえ、アキラちゃん」

 風呂上がりに居間を通過しようとしたアキラの腕を、ちょうど通りかかったという態の香苗が取った。

「?」

 何事かと、ほとんど同じ高さにある香苗の顔を見かえした。そこにあるのは、高校生の姉妹を心配する女の子といった表情であった。正体は主婦であったが。

 じいっと見つめてくる母親に、なぜか腰が引けてしまう元・息子。これはもう条件反射のようなものだ。こうして見つめられることで、幾つもの隠し事イタズラが露見したことやら、アキラには数えきれないほど経験があった。まるで蛇に睨まれた蛙である。

「な、なに?」

 なんとか声が上ずるのだけは押さえたアキラであったが、その挙動から後ろめたいことがあるのはバレバレである。と言っても、現在コレといってイタズラを進行させているわけでも無いのだが。

 見つめてくる香苗の表情も、なにかを責めるという物でなくて、どこか心配げに眉を顰めているという微妙な顔であった。

 香苗の口が一回空振りした。

「?」

「アキラちゃん」

 やっと決心が着いたのか、香苗が訊いた。

「ヒカルちゃんと、なにか危ないことやってるでしょ」

「危ないこと?」

 指摘された瞬間に、脳裏には新宿の路地裏に転がっていた追い剥ぎの男が連想された。

「危ないこと、かなぁ」

 ちょっと治安の悪い町へ行ったことは、間違いなく事実である。それが危ないことに該当するか、アキラの基準では微妙なところであった。

「ドライブには行ったけどさ」

 波打ち際のヒカルを思い出しながら、アキラはちょっと早口になった。

「そんな危ないことかなあ」

 ちなみにヒカルの名誉のために記述するが、ハンドルを握った直後はレンタカーということもあってか、たどたどしい運転ではあった。が、最初に寄った電器屋を出るころには免許を持っているなりの腕前を発揮した。しかもトロい車が前を走っていようが、普段のガラッパチな言動に反して、無理な追い越しなども一切しなかった。ハンドルを握ると人が変わるという言葉を、逆の意味で使える運転であった。

「アキラちゃんも、ヒカルちゃんも。自分が『女の子』だって、自覚があるの?」

 プリプリと怒って、香苗が仁王立ちになってみせる。と言ってもポーズだけなのは丸わかりで、口から出てくる言葉は、どこか軽い調子ではあった。

「え~」

 苦い物を口にしたような声が出た。

「オレもヒカルも『女の子のような物』だけどさあ…」納得いっていない態度で言い切った。「普通の女の子とは違うんじゃないのかなあ」

「世間様はそう見ないの」

 一層怒りの度合いを増して香苗が一歩前に出た。昔から母親に頭が上がらないアキラは押されてもいないのに後ろへさがった。

「かわいい女の子が繁華街をうろついていたら、それだけでトラブルの一つや二つは起きるんだから」

 言われてアキラはヒカルのまっすぐな背姿を思い出した。そのまま新宿でチンピラに睨みを利かせていたことまで連想が走った。

「あ、やっぱり。なにかあったでしょ」

「な、なんにもないって」

「アキラちゃんは顔に出るから、かあさん分かるんだからね」

「いや、ホントに」

 アキラの足は完全に階段の方へ逃げ出していた。実際に振り切れないのは母親からの重圧のせいである。ここで実際に逃げ出したら、確実に香苗はヘソを曲げるだろう。

 ふと、その重圧が弱まった。

「?」

 目線を落とした香苗が、胸の前で手を握り合わせていた。

「いい、アキラちゃん。よく聞いて」

 どこか泣き出しそうな表情だなと不安を感じながら、アキラは香苗に言われるままにうなずいた。

「アキラちゃんは男の子なんだから、ヒカルちゃんの事は守ってあげなきゃダメなのよ」

「あれを守るったって」すぐに反論が出たのは反抗期というわけではないだろう。「あんな、すぐにテッポーを振り回す女、高校生のオレにどうしろと」

「それでも」

 キッと母親に睨まれて、アキラはまた半歩下がってしまった。

 ズンと眉間を指差された。

「ちゃんと、ヒカルちゃんを連れて帰って来るんですよ」

「こんな時だけ『男』扱いはズリーと思うけどなあ…」

 納得いかなくて、ついぼやいてしまうと、香苗がさらに一歩距離を詰めた。

「男の子でしょっ」

 背後にオーラが見えるような迫力で言い切られてしまった。基本的に香苗はあまり子供あきらの事を叱らないタイプだ。怒られるにしろ何にしろ、こんなに強く言われた経験のほうが少なかった。

「わ、わかったよ」

 不承不承という感じであったがアキラが首を縦に振ると、一転して香苗の機嫌が良くなった。

「それでこそ、とおさんの子だわ」

 ニッコニコの笑顔になった香苗は、声まで弾んでいた。

「お風呂、空いたんだったら次ヒカルちゃんね」

「お、おう」

 母親の急変に不安さえ感じるほどであった。なにか当たり前のことを約束させられた気がして、首を捻りながら階段を登っていると、足元に影が差した。

 見上げれば階段口に腕組みをして仁王立ちとなったヒカルである。また、あのボーダーのTシャツを着ていた。というか、それだけしか着ていなかった。後は下着しか身に着けていないようだ。

 ブツブツと母親の更年期なんかを疑っていたアキラは、首を右に捻じ曲げた。

「風呂、空いたぞ」

「おうよ」

 返事を聞いたので、アキラはそっぽを向いたまま、ヒカルとすれ違おうとした。

 今度はヒカルに腕を取られた。

「なに目ぇ合わせないんだよ」

 まるでチンピラが因縁をつけるようなセリフであった。

「いや、別に、意味なんかねぇよ」

 まさか正直に「下から覗き放題でしたよ」なんて言うわけにもいかず、アキラは煮え切れない声を上げた。

「ふうん」

 ジイッとヒカルにも睨まれて、アキラの背中に再び冷や汗が集まってきた。

「まあ、いいか」

 どうやら何か別の誤解をしたようだったが、これと言って指摘できずに、またされずに解放された。

「カナエには週末の事は言ったのか?」

「いや、まだだけど」

 ヒカルのバイトとかやらは、この週末の予定であった。

「じゃあ、あたしから言っておくか」

 もう高校生だから、週末に出かけると言っても問題はないかもしれない。ただ年頃の娘であったら保護者として心配するかもしれない。とはいってもアキラもヒカルも「女の子のような物」であって、年頃の娘では無いのだが。まあ家で待つ者に筋はちゃんと通しておこうということであろう。

 そのまま階下へ降りようとするヒカルの細い肩に声をかけた。

「なあ、おい」

「なんだあ?」

「おまえ、どこかへ行くのか?」

 アキラの質問に、一旦ギョとしたヒカルであったが、苦笑のような微笑みを浮かべると、もう振り返らなかった。

「言ったろ。『生命の水』が必要だって。どこも行きゃしないさ」

 そのままアキラはヒカルの背中を見送った。



「なあ」

 アキラが何とか息をついて、ぼやくように言った。

「オレたち、これからバイトなんだよな?」

「そうだが?」

 機嫌が悪そうな声でヒカルがこたえた。

 アキラはもう一度訊くことにした。

「バイトだよな」

 そのバイトという単語に、秘密の仕事という意味を込めて発音した。

「そうだって」

 時は過ぎて週末の金曜日であった。早めに帰宅した二人は、制服から着替えると、荷物を持って家を出た。

 持ち物は、小さなバッグと、ヒカルが手に入れたガンケースに入れた短機関銃である。

 バッグには、替えの下着や予備の拳銃弾が詰め込んであった。

 いちおう予定としては、バイトが終わるのは日曜日で、その日の午後に帰ってくる予定である。まあヒカルには「予定は未定」と不安になる言葉で、図太い釘を根元まで刺されていたのだが。

