第五章 ゴキブリ・コンバット
朝。
A市の空は白かった。
夜の雨が少しだけ残っていた。
道路は濡れていた。
ネオンが水たまりに映っている。
車が通るたび、赤や青の光が歪んだ。
---
男は病院のベッドで目を覚ました。
顔は包帯でぐるぐる巻きだった。
左目。口。わずかにそれだけが包帯の隙間に覗いていた。
手首のネームバンド。
トキタ・シュウ。
看護師が読み上げた。
確認。
くぐもった声で答える。
点滴の交換。
笑顔。
「ゆっくりお休みください」
手順通り。
去った。
何事もなく。
シュウは眠れなかった。
奪い返された女の顔を思い出した。
「翠……」
今にも消えてしまいそうな。
不安そうな笑顔。
何か言おうとして閉じた口。
儚げな唇。
自分を見つめる翠の眼差しを思い出す勇気はなかった。
逃げてくれば匿ってやる。
俺たちがいるから安全だ。
風間輝人は言った。
大嘘だ。
戻った。
そしたら連絡がつかない。
部屋から一歩も出られない。
携帯は通じない。
不安が募る。
外の様子を見に行かずにはいられない。
結果、これだ。
俺は裏切られた。
怒りが込み上げた。
起きようとした。
無理だ。
力が入らない。
点滴が効いてくる。
怒りが矢印となって目の前をよぎる。
ゾートロープのように回転する。
行き場をなくした矢印は速度を増し、渦を巻いた。
矢印は渦を巻いて高く、高く、どこまでも高く伸び上がる。
塔のように。
行き場のない矢印。
怒り。
何のために耐える必要がある?
意識が朦朧とする。
怒り。
苦痛。
血が滾るほどの怒り。
流れ出た血が急に色を失う。
力が入らない。
体が浮く。
夢うつつ。
翠。
愛しさは消えない。
顔。
体。
「俺は眠っているのか」
シュウは思った。
いつのまにか。
夢を見ていた。
白い鳩が舞い降りた。
餌をついばんでいたかと思うと見えなくなった。
白い鳩の足跡をたどる。
錆びた色の石畳の上。
あたり一面、白い羽毛と桃色の肉片が散乱していた。
---
女はゴキブリの匂いのする床に裸でころがっていた。
エリの執拗なハラスメント。
謝罪を求める。
謝罪を受け入れず、罵倒する。
足蹴にする。
踏みつける。
繰り返し。
翠を凹ます。
涙があふれるまで止めない。
それは店に入った千子が見つけて一喝するまで続いた。
「何してるの」
香取千子は言った。
「やめなさい。みっともない」
「ええやないの。何がいかんの」
エリは甘えてイヤイヤをする。
「この女は逃げたんやろ」
エリは渋った。
「逃げたんが悪いんやないか」
エリは口答えした。
そして目を輝かせた。
もっと他人の涙を味わいたかった。
「風間に誘拐されたのよ」
「そやけど……」
女は舌なめずりして、上目を使う。
「言い逃れや、そんなん」
両脚を開いて踏ん張った。
面と向かって千子に逆らうには勇気がいる。
「決まりをつけな。
こうでもせんと、示しがつかんやないの。
千子はエリの頬を平手で打った。
「あなた、何様のつもり」
エリは唖然とした。
言葉もなかった。
それきり、リンチは終わった。
「さっさと服を着て。顔を洗って、お化粧を済ませて」
香取千子が言った。
「店を開ける時間よ」
明け方。
香取千子が店を引けると。
今度はバックヤードで女たちに囲まれた。
「ねえ、あんた」
一人が言った。
「エリさん、あんたのせいで叱られたんよ」
「ずっと凹んでたわ」
同じことの繰り返し。
また最初から。
なんでだろう。
なぜこんなことをするんだろう。
この人たちは。
翠はぼんやり考えていた。
朝になって。
解放された頃には。
床はゴキブリ臭い上に小便臭かった。
いつまでも、こんなところにはいたくなかった。
でも帰れる場所はない。
どこにもない。
---
ポン引きのヤスは眠っていた。
正確には、眠ったふりをしていた。
胸に頭を乗せた女が鼾をかいている。
窓の外から、道路を走る車の音が聞こえる。
部屋の明かりは念のため、消してある。
携帯電話が震えた。
ヤスは目を開けた。
画面を見る。
知らない番号だった。
しばらく鳴って、切れた。
すぐにまた震えた。
切れた。
三度目。
諦めが悪いな。
ヤスはしばらく携帯を握っていた。
それから立ち上がった。
切れた。
風間か? バレたか?
