2 アストルム王国のシンデレラ
春らしい温かな日差しが差し込む中、セレジェイラは自宅玄関ホールの掃除をしていた。
昨夜は城の夜会に出席していたため多少寝不足だが、そのあたりは習慣かいつもの時間に目が覚めて、食事の支度をし食事を摂り、姉達を見送り、掃除を始めたところだった。
「お嬢様、コナー・オーウェンズ様がおみえです」
アークライト伯爵家に長く仕えてくれている老夫婦の夫の方がそう告げに来た。
セレジェイラはモップ掛けをしていた手を止めて露骨に疎ましいというような顔をした。
「先方は来訪することは伝えてあると仰っているのですが」
連絡無しの来訪は断っても無礼にはならないのが普通だが、相手が高位の侯爵子息、しかも王子の側近ともなるとそうはいかない。更には確かに夜会の帰りがけに王子に腕を掴まれ「迎えに行くぞ」と言われていた。「必要ありません」と答えたし、まさか本当に来るとは思っていなかったが。
「支度が整うまでお待ちいただきますか?」
「いいわ。これが私だもの。応接室にお通しして」
セレジェイラの格好は貴族令嬢とは言い難いものだった。家事がしやすいように地味で簡素なワンピースにエプロン。どちらかと言うと使用人に近いものだ。だが、それで呆れられるならそれでいいだろう。どうせだ、茶も自ら運んでやろうとセレジェイラは応接室に向かう前に調理場へと脚を運んだ。
「お待たせいたしました」
お茶を用意してセレジェイラは応接室に入り、中にいた人物を目にして眉を寄せた。
「やあ、セレジェイラ。迎えに来たぞ」
「……本心を言っていいという言葉はまだ有効でしょうか」
「ああ、許そう」
「ガラスの靴を落とした覚えはございません。そして貴方がコナー様だったのですか。私は勘違いしていたようです」
セレジェイラはライトブラウンの髪の青年の前へと静かに茶を置いた。部屋にいたのはリアム王子その人だ。
「はは、コナーもいるだろう。いきなり王子が来たと知れば家人も驚くだろうと思ってな。俺はコナーの付き添いだ」
「侯爵子息様よりも態度の大きな付き添いがいるのですか。私が驚きました」
王子の横に静かに座るその侯爵子息コナーの前にもお茶を置いてセレジェイラは対面のソファに座った。
「ご用向きは?」
「さっきも言っただろう。迎えに来た」
「殿下、もう戯れはやめませんか。何の為に迎えに来たのです? 昨夜もお断りしました」
「継母と姉に虐められるシンデレラを救いに来た。もう不自由な思いはさせない。俺と来い」
「……人の話を聞いているのですか? 嫌だと言っているのです。一夜の夢だったと綺麗なまま終わりにすればいいものを」
「夢にしてはシンデレラの気が強かった。忘れられないほどに刺激があった」
刺激。成程、従順な女性に飽きているのか。
「囲いものになれというのですか? 絶対に嫌です」
「何が気に入らない?」
「私は好色な方が嫌いです」
「好色でない男がいるのか?」
「誠実な方はいるはずです」
「俺だって誠実だぞ。不義はしていない。現に今も恋人はいない」
「特に好きでもないのにその場限りのお付き合いするのも頷けません。その気もないのに殿下の寵を得るために努力するのも御免です」
「その気もないか……。“思った以上に素敵な方です”というのは社交辞令だったのか」
「いえ、容姿だけなら本当に素敵だと思っています」
「ならば一緒にいれば中身も好きになる。此処で使用人の真似事をするよりも良い思いが出来るぞ」
「それで? いずれ刺激がなくなり飽きられ捨てられるのですか? それが嫌だと言っています。それに私は使用人ではなくこの家の娘です」
「家の者に虐められているのだろう?」
「貴方は噂を確かめもせず鵜呑みにする呆気者ですか。幻滅しました。お引き取りを」
セレジェイラのこの姿を見れば使用人として使われる可哀想な娘と見えるだろう。だが、為政者ともあろう者が見た目だけで判断するなんて浅薄すぎる。
帰って下さいときっぱりと言ったところで応接室の扉が叩かれた。
「セレジェイラ、母です。入りますよ」
そう言って部屋に入ってきたのは美しいが冷たい印象を受ける女性、セレジェイラの継母だ。母は来訪者を確認し深々と頭を下げた。
「ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。セレジェイラの母、アークライトの当主代理でございます。侯爵子息様のご来訪と聞いたのですが、手違いがございましたか?」
セレジェイラの母は王子の顔を知っているようだ。それでも態度に驚きを表すことなく慇懃に挨拶した。
「いや、私は第一王子のリアムだ。当主代理に挨拶が遅れこちらこそ申し訳ない。コナーはこちらだ。忍びで来ている。堅苦しい挨拶は抜きにしたい」
リアムも立ち上がると名乗り、隣ですでに立ち上がっていたコナーを紹介し、再びソファに座った。アークライト夫人もセレジェイラの隣に移動しそこに腰かけた。
「左様ですか。殿下直々のご来訪とは……娘が夜会で何か失礼を致しましたか?」
「いいや、そんな事はない。前置きは省かせてもらうが、私の妃候補として城で預かりたいと交渉に来た」
「妃候補?」「嫌です!」
母の訊ねる声とセレジェイラの拒否の声が重なった。母は横に座るセレジェイラの顔を見た。セレジェイラは母に首を振る。
その様子を見て「何故?」と訊ねたのはリアムだった。セレジェイラはリアムに顔を向けた。
「殿下の火遊びの相手など出来ません!」
「私は妃候補と言ったのだが」
「体裁の良い言葉ですね。そんな言葉で騙されません!」
「困ったな。本気なのだが。アークライト夫人はどう思う? 働き手がいなくなると困ると言うのであれば使用人を寄越そう。セレジェイラの身の回りのものは此方で用意するし、大切な娘を預かるのだ、支度金も用意した」
リアムがコナーに促すと、テーブルの上に金貨の入った鞄が置かれた。
「夫人もその方が助かるのではないか?」
ひゅっと風を斬る音がして、リアムはその音の元を顔に届くというところで止めた。
「何をする?」
「例え王太子殿下であろうとも、私の家族を悪く言うのは許せません!」
テーブルを廻り込んで王子の麗しい顔に平手を浴びせようとしたセレジェイラは、その手を捕られてなお彼を睨み付けた。
リアムは驚いて瞳を見開く。
「何故怒る?……苛められているのではないのか?」
「だから! 呆気者と言うのです!」
空いている他方の手が振り上げられる。けれどその手も捕らわれた。
「殴らせて下さい!」
「俺にそんな趣味はない。王子に手を上げようとするとは剛毅だな。詫びを貰おうか」
「きゃあああ!変態!」
両手を拘束されたセレジェイラにリアムは顔を近付けた。
割って入ったのは側近のコナーではなく、セレジェイラの継母だった。娘を庇うようにその前に立った。
「殿下。無礼とは存じますが、嫌がる娘に無体はお止めください」
「これは申し訳なかった」
継母はリアムの軽い謝罪の言葉を聞き小さく頭を下げると、今度はセレジェイラを振り返る。
「セレジェイラ、貴女も失礼すぎます。斬って捨てられても仕方ありません」
事実、コナーの手はセレジェイラが立ち上がった時点で腰の剣に置かれていた。それを制していたのはリアムだ。
「謝罪を」
「でも」
「謝罪を!」
謝ることを渋るセレジェイラを継母は一喝。セレジェイラは犬だとしたら耳が垂れているだろうというほどにしゅんとした。
「うっ……申し訳ございませんでした……」
「母としても王子殿下に謝罪申し上げます。申し訳ございませんでした。どうかご容赦を」
セレジェイラの継母は深々と頭を下げる。だが、王子殿下という身分に謝罪すると暗に言っている。そちらの態度(特に嫌がる娘に口付けようとしたことだろう)にも非があると醸しているのだ。
「それから娘は登城を拒否しております。金銭を差し出されましても頷けません。処罰でしたらどうかわたくしに」
「お母様!」
これが血の繋がらない娘を虐げている継母の態度だろうか。どこまでも毅然として噂とは随分違う。
金銭を見せれば娘を喜んで差し出すと思ったが、キスにしても傷物になった責任をとれと迫ることもできるのにしようともしない。物語のように継子が幸せになるのが疎ましいのか。
しかし、それにしてはセレジェイラの方も継母を慕っているようにしか見えない。
「ああ、いや、こちらこそ申し訳ない。此方の見解に誤解があったようだ。失礼な態度をすまなく思う。処罰などない」
アークライト夫人が道理を弁えた人ならば、王子とはいえ非はすべて自分にある。リアムは態度を改めた。
