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第19章 この1年間の話

 余談だが、どうやら彼の中では荊木小百合は死んだことになっているらしい。

 お見舞いで病院通いが続いたある日、彼の病室の前で、偶然にも聞いてしまった。


「……だね。僕は……だよ」


 扉越しのためか、彼の声がぼんやりと聞こえるだけだった。

 でも、中に誰かがいるはずだ。誰だろう。ここに来る前、赤木先生とは会ってきたから違う。他に彼を見舞いに来る人なんて……親戚だろうか。もしそうだったら、私が中に入るのはマズイ。妹でないことがバレてしまう。

 そう思い、抜き足で病室の前を通り過ぎようとした。

 しかし――。


「あぁ、待ってよ荊木さん!」


 彼の叫び声を聞いて、心臓が跳ね上がる。

 今、確かに聞こえた。彼は私の名前を呼んだ。まさかすでにバレていた? いや、でも、あのベッドの位置から、扉の向こうは確認できないはずだ。相貌失認じゃなくても、物理的に見えるはずがない。

 瞬時の判断。私は進藤涼香の仮面を被り、意を決してノックをした。


「はい、どうぞ」


 中から彼の声。恐る恐る、病室を覗く。室内には、彼以外は誰もいなかった。


「今、誰かと話してなかった? お客さん?」

「えっと、涼香?」

「あぁ、ごめんごめん。そうだよ。誰か来てたの?」

「あー……」


 バツが悪そうに、彼は眼を泳がせた。


「彼女と話してたんだよ。携帯で」

「彼女って?」

「なんだ? 兄の恋愛事情が気になるのかぁ?」


 なんかウザい感じで手にしている携帯を晒し上げた。コイツは病院では携帯の電源を切らないといけないという常識を知らないのか。


「別に、彼女くせにお見舞いにも来ないなんて、薄情だなぁって」

「いいや、来てるよ。涼香がいない時に」

「荊木小百合さんって人が?」


 彼の笑顔が固まった。どうやら聞かれてないと思っていたらしい。


「聞いていたのか。……うん、まあ……その人。頼むから調べないでくれよ」

「調べねーよ。面倒くさい」


 でも、この反応で確信した。

 彼は、私の幻覚を見ている。いや、妄想と言った方が正しいかもしれない。彼女云々の話は誤魔化しただけなので何とも言えないが、けど一つだけ確かなのことがある。


 私が彼に掛けた呪いは、予想以上の効果を発揮しているということ。


 忘れないで、と私は言った。その言葉通り、彼は妄想の中で私と会っている。そして間違いなく、現実の荊木小百合は死んだと思っているだろう。そうでなければ、妄想する意味がない。


 だから決めた。


 荊木小百合は死んだ。これから一生、私は彼の家族として生きていく。


「そういえばさ。私、今年で中学三年で受験生でしょ? バカ兄貴と同じ高校に行くことに決めた」

「はっ!? 来んなよ」

「やだねー。あそこが一番近いし、兄貴が退院したら、またバカなことやるかもしれないでしょ? 私は監視役として、しかーたなく行ってやるんだから。有難く思え」


 上から目線で言うと、彼は内申が落ちるという謎の呪文を唱え始めた。


 ま、進藤涼香が彼と同じ高校へ入学することは、すでに決定事項なんだけど。妹が同じ高校へ通うことになれば、堂々と学校でも彼と一緒にいられる時間ができるから。


 それから私たちは、面会終了の時間まで、兄妹として平凡な会話を楽しんだ。名残惜しみながらも、また明日行くねと約束して、退室する。別に約束などしなくても勝手に行けばいいのだが、口にしなければどうも不安になってしまうのだ。


 もし明日までに彼の記憶が戻ったら。

 もし私が妹でないとバレたら。

 もし彼が再び自殺に踏み切ったら……。

 いや、それらの理由を押しのけてでも、私が最も恐れていることがある。


 彼に嫌われたくなかった。

 私は彼を騙しているのだ。完全に詐欺である。犯罪である。もし真実がすべて露見し、彼が私を侮蔑するようなことがあれば……私は生きていけないだろう。再びあの月が綺麗な屋上に立ってしまうかもしれない。


