第12章 妹の愚行
桜枝刑事と別れてから、僕は五時間ほど漫画喫茶で時間を潰していた。読みたい漫画があったというのは建前で、本音としては少し一人で考え事をしたかったから。だったら家でいいだろうという指摘は受け付けない。長く考え事ができる集中力を僕は持ち合わせていないし、結局暇であることには変わりがないのだ。ちょうど昼食代も浮いたし。
五時間も居座るつもりはなかったと半ば後悔している帰り道、歩きながら本日のまとめをする。
熊谷が犯人ではないと知った時には大いに取り乱してしまったが、よくよく考えればおかしなことではない。だって僕は、状況判断から熊谷を容疑者扱いしたのだ。具体的な証拠があったわけではない。単なる早とちりである。
つまり僕は、ほんまもんの馬鹿だったわけだ。道化にも劣る愚かさである。
ま、それはもういい。過ぎてしまったことを悔やんでも仕方がない。
唖然としながら席に座る僕を不審に思ったのか、それから再び桜枝刑事の追求が始まった。
「愕然としているところ悪いが、まさかお前は何かを勘違いしていたのか?」
その問いには、肯定も否定もできなかった。その時は、これ以上ないというほどに戸惑っていたのだ。桜枝刑事の声など、ほとんど届いちゃいなかった。
「僕は――」
言いかけて、閉口した。考えがまとまらない。
桜枝刑事が身を乗り出し、ゆっくりと問うてくる。質問をして僕の思考をまとめてくれるのは嬉しいが、相手は刑事であるため、それが助け舟かどうかは分からなかった。
「お前が想定していた犯人と、実際に捕まった被疑者は異なる人物だった。違うか?」
「…………そうです」
ちゃんとした舟なのか泥舟なのか判断できないまま、僕は乗船した。背中に火をつけられないことを祈る。
「どうしてその人物だと思った?」
「も……黙秘権を行使します」
「ではもう一度尋ねよう。保健室の鍵を掛けたのはお前か?」
「…………そうです」
迷ったが、結局は真実を話すことにした。
正直、なんかもうどうでもよくなっていた。
「ベッドの上の遺体は見たか?」
「見ました」
「お前が想定していた人物だからこそ、庇うために鍵を閉めた?」
「庇うためではありません。が、まあそれでいいです」
「他に証拠を回収したとかは?」
「ありません」
「遺体が亡くなったのは午後六時前だが、お前はその時間まで何をしていた? 趣味だとか言って、ずっと教室で呆けていたのか?」
「それは……」
いつもは四時半には帰る僕が、六時まで残っていた理由。そんなものに意味はない。現場を目撃したのは、偶然だ。ただその日が僕と『彼女』が出会ったちょうど一周年だったため、感傷に浸っていただけだ。陽が落ちて、誰もいなくなってから屋上に行こうとも思ってた。
「禁則事項です」
「わかった」
せっかくボケも言えるほど思考が回復してきたというのに、桜枝刑事はただ頷いただけだった。何事も、スルーされるのは悲しいことだ。
「上に報告しないわけにはいかない。だが面倒を避けたかったら、俺と裏口を合わせろ」
「……どういうことですか?」
「お前は何も見ていない。いや、相貌失認だから見たけど分からなった、とでも言っておけ。扉が開いていたから閉めただけ。鍵は持ち帰って、そのまま忘れてた。その時間まで何をしていたかは……居眠りしていたで十分だろう」
「鍵かけたこと、咎めないんですか?」
「どうせ未成年だから罪にはならんだろう。下手に真実を申告して、面倒なことにはしたくない。報告書は簡単な方がいいんだよ」
うっわー、絵に描いたようなダメ刑事だな。両さんだって、毎度毎度始末書くらいはちゃんと書いてるだろ、たぶん。
だが、僕の乗ったのは渡りに船だった。あの愚行を無かったことにしてくれるのは、本当にありがたい。桜枝刑事め、あれだけ僕のことを気持ち悪いだとか批判していたのに、年下の世話はやける方なんだな。