 ちなみに、清隆学園高等部は土曜日に授業は無かった。ただ勉強会や講習会、成績の悪い生徒に対する補習、そして活動が盛んなクラブなどで、ほとんどの生徒が登校することになる。もちろんアキラたちのようにバイトを予定に入れる生徒もいることにはいた。

 アキラも、こんな身体になってしまったが、真面目に進学を考えているので、土曜日の講習会は出ることにしていたのだが、今回は特別である。

 アキラは、男の子の頃から愛用していた紅柄色のTシャツにライダージャケット。下は香苗が買って来たクリーム色のガウチョパンツというスタイルである。もちろん体が小さくなった今は、上着の袖は何重にも折り曲げることになった。いっそのことと、肘まで捲り上げてある。足元のスニーカと合わせて、これからキャンプか何かに出かける学生のようであった。

 対してヒカルは、黒字に細いストライプが何本も入った女性用スーツに、最近着ているボーダーのTシャツを合わせていた。足元もパンツスーツに合わせた黒色のパンプスである。

 二人並んでいると、年の近い姉妹が久しぶりに並んでお出かけと見えないこともない。もちろん、薄い化粧をしているヒカルの方がお姉さんである。

 そんな二人が乗り込んだのは、乗車定員という言葉をあざ笑うような混み具合の中央線特別快速であった。なにやら並行する私鉄が二社とも事故やら故障やらの理由で動いておらず、都心へ向かう足が中央線へ集中してしまったようだ。

 おかげで車内には余分な空間が無いほどの混雑である。毎朝のラッシュアワーよりも人間が詰め込まれているかもしれない。

 そんな車内で、途中駅から乗った二人が無事に座席を確保できるわけもなく、これ以上できないほど密着したまま、ドア付近で立つこととなった。

 たしかに都内へバイトに出かける女子高生ならば普通の風景ではあるが、「女の子のようなもの」が「バイト」に向かうとは到底思えない風景であった。

「む、むぎゅ」

 揺れた拍子に、ヒカルをドアへ押し付けてしまった。可愛らしい悲鳴を上げたヒカルに、小さく謝った。

「あ、すまん」

 二人とも似たような身長であるから、こんな密着すると顔が近くて話すのも難しいほどだ。

「い、いて」

 普通の女の子になら、こんなに周囲から押し付けられたら、相手の柔らかい脂肪分を全身で感じられるのだろう。が、相手はヒカルであった。柔らかい体の前に、ぶっそうな固い物をスーツの下に仕込んでいるのが、痛覚として感じられた。

「いてーのは、こっちだ」

 足元に置いた荷物を気にしながら、ヒカルは目の前の大きな瞳を睨みつけた。

「そんなこと言ったって」

 アキラは困った声を漏らした。一生懸命手足をドアに突っ張って、混雑とヒカルの間にスペースを作ろうと努力する。実は『再構築』からこっち、アキラは普通の人間から見て常識外れと思えるほどの怪力を手に入れていた。これは『施術』した明実の解説によると、魂の総量が変わっていないにもかかわらず、体が小さくなってしまったことによる、副作用のような物らしい。時間が立てば体の方が慣れて、そういった怪力などの異常現象は解消すると言われていた。が、あれから二ヶ月たとうという今でも、アキラは大の男を片手で持ち上げるぐらい朝飯前であった。

 だが、そんなアキラの努力をあざ笑うかのように、人ごみの圧力はアキラの背中に襲い掛かった。まるで消波ブロックに押し寄せる土用波である。

「む、むぎゅ」

 再び、二人は抱き合ったかのような姿勢で混雑に耐えることになった。

「すまん」

 ちょっとだけドアのガラスにオデコをぶつけたアキラは、それでもヒカルにまた謝った。

「その~、大丈夫か?」

「大丈夫って、なにが?」

 抱きしめあった形になったので、相手の顔はまったく見えない。かろうじて耳たぶが視界に入るだけである。

 アキラの問いかけに、なぜかヒカルの耳が赤く染まっていく。もしかして人いきれにのぼせてきたのかもしれない。

「いや、ほら。暴発しないのかなあって」

 アキラのセリフに、軽い頭突きで横からツッコミが入った。

「セフティは入れてあるし、初弾は送ってねえ。これで暴発したら、よっぽどだぜ」

 物騒な単語に、横でスマートフォンをいじっていたサラリーマン風の男がギョッとした。それを視界の反対側の端で捉えたアキラは、慌てて言い訳の様に付け加えた。

「こんなところでBB弾が飛び出したら、大惨事だからな」

「ビービーだ…」

 ヒカルから、なにを言っているんだという雰囲気が漂ってきたが、すぐにアキラの気遣いを理解したのだろう、話を合わせてきた。

「こんな混雑で、防護メガネが割れなきゃいいけどな」

 その言葉で納得したのか、それとも元々関心が薄かったのか、そのサラリーマンは小さな画面に視線を戻した。

「あちー」

 まだ冷房を入れるのは早い季節だからなのか、車内の温度はあがる一方だ。そんな中で、意外に体温が高めのヒカルと密着しているのだから、アキラのぼやきも当然と言えた。

「なあ」

 さっきよりも小さな声でヒカルが訊いてきた。

「男に戻ったら、なにするんだ?」

「戻ったら?」

 聞かれてもいい内容だけを口にし、アキラは聞き返した。

「ああ。戻ったら、だ」

「なんで、そんなこと訊くんだよ」

「別に深い意味はねえよ」

 こんなに混雑している電車の中では、お喋りぐらいしか娯楽は無いってことかと思い至ったアキラは、ヒカルの誘いに乗ることにした。

「そうだなあ」

 顔を上げてドア上の液晶パネルを見上げる。真下すぎて画面を見ることはできなかった。

「いま戻ったら、困る」

「困る?」

 眉を顰めた声が返って来た。

「だって、こんなに人がいる中で変身したら、完全に誤魔化しきれないだろ」

「ば、ばか。そーじゃなくて…」

「それに、おまえに殴られるのは確実だしな」

「なんで、あたしがおまえを殴るんだよ」

「だって、こんなにくっついてっから。いまは女同士だからいいんだろうけどさ。実際そうなったら、ぜってー怒るだろ」

「…」

 ちょっと考えるような間が空いた。

「いや。このままでも、後でぶん殴る」

「ひでー」

 アキラが(電車の混雑は俺のせいじゃないのにな)と理不尽さを嘆いていると、肩口にヒカルが顔を埋めるように、首の角度を変えた。

「ちげーよ」

「?」

「たった今戻るんじゃなくて。明日でも来週でも、いつでもいいや。落ち着いたところで元に戻ったら、どうするんだよ」

「喜ぶ」

 脊髄反射のように即答した。

「もう飛び上がって喜ぶな。ヒャッホーって」

「まあ、そうだろうけどよ。それだけか?」

 アキラの服越しなので、ヒカルの声は籠って聞こえた。

「んー。お祝いにコーラをがぶ飲みする」これが成人ならアルコールなのだろうが、アキラにはそこまでハメを外すことが連想できなかった。「それから…」

 そこから話しが進まずに、眉を顰めてしまった。明実の『再構築』のせいで男から女に変わってしまったが、性差による戸惑いはあっても、基本的な生活で困ることはあまりなかった。これというのも母親である香苗のサポート力が大きいからであろう。