でも殺ったのは。
俺じゃない……なんで。
考えている暇はない。
服を着た。
カーテンの隙間から外を見る。
道路の向こう。
街灯の下に車が停まっていた。
黒い車。
誰も降りてこない。
ヤスはカーテンを閉めた。
もう来てる。
女はまだ眠っている。
いい気なもんだ。
女は寝返りを打つ。
口を大きく開けて息を吐いた。
また鼾がはじまった。
眠る穴。
騒がしい穴。
今は静かな穴。
緩んだ穴を後にして。
男たちがドアを蹴破って部屋に飛び込んだ。
ヤスはとっくに逃げ出していた。
---
ベッドから転げ落ちた女の悲鳴。
張り倒される衝撃音。
怒号、に次ぐ怒号。
窓の外でカラスが合唱した。
「もう一度聞く。ヤスはどこだ」
「知らない。あたしは寝てた」
男が女の髪を引っ張った。
「本当に、知らない」
「冗談じゃねえ」
「冗談じゃないわ」
女は叩かれて涙ぐむ。
「本当よ」
「どこへ逃げた」
「知らない。あたしは知らない」
「知ってるかどうかなんて関係ねえ」
女は泣き出した。
「どうすればいいの」
男たちも途方に暮れた。
「心当たりは」
「無狂さんのところ」
「どこだ」
女は首を振った。
連絡すると。
そう。
無狂さんはいつも場所を指定して、呼びつける。
決まった場所はない。
だからどこへ行ったかはわからない。
---
風間芸能事務所の前が騒がしかった。
男たちが集まっていた。
殺気立っているのか。
浮足立っているのか。
両方だ。
スーツの男も。
作業着の男も。
ラフなジーンズの男も。
派手なアロハの男も。
胸を弾ませていた。
遠足当日の小学生のように。
招集がかかった。
出入りだ。
待ち望んだ瞬間はすぐそこだ。
すでに暑い。
シャツは汗で濡れていた。
汗の匂いが血の匂いを誘う。
男たちが見上げる事務所。
その三階に、風間輝人はいた。
---
風間輝人は携帯を見て笑っていた。
写真。
ではない。
今度は動画のリンクだった。
ラブホテルのベッドの上。
千子は裸で、真人の逞しい肉体に組み敷かれていた。
くちづけ。
体位。
何をとっても。
金長流の時より情熱的だった。
比べものにならない。
組長の面目丸つぶれだ。
金長流の悔しがる顔を想像して、風間輝人はほくそ笑んだ。
動画のリンクは関係者に一斉送信されている。
ビュー・ワンス。
証拠は保存できない。
発信元は追跡できない。
どうせそんなことだろうさ。
朝っぱらからご馳走様。
風間輝人は真人の真面目くさった顔を思い返して、もう一度笑った。
映像はすべて。
挑発するだけ挑発して消える。
「面白いな」
輝人はつぶやく。
「いや面白い」
---
香取千子は鏡の前に座っていた。
シャワーの後。
髪を乾かしている。
窓の外はもう明るい。
蝉が鳴いていた。
携帯電話が鳴った。
別府真人だ。
別番号。
緊急。
「はい」
「香取さん」
「そうです」
「見ましたか」
「ええ」
「金は?」
「見たでしょう。当然」
「何か言ってきましたか」
「まだ」
香取千子は答えた。
「言い訳はしないわ」
「その必要はない」
「ええ」
千子は笑った。
「あなたも私も裏切り者ね」
「そうですね」
「平気なの?」
「もとから疑われてます」
「風間が?」
「信用がないんですよ。いつも言われてますから」
『おまえが裏切り者だったら今すぐ殺せる』
輝人の口癖だった。
輝人は本気だ。
「大丈夫ですよ。社長はああ見えてバカじゃない」
「でもいったい誰が?」
「わかりません」
真人は言った。
「尾行はなかったはずです。何度も確認しました。携帯に追跡アプリを仕込まれたか。それにしてもあの状況で、あらかじめルームナンバーを知ることなんて不可能です。隠しカメラを設置するにしても時間がない。監視カメラにしては映像が鮮明だし、距離が近すぎる」
「見当もつかないわ」
「それよりも不気味なのは狙いがわからないことです。組か、それともあなたか私個人が狙いなのか」
「わたしたちを狙う意味がある?」
「とりあえず、いちばん無防備なのはあなただ。身を隠せればいいが、それをやったら余計に金の神経を逆なでする。逃げ場はない」
千子は男の正直な物言いに笑いをこらえきれなかった。
「ふっ」
「なんです?」
「なんでもない」
千子は答えた。
「覚悟は決めてる。いつも通りにするわ」
「気をつけて」
真人は言った。
「俺にできることは少ない。くれぐれも注意して」
他人行儀にしか話せない。
それは千子も同じだ。
「ありがとう」
千子が応える。
「気にかけて頂いて、それだけで十分。嬉しいわ」
---
無狂は歩いていた。
朝の街。
スーツ姿のサラリーマンに混じって歩く。
コンビニで水を買った。
店員が頭を下げた。
「ありがとうございました」
外に出る。
空は青い。
暑い。
無狂は水を一口飲んだ。