「事件は解決。これでいいな?」
「はい」
「後日、正式に報告するために、俺かもしくは他の誰かがまた尋ねるはずだ。その時は頼んだぞ」
そう言い残し、未だカツサンドと見つめ合う僕を置いて、桜枝刑事は伝票を持って行ってしまった。なんだ、もっとゆっくりしていけばいいのに……いや前言撤回。あんな男と世間話に興じれる自信がない。
そんなこんなでカツサンドを口に詰め込んだ僕は、早々に喫茶店を出た。それから五時間、漫画喫茶に籠っていたわけだ。こんな無趣味な男が、よくもそんな長時間、漫画なんて読んでいられたと、我ながら感心する。
陽が落ち、徐々に気温が落ちてきているのに汗ばむ坂道を登りきって、我が自宅へと到達した。家の中の明かりが少ないのは、出かけているからだろうか。もうすぐ夕飯だというのに。
「ただいま」
「おかえりー」
涼香の声。二階の自室でなく、リビングに居るのだろうか。
とりあえず制服から着替えるために、二階へ上がる。途中で鞄を持っていないことに気づき、一瞬だけ焦ったが、そういえば今日は最初から持っていかなかったんだっけ。いつもの必要行動が省略されると、不安になるのは僕だけかな。
私服に着替え、今日はなんだか無駄な一日だったなと感想を漏らし、一階に降りてキッチンへ入ると――。
我が愚妹が、珍妙な姿で立っていた。
「…………」
「…………」
お互い沈黙。僕は唖然としていただけだが、涼香がどんな顔をしているかは分からなかった。
いや、僕が相貌失認だからとか関係なく、物理的に見えないのだ。
その理由は、何故か涼香は仮装用の仮面を被っていたからである。
「…………」
僕は涼香から視線を逸らし、テーブルの上の夕食へ移り、キッチン内を大きく旋回した後、再び涼香を凝視した。
仮面といっても、鼻頭から上を隠すだけの簡素なものだ。オペラ座の怪人の両目バージョンと言えばしっくりくる。それほどに無機質で、飾り気のないものだった。
ツッコむか? いや、ここはあえて最初はスルーする。
「あれ、母さんは?」
「お父さんが帰ってきたから、二人でデートだって。今日は遅くなるらしいよ」
「親父が帰ってきたのか」
僕の親父は今、単身赴任で地方に行っている。そう頻繁に行き来できる距離じゃないけど、そういえば僕、親父とどれくらい会ってなかったかな。一年くらいか?
「この夕食たちは?」
「ウチが作ったのさぁ。どうだぁい」
「……おいしそうだね」
嘘ではない。単品ずつなら、とてもよくできている。高校一年生なら上出来だ。
しかしな。白飯に味噌汁にパスタに餃子にサラダに肉じゃがに、しまいにはサンドウィッチか。作りすぎだし、作れるものだけ作ったって感じだ。
「今日は昼から暇だったからね。練習してたら作りすぎちゃった」
てへっ☆ と、涼香は舌を出した。その仮面のせいで、可愛さアピールは完全に失敗している。むしろ怖かった。
「ま、できるだけ食べるよ。残すのは作ってもらった人に悪いからね」
「うん、食べて食べて。おいしいって言いながら食べてね」
味の感想は強制か。結果がどうあれ、その方がこちらとしては気が楽だ。
黙々と、静かな夕食が続く。ウチのキッチンにはテレビがないので、余計な雑音でこの気まずさを紛らわすこともできない。
いや、会話がないから気まずいとかではなくて、どうしても涼香が被っている仮面に眼が行ってしまうからだ。ツッコみ待ちなのか、それともガチでオシャレ(?)のつもりなのか、判断しかねるからこそ気持ちがもどかしい。
「あのさ、涼香」
「んー、なにー?」
「食事中に不適切な話題を振ってもいいか?」
「うんこの話なら却下」
「食事中にうんこ言うなや!」
本気で怒ってやった。こちらはそんな下品な話をしようと思ったわけではないのに。
「あー、良かった。今日、本当はカレーも作ろうかと思ってたんだ」