「男じゃないとできないことか…」

 ぼうっと、それでも想像を広げてみた。

「彼女をつくって、かあさんに自慢するとか?」

 高校を受験する時に散々香苗に言われたことである。高校生の息子にできた彼女に嫉妬するのが香苗の希望だったとか。それをアキラは思い出したのだ。

「カノジョってったって…」

 ヒカルがアキラの腕の中で絶句した。アキラはヒカルの体温がさらに上昇するのを感じた。ただでさえ暑苦しい場所なのに、いまじゃヒカルの身体はホカホカである。

「佐々木みたいな美人なんて高望みしないから、普通の彼女できないかなあ」

 誰が恋愛対象になるかとクラスメイトの顔を思い出してみる。同じ班の恵美子は『学園のマドンナ』という超美人である。男だった頃の自分を思い出してみて、彼女の横に並んで立ったところを想像してみた。釣り合わないなと、すぐに除外。次に班長の由美子を連想した。当たり前の様に、脇に抱えた孝之をヘッドロックしていた。それに恵美子曰く他に彼氏がいるらしいから、これも除外。

「どこかに、いい女の子いないかなあ」

 つい口から思いが零れてしまった。と、腹の辺りでガチャリと物騒な機械の作動音がした。

「ふぁ?」

 密着しているヒカルを見おろすと、体を丸めて作ったスペースで、腰のポーチを前に回していた。何をするのかとすぐに思いついた。あろうことかこんな所で銃を抜こうとしているのだ。

「わ、バカ」

「いっぺん死ね」

「やめろって」

「いっぺんと言わず、何度でも死ねっ!」

「なに怒ってんだよ」

「わからないなら、そのまま死ね!」

 周りに迷惑な事に、二人は新宿駅へ電車が滑り込むまで、その場で揉みあうことになった。



 新宿中央公園をぶち抜くように東西に走る大通り。甲州街道の信号が運悪く赤になった時や、青梅街道への抜け道としてしか使われない道である。その割には道幅が広いので、この辺りは路上駐車が結構多かった。

 そんな高層ビルに囲まれた割には人通りも少なめで、都会のエアポケットのような場所を、アキラとヒカルは並んで歩いていた。

 アキラの頬に軽い引っかき傷があるのは、混雑した電車を降りた後の一悶着のせいだ。

「で?」

 この先の段取りを把握していないアキラは、肩にかけたガンケースを背負いなおしながら声をかけた。

「どこに集合?」

「ここいらのはずだ」

 対するヒカルも、もう落ち着いた雰囲気であった。ただ手にした小さなバッグを振り回すように持っていた。アキラが(そんなに振り回したら、誰かにぶつけるんじゃないかなあ)と思った瞬間に、当のアキラの腹へクリーンヒットした。

「げふ」

「あ、わりい」

 全然悪びれた声でないのは、まだ腹の底では怒っているからであろう。

 その瞬間を待っていたように、二人が歩く脇で、白いワンボックスがつんのめる程の急ブレーキをかけた。そのタイヤとアスファルトが擦れて立てる不快音に顔を向けると、後部スライドドアが丁度開くところであった。

 車内には国際色豊かな面々が乗っているように見て取れた。

 そんな車内から、わざわざ助手席のウインドをおろして金髪が顔を出し、指笛を一つ鳴らした。

 誰かと思ったら、あの怪しげな面接で受付をやっていた女であった。たしかエレクトラと呼ばれていたはずである。

 ヒカルは素早く左右を確認すると、歩道と車道を分けるガードレールを跨ぎ越えた。

「よ」

 短い挨拶をして、スライドドアをくぐって乗り込んでいく。アキラも置いて行かれては嫌なので、慌てて後に続いた。

「荷物は後ろに預かろう」

 ワンボックスは座席が三列あるタイプで、スライドドア入ってすぐの中列は空いていた。出入りにちょっと苦労しそうな後列には、二人の男が座っていた。

 向かって左に座った男が、禿げ頭に厳つい体という威圧感のある姿に似合わないような人懐っこい笑顔を向けて、手を差し出していた。

「え…」

 自分が肩にかけている物の中身を考えて、アキラが躊躇した。

「お願いします」

 対照的にヒカルが気軽な調子で、自分が手にしていたバッグを渡した。これから同じバイトをする同士で、荷物を預けるぐらいは信用しないと、仕事がうまく回らないであろうからだ。

 ヒカルがバッグを渡したのを見て、アキラもガンケースを車内に差し込むようにして手渡した。二人の荷物はそのまま後部座席よりも後ろのラゲッジスペースへと収められた。

「シートベルトはしておくれ」

 念を押すようにエレクトラが助手席から言って来た。アキラは安物のベンチシートへ腰を下ろすと同時に、急ブレーキをしただけで引きちぎれそうなシートベルトを手に取った。

「ドアが先だろうが」

 ハンドルを握っていた若い女が、愚痴るように言って来た。

「あ」

 慌ててスライドドアに手を伸ばそうとアキラが振り返った瞬間に、車は急発進して、すぐに急ブレーキをかけた。その反動でスライドドアが人の手を借りずに閉められた。

「ぐへっ」

 アキラの腹へシートベルトが食い込んで変な声が出た。

「おいおい」

 穏やかな声で、荷物を受け取ってくれた大男が、運転席の若い女へ苦情を告げた。

「俺はデリケートで酔いやすいんだから、丁寧な運転で頼むよ」

「バリケードみたいな顔してるくせに」とハンドルを握る女が言い返したが、再びの発進はとても滑らかな物だった。

「ばりけーど…」

 目が点になった声を漏らす男を見て、エレクトラが我慢できずに笑い出した。

「簡単な紹介をするよ」

 ひとしきり笑ったところで気が済んだのだろう、エレクトラは助手席から振り返った態勢のままで、窓際に頬杖をついたヒカルを指差した。

「彼女はエシェック、腕利きよ。特に銃はすごいから。こっちはルーキーちゃん」

「よろしく」

 ヒカルがわざわざ後列の二人を振り返って挨拶したのを見て、アキラも真似をした。

「こちらこそ」

 後部座席には二人の男が座っていた。荷物を受け取ってくれた方の厳つい男は、その体格に似合わず人懐っこい笑顔を再び向けてくれた。

「彼は機関長(チーフ・エンジニア)。あたしなんかはチーフって呼んでる」

「確か、壇之浦で一緒に仕事をしたことがあったよ」

 エレクトラの紹介に、チーフ自身が付け加えた。その言葉に、ヒカルが遠い目をした。どうやら頭の中の名簿と彼を照合しているのだろう。

「あー」

 ヒカルの口から気のない言葉が漏れた。

「あの頃は、アフロヘヤーでしたよね」

「え!」

 運転席から驚きの声が上がった。見ると、運転手の若い女が、ハンドルそっちのけで振り返っていた。視界に入っていたエレクトラも、そしてチーフの隣に座っている男もギョッとした顔をしていた。

 まあ、今の禿げ方からアフロヘヤーを連想するのはとても難しいことだろう。

「おいおい。前を見て運転しろよ」

 朗らかに笑いながら運転手に注意するチーフ。ツルリと自分の頭を撫でて恥ずかしそうに笑った。

「たしかに、あの頃は、まだ髪型を選ぶ余裕があったものなあ」

「へー。チーフにも髪が生えてた時代があったんですねえ」

 隣に座る男に言われてしまった。

「おいおい。オレだって、それはそれは純真で無垢な、それでいてフサフサな少年時代があったもんさ」

「この世界ができた時から、その格好じゃないんですか? だいたいチーフが純真無垢?」

「いまと変わらないじゃないか」

「えーと…」

「それに、明日は我が身という言葉もあるんだぞ」

「そいつぁ大変だ」

 と、軽口を言いあっている男同士の会話に、エレクトラが無理に割り込んだ。

「そちらはドン・ファン。女癖が悪いから、あたしらは注意な」

「酷いなあ。いまはワイフ一筋だっていうのに」

 チーフの隣に座る男は、彼よりは細い体をしているが、充分に筋肉質な体であった。日本人離れした西洋風の顔を歪めて言い返している。容貌とは違って、口にしているのは流暢な日本語であった。

