第13話 三語の軍隊
セルカ近郊の開けた荒野。強い日差しが照りつける中、土煙と男たちの怒声が入り混じっていた。
魔物災害「黒潮」の前倒しに対抗するため、ギルドに所属する冒険者たちと、谷間に潜んでいた旧グラディア兵たちとの合同訓練が行われているのだ。防衛隊へ武器を届け出た「難民の自警団」という扱いだが、彼らの動きを見れば、それが高度に訓練された軍隊であることは誰の目にも明らかだった。
『第一列・今・盾!』
『第二列・今・右旋回!』
『後列・二拍・突け!』
旧グラディア軍の残兵を率いる大柄な男――ラゲル・オルンの短く切り詰められた命令が飛ぶ。
その声に対し、数十人の旧兵たちは一切の逡巡を見せず、巨大な一つの生物のように陣形を変えた。槍を握る手が震える兵もいたが、隣と同じ拍に穂先が出る。三つの短い言葉で、列の端まで動きが揃った。
少し離れた木陰から、カイはその様子をじっと観察し、手帳にペンを走らせていた。
村で見た三語が、今はダリオたちへ向けて使われている。盾の正面を避けた冒険者が、隣の列の槍に止められた。カイはその交代の間隔をノートへ記した。
荒野の中央では、ダリオ率いる冒険者パーティが旧兵の陣形に模擬戦を挑んでいたが、結果は火を見るより明らかだった。個人の武力では冒険者の方が上回っていても、システマチックに死角を突き、波状攻撃を仕掛けてくる旧兵の連携の前に、次々と木剣を弾き飛ばされ、制圧されていく。
「見事な統率だろう、事務屋」
背後から歩み寄ってきたヴェラが、カイの隣に立った。彼女もまた、かつてはあの集団の一部として戦っていたのだ。
「ああ。だが、お前があの中に混ざったら、あいつらのテンポとズレるんじゃないか?」
「あの列には入れない。だが、列の外へ抜けた敵なら、私の方が速い」
その時、冒険者たちをあしらい終えたラゲルが、群れから離れてこちらへ歩いてきた。
歴戦の傷が刻まれた顔に、猛禽のような鋭い笑みを浮かべている。
「どうだ、灰槍。平和な街で護衛などしていて、腕はなまっていないか?」
「なまっているかどうか、その目で確かめるか、隊長」
ヴェラが腰に提げていた模擬戦用の木剣を抜き放つ。
ラゲルもまた、太い木剣を肩に担ぎ直した。
「いいだろう。旧グラディアが誇った猟兵の牙が健在か、俺が直々に見てやる」
周囲の冒険者や旧兵たちが、どよめきとともに円陣を作り始める。
カイは手帳を閉じ、二人の立ち合いを最も正確に把握できる位置――ヴェラからおよそ十メートルの後方へと移動し、周囲の段差と足場を確かめた。
「行くぞ!」
ラゲルの裂帛の気合いとともに、模擬戦が始まった。
踏み込みの速度、剣の軌道、そのすべてが無駄を削ぎ落とされた旧軍の教範の「完成形」だった。しかもラゲルは、踏み込む瞬間に自ら「前進」「薙げ」と定型命令を口にしている。
それは自身への自己暗示であると同時に、同じ教範を刷り込まれているヴェラへの強烈な威圧として機能していた。
ガァンッ! という重い木剣の衝突音が響く。
ヴェラも教範通りの完璧な防御で応じるが、純粋な型の完成度と筋力においては、長年それを極め続けたラゲルが上回っていた。
打ち合いが十合、二十合と続くうちに、ヴェラが徐々に後方へと押し込まれていく。
ラゲルの動きには隙がない。彼自身が一つの完成されたシステムとして動いているため、ヴェラが定型の動きで対抗している限り、この均衡は絶対に崩せない。