 この時にはすでに、私は徹底的に彼に依存してしまっていた。

 いつバレるか怯える日々を送りながら、それでもこの生活は一年くらい続くことになる。


***


 しばらくして、彼が退院した。高校にも通い始めたが、入学してすぐに事件を起こしたためか、友達ができた様子がなかった。まぁそれはともかく、授業の方が心配である。特に出席日数。もし留年なんて悲劇に見舞われたら、進藤涼香と同じ学年になってしまうため、少々やりずらい。


 もちろん、私も多少は休みがちだったけど、学校には通っている。彼のクラスとは階が違うため、たぶん顔を合わせることはないだろう。たとえバッタリ遭遇したとしても彼が気づくことは万に一つもないが、目立たないに越したことはない。一年生の間、私は一度も彼のクラスの階に行くことはなかった。

 当然ながら演劇部は辞めた。そのため、熊谷に会うことは激減した。

 しかし不意に遭遇してしまうのは、奴が常に私を捜しているからだと思う。


「やあ」

「…………」


 声を掛けられ、私は無言で睨み返した。


 そもそもコイツがここにいる時点でおかしい。私のクラス前、つまりここは一年生の教室が並ぶ校舎なのだ。三年の担任、かつ三年しか受け持ちのない熊谷が私のクラスの前を通るのは、あまりにも不自然すぎた。


 睨み返してしまったことにより、こちらが呼びかけに気づいてしまったことを悟らせたのは失態だった。知らぬ存ぜぬで、逃げればよかった。


 遅いと分かりながらも、私は踵を返して熊谷に背を向ける。


「ねえってば」


 悲鳴を上げなかったのは僥倖だった。


 熊谷が、私の腕を掴んだのだ。全身の鳥肌が浮き立つ。背筋に悪寒が奔った。生理的に受け付けない、どころではない。奴の身体に触れてしまったことで、心の奥底で眠っていた自殺したい気持ちが、再び溢れ出てきた。


 なんだコイツは。人目もはばからず、女子生徒の腕を掴むなんて……。


 いや、私を知る周囲の生徒たちは、部活を辞めた私を先生が説得しようとしているようにも見えるだろう。そうでなくとも、ただ腕を掴んだだけだ。私の熊谷に対する絶対的な拒絶感が、ほんの些細なことでも敏感に捉えてしまっていた。


 そうやって、熊谷は徐々に私との距離を詰めてくる。


 生徒たちの眼もあるので、強行的な手段に出ることはなかった。しかし学校内で奴を見かけるたびに、私の精神は削られていく。授業中以外、決して心休まる時間は無かった。






 熊谷から逃げ回って一年。向こうから声をかけてくることもあれば、ただ遠巻きに気持ち悪い笑みを見せるだけの時もあった。もちろん、私は一度も奴と言葉を交わそうと思ったことはない。ただ何をされても無視し、すぐに逃げた。いつか諦めてくれるだろうと願いながら、私は一年間ずっと、熊谷に対する怒りと恐怖と嫌悪感を押し殺してきた。


 そして話しかけられる以外の接触もないまま、私は二年生へと進級した。


 心配していた彼も、何とか進級できたようだ。さらに予告通り、進藤涼香を架空の生徒としてこの高校へと入学させた。


 一番気がかりだった担任と国語教師の問題も、今年いっぱいまでは問題ないようだ。熊谷は引き続き三年のクラスと授業を担当し、二年には降りてこない。来年は顔を合わせる機会も多くなる可能性が出てくるが、まあそれはまた一年後、考えればいい。

 今はこの平穏で幸せな日常を、彼と一緒に過ごしたい。

 たとえそれが、最初から最後まで偽りで作られたものであったとしても。





 そう望んでいるそばから、最近、熊谷のストーカー行為がひどくなってきた。


 私は徹底的に無視を決め込んでいるため、奴が勝手に口にした情報だが、どうやらこの時期には毎年、保険医が出張に出ていて保健室が使えないらしいのだ。つまり一年前みたいに、私を誘っているらしい。強引な手段は使えないため、あくまでも下手な言葉づかいではあるが、下心丸出しの態度には反吐ではなくゲロが出そうになった。

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