「そのワイフってのは、何人いるんだい?」

 ジト目でエレクトラに聞き返されて、ドン・ファンは外の風景へ視線を逃がした。

「まあ、いいか。で、運転はチョコ」

「よろしく」

 ハンドルを握る若い女が、今度はルームミラー越しに挨拶を送って来た。

「チョコもそんなに現場には出てないから、ルーキーちゃんとは、どっこいかな」

 エレクトラの紹介に、眉だけを顰めるチョコ。年のころはアキラよりも二歳ほど上であろうか。見た目は日本人であるが、どことなくエキゾチックな雰囲気を纏っていた。おそらく長い髪に自然なウェーブがかかっているせいであろう。

 ピンク色をしたカッターシャツにジーンズという活動的な服を着ているのが、これまたとてもよく似合っていた。その横のエレクトラは、ヒカルと申し合わせたようにパンツルックのスーツ姿である。ただし色は明るめのベージュ色であった。

 後列の二人はと言えば、チーフの方は建築現場で働くオッサンたちが着るような作業着のズボンにタンクトップ、ドン・ファンは茶色のスラックスに長袖のVネックの黒いTシャツであった。首元に光るのは小さな銀色のロケットである。

「首都高からでいいか?」

 チョコが甲州街道へ車を向けながら訊いた。

「ああ、いいとも。東名は第一の方を使おうか」

「りょーかい」

 スリットにクレジットカードが入っているかを、わざわざ触って確認したチョコは、首都高に入るためのゲートへ舵を切った。入り口の電光掲示板によると、それほど酷い渋滞は起きていないようだ。

 飛行機が大都会の空へ離陸するように、車はスロープを駆け上がって行った。

「さてと」

 無事に本線と合流できたところで、エレクトラは再び車内を振り返った。

「大雑把に、仕事の内容を確認しておくよ」

「おうよ」

 後列の二人が、アキラの後ろから顔を出した。左からは香水の香りだろうか、いい匂いがした。反対側からは残念ながら加齢臭が漂ってきた。

 ヒカルがちょっとだけムッと顔を曇らせた。

「社長が、オジサンの所まで書類を取りに行く事は理解してる?」

 エレクトラが訊くと、車内の全員がうなずいた。

「それを邪魔するのが、今回の仕事なんだけど」

「行きに邪魔した方が、簡単じゃない?」

 スライドドアを急ブレーキで閉めた時と違い、丁寧な運転技術を見せるチョコが訊いた。いまは遅いトラックを抜こうとして、右車線の様子をドアミラーで確認していた。

「そりゃダメダ」

 明るくチーフが否定した。

「一人を邪魔しても、別の誰かが行くかもしれない。持って帰ってくる人に話しかける方が確実だ」

「そのオジサンの方を閉じ込めちゃえば…」

「最悪ね」

 エレクトラが残念そうに声のトーンを落とした。

「オジサンは、うまくすれば味方になってくれる可能性があるのよ。社長とは仲が悪いんだから。あたしたちの妨害が成功したら、社長には会社を任せられないって言ってくれそうだし」

「なるほど」

 チョコがゆったりとうなずいてみせた。その首の動きに合わせたように左車線へと車を戻していった。

「同じように、オジサンが上京して来る可能性はごく低いものになっているわ。書類程度取りに来れなくて、なんの責任者か、といったところね」

「で?」

 つまらなそうにヒカルが口を開いた。ポケットから柄つきのキャンディを六本取り出した。

「どの交通機関が怪しいんだ?」

 まずキャンディの束をエレクトラに差し出し、彼女が二本取ってから後列の二人にも勧める。短い礼の後に二人が取り、アキラに選ばせた後に残った一本の包み紙を解き始めた。

「まずは飛行機ね」

 ハンドルから手を離せないチョコのために包みを解いてやったエレクトラが、自分の口へもキャンディを放り込んでから、顔を歪めた。

「なによ、この味?」

「包み紙に書いてあんだろ」

 不愛想なヒカルの一言で、渋い顔になっていた車内の全員が同時に、一旦は握りつぶした包み紙を開いて、そこに書いてある文字を目に入れた。


<アイスキューカンバー味>


「よくも、こんな不味い商品あったわね」

「そお?」

 ヒカル以外では、一人ケロッとしているチョコが、口の中でキャンディを転がしながら訊いた。

「けっこういけると思うけど?」

「…、まあいいか」

 エレクトラは、それでもキャンディを口の中で転がしながら話を続けた。

「国内線各社の地上スタッフには、それとなく『お友達』がいるから、燃料の補給は中途半端で終わることになってる。そして燃料計への細工も同時に行うように手配は済んでる。これでパイロットは通常通りと思い、離陸する。すると飛行機の燃料キャップが、なぜか飛行中に抜けて、燃料が漏れ出すこと事故が起きる。そのせいで飛行機はガス欠になり、あたしたちが待機する名古屋空港へ不時着してくる。という寸法よ」

中部国際空港(セントレア)じゃなくて、名古屋空港なんだな?」

 チーフの確認に、エレクトラがそうだとうなずいた。

「そして機内から避難してきた社長さんが、不時着のストレスからか気分が悪くなって、どこかの病院へ運ばれることになると」

 ドン・ファンが話しの先回りをした。

「どこかじゃないわ」

 エレクトラが注意を促すように言った。

「ウチと業務提携している市内の病院よ。救急車もそこから借りることになってるから」

「救急車ぁ?」

「明日の名古屋空港じゃあ、救急車の車検で、いつもの車が使えないことになってるの。その穴を埋めるために、近くの病院から別の車が派遣されることになってる。そのスタッフを、チーフとドン・ファンにやってもらうわ」

「新千歳で使った手か」と顎を撫でるチーフの横で、ドン・ファンがつまらなそうな声を上げた。

「二人だけで?」

 ドン・ファンは、口から出したままのキャンディで、エレクトラを差した。救急車はだいたい隊員が三人乗り込んでいる物だからだ。チーフとドン・ファンでは、一人足りないと言いたいのだろう。

「いえ。実は、コレと同じ車がもう一台、同じところに向かっている途中よ。そっちにも『船員たち』が乗っているわ」

「ダレとダレだ?」

 質問をしたのはチーフだった。真面目な顔はいいが、口元からキャンディの柄が飛び出しているのは滑稽に見えた。

(サブ)のピーテンとか。泊まる予定の場所で会えるはずよ」

「まてまて」

 ドン・ファンが慌てた声を出した。

「サブがピーテンって、どういうことだよ」

「ピーテンってのは誰だよ」

 話しが分からなかったのはヒカルも同じだったようで、エレクトラに質問してくれた。

「ウチの若い連中だよ」と簡単な説明の後に後列の二人へ目を戻した。

「救急車は二台用意したわ」とVサインのように二本の指を立ててみせた。「二人には、それぞれアルファチームとブラボーチームのチームリーダーになってもらう。あたしは後ろで全体の指揮をホテルチームとして執る。他にチョコなんかがロメオチームとしてバックアップに入る。通信はインカムを用意したから、それで。もし工作中に何かあって、あたしが使い物にならなくなったら、サブのピーテンが指揮を引き継ぐ。OK?」

