Lesson6,両想いの始め方
「お疲れ……様……でした……」
誰も使っていない裏庭のはずれにある水道場。頭から水を浴びて冷静になった総が、頭にタオルをかけながら座り込んでいると、頭上から聞きなれた声がして、ゆっくりと顔を上げる。
「沙雪ちゃん……」
自分に声をかけてくれた人物の名を呼んでみたものの、少しだけ目が赤くなっているのを見て、総は冷静さを保ちながら尋ねた。
「見ていたの?」
照れたように微笑む総の短い質問に、沙雪はただ無言で静かに頷く。
やはりかと理解しながらも顔を俯けると、総の顔は自然とタオルの下に隠れてしまう。
普段の部活動練習を終え、最後に行うクールダウン前に陸上部顧問の許可を得て笹木と勝負を行った。
勝負後に聞こえる周囲からの笹木への賛辞と、自分への励ましも適当に受け流す事はできたし、自分でも気にしていないと思っていた。
ただ、紗雪にかっこ悪いところを見せてしまったと思うと、急に恥ずかしさと惨めさが湧き上がってくる。
走り終わった時はすごく爽快感があったし、走ってよかったとさえ思えたのに。
なぜ今になって羞恥と惨めさに苛まれなければいけないのかが理解できない。
気にしていないと思いながらも結局は誰の人目にもつかないだろう、この場所に逃げるようにやってきた。
それなのに一番見られたくない子に見つけられてしまったという羞恥が総を襲う。
総はうつむいたまま、擦れた声で言った。
「顧問がさ、さっきの走り見て、俺に走り幅跳びに転向しないかって言ってきたんだ……。最後の大会だし……出場させたいっていうのもあるらしいけど……短距離は……やっぱり笹木を入れるって……。それにほら……俺、30メートルぐらいまでは笹木より早かっただろう? 瞬発力は俺の方が上だったから……走り幅跳びにしたらどうだって……言われ、た」
言い終えてから、何を言っているんだと嘆きたくなった。
本当は嬉しいはずだ。
どんな形であれ、大会に出られるってことが嬉しくてたまらないはずなのに。
総の話を黙って聞いていた沙雪は、すんっと小さく鼻をすすって、それから静かに言った。
「それで……いいんですか? だって……先輩……走るの好き、でしょう?」
耳を疑うような言葉に顔を上げると、沙雪ちは悲しそうに、自分以上に悔しそうに総を見つめていた。
どうして――どうしてこの子は、自分の気持ちをこれほどまでに理解してくれるのだろうか。
どんなに大会に出られて、記録を残すことができそうでも、自分は走ることが好きで、走りたいって願ってしまう。
贅沢すぎると思っていた。
そんな力も持ち合わせていないくせに、走り続けたいと思う。
いけないことなんかじゃない。
ただ周囲に合わせなければいけないときもあることを理解している。
沙雪がそうやって自分の本心を見抜くから、総の決心はまた揺らいでしまう。
総は目を細めて紗雪を見つめるも、あれ程好ましいと思っていた純粋な彼女の視線が、今は酷く憂鬱だ。その視線から逃れるように俯いて、頭に乗せたタオルで表情を隠す。
なんでこうも、うまくいかない。
何でもそつなくこなせると思っていた自分の理想より、遥かに遠い現実が受け止めきれない。
分かっているのに、理解できるのに納得できない。
がむしゃらにやれるのが若さだと顧問が申し訳なさそうに笑った。
欲しいのはそんな言葉じゃなかった。
馬鹿にするな。この葛藤を馬鹿にするなと叫びたかった。
それでも届かないのは、自分が素直な言葉をつむぎ出せない不器用のせいだ。
ただ――すべてが自分のせいになるのは辛すぎる。
「先輩……いいんです」
ふと聞こえてきた後輩の声は、いつの間にか隣に移動していた。
顔をゆっくりあげれば、自分と並んで座っていた彼女は穏やかに微笑んで。
「いいんです、先輩。誰かのせいにしていいんです」
紗雪の言葉に、息が詰まった。
大きく目を見開けば、彼女は照れたように笑いながらまっすぐ前を向いて、総に横顔を見せながら呟くように続ける。
「先輩は、すごく優しいです。優しいから、全部自分のせいなんです。全部自分が悪くなってしまうんです」
笹木君の事も、相沢先輩の事も、部活の事も、と自分がわかる範囲で指折り数えた紗雪がいて。
「いいんです。あいつが悪いんだーって言っちゃって。わ、私も……自分の事ばっかりで……人に憧れてばかりで……憧れを憧れのままにして……どこかで諦めてた……」
静かに続ける紗雪の瞳には、いつの間にか溢れそうな涙が溜まっていたけれど、必死に流すまいと彼女は笑う。涙を浮かべながら笑うのだ。
「わ、私はっ……こんなっ……誰かと話せるのが夢みたいでっ……それまでの自分がすごく嫌いで……恥ずかしくて……大嫌いだった……けれど、好きになったんです」
「……紗雪ちゃん」
「先輩が一生懸命話しかけてくれるからっ……先輩が頑張っているの知ってるからっ……だからっ、頑張ろうって……」
