第6章 1年前の話①
僕と『彼女』の馴れ初めを話そう。聞きたくなくとも、僕は勝手に話す。
約一年前、桜の木が緑色に染まる頃、一人の生徒が自殺を図った。世間が寝静まる深夜に学校を訪れ、本来立ち入り禁止になっている屋上へと上り、そして落ちた。頭から真っ逆さま。見慣れた街並みの夜景を楽しむ間もないまま、彼は死が待つ暗いアスファルトへと一直線に吸い込まれていった。
無論、嘘偽りもなく、さらに妄想でもなく、自殺した生徒というのは僕のことである。
もちろんこの場に生きている僕は幽霊でもなければ替え玉でもない。つまり自殺は未遂で終わったのだ。すぐに救急車が駆けつけてくれて、僕は奇跡的に一命を取りとめた。
しかしまったくの深夜、誰にも予告していないはずの自殺に、どうして準備していたかのように、すぐ救急車が現れたのか。その理由は簡単。偶然にも僕のそばを通りかかった荊木さんが、親切にも呼んでくれたのだ。
飛び降りてから、僕はその一部始終を目撃していた。
冷たい衝撃が、後頭部を襲う。飛び降り自殺を図った際、多くの人はうつ伏せに倒れるらしいのだが、僕はその統計に反して仰向けのまま着地を果たした。まあ根っからのひねくれ者だったわけだ。まさか死ぬ前までそんな性格の地が出るとは思わなかったけど。
星が少なく、真っ暗な夜空を見上げながら、徐々に視界がぼやけてくる。同時に思考の方も真っ白になっていき、この霧が晴れる頃には、僕はたぶん三途の川に立っているだろうなあなんて思いながら、生と死の淵を彷徨っていた。
とその時、薄くなりゆく視界の端で、動く物体が目に入った。
ひらひらと風に煽られる布のようなそれは、僕の傍らで止まった。無意識のうちに、視線がそちらへ移動する。円形状の布の中に白い物が見えてから、初めてそれがスカートだということを理解した。
「君……大丈……」
薄れゆく意識は、荊木さんの言葉を正確に拾い上げてくれない。しかし僕の魂を現世へと引き留めてくれるには、十分な効果があった。
僕に覆い被さるようにして覗きこんでいる荊木さんの顔へ視点を向ける。さらにがんばって焦点も合わせてみた。今では見慣れた彼女の顔が、無表情で僕を見下ろしていた。
「……から……び……の?」
何かを語りかけているようだが、残念ながら僕の耳はすでに仕事を放棄したようだ。
と、彼女はポケットから携帯電話を取り出し、耳に当てた。たぶん救急車を呼んでくれたのだ。なんて優しい娘なんだろうなぁ、と僕は場違いなことを思った。
そして携帯をたたんだ荊木さんは、脚を折ってその場に腰を下ろした。距離が近くなり、僕は彼女が笑っていることに気づいた。
「救急車が来るまで、お話しない?」
耳元で囁かれた声は、はっきりと聞こえた。
僕は頑張って頷く仕草をする。顎を縦に引けたかどうか自信がなかったけど、荊木さんがクスリと笑ってくれたことで、そんなことはどうでもよい気がした。
それから救急車が到着するまでの数分間は、僕の人生でも最高に幸せな時間だった。主に彼女が喋っていただけだけど、彼女の甘い声と話す内容は、僕に生きる意思を与えてくれた。人生最期に会話をした女性は、この世で最も尊く、美しく、そして優しかった。
そして意識が闇の中へと堕ちていくのとともに、僕は恋に落ちた――。
***
ということが一年前、僕がこの高校に入学してからすぐの時期にあったのです。
それから奇跡的に病院で目を覚ました僕は、そのあと数週間ほど入院した。そして再び自殺を図るんじゃないかと心配する医者を尻目に退院するわけだが、実は自分がどうして自殺に至ったのかは、その時は完全に忘れてしまっていた。頭を強く打ったショックで、一部の記憶が激しく逃避行してしまったのだと、医者は言う。
遺書はなし。僕の自殺を語る人物もなし。まあ普段の生活に戻れば、自殺の理由も少しずつ浮かんでくるだろうと楽観視しながら日常を送ってみたのだが、そう考えてからあれよあれよという間に一年が過ぎてしまった。出席日数ギリギリだったけどなんとか進級だけはでき、同時に妹が僕の通う高校へと進学してきた。
これ以上にない、不平も不満もないありきたりな日常だった。何故自殺したのか、純粋に首を傾げてしまうほど。ま、そのイベントがあったからこそ荊木さんと遭遇できたわけだから、現在の僕は自殺を思いついた過去の自分を恩人のように崇めているのである。
と、ここまでが僕が『彼女』に恋をした理由だ。
ちなみに、僕と『彼女』は付き合っているのかと問われれば、答えはノー。今はご覧のとおり、猛アタック中。僕の言う『彼女』とは、三人称を表す意味での『彼女』なのである。