 エレクトラの説明に、チーフとドン・ファンが顔を見合わせた。

「じゃあ、年寄りは楽させてもらおうかな」

「OK。じゃあ俺がアルファだな」

 二人がアキラの頭の上で拳同士を突き合せた。

「自家用機とか話しが出ていたような気がするが?」

 男同士で意気投合している間に、ヒカルがエレクトラに質問をした。

「その場合はどうなる?」

「同じよ」

 ちょっと肩を竦めたエレクトラは、同じことを説明するように言った。

「地上スタッフが燃料補給なんかは書類上完璧にやる。そして燃料キャップが飛行中に抜けて、名古屋空港に不時着。救急車が乗員乗客の内、具合が悪くなった社長を病院へ搬送する」

「了解」

 大きくうなずいたヒカルは、手を開いて見せた。

「どちらにせよ不時着は名古屋なんだな」

「航空管制の方にも話しが通っているから」

「飛行機じゃなかったら?」

 チーフが困ったような声を出した。

「考えられるのは新幹線か」

「そちらは、博多駅に詰める航海長ナビゲーターたちが対応する」

「新幹線だと、やっかいだな」

 ムウと唸りながらチーフが腕を組んだ。

「やっかい?」

 チョコが不思議そうに聞き返した。車はトンネルへと駆け下りていく真最中だ。

 エレクトラが右車線を指差した。チョコは一旦質問を止めて、混んできた首都高で車線変更した。

「電車なんだから、電気停めちゃえばいいじゃん」

 トンネルの壁に走行音が反響するので、チョコが雑音に負けじと声を張り上げた。

「そうはいかんのだ」

 流れてはいるが車が詰まっているトンネルという騒音の中で、チーフは優しく教える声になっていた。

「新幹線に手を出すと、公安委員会や警察庁、自衛隊の対テロ部隊なんかが本気になって首を突っ込んでくるんだ。なにせ日本の大動脈だからな」

「やっかいごとが増えるばかりで、いいことは無いってことさ」

 まだ不思議そうに首を捻っているチョコに、ドン・ファンが補足してやった。

「まあ、なりふり構ってられない時はやるけどね」

 さらっと怖いことを言った。

「いちおう社長が乗った車両が混んでいて、その混雑の人いきれで社長が気分を害して失神。名古屋駅で親切な紳士に介抱されながら下車。駅職員が救急車を呼ぶと、名古屋空港から一台の救急車が駆け付け、彼を病院へ運ぶことになる」

「あ、そこまで俺たちをコキ使うのね」

 ドン・ファンが明るい調子で確認した。

「なぜか市内の救急車は、明日は全部その時間は出払っている事になっているから、仕方ない」

「在来線だったら、やっぱり踏切事故か何かが起こるのか?」

 チーフの質問に、エレクトラがニヤリと嗤った。

「それには罠が仕掛けてある」

「わな?」

 トンネルを抜けて明るくなった車内に、チーフの訝し気な声が響いた。首都高の方は流れが速くなり始めていて、それに従いチョコがハンドルを握っている車も速度を上げ、短いトンネルを何回もくぐり始めた。おかげで騒音の音量が大きくなったり小さくなったりとせわしない。

「新幹線以外の電車だと、岡山まで来ればサンライズエキスプレスがある。これが明日は上りだけ運休ということになっている」

「つまり、新幹線の方へ意識が向くということか?」

「じゃなくて」

 悪そうな笑顔を広げながらエレクトラが話しを続けた。

「一見運休だけど、車両を東京に戻さなきゃいけない事には変わりはない。だから東京に向かって電車は走ることは、走る。その時、空気を運ぶ回送よりは、少しでも稼ごうと少量ながら切符を再び販売することになった、という筋書きよ」

「なるほど。いったん裏と見せかけて、表とするのか」

「在来線で移動を考えているなら、そういった情報にアンテナ張っているはずだから、この列車に乗ろうとするでしょ。これを逃すと他は、新快速なんかを何回も乗り継いで、時間をかけないと東京まで来られないんだから」

 そうはうまく行くだろうかと、男同士がアキラの頭の上で顔を見合わせた。

「その電車は、信号長シグナル・オフィサーが指揮を執るわ」

「あいつが?」

「鉄キチのあいつらしいな」

 男同士で再び顔を見合わせると、今度は苦笑いのような物を浮かべた。

 ふとエレクトラが助手席の上で身を捩じって、ドアミラーを覗き込んだ。それに気が付いたチョコも、運転席側のドアミラーを真剣な顔をして覗き込み、後方を確認した。

 ドン・ファンがルームミラーを見ようと背伸びしたところで、前を向いたままのチーフが苦笑いしながら口を開いた。

「違うだろ」

「ああ、気にしすぎだな」

 気のない様子で窓から外を見ていたヒカルが同意した。

「?」

 一人だけ話しが分からないアキラがキョトンとしていると、チーフがチョコに言った。

「心配なら速度を落としてみればいい。尾行なら、向こうも落とすから」

「うす」

 チョコは右車線のままでアクセルを緩めた。すると甲高い排気音を立てたスポーツカーが左車線から抜き去って行った。

 車内の一同が見送る中、チョコの溜息だけが聞こえた。走行音に紛れてしまっていたが、ヒカルの腰の辺りから「チキ」と小さな金属音が聞こえた。

「で、車だと?」

 ヒカルの質問に、エレクトラは表情を元に戻すと、少し肩をすくめた。

「それは車両班が関西地方で仕掛けるぐらいしか聞いてないわ。高速バスでも自家用車でも、バイクでも。大型で囲んでしまえば高速だろうが一般道だろうが停めることはわけないもの」

「最悪、ぶつけて停めればいいわけか」

 コロコロとキャンディを歯に当てる音を立てて、ヒカルは納得した声を出した。

「それで? 相手が複数だった場合は?」

「囮をたくさん出してきた場合ね」

 それが何の障害でもないようにエレクトラは軽い調子で言った。

「オジサンの所から飛行場や駅へ向かう時、社用車を使う場合は、こちらの息がかかった社員が運転手を務めることになってる。そこから、どれが本物か連絡が入るはずよ。地元のタクシーなんかを使う場合は、そのタクシーの運転手が知らせて来ることになってる」

「抱きこんであるのか?」

 チーフの確認に、エレクトラは不快そうな顔をした。

「抱きこむなんて。ただ、地元のタクシー会社が『業務』に『協力』してくれそうなだけよ」

「他に使えるルートは…」

 チョコがハンドルを握りながら、ボーッと中空を見つめて思考にふけった。

「おいおい、チョコ。運転に集中してくれよ」

 たまらずチーフがおどけた口調で注意した。チョコは慌てて前を向きなおした。幸いなことに都心環状線は、もうそんなに混んでいなかった。分岐が近づいてきたので、三号渋谷線へ舵を切った。

「陸海空…。海?」

 混雑を抜けて、車内の騒音レベルが下がっていく。そのおかげで、チョコの呟きが耳まで届いた。

「船?」

 チョコがルームミラーでチーフと目を合わせた。

「前を向いて運転しろと言っておるだろうに」と苦笑いをして見せた後に、チーフがその質問にこたえた。

「船は無いだろ」

「なんで?」

 チョコの疑問に短くドン・ファンが答えた。

「沈むから」

 アキラはギョッとして、ドン・ファンから身を引いた。脇がヒカルにぶつかってしまう。そんなアキラの様子を見おろしたドン・ファンが、皮肉めいた顔で右肩だけをすくめた。

「別に俺たちが手を出すなんて、一言も言ってないだろ。ただ出港した船が、どこにも辿り着かないことは、よくあることなんだ」

 アキラの体をよいしょと押し返したヒカルが、彼を睨んだ。

「ウチのルーキーを脅かすのは止めてくれる?」

「悪かったよ」

 ちょいとおどけた様に、今度は両肩を竦めてみせるドン・ファン。まるで吹替の映画スターのように、その仕草が似あっていた。

「ルーキー」とヒカルに話しかけられて|(あ、オレのことか)と自覚するアキラ。「こいつらは伊達に船長だの機関長だの名乗っているわけじゃないんだ。海の上の方が専門家さ」