言葉を並べるにつれ、とうとう耐えきれなくなった涙が紗雪の頬を伝った。
悔しそうに、辛そうに、けれど懸命に自分の気持ちを伝えようとする彼女の姿があって。
そんな姿に胸を打たれるのは、もう仕方がない事なのかもしれない。純粋にただ――綺麗だと。
「先輩は、もっとワガママでいいと思います……」
ポツリと零しながら紗雪は涙をぬぐう。
「すみませっ……なんかっ……泣くつもりなんてなかったんですけどっ……」
恥ずかしそうに誤魔化しながら笑う紗雪は、もう男性と話すことが苦手な子だったとは思えないほど、自分と対等に話してくれている。感極まってこぼれた涙だったらしく、それ以上の涙は零れる事はなかったけれど、自分の為に流してくれたものだと思うと、愛おしく思えて。
「……我慢しろと言われた事はたくさんあったけれど……ワガママでいいなんて、初めて言われたな」
総は自嘲気味に呟いて笑うと、紗雪に対して静かに手を差し伸べる。
唐突な総の行動に戸惑いながら、紗雪は総の手に自分の手をそっと乗せる。
柔らかく、細く、自分とは似つかないほど白いその小さな手を握り締め、紗雪をまっすぐに見つめて。
「沙雪ちゃん……ありがとう」
素直な気持ちを伝えると、沙雪は完熟トマトみたいに真っ赤な顔をして、困ったように総の顔を覗き込む。
なぜ感謝を伝えて困った顔をするのかが分からず、その動揺があまりにも愛らしく、総はクスクスと笑って。
「ねぇ、沙雪ちゃん」
「はぃ……」
「好きになっていいかな?」
「…………んぇっ?!」
あまりにも予想通りの反応に、総は笑いをかみ締めながら、握る手に力を込める。
彼女が痛くないよう加減はするけれど、決して離されないように必死にしがみついているみたいだと自分の行動が笑える。
「……俺、今まで人を好きになったことなんてなかったんだ。だから、正直自分の行動にも戸惑ってる」
きっと今起こしている自分の行動は、相手が自分に好意的でなければ決して許されない行動だとも理解している。心のどこかで彼女は自分を拒否しないと分かっていて、けれど不愉快な思いをさせたくないという臆病な自分もいる。
「初めての感情に振り回されてるから、俺は知らずに君を傷つけるかもしれない。君を泣かせるかもしれない」
「はい……っ」
「それでも――俺は、君と恋がしたい。もっと君の事が知りたい、もっと君の傍にいたい」
相手が紗雪だからこそ手を握りたいと思うのだ。
会話して、触れて、何度も自分の気持ちに自問自答して。
繰り返される答えは、溢れ出す紗雪への好意。
この純粋な気持ちを伝えるために、どれだけ遠回りをしてしまうんだろう。
こんな回りくどいやり方しか出来ない自分だけれど、許されるなら。
「俺と……俺に、恋をさせてほしい。君を恋しいと想う事を……許してほしい」
総が精一杯に自分の気持ちを伝えると、沙雪は頬を紅潮させ、潤んだ上目遣いで見つめて。告白なんて初めてだし、思ったようには行かないかもしれない。これが告白と受け止められていないかもしれない。それでも、離したくないと思ったのも事実だから。
心臓をバクバクさせながら、沙雪は少し困ったように小さく呟いた。
「わ……私も、……いいです、か?」
「――え?」
「……私も、実はわからなくて……あの……自分の気持ちが、これが恋なのかもよくわかっていなくて……でも、先輩の事、もっと知りたいって思います。もっと、傍にいたいと……きっと、同じ気持ち」
自分の中に芽生えた感情を、大切そうに、宝物のように語る紗雪は、蕩けるような笑みを浮かべて。
「あのっ……えっと、そのっ! こ、恋なのかはわからないですけど! でも! 想い合ってるって事ですよね! これは、両想いって事ですよね!?」
二人の気持ちに恋という代名詞がつけられない状況で、紗雪はそれでも互いに想い合う事=両想いという結論に達したらしく、自分の感情にようやく名前が付けられたことに、嬉しそうに笑う。
まるで名案だとでも言いたげな紗雪の言葉に、総は思わず吹き出して。
「ホントだ……っ! あははっ! 確かに両想いだ」
その言葉があまりにもしっくりきてしまった二人は、顔を見合せて笑う。
嬉しくて、くすぐったい、それでも共有できることがたまらなく幸せだと思うのだから、きっと両想いという名前は相応しいのだ。
「それじゃあ、紗雪ちゃん。俺と両想い始めませんか?」
総がいたずらっ子のような笑みを浮かべて提案すると、紗雪は屈託ない笑顔で承諾した。
おしまい
中途半端な感じがしますが、旧作の第一章として書いていたところまでのリメイクとして、一度終了とします。
私の性格上、長編を完結まで持って行くのに大変苦労するため、試験的に章分けで掲載させて頂きました。
続きも書ければいいなぁとは思っていますが、また長い期間があくかもしれません。
とりあえず二人のお話はこれでいったん区切りということで、お読みいただきありがとうございました。