カイの目に、二人の間合いと、足元の砂利の滑り具合がクリアなデータとして流れ込んでくる。
ラゲルの踏み込みは強い。だが、その強さゆえに、右足に体重が乗った瞬間に必ずコンマ数秒の硬直が生まれる。そして、ヴェラの今の立ち位置からなら、その死角を最短で突けるラインがある。
「右前へ半歩! 下から手首を薙げ!」
カイの、具体的かつ非定型なコールが飛んだ。
その声が耳に届いた瞬間、ヴェラの動きが劇的に変貌した。
彼女は、ラゲルが予想していた「定型の防御姿勢」から瞬時に逸脱した。右前へ半歩、ラゲルの強烈な踏み込みとすれ違うような変則的な軌道で死角へ滑り込む。
「なっ……!?」
完璧な教範の中で動いていたラゲルは、その「教範外の最速の動き」に反応できなかった。
下から跳ね上がったヴェラの木剣が、ラゲルの大振りの一撃をすり抜け、彼の手首をピタリと寸止めで捉えた。もし真剣であれば、ラゲルの手首は腱ごと両断されていたはずだ。
静寂が、荒野を包み込んだ。
定型命令のシステムの中では、ラゲルが上だ。しかし、カイの非定型コールに対する即応性――戦況に応じた最短の道を切り拓く連携においては、ヴェラが圧倒的に上回る。
これが、他の誰にも真似できない、ヴェラだけの唯一性だった。
「……参った」
ラゲルが木剣を下ろし、大きく息を吐いた。
「まさか、教範の型をあの速度で破ってくるとはな。恐れ入ったよ。だが……」
ラゲルは、後方で立つカイを鋭い目で見据えた。
「灰槍の枷を外し、あれほど正確に操る男。お前のその『目』は、我が軍の参謀本部に匹敵するな」
*
合同訓練が一段落し、冒険者たちが休憩に入った夕暮れ時。
カイは荷馬車の縁に腰掛け、先ほどの模擬戦のデータをもとに、手帳に荒野の地形図を書き足していた。
ふと、ヴェラが横から顔を出し、カイの手元を覗き込んできた。
「……どうした?」
「ここだ」
ヴェラは、カイが書き込んでいた陣地の中央付近の地図を指差した。
「ここの土は、見かけよりも粒子が細かく滑りやすい。隊長との打ち合いで、踏み込むたび、靴底が指一本分ほど流れた」
「ああ、あの時少し右足がブレたのはそういうことか」
「そうだ。次からは、このエリアでは踏み切る位置を変えるか、歩幅を狭めるべきだ」
ヴェラはそう言うと、当然のような顔をしてカイからペンを奪い取った。
そして、手帳の余白に、自分しか読めないような無骨な文字で『中央、土滑る。歩幅マイナス一』と書き足したのだ。
カイは目を丸くした。
カイの字より大きい追記が、元の線にかぶさった。普段なら書き直す。だが今は、その字を避けて次の道を描きたくなった。
「……悪くないな。次からそこは計算に入れとく」
カイが笑みをこぼして手帳を受け取ろうとした時、二人の前に影が落ちた。
ラゲルだった。彼はもう木剣を持っておらず、代わりに革袋から一枚の封書を取り出した。
厚手の羊皮紙に、黒い蝋で重々しい封印が施されている。
「隊長……それは」
ヴェラの声がわずかに硬くなった。
「お前たち二人の力はよく分かった。今のグラディアには、その力がどうしても必要なんだ」
ラゲルは、その封書をヴェラの胸に押し付けるようにして差し出した。
「アルディス参謀総長からの、旧軍再編計画への正式な召集状だ。灰槍。お前が戻るべき場所は、冒険者ギルドなどではない。俺たちの軍だ」
赤黒く染まる夕焼けの中、ラゲルの目は本気だった。
亡国の命令が、決して逃れられない呪いのように、ヴェラの手の中に落とされた。