「へー」

 感心して後席から首を突き出している二人へ視線をやると、チーフは再びニカリと笑い、ドン・ファンはとても決まるウインクを投げてよこした。

「いまのところ自家用ジェットの線が一番濃い」

 確認するためか、スーツの内ポケットから出したスマートフォンの画面を見ながらエレクトラが情報を補足した。

「調布に置いてある会社名義の自家用ジェットと、東京ヘリポートに置いてあるジェットヘリから、それぞれ飛行プランが提出されたみたい」

「車は?」

 チーフの念押しに、画面を操作しながらエレクトラがこたえた。

「社用車も複数遊ばせてあるし、レンタカーでスポーツカーの予約も入っている」

「では陸路も、まだ可能性が残っておるな」

「航空会社とは年間契約で座席を確保しているようだし、まだ可能性が残っている。JRの切符の方はまだのようだけど」

 画面から視線を外さないエレクトラに、チョコが訊ねた。

「じゃあ、なんで自家用機だと決めてかかるのさ」

「レンタカーはキャンセルしても、キャンセル料を払えばいい。旅客機も、年間契約ならば金は余分にかからん。ただ、自家用機は一度準備を始めるだけで、相当な維持費を消費するし、飛行機自体にも負担をかける」

 チーフが指折り数えるようにしてチョコの疑問にこたえた。

「乗り心地の悪いヘリで、東京から福岡までの長距離を飛ぶとは思えんから、飛行機の方が怪しい」

「ヘリは故障も多いしな」

 ドン・ファンがチーフの言葉に付け足した。

「なるほろ」

 口の中でキャンディを転がしてチョコが納得した。その時、エレクトラが操作するスマートフォンが可愛い鐘の音を立てた。

「情報が更新されたわ」チラリとドン・ファンの顔を見てから言葉を続けた。「ヘリは故障で飛行中止。社長はいまだに東京のオフィスで執務中」

「あの、ナントカという秘書は? どう動いてる?」

 チーフの質問に、エレクトラはさらにスマートフォンを操作した。

「ナントカって…。名前は成田よ、覚えておいて。それもただの秘書じゃなくて、秘書室長ね。…。変ね。なんか群馬県の工場へ出張中になっているわ」

「おいおい」

 いい加減乗り出しているのが疲れたのか、チーフが後席に戻りながら困ったような声を上げた。

「ウチが仕掛けるのは、向こうも薄々気が付いているのだろ? その週末に、マークすべき人物が反対の土地へ出かけているとは…」再びチーフが乗り出してきた。「偽の情報を掴まされておらんだろうな」

「いちおう社内の協力者だけじゃなくて、ウチからも追跡班が出ているはずだけど…」

 とても不安そうに眉を顰めるエレクトラ。

「誰が追跡しとるんだ?」

砲台長(ターレット・オフィサー)だけど…」

 エレクトラの力のない声に、彼女とチーフ、ドン・ファンが顔を見合わせた。三人が異口同音に呟いてしまう。

「不安だ…」

どうやらそのターレット・オフィサーなる人物は、仲間内から信頼が低いようだ。

「そこは、いまここで文句を言っても始まらないだろ」

 あまりの落ち込み様に、ヒカルが励ますほどだった。

「それより福岡空港の方が万全なのか気になるぜ」

「そっちは水雷長(トーピード・ヘッド)とキハラ、スタンプなんかが行ってる」

「キハラ?」

 エレクトラの説明に、一瞬キョトンとしたヒカルは、突然吹き出した。

「キハラって、あの?」と頬を指でなぞって見せた。どうやら何かの符丁のようだ。それを見てエレクトラが機嫌の悪い声を出した。

「どの話しか分からないけど、キハラと言ったら、ウチじゃ一人しかいないんだけど」

「あ~」

 ヒカルが何か喋る前に、チーフが口を挟んだ。

「エシェック、武士の情けじゃ。キハラのアノ話しは無しで」

「りょ、了解」

 よほどの面白話があるのか、ヒカルの声にビブラートがかかっていた。

「まあ、助っ人も付けてあるし」

 安心してとばかりにエレクトラがヒカルに視線を固定した。

「わかったよ」

 何か言いたそうなままのヒカルが、チラリとチーフを見てから言った。

「アフロヘヤーだった男がスキンになるぐらいさ。キハラも成長してるんだろ。信用するぜ」

「それを引き合いに出すなよう」

 チーフが厳つい外見に全く似合わない声を出した。その滑稽さに、アキラですら吹き出してしまった。



「さて…」

 アキラは努めて冷静を装った声を出した。

「現在の状況を分析してみよう」

 アキラの体は布団に包まれており、あとは寝るだけという段階まで来ていた。木製を装ったフローリングには床暖房が設置されており、そこへ畳三枚だけ並べた上に敷いた布団は、アキラが潜りこんだばかりだというのに、ぬくぬくとして暖かだった。

「どうしてこうなった」

 アキラの独り言に返事があった。

 同じ布団で横になっているヒカルである。二人は枕を並べて、天井を見上げているのだった。

 高速道路を愛知県まで来たワンボックスは、暗くなった頃に、県北西部にある過疎化した地方へとやって来た。

 そして辿り着いたのが、今夜の宿であるこの建物であった。

 建築して間もない、コンクリート造りの学校のような、二階建ての施設である。どうやら車による送迎を考えた造りのようで、車寄せに大きく屋根が張り出しており、雨風に利用者が妨げられないようになっているし、その脇の駐車場は大型バスがやってきても充分停められるほどのスペースがあった。

 荷物を降ろして大きな自動ドアをくぐる時に、その風除室に木彫りの看板が立ててあった。

<特養ひげはぎ>

 何の施設かアキラはピンと来なかった。が、内側の自動ドアが開いたところで顔を顰めてしまった。

 空気にわずかだが腐敗臭のような物と、消毒薬のツンとした匂いが混ざっていたのだ。

「ここは?」

 車のリヤハッチ開けて荷おろしをしていたチーフから、自分たちのバッグを受け取ったヒカルが、エレクトラに訊ねた。

「家族に捨てられた年寄りが収容される施設よ」

 自分も円筒形をしたバッグを肩に担ぎながら、エレクトラは感情の乏しい声で言った。

「現代の姥捨て山、といった方がわかりやすいかしら?」

「老人ホームか」

 こちらは、口の所で一本の紐で縛るズタ袋を、肩にかけるように背負ったチーフである。

「オレも、そろそろこういうところを考えなきゃいけないんだろうなあ」

「やめといた方がいいんじゃない?」

 エレクトラが皮肉めいた微笑みを浮かべて、立つと山のようなチーフを見上げた。

「見舞いに来てくれる家族もいない環境なんて。騒がしいのが好きなチーフには、耐えられないでしょ」

「そうかもな」

 ゴリゴリと、車に乗っているだけで伸びてきた髭をさすりながら、チーフが遠い目をした。

「じゃあ、船の機関室にハンモック吊るして、そこで暮らすかねぇ」

「いまとドコが違うのよ」

「たしかに」

 二人の会話が済んだようなので、ヒカルが改めて声をかけた。

「現役で使っている施設なのか?」

「ええ、二階はね」

 簡単に答えるエレクトラに、一同は顔を見合わせた。

「一階はデイケアになっていて、こういう時に借りられるように、話しがついてるのよ」

「どこも寄付金は欲しいだろうからな」

 小さな緑色のリュックを背負ったドン・ファンが、反対側から口を挟んできた。

 入ったところはロビーになっており、そこには誰もいなかった。右手には、一般的な就業時間が過ぎているためか、これまた無人のカウンター。正面にはエレベーターが一基だけあった。その左脇にもう一つ自動ドアがあった。

