第1章
ニューヨーク
一九〇三年
弟、チャールズ・トールマン・ノリスにささげる
(食堂の)円卓騎士、ピュータ小隊の叙事詩、二人が少年だったあの頃に、僕たちが作り、大事にし、すてきだと思った「ガストン・ル・フォックス」のロマンス・サークルの、ある嘆かわしい話の思い出に、
小説の主な登場人物
カーティス・ジャドウィン、資本家にして相場師
シェルダン・ コーセル、アーティスト
ランドリー・コート、仲介業者の社員
サミュエル・グレトリー、仲介業者
チャールズ・クレスラー、穀物商人
クレスラー夫人、彼の妻
ローラ・ディアボーン、クレスラー夫人の被後見人
ペイジ・ディアボーン、その妹
エミリー・ウェッセルズ、ローラとペイジの叔母
小麦物語三部作には以下の小説がある。
オクトパス、カリフォルニア物語
立会場、シカゴ物語
狼、ヨーロッパ物語
シリーズを構成するこれらの小説は、アメリカ産小麦の(一)生産、(二)流通、(三)消費に関係しているが、それぞれに関連性はない。完成すればこれらは、カリフォルニアで種として蒔かれた時から始まって西ヨーロッパの村でパンとして消費された時に終わる小麦という農作物の物語になる。
第一部『オクトパス』は、小麦栽培農家と鉄道トラスト間の対立を扱い、第二部『立会場』は、シカゴの小麦の立会場で行われる「取引」の架空の物語であり、第三部『狼』はおそらく、重要な話としてヨーロッパ社会の食料不足の緩和を扱うことになるだろう。
ニューヨークのG・D・マウルソン氏に対し、以下の小説の準備に協力してくださいましたことを、作者として心より御礼申し上げます。同氏の飽くなき忍耐とたゆまぬ心遣いのおかげで、実に難解なテーマの技術的問題に理解を一層深めることができました。そして特に、最大の協力をしてくれた彼女に計り知れない恩義を賜りましたことをここに認め、感謝を表明いたします。
ニューヨーク
一九〇一年四月
第1章
八時、切符売り場の窓に近いオーディトリアム・シアターの内ロビーで、ローラ・ディアボーンと妹のペイジとその姉妹の叔母……ウェス叔母さん……は、観劇会の残りのメンバーが現れるのをずっと待ち続けていた。イブニングドレスに身を包み、ゆっくりと移動しながら押し寄せる大勢の男女が、ロビーの隅から隅までを埋め尽くした。そこら中で、くぐもったかすかな話し声と、大勢の足を引きずる音がする。時折、入口の外扉と内扉が同時に開くと、突然、湿った氷のように冷たい、二月末のシカゴの夜の骨身にしみる鋭さを持つ外気が入り込んだ。
その夜はイタリアン・グランド・オペラ・カンパニーが、最も人気のあるレパートリーの一つを上演する。クレスラー夫妻が二人の姉妹と叔母をボックス席に招待していた。一行は八時十五分にオーディトリアム・シアターのロビーに集合することになっていた。しかしすでに十五分を過ぎたのに、クレスラー夫妻はまだ到着していなかった。
「いったい」 とうとうローラが心配そうにつぶやいた。「どうしたのかしらね? クレスラー夫人がここで……つまり中でと言ったのは確かなの、ペイジ?」
ローラは二十二、三歳くらいの背の高い少女で、背筋がまっすぐ伸び、威風堂々としていた。オペラクロークをまとっていても、その首や肩が美しいことは容易に推測がつく。しかし彼女の特徴は極端と言っていいほどの体の細さだ。容姿の曲線、肩の輪郭、腰と胸の膨らみはどれもまだまだで、頭からつま先に至るまで顕著な隆起は何も発見できない。かといって、ぎすぎすの跡もそれを感じさせるものもない。柳の若枝が細いように彼女は細かった……そして同じように優雅で、同じようにまっすぐだった。
おそらくローラの白さはこのチャーミングな線の細さに次ぐ顕著な特徴だ。しかしそれは血色のよくない白さではない。ローラ・ディアボーンの白さはそれ自体がひとつの色だった。濃淡というより、象牙のような色合いである。暖かみのある白が、喉元に向かって美しいほのかな褐色に溶け込んでいる。この眉と頬の白さの真ん中で、深みのある茶色い目が、淡く懸命に光っている。決して大きくはないが、説明できないなりに、重要なポイントだった。目の話が出るのは至って自然なことだ。彼女と話していると、友だちは自分たちがいつもその瞳を正視しなければならないことに気がつく。そして、この白い顔と茶色の目の美しさは、髪の強烈な黒さによって完成され、見事な対照を成す。豊富で、厚みとかなりの重量感があり、絶えず渋い燻したような光を反射している強烈な髪の黒さは、ある意味では悲劇的で、どことなく不吉である……暗い危機を迎える運命のロマンスのヒロインの髪形だ。