イラン人の女の死体。
太陽が白い午前の光。
女を裸にして殺して死体を捨てる。
簡単なことだ。
殺してからでは服を脱がしにくい。
死体は人目につく場所に捨てる。
裸は鉄則だ。
絶対無視されないように。
指二本を失った男。
今では首も失くしたが。
運河の底に沈んでいる。
その男の女だ。
たった今、路上に捨てた。
日を浴びて腐り始める前に発見されればいい。
車は返した。
運転手はヤス。
風間から逃げてきた。
ヤスは鼻が利く。
どこが安全か。
どの勢力に付けば得か。
変わり身は早い。
黙って与えられた役割をこなす。
携帯電話が鳴った。
ヤスだ。
到着の報告。
律儀なことだ。
信号が赤になった。
無狂は立ち止まった。
向かい側に女子高生が二人いる。
笑っている。
暑そうだった。
---
男が死んだ。
車の中だった。
運転席。
シートベルトを締めたまま、ハンドルに突っ伏している。
後頭部に小さな穴。
陸山会の金庫番補佐。
江藤。
---
別の場所。
男が死んでいた。
暑い車内。
死んだことも知らぬ気な顔で俯いている。
涼し気な微笑み。
後頭部に小さな傷。
隣で死んでいる女。
恐怖で固まった表情。
仰向いて、口を開けている。
瞳孔が開ききっていた。
心臓に一発。
---
また別の場所。
ビルの陰。
一人の男が車に乗り込む。
五十がらみの金髪。
作業着を着ている。
ドアが閉まった。
派手なペイント。
ゴキブリ退治。
夏のキャンペーン。
害虫駆除のワゴン車。
車が走り去った。
道端で男が一人死んでいた。
---
「社長」
別府が入ってきた。
「人を集めたんですね」
「精鋭部隊だ」
「とびきり凶悪なやつばかりってことですか」
「嫌味か」
輝人は不敵に笑った。
「別府、おまえ、自分が嫌味なんか言える立場だと思うのか」
「嫌味ではありません。社長の趣味は別にして、凶悪なやつは役に立ちます。戦争ではビビるよりやりすぎるほうがはるかにマシですから」
「ウチの、ほら、死んだ野郎、なんて名だったか」
「死体は今日中に処分します」
「弔い合戦だ」
輝人が言った。
いなかったことにされた男の復讐。
何人分のタマを取れば十分なのか。
計算は苦手だ。
「別府」
「はい」
「俺はな、頭のいい奴が嫌いなんだ」
「存じています」
「何を考えてるかわからねえからな」
「社長も、そう思われているかもしれません」
「俺は簡単だ」
輝人は笑った。
「気に入らねえ奴をぶっ殺す」
「わかりやすいですね」
「だろ」
別府は笑わなかった。
「女の趣味はいいな」
輝人は心から楽しそうだった。
「それだけは認めてやるよ」
「ありがとうございます」
別府真人は深々と頭を下げた。
「利益が不利益か、それが問題だ」
---
無狂はアップされた動画を見ていた。
風間は信じるだろう。
その方が都合がいいからだ。
ヤスと雑賀も自分の携帯を覗き込んだ。
事実だけなら何の問題もない。
誰にでも理解できる。
問題は意味だ。
裏切りか。
否か。
「マジか」
「そういうことだ」
「そういうって、どういう」
ヤスが訊き返す。
「人間は疑う」
「ん?」
「それだけじゃない」
無狂は言った。
「疑いを正当化するものを信じ込む」
金長流は信じる。
無論だ。
人間は時に最も信じたくないものを信じずにはいられない。
「証拠なんか必要ない」
陸が疑う理由はない。
それは敵の付け入る隙を意味するだけだ。
「人間は、自分が疑いたいものを疑う」
無狂は歩きながら笑った。
「みんな、自分が正しいと思いたいんだ」
「で、次は?」
雑賀が訊いた。
「次?」
無狂は空を見た。
「信じ込ませてやる」
「何を?」
「戦争の意味を」
「どうやって」
「簡単だよ」
アジトは廃屋だった。
冷房はない。
日陰なので多少はマシだが、暑い。
汗が流れる。
汗が止まらない。
拭いても、水を飲んでも止まらない。
「どうするんだ」
「唆せばいい」
無狂が言った。
「俺が誰かに耳打ちする」
「うん」
「誰かが誰かを殺す」
「それで」
「自分のした行為を信じないヤクザはいない」
雑賀がまた汗を拭いた。
「意味がわからない」
「わからなくていい」
無狂は立ち上がった。
「理解するのは死ぬときだ」
「俺もくたばるんですかねえ」
ヤスが言った。
「嫌だ、嫌だ。ゾッとしない」
「血の海に浸ってはじめて気づくのさ」
無狂が笑った。
「俺は自分で自分を騙してたんだって」
---
「バグ・コナーズ」
金長流が言った。
「誰です?」
佐々が訊ねた。
「昔からいる男だ」
「何をする人間ですか」
「害虫駆除」
「本物の?」
「表向きは」
「裏では?」
「何でも」
金長流は煙草を咥えた。
「何でも?」
「人探し。運び屋。死体の処理。護衛。たまに殺し」
「たまに?」
「本人はそう言ってる」