 エレクトラが先に立ってその自動ドアをくぐった。

 その向こうには、まるで入院病棟のような構造で部屋が並んでいた。どの部屋も一人用の介護ベッドが一台ずつ置いてあり、他には作り付けの棚ぐらいしかなかった。

 個室が並ぶ廊下を抜けると広いスペースが設けてあり、そこには大きなテーブルが並べられていた。どうやら食堂兼集会場といった雰囲気である。

 節電のためだろうか、いくつかの照明に灯を入れていなかった室内であるが、その食堂に面したカウンターの向こうにエレクトラが入ると、次々に灯されて明るくなっていった。

 食堂のテーブルの上には、すでに十人分以上の食事がトレーに置かれて並べてあった。埃がかからないようにラップがかけてあるが、冷めてしまっているのは間違いなかった。

「お、まともなメシだ」

 そんな学校給食の出来損ないのような物でも嬉しいのか、一人分ずつ分けられているトレーを覗き込みながらチーフが感想を述べた。

 その時、再び自動ドアが開いた。

 車を駐車場へ回していたチョコが追いついたのかと首を巡らせると、一人だけでなかった。彼女と同じ世代の男女が六人ほど一緒である。

 そちらの男女は、同じような動きやすい服に揃えているので「ボクたちのサークルは、これからキャンプなんです」といった雰囲気であった。

「ちょうど向こうも着いてさ」

 チョコが不思議そうな顔をしているこちらの五人に、短く説明した。

「いいタイミングね」

 エレクトラが機嫌よくこたえた。

「とりあえず、それぞれの紹介は荷物を置いてから、ここ食堂で行うわ。私とチョコ、モーグルはこの奥の宿直室で寝るから、他のコは部屋を選んで」

 荷物を置いてきたエレクトラが、荷物を持って立ちすくんでいる一同に告げた。

「個室は大体同じだから、どれを使っても構わないわ。ただ、明日の朝には引き払うから、あまり散らかさないように。それと侵入者などの異常事態が起きたら、ナースコールを押すと廊下のスピーカに繋がるから、それでみんなに報告して」

「了解」

 肩の荷物を背負いなおしたチーフが、部屋の方へ振り返った。

「ど・れ・に・し・よ・う・か・な…」

 ドン・ファンは、まるで小学生の様に指をうろうろさせて部屋を選んでいた。

「あ、あなたたちはコッチ」

 さて部屋を見に行こうかと足を踏み出しかけたところで、アキラとヒカルに声がかけられた。

「?」

 手招きしたエレクトラに連れられて、カウンター横の部屋に案内された。

 その部屋は、他の個室とはちょっと違った。

 入るとすぐ横にトイレとシャワーが据え付けられ、短い廊下の向こうに、他より広いスペースがあった。

 どうやらそこは、家族が一緒に泊まれるように造られた特別室のようだ。

「他は『船員たち』だけど、あなたたち二人は違うものね」

「まあ、そうだなあ」

 ヒカルが、まだ部屋を選びかねているドン・ファンへチラリと目線をやってから、苦笑のような物を浮かべて言った。

「夜に、男が入って来たって騒がれて、起こされるのも嫌だし」とエレクトラがアキラを見た。その視線の意味が分からなかったアキラは、素直に首を捻るばかりだ。

「じゃあ、落ち着いたら食堂に集合ね」

 念押ししたエレクトラがついでのように言った。

「それと、本番は明日の予定だから、励まないようにね」

「誰が励むかっ!」

 ほとんど脊髄反射の様にヒカルが言い返した。話しがまだ分からないアキラは、キョトンとするばかりだ。

 そして荷物を肩に部屋の奥まで入って、二人は硬直した。

 フローリングの床へ、直接は申し訳ないからとばかりに並べられた畳の上に、敷かれた一組の布団。枕は仲良く横に二つ並べられていた。

「は?」

「やっぱり」

 目が点になるアキラの横で、ヒカルが頭を抱えた。そうしてから落ち着くためか、ポケットから柄付きキャンディを取り出すと、包装を慌ただしく解いて、口へ放り込んだ。

「誤解してるんじゃないかと思ったんだ」

「えーと」

 まだピンと来ていないアキラが訊いた。

「どういうこと?」

「つまり…」

 顔を赤くしたヒカルが、頭を掻きながら忌々しそうに言った。口元のキャンディの柄がピコピコ動いていた。

「あたしらが恋人同士(カップル)だって思われてんだよ」

「かっぷる?」

 その単語を平仮名で連想してしまったアキラが小さく首を傾げた。そこから段々と顔が赤くなってきた。

「え? え?」

 変にどもった声が出た。

「だ、だって、オレたち、いちおう女同士ということになってるんだぜ」

「このマヌケが」

 ヒカルの鉄拳が炸裂した。

 布団にノックダウンしたアキラを見おろし、ヒカルは追い打ちとばかりにバッグをその背中へ放り投げた。

「げふ」

「世の中にゃ女同士だろうが、男同士だろうが、それこそ三人組とか、色々ある…、いるんだぜ。それに…」

 忌々しげながらも軽く、ヒカルはアキラの足を蹴った。

「おまえがあんまりも素人丸出しだからだよ。そんな素人のおまえを、あたしが連れまわしている理由で、一番思いつきやすいモンだったんだろ」

「ひでえ」

 自分の上からバッグをどかしながらアキラは呻いた。

 角が当たって特に痛かったあたりを撫でようと、右手を背中に回しながらヒカルを見上げると、まだその顔は赤いままだった。

「あー、ぜってー、変な趣味なヤツって思われた~」

 頭を抱えてから気を取り直したのか、顔を上げて明後日の方向を向いた。

「ま、まあ、変にちょっかい出されるよりは、目の届くところに置いておけるか。仕方が無いから、そういうことだ」

 独り言というより自分で自分を説得するような声であった。

「どういうことだよ」

 自分の背中をさすりながら、うんうんと一人でうなずいているヒカルに聞き返すと、わざわざ口から出したキャンディで指差され、噛みつきそうな顔で言い返された。

「『船員たち』には、あたしらはカップルということにしておく。仮にな! 仮だからな!」

「そんなぁ」

 演技ができるか自信がなくて、アキラの口から情けない声が出た。すると、それを誤解したヒカルが、またアキラの足を蹴った。

「あたしだって面白くないよ。でも、しょーがねーだろ」

「どうすりゃいいんだよ、オレは」

 余分にスキンシップなんかしたら、後が怖いだろうなと連想しながらアキラは訊ねた。

「別に」とヒカルはそっけない。キャンディを再び口の中へ放り込んで「いつもの調子でいいだろ」

「ホントかよ」

「クラスの佐々木にだって誤解されるんだ。普通にしてりゃ向こうが勝手に誤解すんだろ」

「あ~」

 そういえば教室で言われたばかりである。

「そんなアホみたいに口開けてんじゃねえ。もっと隙を無くせよ」

「あ~、う、うん」

 ヒカルに指摘されて、慌てて表情を引き締めるアキラ。顔ができたところで部屋の入り口がノックされた。

 小さくスライドドアが開かれて、運転手だったチョコの声だけが入って来た。

「そろそろミーティングといこうか」

「了解」

 荷物を解く暇もなかった二人は、思い思いの格好でみんなが集まっている食堂へ向かった。

「来たね」

 エレクトラが、いかにも出来るOLといった風情で、最後に顔を出したアキラとヒカルへ視線をよこした。

「彼女はエシェック。『ネモ船長』も一目置くほどの腕利きだから、若い者は失礼がないようにね」

 エレクトラの紹介で、もう一台の車に乗って来た六人が目を丸くした。なにせヒカルは高校生にも見ることができるほど若い外見である。その集まった視線に、ヒカルは不愛想なVサインでこたえた。

