第24章 私の告白
「君はいったい……誰なんだ?」
彼の口から紡ぎ出された言葉を聞き、私はさらに涙を流した。
それはずっと望んできた言葉であり、最も恐れていた言葉だった。
もし訊かれたら、なんて答えようかと思い悩んだこともある。正直に話す? シラを切り通して、偽りの生活を続ける? それとも疑われた時点で、仮面を被ることをやめる? 選択肢は様々だったが、答えは出ていなかった。
しかし今、私は心の底から嬉しかった。もしかしたら、ずっと訊かれたかったのかもしれない。私が荊木小百合であることを告白したかったのかもしれない。家族ではなく、一人の女として彼と接したかったのかもしれない。
だから、私は正直に答えた。偽る必要なんてなかった。
「私は……荊木小百合です」
嗚咽混じりに答えると、彼は笑みを見せてくれた。お腹から出血していてとても痛いはずなのに、私を安心させるため苦悶の表情など見せず、ただただ微笑んでくれた。
けれど、それもあまり長くは続かなかった。
彼はゆっくりと瞼を閉じる。まるで一眠りでもするかのように、意識を失ってしまった。
最初は慌てたが、どうやら出血量は素人目から見ても致死量ではないようだ。彼の胸に耳を当て、鼓動も聞いてみる。私を安心させるように、通常通りに動いていた。
奇跡が起きた。と、私は感じていた。
熊谷に犯される直前、馬乗りになっていた奴が横へなぎ倒されたのだ。恐怖と混乱で思考が追いつかなく、また暗闇でよく見えなかったため、私は声一つ出すことができなかった。
逃げる熊谷と、その背中を追う突如現れた謎の男。二人が保健室を飛び出していくのと同時に、私の足も動くようになっていた。そして弱々しい足取りの男を追ってみると、私が今一番会いたかった彼だった。
彼がどうして保健室に来たのか分からない。どうやって入ってきたのかも知らない。
でも、こんな奇跡は他にありはしない。
嬉しさのあまり、私は泣き出してしまった。
それから約一分ほど、私は自己満足のため、彼の胸に抱かれていた。けどそろそろ救急車を呼んであげよう。いくら少量の出血とはいえ、刃物で刺された傷口が開きかけているのだ。これでは安眠もできまい。
私は携帯電話を取り出し、一年前、そして三日前と同じ番号のボタンを押した。
しかし――悪夢はまだ過ぎ去っていなかった。
廊下の端で身を寄せる私たちに、覆いかぶさるような影。不自然な形で蛍光灯の光が遮られるのを不審に思い、私は顔を上げた。
目の前に、熊谷が立っていた。
こちらを睨み下ろすその眼を見て、全身が委縮する。声が出ない。私はただ、怯えながら彼に縋ることしかできなかった。
「そこを、どけ……」
肩で息をした熊谷が、恐ろしく低い声音で呟いた。その目は尋常じゃないほど充血し、どう見ても気が狂っているようだった。しかし自我を失っているわけではない。熊谷の目の焦点は彼だけに定まっており、手にしているアイスピックを振り掲げた。
「どけ!」
「いやだ!!」
咄嗟に叫んだ。我ながら、どこから出たのか分からないほど大きく汚い声だった。
でもなりふり構ってはいられない。このままじゃ、彼が殺されてしまう。瞬時に判断した私は、彼と熊谷の間に割って入った。
私は一度、彼に守られた。だから今度は、私が彼を守る。
怖い。けど逃げない。私がどうなろうと、彼だけは絶対に守る!
熊谷が動いた。大きく息を吸い、掲げていたアイスピックを振り下ろす。
考えはなかった。ただ、飛んできたボールに対して反射的に受け止めてしまうのと同じ。私は迫るアイスピックの先端に向けて、右手を伸ばした。
「――――ッ!?」
激痛。手の甲に不自然な突起物が現れ、そこから生暖かい液体が流れ出る。
泣きたかった。悲鳴を上げたかった。でも諦めなかった。
たとえこの右手を失おうと、私は絶対に熊谷を許さない。
手の中の肉が変形していく感触を実感しながら、右手を強く握りしめた。深々と刺さっているため、指の届く範囲はアイスピックの柄であり、それごと熊谷の手を掴んだ。
「ああああぁぁぁああぁぁああああぁぁぁ!!!!!」
渾身の思いを乗せて叫ぶ。
奇跡に二度目は無い。だから自分でなんとかするしかない。自分が今、どんな仮面を被っているのかも分からず、ただただ腹の底から化け物じみた奇声を上げ続けた。
一瞬だけ熊谷が、私に威勢に怯んだように見えた。しかし相手もアイスピックなんて凶器を持ち出して、狂気の域に達している。それだけで矛を収めるはずもない。再び顔色を鬼にした熊谷が、私の肩を蹴り飛ばした。その反動で、アイスピックが手の平から抜ける。
痛みはなかった。すでに右肘から先が、麻痺してしまっている。自由に動かすこともできない。でも大丈夫だ。まだ左手が残っている。あと一回、奴の攻撃を凌ぐことができる。
再び振り上げられたアイスピックを、私は無言の覚悟で睨み返した。
しかし左手を捨てることはなさそうだった。
「熊谷先生! 何してはるんですか!!」
誰かの叫び声に、慌てた足音。それも複数。
廊下の奥から、職員室に残っていた教師たちが一斉に駆けつけてきた。私の叫び声を聞きつけてきたのだろう。恥を捨て、馬鹿みたいな大声を出した甲斐があったというものだ。
瞬く間に熊谷は捕まり、その場に拘束された。
これでようやく助かった。私はそう、実感した。
「お前、進藤じゃないか! 入院してたはずじゃなかったのか!」
二年四組担任の、塩崎先生が彼を見て驚いていた。けど無駄です。彼は意識を失っていますから。
「荊木くんも、おい、大丈夫か!?」
ダメです。とても眠い。
尋常じゃないほどの痛みか、それとも長く張りつめていた緊張が解けた反動なのか、私の意識も徐々に失っていくようだった。視界がぼけて、熊谷とそれを押さえつける教師たちの姿がおぼろげになっていく。
こんな時でも、私は彼の胸を借りることを忘れなかった。
彼の感触。彼の匂い。彼の吐息。
あぁ、これでやっと、落ち着ける。