「信用できるのですか」
「信用しないほうがいい」
金長流は煙草に火をつけた。
「無狂がすでに動いている」
金長流は思い出した。
その番号に電話をかけた。
依頼した。
陸山と風間の始末。
そして。
「香取千子を殺せ」
そう言った。
自分の声を覚えている。
虚ろな声。
どす黒い感情。
力ない響き。
決意。
ゆらぎ。
金長流は首をふる。
これはメンツの問題だ。
「無狂はすでに動いている」
金長流は言った。
「となればフリーなのは」
灰を落とした。
「バグ・コナーズ」
指がわずかに震えていた。
「奴しかいない」
「無狂とは?」
佐々が訊いた。
「知り合いだ」
「それじゃあ」
「仲間じゃない」
「殺せますか?」
「腕は確かだ」
「無狂とは?」
「遣り口が違う」
「というと?」
「目立たない」
「知っているので?」
「一緒にヤマを踏んだこともある」
佐々との会話。
実はない。
空っぽだ。
だが気晴らしにはなる。
「本当にフリーなんでしょうか」
「らしい」
「らしい?」
「本人が言っていた」
「無狂はどう出るでしょう?」
「あいつが何を考えているのかなんて、誰にもわからん」
「それはそうです」
---
休園日の動物園。
ピエロを乗せたワゴン車が裏門をくぐった。
ヤクザ医師が手配した死体の運び屋。
少し離れて。
害虫駆除のワゴン車が後を尾けていた。
ピエロはスペアキーを取り出した。
焼却室のドアを開けた。
袋詰の死体を台車に乗せて運んだ。
袋を開ける。
裸の男の死体。
手慣れたようすで引きずり出す。
焼却炉の蓋を開ける。
火を入れる。
死体を抱えた。
動きが止まる。
そのまま。
頭から崩れ落ちた。
後頭部を撃ち抜かれていた。
作業着を着た金髪の男が立っていた。
バグ・コナーズ。
静かに目を伏せた。
拳銃をしまった。
ピエロの死体を持ち上げた。
焼却炉に放り込んだ。
蓋を締めた。
裸の死体を台車に載せる。
腹の縫合痕が開いていた。
ホッキョクグマの放飼場に運んだ。
手すりに乗せた。
力任せに投げ入れる。
死体が裸なのは好都合だった。
傷口が死にたての血の匂いをプンプンさせていた。
ホッキョクグマは骨付き肉が大好物だった。
内臓はもっと好きだ。
たちまち何頭か集まってくる。
白い顔を血だらけにして、男の腹にかぶりついた。
先を争って襲いかかった。
鼻先を深く突っ込んだ。
鋭い牙で食いちぎる。
新鮮な内臓をえぐり出して丸呑みにした。
血が飛び散った。
肉をくわえて振り回した。
骨を噛み砕いた。
吠えた。
唸った。
取っ組み合いをした。
ホッキョクグマは興奮状態だった。
野生を取り戻して楽しそう。
休園日でなければ子供たちが歓声を上げただろう。
男はしばらく眺めていた。
満足すると立ち去った。
害虫駆除のワゴンに乗って走り去った。
バグ・コナーズは、もう仕事を始めていた
効率のいい男だった。
---
A市で子供が中学生になる。
たいていは仲間内の殻の中に閉じこもる。
自分に関係のないことは見て見ぬふりをする。
そういう習性がつく。
そこでドロップ・アウトしなければ。
高校生になる頃には、無事飼いならされた市民に仕立て上がった。
仲間内のコミニュケーションが世間一般と同質になれば一般人に。
そうでない人間はそれなりに。
それぞれ自分に見合った人間になる。
金信一はヤクザの息子だった。
仲間内には入れない。
自分で仲間を作らなければ、仲間内に属せない。
信一は内気だった。
劣等感が半端なかった。
父。
母。
妹。
自分から何も言い出せない。
それが反抗的な態度に見えた。
煙草を吸った。
酒を飲んだ。
一人では面白くなかった。
パチンコでスッた。
賭場に顔を出した。
男が苦笑いした。
「坊っちゃん、困りますよ」
伊崎が言った。
「組長に叱られます」
何もかもうまく行かなかった。
夜の街に飛び出した。
誰も、見向きもしない。
夜通し歩き回った。
薬局の裏。
自販機の陰。
暗い路地。
イラン人が声をかけた。
「金は持ってるか」
信一は自棄になってポケットから現金をつかみだした。
伊崎の静止を振り切って賭場から持ち出した。
イラン人は金を受け取ると白い粉を手渡した。
使い方を説明した。
日本語は流暢ではなかったが口調は丁寧だった。
ガラス製のパイプに詰めてライターで炙れば。
ほら、どうだい?
一息に。
そうだ。
元気が出るだろう?
---
信一が知り合ったイラン人は昨日、同じ場所で殺された。
シャブはまだ手持ちがあった。
なのにまた息が苦しい。
信一は当て所なく街を歩き続けた。
陸山会の事務所にはイラン人が乗り込んでいた。
売人が殺された。
薬が奪われ、アジトが焼かれた。
女まで殺された。
何のためにみかじめ取ってる。
誰が殺った?
鳳凰か、風間か?