「……お前、さりげなく責任転嫁しようとしてないか?」
心外なり。僕もうんこって言ったが、最初に言ったのは涼香である。
僕がきつい目で睨みつけてやると、妹は箸を止めた。
「で、何の話題なのさ」
「実はな、先日の事件の犯人が捕まったらしい」
ピタリと動きを止める涼香。大きく見開いた瞳は、驚愕を示している……と思う。表情は分からずとも、相手の反応でどんな感情を抱いているのか、少しずつ修得できるようになってきたものの、如何せん仮面のせいでよくは分からなかった。
声を潜めて、涼香は言う。
「犯人って……殺人事件だったの?」
「そうだよ。容疑者が未成年だったから、警察も堂々と捜査できなかったんだって。んで結局、犯人は自首してきた」
「自首……未成年?」
「おっと、犯人が誰かは訊くなよ。僕も教えてもらってない」
「教えてもらってないって、誰に……」
とまで言いかけ、涼香は一人で納得した。
「そういえば兄貴、警察の事情聴取受けたって言ってたっけ」
直接涼香に言った覚えはなかったが、きっと赤木先生との会話を聴いていたんだろう。
少しの間考え事をしていた涼香は、食事を再開させ、質問してきた。
「でも事件が解決したことを教えてくれるなんて、兄貴、警察と仲良いの?」
「仲が良いわけじゃない。ただ今日、昼食を奢ってもらっただけだ」
「字面だけ聞くと、とても仲良さそうだよね、それ」
もちろん、何らかの事情聴取だということは涼香も理解していることだろう。
それからまた、涼香が作りすぎてしまった夕食を消費する作業に戻った。
途中で、本日学校をサボったことを揶揄されたり、両親がいないから、この後リビングでゲームやり放題だとか意気込んでいたり、夕食を作ってくれたお礼に僕が後片付けをしたりした。
風呂を入れてから、ようやく僕はパンドラの箱を開ける決心がつく。
「なぁ涼香。僕、そろそろ限界なんだ」
「トイレなら空いてるよ。何言ってんの?」
「違う。トイレの話じゃない」
「はっ! まさか妹と二人きりの状況で、性欲が限界ってこと!? この変態! 恥知らず! ケダモノが!」
「ちげーよ」
高校生になってから、随分とタガが外れたな、コイツ。中学生だった頃は、ちょっとした下ネタだけでも顔を赤らめるくらいに純心だったというのに。悪い友達と付き合ってなきゃいいんだけど。
「お前、何で仮面なんか被ってるんだ?」
「え……まさか気づかれていたとは!?」
「僕が相貌失認だからって馬鹿にしてるだろ」
退院直後、私は誰でしょうとかよくからかってきた涼香を思い出す。
「違う違う。だって最初見た時に何も言わなかったからさ、まったく気にしてないと思って」
「いや、超気になってたよ。席替えで好きな子の隣になった時くらいに、気が気でなかったからな」
「その例えは人によって違うから分かりにくい」
「ダメ出ししてんじゃねーよ」
なんだコイツ。まるで仮面のことは指摘してほしくなさそうな仕草だった。あんな物を被られてたら、誰だって興味がわくだろうに。
「文化祭の出し物の備品なんだ、これ」
「文化祭は秋だろ。まだ半年くらいある」
「そのために今から買っておいたの。小物店にいい物があったから」
「いや、そうじゃなくてだな」
徐々に不信感が煽られていく。なんで誤魔化そうとするんだ?
「どうして今、被ってるんだ? どう考えたって不自然だろ?」
「それは……」
仮面の奥で、右往左往する涼香の瞳が分かった。言い淀んでいることから、涼香は無理なこじつけを考えているのは、手に取るように分かる。冗談でもなく、また絶対に必要な行動でもないのに、涼香が仮面をつけている理由。
まさか……。
脳裏を過った推測が、最悪な展開を生む。
違うと願いながらも、僕は確かめられずにはいられなかった。
「お前……それ取ってみろよ」
「……いやだ」
頑なに拒む。仮面を取って顔を見せるだけなのに、なぜ?