「だが、妃候補として城で預かりたいというのは本当だ。どうだろうか?」
「娘が嫌だと申しておりますのでご容赦を」
「そうか。分かった。では、セレジェイラ」
「……はい……」
「城で預かるのは断念するが、午後の数時間、私の話し相手として登城して欲しい。給金も出す。これは仕事だ」
「……何故、そこまで?」
「私は妃候補と言っている。それほどに気に入っている」
妃候補。求婚でないあたりが物語の王子様とは違う。現実はこんなものか。それならばそれでセレジェイラにも利用方法はある。
「給金は?」
「先ずは新人文官と同じでどうだ? 送迎もする。これはその支度金に受け取ってくれ」
「今後も言いたいことを言わせていただけますか?」
「許そう」
「分かりました。お受けします」
「セレジェイラ……!」
「お母様、大丈夫です。心配しないで。殿下は“話し相手”と仰いました。違えることはないでしょう」
ねえ?と言うようにちらりとリアムを見れば、彼はふっと笑った。母を証人に牽制する気かと問いたげだ。
「では、今日からだ。着替えは用意したがどうする?」
「慎んで頂きます。支度しますのでお待ちください」
交渉を終え、コナーが差し出した大きな箱を受け取ってセレジェイラは部屋を出た。
屋敷の前にあるのは白馬の二頭立て馬車。黒塗りの車体に屋根の飾りや装飾は金。王家の紋章こそ印されていないが、これだけの馬車が誰のものなのかはある程度の見当が付いてしまうだろう。
「どうした? セレジェイラ」
リアム王子はニヤリと笑う。落ちぶれた伯爵家に豪華な馬車。何を意味し、どう思われるのか分かった上での行動だ。
「流石、ヒエラルキーのトップにいる方は大胆だと感心しました」
まあ、いい。王族の誰かに気に入られているという事は悪いことばかりではない。縁続きになりたい者は寄ってくるだろう。
用意されたピンクのチュールとレースを重ねた上品で可愛らしいドレスに身を包み、セレジェイラは馬車に乗り込んだ。
「お前の家族のことを教えてくれ」
馬車が走り出すと対面に座るリアムが訊ねた。窓の外の緑豊かな景色を眺めていたセレジェイラは視線を彼に移した。
「聞いてどうするのです」
「お前が噂を調べもせずに鵜呑みにする呆気者と言ったのだろう。お前が外している間に夫人と雑談をしたがとてもしっかりとした方だった。教えてくれ」
「……私は亡き父アークライト伯爵と愛人の間に出来た子。実の母は父との手切れ金を受け取ると別の男とどこかに行きました。その不義の子である私に教育を与え慈しみ育ててくれたのが継母と異母姉達です。それだけです」
「真実か?」
そう、王子と同じ様にセレジェイラも物語のシンデレラとは違う。
苦労をしたのは継母と姉達。
そもそもの設定も違う。
冷たく見える冴えた容姿の所為か世間で意地悪な継母と言われているのは紛れもなくアークライト伯爵の正妻で二人の姉も由緒正しい生粋の伯爵令嬢だ。
そしてセレジェイラこそが父と愛人の間に出来た不義の子。
更に悪いことにセレジェイラの産みの母は新しい男を作り伯爵から手切れ金をせしめ姿を消した。
そんな女の、自分とは血の繋がらない娘を不憫に思い、引き取り、娘、令嬢として教育してくれたのが継母だ。姉達もセレジェイラを可愛がってくれた。いや、今現在も可愛がってくれている。
昨夜も帰りの遅いセレジェイラを寝ずに待ち、変な男に声をかけられなかったかと心配してくれた。王子からの誘いについてはその場の戯れだと思い黙っていたが、もし今日あの場に姉達が居たら「ふざけているなら二度と来るな」と王子に言うに違いないような姉達だった。そしてまた三人とも王子言うところのしっかりとした母に叱られるのだ。
父はと言えば、渡世人で色事師。美男であったことから女性問題を次々とおこし、財も考えなしに使いたい放題のあげく、数年前に病死した。
父の散財の所為で暮らし向きが傾けば姉達は成人を迎えるとそれぞれ働きに出た。女性の社会参加が進む中でそれ自体は珍しいことでもなかったけれど、姉達は暮らしのため、そしてセレジェイラの養育費、教育費を稼ぐために働いていたのだ。