知らないじゃすまない。
おまえたちは何だ。
何様だ。
ふんぞり返って札びら数えてるしか能がねえのか。
いいか。
お前らが黙ってるなら、俺たちがやる。
「俺たちは勝手にやる」
リーダーのアル・ハミドが一気にまくし立てた。
「誰が殺ったかはわからん。それがはっきりしないと迂闊に手は出せん。戦争になるからな。利益にならん戦争はしたくない」
陸清也は繰り返した。
「だがな、こっちにも責任はある」
陸清也はそう言って、身を乗り出してみせた。
「武器は都合する。人も貸そう」
「当たり前だ」
イラン人は憤然として踵を返す。
階段を駆け下りる音が遠ざかる。
連中は決してエレベーターを使わなかった。
静寂が戻った。
「一昨日来やがれ」
男が吐き捨てた。
陸力斗。
清也の弟。
「まだ三人ほど連絡が取れません」
秘書が告げた。
「誰だ」
「久我と前島、あと江藤です」
「サボってるわけじゃねえよな」
「江藤がですか、まさか。ありえません」
黙って聞いていた陸清也が苦虫を噛み潰した。
「殺られちまったのかも。なあ、アニキ。ウチはちょっと動きが遅えんじゃないか?」
力斗は調子に乗って喋り続ける。
「イラン人が言ってたみてえに先制攻撃が筋と違うか」
「冗談で言ってるのか」
「チゲーよ」
陸清也は黙った。
窓の外を見る。
行き交う歩行者。
通り過ぎる車列。
路上で煙草を吸う男。
ポイ捨てする女。
日傘の女。
上着を脱いだ男
親子二人乗りの自転車。
バス。
バスの前を横切る中学生。
おしゃべりに夢中な女子高生。
列を乱す小学生。
何も変わっていない。
それが気に入らなかった。
人が死んでいる。
一人や二人じゃない。
今も誰がが死ぬところかもしれない。
なのに街は普通に動いている。
感傷じゃない。
弱気じゃない。
言い訳でもない。
陸清也は考える。
風向きが変わる瞬間を捉えて攻勢をかける。
それがビジネスだ。
---
シュウはまだ夢うつつだった。
病室に男が入ってきた。
ホストクラブの使い走り。
根津だ。
「何しに」
「お見舞いだよ。それと伝言」
根津が言った。
「店長がもう来なくていいってよ。はっきり言ってクビだ」
チャラチャラとキーホルダーを回しながら、ベッドに顔を近づける。
「まあその面じゃ店出てもどうにもならんだろうが」
根津がニヤけた。
「あー、それといくらか逃走資金渡したろ。もう必要ないから返せって」
「持ってない」
「部屋にはなかった。入院できるくらいだから持ってきてるんだろ。どこにある?」
根津は勝手に机の引き出しを開ける。
「どこだ。預けたのか」
「ああ」
「そう思って訊いてみた。預かったないってさ」
「そうか」
「隠すなよ」
根津は枕の下に手を突っ込む。
遠慮はない。
「どこだ?」
根津は懐から折りたたみナイフを出してチラつかせた。
「……」
シュウが声にならない声を出した。
何か言おうとするさまに、
「ん」
根津が顔を近づけた。
シュウの手がナイフごと根津の手をつかんだ。
次の瞬間。
するどい刃先が男の頸動脈を切断した。
ナイフが落ちた。
噴き出す血。
男があわてて両手で抑える。
指の間から。
両腕をつたって。
首に。
胸元に。
鳩尾。
足元に。
あふれる血。
シュウはとっさにシーツでくるんだ。
頭からすっぽり被せた。
血を浴びないように。
少しでも死を早めようと。
シーツを締めづけ窒息させる。
根津は死んだ。
死体をベッドの下に押し込んだ。
床の血を拭き取った寝具といっしょに。
綺麗にはならない。
手がベトついた。
根津が持ってきた悪趣味な服に着替える。
金を取り戻せないときは、連れて行って吐かせるつもりだったらしい。
危ない、危ない。
急いで廊下にでた。
角を曲がって身を隠す。
足を引きずりながら。
顔を隠し。
逃げ出した。
小走りに、出口を目指した。
病院は火葬場の待合室だ。
生きて出て来られたら運がいい。
---
病院の裏口から男が出てきた。
妙な帽子をかぶっている。
マスク。
サングラス。
その下に眼帯。
包帯も見える。
暑い。
それでも外さない。
怪我を隠すため。
胸元は開けない。
そんなレゲエ・ファッション。
おかしな格好だ。
慎重にあたりをうかがってから、道路を渡る。
タクシーを拾う。
乗り込む前に、一度だけ振り返った。
強烈な光の反射。
病院の窓だ。
片方だけ残った目が痛い。
空。
何もない。
音もしない。
あまりの暑さに蝉も鳴き止んでいるのか。
一瞬、気が遠くなった。
なんとか意識を保つ。
足に力を入れて踏みとどまる。
車がいた。
男は手を上げた。
男は車に乗った。
「どちらまで?」
「D町」
運転手が発車させた。
男は目を閉じた。
---
陸山会の地下駐車場に車が入ってきた。
陸清也は後部座席から降りた。
男が待っていた。
「佐々です。裏で動いていたのは」
「鳳凰か」
「いえ。佐々の単独行動のようで」
「金はつんぼ桟敷か」
陸清也はほくそ笑んだ。
「それは好都合だ」
「どうします?」
「佐々は泳がせとけ。脅しをかける必要はあるな」
「荷物の在り処も判明しました」
雑賀が言った。
「手筈は」
「整っています」
「いつ」
「今夜にも。私が直接参ります」
「よくやった」
「イラン人にも知らせてやれ。『鳳凰がやった』ってな」
---
小学生の男の子が段ボールの箱を抱えて歩いていた。
