第一話 あれから
「夏目!」
呼び止められて、足を止める。
営業成績が貼り出されたボードの前。
数人の社員がざわついていた。
「お前最近調子悪いじゃん。大丈夫か?」
同僚が、気の毒そうに肩を叩く。
——余計なお世話だ。
琥太郎は無理やり口角を上げた。
「ちょっと体調悪くてな。まぁ、そのうち挽回するわ」
屋上の扉を開ける。
春先の少し冷たい風が、静かに頬を撫でた。
空いているベンチに腰を下ろし、缶コーヒーのプルタブを開ける。
ピコン
通知音に、胸ポケットからスマホを取り出した。
『悪い。急患が運び込まれて、明日行けそうにない』
『ごめんなさい。私も今、ちょっと心配な生徒がいて……また別の日にしない?』
その内容に、ふ、と息を吐く。
みんな、忙しい。
あの頃とは違う。
医者。
教師。
ちゃんと大人になっている。
「……俺、何してんのかな」
誰に向けるでもなく、そう零した。
そして——。
(あいつは、何してんのかな)
空を仰ぎ、目を閉じる。
次の日だった。
ポケットから煙草の箱を取り出す。
——やめたんだったな。
苦笑して箱を戻した、その時。
ピコン
スマホが震える。
通知を開いた琥太郎は、思わず飲んでいたコーヒーを吹き出した。
「っ、ゴホ……!」
画面には、短いメッセージ。
『祐介、琥太郎——』
『——柊が、いた』
仕事帰りのサラリーマンや若者で賑わう、週末の居酒屋。
その一角だけが、まるでお通夜みたいに静まり返っていた。
「……で?」
沈黙を破ったのは祐介だった。
「美月。どういうことだ」
「……生徒の、バイト先に行ったの。家に帰ってないって、親御さんから相談があって」
美月は、ゆっくりと言葉を続ける。
「そのバイト先、カフェなんだけど……ガラス張りで」
「窓越しに生徒を見つけた時、カウンターの奥にいたの」
美月の瞳が揺れる。
「……柊が」
ギュ、と拳を握りしめる。
「間違いないのか?」
「似てるやつ、とかじゃなく?」
琥太郎と祐介が、交互に言う。
「……違う。見間違えるはずない」
「あれは、柊だった」
沈黙。
「……話したのか?」
美月は、小さく首を振った。
そして、少し間を置いてから続ける。
「……でも柊、笑ってた……。楽しそうだった……」
美月の声が、静かな店内に落ちる。
「……良かった」
そう続けた美月は、どこか泣きそうに笑っていた。
「……良くねぇよ」
祐介の低い声が落ちた。
「場所は?」
「おい、祐介」
「……三つ先の駅。カフェ」
ガタン、と椅子を引く音が響く。
「おい!」
慌てて琥太郎がシャツを掴む。
それを振り払いながら、祐介は吐き捨てた。
「もし本当に柊だったら——ぶん殴ってやらなきゃ気が済まねぇ」
「お前、医者だろ。怪我させたらどうすんだ」
「あいにく俺は小児科だ。大人のケガなんざ知ったこっちゃねぇ」
琥太郎と美月が顔を見合わせる。
「……美月は?」
美月は視線を落とし、自分の両手を握りしめた。
「……わかった。俺たちで確かめてくる」
翌日。
「一番テーブル、オーダー入りまーす!」
「りょーかい! 鈴、それ三番テーブル!」
「はーい!」
「返事は“はい”な!」
週末、昼過ぎ。
Mapleの店内は賑やかな声で満ちていた。
カランカラン
ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃ——……」
カウンターの奥。
エプロン姿の男が、静かに目を見開く。
——まるで、そこだけ時間が止まったみたいだった。
ガタン!
椅子が大きな音を立てる。
次の瞬間。
カウンター越しに、祐介が柊の胸ぐらを掴んでいた。
「っ——!」
店内がざわつく。
「きゃっ、なに!?」
客たちの声が飛び交う。
「店長!」
「祐介!」
琥太郎が慌てて祐介の腕を掴む。
「お前、何してんだ!」
「……っ、美月が……!」
祐介の声が震える。
「美月が今までどんな思いで——!」
(殴るって、冗談じゃなかったのかよ……)
琥太郎は深く息を吐き、無理やり祐介を引き剥がした。
「落ち着け。客いるだろ」
その言葉に、祐介はようやく柊から手を離す。
琥太郎は、傍で固まっていたバイトらしき少女を見る。
「驚かせてごめん。俺ら、こいつの古い知り合いなんだ」
「少し話したいんだけど、休憩時間、何時?」
少女はハッと肩を揺らし、時計を見る。
「えっと……14時半です」
「ありがとう」
時計は、13時を少し回ったところだった。
「……とりあえず、一回出るぞ」
琥太郎は、まだ飛びかかりそうな祐介を店の外へ引っ張っていく。
その時。
チラリ、と柊を見る。
柊は俯いたまま、何も言い返さなかった。
(……柊、なんで)
背後で、少女が声を張る。
「お客様、お騒がせして申し訳ありません! 店長、オーダー!」
その声を背に、琥太郎は店の扉を閉めた。
14時半。
誰もいない店のカウンターに、一人の男が座っていた。
その背中が、妙に小さく見えて。
なぜか、少し笑えた。
「……あれから、どうしてた」
隣に腰を下ろす。
「……祐介は?」
「帰った。今は頭に血が上って、まともに話せる自信ねぇらしい」
柊が、ふ、と笑う。
「そうか」
沈黙。
「……この店、お前のか?」
「ああ。住み込みで三年働いて、二年前に独立した」
「頑張ったんだな」
柊は何も言わない。
琥太郎はメニューを手に取った。
「……甘いの多いな」
視線が止まる。
『ばあちゃんのおはぎ』
「……あの味は、出せねぇけどな」
柊が、少しだけ笑った。
——うまい!
施設で、柊がおはぎを頬張っていた姿が浮かぶ。
「カフェにおはぎって、お前……」
思わず吹き出すと、柊も目を細めた。
「お前はどうなんだよ」
「あ?」
「会えたのか。……妹に」
一瞬、琥太郎が黙る。
視線を落とし、スーツのポケットの上からスマホを握りしめた。
「……いや」
短く吐き出す。
「でも、元気にやってる」
「なんでわかる」
「SNS」
柊が小さく笑う。
「便利な時代だな」
「連絡はしてねぇ」
「……そうか」
琥太郎は、静かに店内を見渡した。
「……いい店だな」
柊は、何も答えなかった。
「また来るよ」
そう言い残し、琥太郎は店を出た。