このとき、彼女が動くたびに一番上の巻髪の脇で、白いエイグレットが揺れてきらきらした。その美しさに疑いの余地はない。口が少し大きくて、唇がしっかり閉じているので、彼女がそう簡単に微笑むと思う人はいないだろう。実際その表情は真剣そのものだった。
「もしかしたら」ローラは続けた。「外で私たちを探しているかもしれないわ」しかしペイジは首を振った。ローラよりも五歳若くてちょうど十七歳になったばかりである。この夜、初めて高い位置で結った髪は茶色だが、ペイジの美しさは姉に劣らず際立っていた。しかし表情の真剣さは姉よりも顕著で、時々否定のしようがない深刻の域に達することがあった。彼女は実直で、その姿は、まだ大人になりきれておらず、少年の姿以上の丸みを帯びたラインをほとんど見せなかった。
「いいえ、そんなことないわ」ローラの問いかけにペイジは答えた。「中へ入るでしょうよ。外で待ったりするもんですか……こんな寒い夜に。そう思いません、ウェス叔母さん?」
しかしウェッセルズ夫人は何も言うべきことを持ち合わせていなかった。この無表情な尖った鼻の痩せた中年の小柄な女性は、この問題の責任を負わないよう身を引き、待っている間、チケットが渡される通用口を一列に並んで通過する人の数を数えることに、漠然とした楽しみを見出した。イブニング姿の立派な恰幅のいい紳士が、ネクタイをたらして、汗をかきかき、ここに立ち、チケットの半券を破りながら、休む間もなく、群衆のざわめきに負けじと続けざまに叫び続けていた。
「チケットをご用意願います! チケットをお手元に」
「すごい人出ね」ペイジはつぶやいた。「ご覧になった……見たことや聞いたことがある人ばかりよ。それも立派な出で立ちで!」
刻一刻と人数が増え、一度に一インチしか前に進めなくなった。女性はほぼ例外なく、白、淡いブルー、ナイルグリーン、ピンクなどの明るい色のガウンを着ており、そうした衣装の上には驚くほど複雑で精巧なオペラクロークやケープが羽織られている。ほぼ全員が帽子をかぶらず、ほぼ全員がエイグレットをつけ、数十、数百ものそれが着用者が動くたびに、群衆の頭上で絶えず上下左右に揺れ、雲母の欠片のように光った。どちらを向いても、素材の豪華さに目が奪われた。きらきらの優美な布地、泡のように白く柔らかなレース、ぱりぱりの輝かしいシルク、上品なサテン、重厚できらめくベルベット、錦織やブラシ天など……そのほぼすべてが白であり……電飾の光のもとでまばゆく華やかに輝いている。紳士たちは、長い黒のオーバーコートにサテンのマフラー、オペラハットという姿で、連れの女性の肘の下に手を添えている。急かす者、前に促す者、困っている者、うわの空の者がいて、仲間がはぐれないように指図している。白い手袋をした指にはチケットが用意してある。時折、防風ドアから氷のような突風が吹き込んでくるのに、ロビーはむっとするほど暖かく、この蒸気で熱せられた空気の中に、押し潰された花の香り、香水、匂袋、さらには……時折……湿ったアザラシの皮の強烈な匂い……など、さまざまな重苦しい匂いが吐き出された。
外は凍てつくような寒さだった。終日、湖の沖から凍りつくほどの風が吹き、午後五時からは細かい粉雪が降り注いでいた。劇場の入口の前に延々と続く一本の行列を交互に作り上げた馬車の御者台にいる御者たちは、目まで毛皮で覆っている。泡やよだれが馬の銜で凍りついた。湿ってない凍った雪を砕きながら走る馬車の車輪が、鋭い断続的なうめき声をあげた。しかし、このすべてを物ともせずに、歩道の日よけに集まる人たちがいる。通りの反対側にもいる。警官の広い肩の陰からちらちら覗き見をしている……ぼろ布やぼろ布団に包まり震えているみじめな群衆は、それでも、この延々と続く大富豪の行列を見ることに説明のしようがない満足感を見つけた。