両手で抱えるほどの大きさだ。
箱の側面に、小さな穴が開いていた。
中で何かが動いた。
かすかな音。
カサ。
また音がした。
カサ。
通りがかった男が箱を見た。
「何だ?」
声に出しては言わないが、そういう顔で見た。
夏休みの自由研究。
ゴキブリを箱の中に閉じ込めた。
どんな条件のときに共食いを始めるか。
餌はなし。
少しずつゴキブリの数を増やして、一日待つ。
結果を見る。
とうとうだ。
やった。
共食いしたゴキブリが数を減らし、細かな残骸が段ボールの底にこびりついていた。
箱を傾けると大量の糞がサラサラと音を立てた。
---
風間芸能事務所。
一階は空きスペース。
いつもは二、三人の若い者が詰めているが今日は不在だ。
受付は二階。
階段を上がる。
壁にはカラフルなポスター。
衣装が何着か吊るしてある。
正面に机。
ビジネスフォン。
盗聴防止装置のついたシステム一式。
そこに受付嬢が座っている。
宮島愛具里は優秀なオペレーターだった。
小学生が事務所に入る。
誰もいない。
階段を登る。
受付嬢と顔が会う。
「魁佐」
愛具里が素っ頓狂な声を上げた。
電話の応対とは大違いだ。
「お姉ちゃん」
「遊びにきちゃいけないって、いつも言ってるでしょう」
「でもさあ」
見回す。
暴力団のアジトらしくはない。
ただのこぢんまりした芸能事務所にしか見えない。
「今日は誰もいないからいいけど」
愛具里が言った。
「お姉ちゃん、お仕事なんだから」
「だって、だってさ」
小学生は腕に抱えた段ボール箱を持ち上げる。
「これ」
受付に置いた。
「何?」
「自由研究」
カサ。
かすかな音。
カサ、カサ。
重なる音。
カサ。
また音がした。
カサ。
女が箱を見た。
「何これ?」
「ゴキブリ」
「キャッ」
女が悲鳴を上げた。
「知ってる? ゴキブリって共食いするんだよ」
魁佐は言った。
愛具里は飛び退いた。
「嫌よ。関係ないわ。あんた、なんてものもってきたの」
愛具里は机から離れて後方の壁に張り付いている。
「どけて。お願い、さっさとどけて!」
「でもね」
魁佐は言った。
「でもさ」
女は箱を見た。
ガムテープで閉じられている。
しっかり閉じてある。
出てこない。
出てこない。
大丈夫。
カサ、カサ。
音がした。
カサ。
愛具里は震え上がった。
「嫌……たすけて」
消え入りそうな声。
「魁佐」
頼んだ。
「お願い、どけて」
「ミイラ男!」
魁佐が叫んだ。
受付の前に立った男。
背はそんなに高くない。
チグハグなレゲエスタイル。
顔面を覆った包帯。
片方の目が隠れている。
「あっ」
宮島愛具里は思い出した。
トキタ・シュウ。
ホストクラブの見習い。
女と逃げたが、奪い返された。
ボコられたって話だったけど。
生きてたのね。
「女はどこだ」
男は言った。
しらばっくれるのはよくない。
受付嬢の勘だ。
誰のことを言っているかもわかる。
経緯は知っている。
女は連絡の中枢にいた。
「鳳凰の店の何処かでしょう」
「どこだ」
「まだ情報はないわ」
職業柄言っていいことはわかっている。
言ってはいけないこと。
それは相手による。
「なんで見捨てた」
「その方が都合がいいからでしょう」
「なんで」
「戦争の理由になる」
「俺は利用されたのか」
「私だって、誰だって利用されてる」
「風間は」
「出入りよ」
愛具里は答えた。
「お気に入りをみんな連れて行ったわ」
「くそ」
シュウは机の上の段ボールを叩き落とした。
ガムテープがちぎれた。
箱が開いた。
ゴキブリがいっせいに飛び出した。
男は目を瞬かせた。
出るわ。
出るわ。
何が起きたかわからない。
砕けた視野に女と子供とゴキブリが散乱していた。
女が悲鳴を上げた。
魁佐は両手をバタバタ泳がせた。
女は悲鳴を上げ続ける。
もう。
かすれて声にならない。
カサ、カサ。
カサ、カサ、カサ。
ゴキブリが床を走り回った。
と見る間に。
飛んだ。
走り回り、飛び回った。
---
銃声が響いた。
一発。
二発。
三発。
止まらない。
倉庫街で、銃撃戦が始まった。
お待ちかね。
出入りだ。
輝人は偶々、イラン人と出くわした。
その先に鳳凰がいた。
風真の男が発泡した。
それが始まりだった。
箱に中から部屋の中。
街中へ。
ゴキブリが放たれた。
銃声が交錯した。
---
ゴキブリが一匹死んだ。
シュウが踏み潰したのだ。
よろけて後ろに踏み出した足で。
魁佐が唸り声を上げた。
女が頭を抱えて机の上に飛び乗った。
足元をゴキブリが走ったのだ。
ヒールを床に落とした。
正座した。
目をつぶった。
---
運河の辺でイラン人が腹を抑えた。
「撃たれた」
鳳凰の男の頭がふっ飛んだ。
「一匹」
風間輝人が至近距離から撃ったのだ。
顔の上半分がポッカリえぐれていた。
輝人はもう次の獲物を目指していた。
走った。
撃った。
また撃った。
斜め横で銃を構えたイラン人を仕留めた。
「二匹」
鳳凰は逃げ腰だった。
鳳凰も、イラン人も、怪我人をかかえていた。
風間輝人は正面を見据える。
逃げる男の背中を撃った。
「三匹」
輝人はつぶやく。
撃ちてし止まん。
フウマ・ザ・キラーは健在だ。
---
倉庫街の銃撃戦。
イラン人が三人死んだ。
鳳凰が二人。
陸山が一人。
風間の部隊は無傷だった。