姉達が働いているから必然的に家のことはセレジェイラがすることになる。それを“幼い娘が家事をさせらている”ととられたらしい。けれど事実は、セレジェイラが出来ることは自分がやるからと母を説き伏せ使用人を雇う金を節約しているだけだ。
「夜会での私の姿をきちんと見たのですか? あれは妖精が用意してくれたとでもお思いで?」
夜会でセレジェイラが身につけていたものは上質で上品なものだった。所作、姿勢、態度、そしてダンスも令嬢としてそつのない優雅なものだった。虐げられているのならばそのような身のこなしや作法は身に付かない。そもそも夜会になど出席できないはずだ。
「夜会でパトロンを捕まえさせる為という事もある」
「どこまで私の家族を悪く言うのです。お金の為だけならば、私はとっくに金持ちの狒狒爺の囲いものです。先程の殿下の申し出にも飛び付いたでしょう。殿下以上の金蔓は居ません」
「すまん。俺もお前のことを心配している。確認だ。金蔓とははっきりと言うな。だが、確かにそうだ。噂とは怖いものだな。俺も屋敷に入った時に変だとは思ったんだ。凋落した伯爵家というには庭も整っていたし、使用人も年配とはいえ礼儀の行き届いた者だった。当主代理が立派な人だからだな」
「そうです。姉も継母も容姿が冷たい印象を与えてしまうだけで私などよりとても優しい人達です。そういうわけで継母と姉を悪く言う殿下を好きにはなれません。地位と財と権力を持つ……出来れば見栄えのいい方を捕まえようとしているのは私自身です」
「なに?」
セレジェイラの腹違いの姉二人はこのたび揃って結婚することになった。相手は双方ともに貴族ではなく、貿易業を営む商家と医者という一般人。どちらも勤め先での職場結婚で、相手も爵位目当てということもなく金銭的にも不自由もないし人柄も悪くないので良縁だ。姉達は幸せになるだろう。
だからセレジェイラがアークライト伯爵家を建て直したいのだ。
母も姉もそんなことはいいと言うが、爵位は持っているだけで領地の地代収入がある。現在は父の散財の埋め合わせにつかっているが、セレジェイラがひとかどの男性と結婚できれば 失った土地を取り返すこともできる。継母は安心して過ごせるし、いずれ姉達の子が爵位を継ぐことも出来る。
「家を立て直したいのです。ですからこのお仕事を引き受けました。この期に王城でそういったお相手を見つけたいと思います」
「よくも明け透けにものを言う。王子を利用するか」
「はい。邪魔はしないで下さい」
「好きな男がいるのではなかったのか?」
「……近いうちに出会えるはずです」
「よく回る頭と口だな。まあ、いい。それならば王子妃になればいい」
「……第二王子のノア様ですか? 私より二つ年下ですが……後は公爵様ですね。紹介していただけるのですか?」
「馬鹿を言え。第一王子、俺だ」
この王子こそよくも簡単にそんなことを言う。何人の女性にそう言ったのか。けれどリアムには現在側室もいない。皆ここまで言われずともリアムの誘いにのったのか。
「側室愛人になる気はございません。殿下は確かに恐ろしく見目の整った方ですが、女性が皆心を奪われるとは思わない方がいいですよ」
「俺は王子妃と言った。正妃だ」
リアムは平然とそれを口にする。これでセレジェイラが頷いたら「冗談だ」とでも言うのだろうか。それとも正妃など誰がなろうと愛人を作るから関係ないのだろうか。
「では馬鹿を言っているのは貴方です。殿下にはもっと相応しい方がいらっしゃいます。私には無理ですし、好きになれないと申し上げました」
「家族に対する誹謗は謝罪する。自分が愚かだった。申し訳ない」
謝罪するリアムの表情も声も真面目なものだ。王子という立場からみれば、不遜な態度でも仕方がない。彼は権力者で国民は従属するもの。けれど彼には自分の非を認めることのできる分別はあるらしい。
「……謝罪は金銭がいいです」
「用意しよう」
「馬鹿ですね」
溜息混じりにそう言ってセレジェイラは再び視線を窓の外に向けた。
ただの好色王子かと思ったが、それなりに真面目なところもあるらしい。
窓の外の景色は多くの建物が建ち並び人々が行き交っていて、城下に入ったことを告げていた。
「ところで、もう充分お話し相手はしたので帰らせてもらえませんか?」
「流石にそれはないだろう」
セレジェイラがさらりと言ってみれば、リアムも淡々と否定した。