その理由は、そこに見られたくないものがあるということ。けど、顔上半分の小さい面積を見られたくないと言っているだけで、僕の想像は至ってしまった。
「取れよ」
「やっ……!」
僕は涼香の肩を抑え、無理やり仮面を剥ぎ取ろうとする。しかし涼香の抵抗は本気だ。手が仮面に触れる前に、腕を掴まれ阻止されてしまう。
ただ僕も、一応は男だ。女……しかも妹に腕力で劣っているはずがない。直接仮面を取りに行くことは阻まれたものの、全身の体重を使い、涼香の身体を投げ飛ばした。思いのほか体重の軽かった涼香が、たたらを踏む。バランスを崩し、床に倒れた。
すかさず僕は馬乗りになり、仮面に手を伸ばす。特に接着していたわけではないのか、仮面は簡単に涼香の顔から取れた。
「お前……」
「…………」
悪い予感は何かと当たりやすいものだ。
仮面で隠れていた涼香の額。そこは大きな湿布で覆われていた。
昨日の朝には無かった湿布。大きな怪我でもしたのだろう。でもこのタイミングで額に怪我を負うなど、僕は一つしか心当たりがない。それが偶然だとも思えない。
「なんでだよ!」
床で拘束されている涼香に向けて、僕は叫んだ。黙ったままの涼香は、視線を逸らす。
昨日の夜、僕は熊谷を呼び出した。実際は違う人物が現れたわけだが、その女に対し、僕は暴行をふるった。何度も何度も、そいつの頭をデスクに打ち付けた。しまいには抑制が効かなくなり、首を絞め、殺そうとまでした……。
自分の罪を振り払うかのように、僕は叫ぶ。
「何してんだよ、お前! 何がしたかったんだよ!」
訊かずとも、答えは知っていた。
でも問う以外に、熱くなりすぎた僕の思考は何もできなかった。
だんまりを決め込んでいた涼香が、不貞腐れた子供のように、唇を尖らせて言う。
「だって兄貴、先生を殺そうとしてたんでしょ?」
「殺すつもりなんてなかった。ただ話がしたかっただけだ!」
「そんな訳ないじゃん! ウチ、本当に死にかけたんだからね!」
僕は嘘は言っていない。最初はまったく殺すつもりなんてなかった。
けど、涼香の言葉の方がどうしようもなく真実だった。
「ウチ、兄貴が犯罪者で捕まっちゃうのは嫌だった……」
「だからって、下手したらお前が死ぬところだったんだぞ!」
そして僕に一番大切な人間を殺させるところだった。
もし万が一、あのまま取り返しのつかないことになっていたら、僕は、僕は……。
コワレテシマッテイタダロウ。
「…………」
涼香を床に押さえつけたまま、僕は彼女にどんな感情をぶつければいいのか分からなかった。身勝手な行動を怒ればいいのか、結果的に平穏な日常を守れたことに感謝すればいいのか、熊谷を殺すチャンスを棒に振ったことを恨めばいいのか。
いや、全部だ。僕は全部の感情を、涼香にぶつけたがっている。
ただどの感情をどんなふうに、またどんな順番で表現すればいいのか迷っていた。
結局、激情によって沸騰した思考は困惑し、息を荒げながら涼香を睨み下ろすことしかできなかった。
しかしポツリと漏らした涼香の一言が、僕のすべてを台無しにした。
「死んじゃった人のことなんか、忘れればいいのに」
「お…………」
言ってはならない一言だった。
荊木小百合は、僕に生きる意味を与えてくれた人だった。自殺未遂後、退院してから僕は一度たりとて『彼女』の存在を忘れたことはない。僕はこの一年間、そうやって過ごしてきた。『彼女』の妄想を追いかけることによって、『彼女』を忘れることなく、『彼女』の約束を守ってきた。
なのにどうしてこの女は否定する? どうして否定できる? 何も知らないのに。僕がどれほど『彼女』を愛しているかなんて、知る由もないのに!
「お前には関係ない!」
僕は叫んだ。無理な姿勢で馬乗りになっていたから、涼香を蹴り飛ばすような形で立ち上がる。そのまま駆け出した。玄関に向けて、靴も履かずに外へ飛び出した。冷たい夜風に身を震わす余裕もなく、通い慣れた坂道を駆け下りる。しかし五十メートルも走らぬうちに、僕は足を止めた。
正直、家を飛び出してしまったのは衝動的な行動だった。ただ単に怖くなったのだ。お化け屋敷と同様、早く楽になりたい気持ちで、速足で出口に向かうように。
そう、怖くなったのだ。誰も居ないあの家が、途端に恐ろしくなった。
ただお化け屋敷と違うのは、現実には出口が無いということ。八方ふさがり。死を出口と仮定して、幾度となく分岐する暗い道を、永遠と歩いて行かなければならない。
そして今、僕の前には二つの道がある。どちらを選ぼうとも、この一年間で築き上げた日常は消え去ってしまう。そんな選択。
それはまったくの対照的な選択肢。
生きている人間を選ぶか、死んでしまった人間を選ぶか。二つに一つ。
僕は選ばなかった。選べなかった。だから逃げ出した。選んでしまうことにより、片方の日常を捨てなければならなかったから。
自分の進む道さえ決められない弱い僕は、少しの間だけでも現実逃避をしようと、星の瞬く夜空を仰いでお茶を濁したのだった。