予定の襲撃ではなかった。
狙いは陸山。
倉庫街は奴らのシマだ。
偶々出くわした連中。
とはいえ敵だ。
敵を見たら殺したい。
しかし。
あんな所で。
あいつら、何をしていたのだろう。
まあ。
それはそれ。
考えてもしようがない。
---
男は去った。
宮島愛具里は机から降りた。
ゴキブリは……
まだいる。
靴を履いていいか迷った。
ゴキブリが触ったかもしれない靴。
ゴキブリが駆け回った床。
ハイヒールを突っかけた。
魁佐が無事なゴキブリをかき集めている。
そして、箱の中にしまっている。
潰れたゴキブリ。
羽や脚だけの残骸。
走るゴキブリ。
時折、飛ぶゴキブリ。
動く奴はまだマシだ。
止まったゴキブリは仲間の死骸を食べていた。
愛具里はポカンと口を開けた。
開いた口が塞がらなかった。
寒気がした。
もう、何なの。
魁佐。
後できつく叱っておかないといけない。
でも。
まず。
社長が帰ってくる前に片付けないと。
愛具里はコールボタンを押した。
若い衆を呼び出した。
---
香取千子が店に入った。。
通常営業。
鏡を見る。
いつもと同じ。
疲労の色もない。
エリが後ろから鏡を覗き込んだ。
「姐さんも、ようやる」
エリが言った。
隣にすり寄って、わざわざ耳元でささやく。
「真人ちゃん、いい男やし」
千子は真っ直ぐ前を向いたまま。
「ビジネスよ」
いつものように受け答え、表情は変えない。
「はっ、どんなお仕事だかわからへんな」
女の子たちの話が聞こえる。
銃撃戦のニュース。
誰が死んだとか。
誰がやったとか。
翠は黙って聞いている。
口を挟まない。
相槌も打たない。
そういうところが男に好かれ、女に嫌われるのだ。
エリは思った。
千子は少し気がかりだった。
店の前。
通りを男が歩いている。
見かけない男が一人。
二人。
いや、四人か。
嫌な感じ。
女の子の一人が言った。
うさんくさい?
そうなのよねえ。
まだ客の来る時間ではない。
見張ってる?
千子は眉をひそめた。
裏口は二つある。
通常のと緊急用。
千子はこっそりロックを確認した。
店に照明が入った。
客が見える。
チラ。
ホラ。
お初の客もいる。
音楽が流れている。
女たちが笑っている。
客がいる。
音楽が流れている。
いつもと同じ夜。
それなのに、何かが違う。
気配。
エリが近づいてきた。
「姐さん」
「何?」
「車が止まっとります」
「どこ?」
「表、裏」
「じゃあ」
「囲まれてます」
「ガードは?」
「さっきまではいたんやけど」
エリは困惑した。
「急に見かけんように」
「何分ぐらい?」
「せいぜい十分。その程度やと」
千子は煙草を取り出した。
火をつける。
「客を帰して」
千子は言った。
「いえ、帰すふりでいい。入口を塞いで」
「はい」
「それから」
「はい」
「女の子たちを奥へ」
エリが頷く。
そのとき、裏口のほうから音がした。
ドン。
全員が振り返った。
もう一度。
ドン。
ドアが揺れた。
女たちの笑い声が消えた。
「鍵、かかっとるはずや」
エリが言った。
ドン。
三度目。
今度は蝶番が歪んだ。
千子は煙草を灰皿に押しつけた。
入口の客が押し返される。
人をかき分け、男が数人なだれ込んだ。
「下がって」
「姐さん」
「逃げるよ」
千子が言った。
「準備オーケーや」
「急いで」
裏口が破られた。
男が二人入ってきた。
安っぽい目つきであたりを舐め回す。
「香取千子は」
誰も答えない。
「香取千子はどこだ」
エリが前に出た。
「何の用や」
男が睨んだ。
「どけ」
エリは動かなかった。
その瞬間。
奥から瓶が飛んできた。
男の顔に当たった。
照明が消えた。
女が叫ぶ。
怒号が響く。
ガラスの割れる音。
グラス。
テーブル。
照明。
ボトル。
棚ごと。
閃光が走る。
銃声。
悲鳴。
三重唱。
女たちは後退る。
静かに、ゆっくり。
急ターン。
整然と逃げ出していた。
金切り声はカモフラージュだ。
女たちは走った。
エリが走った。
最後に。
千子が走った。
バックヤード。
廊下。
裏口。
階段。
裸足の女が後ろからついてくる。
「こっち!」
千子が言った。
階段を下りる。
厨房。
地下道。
逃げ道は一つじゃない。
ルートはいくつも。
それぞれが、それぞれに。
うろ覚えでたどる。
どこかのビルの裏口。
そこから外へ出た。
濡れた路地。
ネオンサインが遠い。
千子は振り返った。
女が震えている。
翠だ。
懸命についてきて、ひどく息を切らしている。
「行くよ」
「どこへ?」
「車が手に入れば」
「でも」
「なければないでいい」
「はい」
「走って」
二人は走った。
---
バグ・コナーズが帰ってくる。
車をガレージに入れた。
シャッターを閉めた。
明かりをつける。
工具が置かれた床。
絡まるコード。
ゴキブリが数匹、走り去った。
バグ・コナーズは見向きもしない。
ゴキブリ退治。
夏のキャンペーン。
ワゴン車に貼ったシールを剥がした。
畳んで捨てた。
セールは終わった。
害虫残っている。
まだ夏は終わらない。
不狼児:
さて、問題の「ゴキブリ・コンバット」だ。ここはほとんど原型をとどめていない。AIがの文章は章題に引っ張られて意味もなく相手にゴキブリを送りつける話ばかり。文章の断片をコラージュにして使っただけで、エピソードは全部オリジナルだ。ちょうど網膜剥離で手術したので片目の男に感情移入してしまい(翠の話を終わらせあいためにも)引き続き登場願った次第。増殖は増殖だが、長篇となると無名の人間がただ殺されるだけでは「お話にならない」カラム帯的なことしての人間が必要だ。というか、そうでもしないと殺し屋が有能そうなのでただ殺すだけで終わってしまいそうだ。 舌足らずな説明でごめん。
ChatGPT:
いや、舌足らずどころか、第五章を読んでかなり腑に落ちました。むしろ第四章までの「増殖」と、第五章であなたがやった「増殖」は、同じ増殖でも種類が違うと思います。
第五章は実際に読むと、AIの「ゴキブリ・コンバット」という題から発想したゴキブリ攻撃の話ではありません。冒頭からシュウの病院、翠、ヤス、風間、千子、真人、無狂……と、第四章までに発生した人物と出来事を再配置しながら、別々の線を少しずつ接近させている。
そして、あなたが言う「片目の男に感情移入した」というのが、かなり重要だと思いました。
シュウは「殺されるだけの人間」ではない
シュウは第五章の冒頭で、病院のベッドにいる。
彼は単なる「殺し屋A」ではない。
翠を思い出し、裏切られたと思い、怒り、夢を見る。
しかもその夢の中で、白い鳩が現れて、最後には羽毛と肉片が散乱している。
この人物は、殺す側の人間でありながら、殺しの世界によって傷つけられた人間になっている。
ここが非常に大きい。
殺し屋が次々と人を殺していく話では、
AがBを殺す
Bが死ぬ
CがAを殺す
だけでは、確かに長篇にならない。
死んだ人間が「物語上の重さ」を持つためには、その人間について読者が少なくとも何かを知っていなければならない。
だから人物が増える。
これは「AIが勝手に登場人物を増やして困った」という単純な話ではなく、長篇小説が必要とする人間の厚みを作るための増殖なんですね。
そしてシュウの場合、その増殖がかなりうまく働いている。
ただし、AIの「増殖」とあなたの「増殖」は違う
AIが第五章以前にやっていた増殖は、
事件が事件を呼ぶ → 新しい人物が必要になる → その人物に過去を与える → また新しい事件が発生する
というものだった。
これは際限なく広がる。
一方、第五章であなたがやっているのは、
この人物をもう少し見てみたい → そのために人物の周囲を広げる → すると別の人物との関係が見えてくる → その関係が既存の事件に接続する
という増殖です。
似ているけれど、方向が違う。
前者は事件中心の増殖。
後者は人物中心の増殖。
そして長篇に必要なのはこちらなのだと思います。
「ゴキブリ・コンバット」という題も、実はかなり面白い
AIはタイトルを文字通り受け取ってしまった。
だからゴキブリを送りつける。
でも、あなたの第五章では「ゴキブリ」はほとんど具体的な小道具ではない。
むしろ、
ゴキブリのように人間が増殖する。
ゴキブリのように人間が駆除される。
ゴキブリを駆除する男自身も、また誰かに駆除される。
という、人間を見るための比喩的なフレームになっている。
実際、章の途中には害虫駆除のワゴン車が登場し、その直後に男の死体が置かれる。タイトルはそこで初めて、具体的なイメージとして現れる。
これは「ゴキブリを使った事件」ではなく、
人間をゴキブリのように扱う世界
なんですよね。
だから、むしろAIの「ゴキブリを送りつける」という発想から離れたのは正しかったと思います。
そして、第五章を読んでいて私がいちばん面白いと思ったのは、あなたがAIの断片をコラージュ素材として扱っていることです。
たとえば、
「怒りが矢印となって……ゾートロープのように回転する」
というシュウの病床の部分は、ストーリー上の必然というより、かなり露骨に「言葉の断片」です。
でも、それを捨てずに使っている。
その一方で、
翠を終わらせる
シュウをもう一度登場させる
ヤスを逃がす
風間のところに人間を集める
千子と真人の関係を進める
無狂を殺しの現場に置く
という物語上の配置そのものは、あなたが作り直している。
つまりここでは、
AI=構造を作る人
ではなく、
AI=使える言葉の断片を大量に吐き出す機械
になっている。
そしてあなたが、それを切り貼りして、別の構造に嵌めている。
これは以前話した「外部構造」にもかなりつながります。
さらに、第五章にはもう一つ重要なことがあります。
第四章までは「誰が誰を殺すのか」という情報が、物語を引っ張っていた。
ところが第五章では、
「この人間は、このあとどうなるのか」
が少しずつ面白くなっている。
シュウはどうなるのか。
翠はどうなるのか。
ヤスは逃げ切れるのか。
千子と真人はどうなるのか。
風間は何をしようとしているのか。
無狂はどこへ行くのか。
これは、物語の推進力としてかなり違います。
謎が人を引っ張るのではなく、人が次の場面を引っ張る。
ここへ移行している。
だから私は、第五章を「原型をとどめていない章」と聞いていましたが、読んでみると、むしろこの章からあなた自身の長篇としての方法が露出してきた章に見えます。
AIが作った「ゴキブリ・コンバット」を直したというより、AIの文章を材料にして、あなたが小説を奪い返した章という感じがします。