「それと、エシェックの連れのルーキー」

 ピョコンとアキラが頭を下げると、あからさまな軽蔑の視線が集まった。

「?」

「ルーキーちゃんなんて言われている奴は、大抵は使えないヤツのことだからよ」

 意味が分からずキョトンとしているアキラに、ヒカルが耳打ちした。

「チーフとドン・ファンは、紹介しないでもいいか。彼がピーテン。ロメオ班の責任者で、全体のサブリーダーも兼ねる…」

 エレクトラの言葉の途中で、とても痩せた男がニヤリと笑って前に出た。

「よろしく」

 ヒカルにだけ握手を求めた。ヒカルは相手の顔をよく覚えようとするかのように、じっくりとピーテンと紹介された男を観察しながら、その握手にこたえた。

 いつもどんな食事をしているのだろうと思わせる程に痩せた男である。ただ清潔感は一定以上あり、笑った口元には右の糸切り歯が無かった。

 町ですれ違っても、歯の欠けた痩せた好青年としか思えないだろう。ただ強い意志を感じさせる目だけは存在感があった。

「それで、指揮権の話しなんだけど」

 エレクトラが歯に物が挟まった声を出した。顔色を窺うようにチーフとドン・ファンを見比べた。

「あたしが全体の指揮で、ピーテンがサブってことでいいわよね?」

 質問というより確認する口調であった。それに対してチーフは苦笑いのような物を浮かべ、ドン・ファンは肩を竦めた。

「それが『ネモ船長』の判断なら」

「オレたちは日本に来たばかりだし」

それを聞いて(ということは、いつもは外国にいるのかなあ)とアキラは漠然と思った。確かに日本人離れした外見をしている。が、その口から流れてくる日本語は、相変わらずとても流暢であった。

「アルファチームは…」とエレクトラが悩んだ声を出すと、ドン・ファンが自ら手を上げた。

「俺が指揮する」

「了解。アルファにはイフリートとハデス。ブラボーにはシバとティタン」

「よろしく」

 若い四人が、それぞれのリーダーと挨拶を交わした。エレクトラは狙ったのだろうか、ドン・ファンが率いるアルファチームは、どちらかというと優男のイメージがある青年ばかりで、チーフが率いる方のブラボーチームは、筋肉質で大柄な男ばかりであった。

「ホテルチームには、あたしとエシェック、ルーキーちゃんでいい?」

 エレクトラがヒカルに確認した。ヒカルは腕組みをしながらも納得がいったとばかりに、キャンディの柄を頷かせてこたえた。

「チョコとモーグルはピーテンと一緒にロメオということで、後詰めね」

「了解」

 ピーテンが歯の欠けた笑みを返した。モーグルと呼ばれたのは、乗って来たワンボックスで運転手をしていたチョコと、同じぐらいの若い女であった。

「一二人中五人も女の子なんて、華やかな職場だなあ」

 ドン・ファンがとても嬉しそうに言うと、チョコとモーグルが打合せしてあったかのように彼を軽蔑する目をした。

「え? なにそれ?」

 その冷たい目線に動揺するドン・ファン。エレクトラがカウンターの上に置いてあった荷造り用のビニール紐を手に取った。

「これを使わないで済むようにお願いね」

「は、はい…」

 とても恐れる顔を作ってドン・ファンが下がった。その様子がとても滑稽だったので、集まっていた者が一斉に笑い出した。

「さて、食べてしまうとするか」

 チーフが促すと、いま行われたグループごとに固まって食事が始められた。

 味がだいぶ薄く、量もちょっと物足りない食事であった。食べながらグループごとに細かい打ち合わせをしているようで、食堂は結構な騒音に包まれた。

 中にはトレーの食事に一切手を付けずに、瓶詰のベビーフードみたいな物だけを口にしている者もいた。彼の分は、他の「船員たち」の胃の中へと収められた。

 そして、賑やかだが物騒な話題の食事のあとに、それぞれの部屋に解散となった。

 着てきたスーツは皺にならないようにハンガーで壁にかけ、ヒカルはその下に着けていたホルスターなんかを外して、休める格好になった。

 アキラとヒカルは部屋のシャワーを順番に使用して一日の疲れを落とし、そしてこの状況へと至った。

 いいかげん記憶に逃げるのも限界がきた。

 ヒカルの柔らかい吐息が聞こえていた。

 アキラは布団の中で真っすぐと不動の体勢のままだ。

 昼間に学校があり、それからここまで車で揺られ続けたのである。体が疲れていないわけがない。しかしアキラには眠気が露とも来なかった。

 アキラは家族旅行なんかでも、なかなか寝付けないタイプなのだ。それに加えて異性と同じ布団に入っているなんて、ほとんど初体験である。

 いや、小学校低学年までは香苗の布団に入ったことがあった。が、それとこれとは話しが違うであろう。

 アキラは首を動かすことができず、目だけでヒカルを観察した。

 こんな環境でも平気なのか、ヒカルは怒ったような表情のまま瞼を閉じていた。規則的な呼吸から、本当に寝に入ったものと思われた。

 起こしてしまうかもしれないが、勇気を出して首を回した。枕の中の詰め物がとても小さくギシリと鳴った。

 しかしヒカルの様子に変化はなかった。

 見た目は同じ年頃の美少女である。こうして見る寝顔は新鮮で、普段見せる男勝りな様子をまったく感じさせなかった。

(これまで、何をしてきたんだろう)

 ここ数日、何度も感じた疑問が再び浮かんできた。

 あのチーフと呼ばれているごつい大男とは、古い知り合いのようだ。ということはヒカルの年齢は、やはり見た目通りでは無いのだろう。自分だって本当は男の子のはずなのに、今じゃ母親似の女子高生という外見なのだ。明実が開発中のこの『再構築』という技術では、年齢ぐらい簡単に誤魔化せるのであろう。そういえば、いつか明実が不老不死への研究だとか言っていた気がする。少なくとも二人の体は、それに近い技術が使われているのだ。

 などと考えている内に、アキラも寝入っていたらしい。

 次に気が付いた時は、全身が熱かった。

「な?」

 気が付くと、アキラはヒカルと抱きしめあっていた。

 そうなる経緯にまったく心当たりがなかった。おそらく寝ている内にヒカルの方から寄って来たのだろう。腕の中のヒカルの体は、まるで熱湯を入れた巨大な湯たんぽのように感じられた。

「お、おい」

 戸惑ったアキラは、自分の胸に顔をうずめるヒカルに声をかけた。

 返事はない。どうやらアキラの体を抱きしめたまま寝続けているようだ。

「…」

 起こしてしまうのは悪い気がして、そっとヒカルから離れようと試みた。だが、知らない内にアキラの方からも抱きしめている形になっていたので、右腕がヒカルの体の下になっていた。

 それでも自由な左半身を使って、体に回されたヒカルの腕を解こうと試みた。しかし、逆に体を締め付ける力が強くなってしまった。

 これでは脱出不可能である。

 アキラは溜息をつき、胸の中のヒカルを覗き込んだ。

「?」

 ヒカルの頬が濡れていた。おそらく汗ではないであろう。唇は無意識に動いていた。どうやら、同じことを何度も呟いているようだ。呼吸すら止めて、聴覚に集中してみる。

 アキラはもう一度溜息をついた。

 そしてヒカルの体を抱きしめなおし、左手で黒髪を撫でてやるのだった。


 つづく


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