集まった馬車の数は尋常ではなく、劇場から二ブロックのあたりで列を作って、時々前進するだけだ。こうして動けなくなった馬車のドアからドアへ、何人もの若者が、両手にパンフレットを抱え 「楽譜、楽譜とリブレット、楽譜と演奏者全員の写真」と叫びながら駆けずり回った。
しかしロビーに押し寄せた人は減り始めてきた。前奏曲が始まったらしい。ローラ姉妹のように待っていた人たちは、連れの人たちと合流して中に入っていった。ローラは悩ましくて仕方がなかった。何しろこのオペラの夜は彼女の待望のイベントだった。マサチューセッツ州中心部の平凡な町で二十二年間生きてきた少女が待ちに待ったものだった。グランド・オペラを見たことがなかったので、一音も聞き逃すまいと思っていた。なのに今や前奏曲すべてを失いかねない事態になってしまった。
「ああ、大変」ローラは叫んだ。「ひど過ぎるわ。みなさんどうしていらっしゃらないのかしら」
都会に慣れ、二年間の都会生活とおしゃれな学校生活で、鑑賞への熱意が少し失われていたペイジは、姉を安心させようとした。
「どうってことないわよ」ペイジは言った。「前奏曲は第一幕で繰り返されるんだから……私は前に一度聞いたことがあるわ」
「第一幕さえ見ればいいのね」ローラは嘆いた。遅れてきた人たちの顔を心配そうに見回した。遅れたことなど誰も気にしていないようだった。待っている他の人たちの中にさえ、仲間内で静かにおしゃべりをする者がいた。真後ろでは二人の男が顔を寄せ合って延々と会話を続けていて、時々その話の断片がちらほら耳に入ってきた。
「……だから一ドルあたり三十セントで収まれば上出来だと思うな。言っとくがね、お前さん、あれは撃沈したんだ!」
「買い占めなんかやろうとすべきじゃなかったんだ。空売り残高が小さ過ぎたし、明らかに供給過剰だったんだから」
ペイジは姉をそっと小突き、小声で言った。 「あの人たち、ヘルミック事件の話をしているのね。ランドリー・コートが教えてくれたわ。ヘルミックって人がトウモロコシの買い占めをして、今日破産したんですって。あら、もうじき破産だったかしら、そういった話よ」
しかしローラはクレスラー家の者を探すのに夢中で、ろくに聞いていなかった。ウェス叔母さんは、すぐ後ろで話す人がいるものだから数がわからなくなってしまい、もう一度やり直した。唇が声を出さずに「六十一、六十二、二人だから六十四」と唱える形になった。後ろでは話し声が続いた。
「ポーティアスが二十六で相場を維持するともっぱらの噂だ」
「まあ、そうすべきだな。トウモロコシの価値なんてそんなものだし」
「こんな証拠金の請求は生まれてこの方見たことがない。八セント請求した会社もあったんだからな」
ペイジはウェッセルズ夫人の方を向いた。「ねえ、ウェス叔母さん、切符売場の窓のそばにいる男性をご覧になって。こっちに背を向けてる方がいるでしょ。両手をオーバーコートのポケットに入れてる方よ。あれってジャドウィンさんじゃないかしら? 私たちが今夜お会いすることになっている紳士の方よ。私がどの人のことを言っているかわかるかしら?」
「誰ですって? ジャドウィンさん? 知らないわね。私は知らないのよ、あなた。だってその方にお会いしたことがないんだもの」
「あの方がそうだと思うわ」ペイジは続けた。「今夜、私たちと合流することになっているのよ。クレスラー夫人がその方をお誘いするって言うのを私、聞いたんだもの。あれがきっとジャドウィンさんよ。あの人もみんなを待っているんだわ」
「それなら聞いてみなさいよ、ペイジ」ローラは強く言った。「私たちこれじゃ、全部見逃しちゃうわ」
しかしペイジは首を振った。
「一度会っただけだもの、それもずっと前のことよ。向こうは私のことなんか忘れているわ。クレスラー家で『はじめまして』と言っただけだもの。それにもしかしたらジャドウィンさんじゃないかもしれないし」
「さあ、じたばたするんじゃありませんよ、お嬢さんたち」 ウェッセルズ夫人は言った。「大丈夫よ。みなさん、じきにいらっしゃるわ。どうせ幕はまだ上がってないわよ」
話題の男性は一瞬振り向いて、ちらっとロビーの方を見た。三人は年齢不詳の紳士を見た……顔つきから判断すると、三十五歳でも四十歳でも通用した。白髪の混じった濃い口鬚が唇を覆い、目はきらきらと輝き、優しそうだった。口には火のついていない葉巻をくわえていた。
「ジャドウィンさんだわ」素早く顔をそむけてペイジがささやいた。「でも向こうは私がわからないみたい」
ローラも目をそらした。
「じゃあ、近くまで行って私たちの紹介をするか、あなたのことを思い出してもらったらどうよ?」ローラは思い切って言った。
「まあ、ローラ、私にはできないわよ」ペイジは息を呑んだ。「絶対にするもんですか」
「ウェス叔母さんじゃ、駄目かしら?」ローラは迫った。「それならいいんじゃない?」
しかし、作法や習慣を無視しているのでウェッセルズ夫人は助けにはならず、この件もまた責任を回避した。
「私はそんなこと一切関知しませんよ」と答えた。「でもね、ペイジ、厚かましいまねはおよしなさいね」
「あら、やだ、そんなんじゃないわよ」ペイジは反論した。「でも、だってそれは……わからないわよ。私だってやりたくはないし……ローラ、私、死んだ方がましだわ」突然矛先を変えて声を大にした。「それにね、そんなことして何になるのよ」と付け加えた。
「だって、私たち、全部見逃すことになっちゃうのよ」ローラはきっぱりと言い放った。目には本物の涙が浮かんでいた。「私、ずっと楽しみにしていたんだから」
「なら」ウェス叔母さんは無責任に言った。「あなたがたは好きにすればいいでしょ。でも私は厚かましいまねをするのはごめんですからね」
「じゃ、ペイジか、その……私があの方に話しかけたら、厚かましいかしら? どうせすぐにお会いすることになるんだし」
「待ったほうがいいわ、ローラ」ウェス叔母さんは言った。「見ててごらんなさい。もしかしたら、向こうが私たちに話しかけてくるかもしれないでしょ」
「まさかそんなこと!」ローラは反論した。「向こうは私たちのことを知らないのよ……ペイジの言うとおりなら。それにもし知ってたとしても、そんなことしなわよ。向こうはそういうのを礼儀正しいとは思わないでしょうし」
「それじゃ、あなたたちにとっても礼儀正しいとはいえないわよね」
「私は大丈夫だと思うわ」ローラは答えた。「だって女性のすることですもの。あの方は紳士だから、自分からは先に話せないと思うわけでしょ。こっちから話しかければいいのよ」ローラは突然言い出した。
「じゃ、ご自分が一番いいと思うようにしなさい、ローラ」叔母は言った。
しかしそうは言ったもののローラは動かず、さらに五分が経過した。
ペイジはその合間を利用してローラにジャドウィンのことを話した。彼は大金持ちだが独身で、シカゴの不動産で財産を築いた。シカゴのビジネス街にある彼の地所のいくつかはすごいものだった。ランドリー・コートはベイジにそう教えてくれた。ジャドウィンはクレスラー氏とは違って、投機に抵抗はなかった。商品取引所の会員ではないが、随分長いこと、小麦やトウモロコシ、食料品の「取引」に手を染めていた。しかし、買い占めはすべて失敗に終わると信じ、半年前にヘルミックの破綻を予言していた。影響力があり、シカゴ中の人によく知られ、発言に重みがあり、投資家は助言を求め、プロモーターは誼を通じたがり、彼が会社の取締役会に名前を連ねれば信用間違いなしだった。要するに「頼りになる」男だった。
「理解できないわ」ローラはクレスラー夫妻が遅れていることに言及したが集中できない状態で叫んだ。「今夜、この場所でしょ。もうとっくに時間が過ぎているわ。自宅に電話をすればいいのよ」ふと思いついて言った。「そうすれば、家を出たのか、あるは何があったのか、わかるもの」
「私じゃわからないわ……わからないわよ」ウェッセルズ夫人は言葉を濁した。ローラの提案に応えようとする者はいないようだった。さらに数分が過ぎた。
「私、行くわ」ローラは再び宣言し、この考えに異論があるなら聞こうといわんばかりに、他の二人の顔色をうかがった。
「私にはできないわ」ペイジはきっぱりと言い切った。
「じゃあ」ローラは続けた。「あと三分待って、クレスラー夫妻が現れなかったら、私があの方に話しかけてみるわ。それならごく自然なことにしか思えないし、厚かましくも何ともないもの」
ローラは三分待った。クレスラー家は一向に現れず、さらにぐずぐずして、二十回も繰り返していた。
「わからない……理解できないわ」
すると、突然ケープをまとって、ローラはロビーを横切り、ジャドウィンに近づいた。
近づきざまにローラは、相手が自分の視線を捕らえたのを目にした。やがて相手は、この若い女性は自分に話しかけようとしていると理解したらしく、ローラはその顔に、不審の表情、怪しんでいるといっていい表情が浮かんだのを見逃さなかった。ロビーでクレスラー夫妻と合流することになっている他のメンバーについて、この男が何も知らないのは間違いない。なぜこの少女は自分に話しかけねばならないのだろう? 何か困ったことが起こったのだ。見知らぬ若い女性のトラブルには近づくまいとするもう若くないこの男の本能が、濃い眉の下から相手に放った不安な視線の中にその正体を表した。しかしそれは現れたそばからすぐに消えてしまった。さすがにこんな場所で疑ってかかる必要はないと相手は判断したのだとローラは推測した。男は口から葉巻を離した。ローラはすっかり安心して、紳士である男性と話をつけなければならないことを自覚した。ロビーを横切るときは不安でいっぱいだったが、いざ話す段になると、完全に自分を取り戻し、落ち着いた声で、困惑した様子もなく言った。
「失礼ですが、ジャドウィンさんとお見受けします」
男は帽子を取った。相手が自分の名前を知っていることに明らかに少し驚いた様子だった。ローラはこのときまでに、必要なら少しくらい相手を脅そうと覚悟していた。
「いかにも、そうですが」男は答えた。今ではローラよりもはるかに混乱していた。「私の名前はジャドウィンです」
「確か」ローラはどんどん話を続けた。「私たちは今夜、クレスラー夫妻とご一緒することになっているんですけど、どうも先方がお見えにならないみたいなんです。それで私たち……妹と叔母と私なんですが……どうしたらいいのかわからなくなってしまって」
ローラは、相手が困惑し、事情を飲み込んだのがわかった。自分がこの小さな状況をコントロールし、相手を動かせるとわかって、ローラはすっかり落ち着きを取り戻した。
「私はミス・ディアボーンです」ローラは続けた。「妹のペイジはご存知ですね」
もしもあなたが私の妹のペイジを知らなかったら、あなたが一瞬でも私を厚かましい女だと思うようなことがあったら、あなたはとんでもない無礼を働くことになりますよ、という印象をローラは何とか相手に与えた。最初に目が合ったときの疑いの目つきをローラはまだ許してはいなかった。この男はその代償を払うべきだった。
「ミス・ペイジ……あなたの妹さん……ミス・ペイジ・ディアボーン? 確かに存じておりますよ」男は答えた。「すると、あなたがたもずっと待っているわけですね? あいにくでしたね!」ぎごちなく付け加えた。「あなたがたが私たちと一緒のメンバーだとは存じませんでした」
「まったくです」ローラは即答した。「あなたが今夜、私たちと一緒のメンバーだとは私も存じませんでした……ペイジが教えてくれるまでは」ローラは少し名前を強調したが、自分は非難されたのだと相手が知るにはそれで十分だった。なぜか理由はわからなかった。男はとっさに判断ができなかった。ローラは相手が多少困り始め、考えるのをやめ、自分にこの場を任せようとしているのがわかった。それにしても、真顔で、にこりともしない、背が高くて、かわいらしい、この若い女性は誰なんだ、やけに落ち着きはらっている。相手を急かし、まるでクレスラー夫妻が現れないのは相手のせいだ、吹き抜けのロビーで彼女が待たねばならないのは相手の落ち度だと感じさせるとは。この娘はすごい剣幕だった、一体、この男の何が彼女を怒らせたというのだろう? もし相手がローラに自己紹介をして、強気な態度に出ていたら、ローラはそれ以上高飛車には出られず、もっと下手に出ていたかもしれない。
「もしかしたら電話をしていただけないかと思ったんです」ローラは言った。
「あいにく、あちらに電話はありませんね」男は答えた。
「ああ!」
万事休す、クレスラー家に電話機がなかったとは! それもこの男の責任になりそうな勢いだった。困った挙げ句に、男は一瞬、通りに飛び出してメッセンジャーボーイを探し出し、クレスラー宛の手紙を持たせて、事態を立て直そうかと考えた。決めかねているところへ、ローラが冷ややかな口調で言い放った。
「何か手の打ちようがありそうですけど」
「私にはわかりませんね」男は頼りなく答えた。「待つしかないでしょう。来るのは確かですから」
後ろの方で、ペイジとヴェッセルズ夫妻がこの対話を見ていて、ローラはあまり低姿勢に出ていないと思っていた。姉は好感度を上げるべきだといつも思っていたので、今、少女は気が気ではなかった。
「ローラったらまた『威厳に満ちた態度』をきめてるわ」少女は嘆いた。「どんな話し方をしているか目に浮かぶわ。あの方は一生、ローラの名前を聞くのも嫌になるわね」すると突然喜びの叫び声をあげた。「やっと、やっとだわ」ペイジは叫んだ。「いい頃合いだものね!」
クレスラー夫妻と残りのメンバー……二人の若者……が現れた。ペイジと叔母がやってくると、ちょうとクレスラー夫人の叫び声がした。アーミンの毛皮で縁取られたすてきなマントをまとい、髪に白粉をまぶした上品な年配の婦人が、まるで事実を言えば済む、問題はこれで完全にお終いとばかりに、ありったけの声で「橋が回ったんだもの!」と叫んだ。
クレスラー夫妻はノースサイドに住んでいた。この件は、いきなりドアをバタンと閉めたように幕が引かれたようだった。
ペイジとウェス叔母さんがジャドウィンに紹介された。ジャドウィンは特に気を遣って、そちらのお嬢さんのことはちゃんと覚えてますと明言した。二人の若者はすでにディアボーン姉妹とウェッセルズ夫人とは知り合いだった。ペイジとローラはそのうちの一人を親しげにクリスチャン・ネームで呼ぶほどよく知っていた。
この人物はランドリー・コートという二十三歳になったばかりの青年で、大手の仲介業者グレトリー・コンバース社の幹部と「繋がり」があった。驚くほどハンサムな、小柄で、屈強な男で、警戒心が強く、神経質で、礼儀正しく、金髪で、テリアのように急に飛びつきそうな黒い目をしていた。ほぼ初対面で友だちになってしまう、男にも女にも同じように好かれる数少ない幸運な人物の一人だった。目と肌の健康が、心の健康までも信じさせてくれた。実際、ランドリーは内面も外面も清らかだった。裏表がなく、心が広く、情操が豊かで、意気軒昂で、やる気満々だった。十八歳になるまで、合衆国大統領になる野心を抱いていた。
「そうそう」ランドリーはローラに言った。「橋が回っちゃたんだよ。あればかりはどうしようもないからね。引船三艘を通す間、僕たちは待たなくちゃならなかったんだ。一度に二艘なら、法律で仕方ないと思うけど、僕らは三艘待たなくちゃならなかったんだからね。ええ、そうなんですよ、三艘です、これは考えものですよ! 明日その辺のところを調べてみます。ええ、ご心配には及びませんよ。僕が調べますから」ランドリーはかなり真剣になってうなずいた。
「じゃあ」クレスラー氏はみんなをまとめながら言った。「入りましょうか? 残念だが、ローラ、序曲を聞き逃したようだ」
ローラは微笑みながら肩をすくめた。今さら仕方ないと言わんばかりに一行は入場口に向かった。
背が高く、痩せ型で、鬚を生やし、猫背で、リンカーンと同じ体型……中西部型……に属しているクレスラーは、親のいないディアボーン姉妹にとって、ほとんど第二の父親だった。今をさかのぼること三十年前、彼はマサチューセッツの農夫で、ディアボーンは定期的に穀物を挽く製粉業者だった。二人は少年時代を共に過ごし、ずっと親友、それも兄弟同然の仲だった。その後、戦争直前の数年間に西への大移動があって、クレスラーもその中の一人になった。捨てたニューイングランドの農場を後にして、家族とともにミシシッピへの移住を果たした。たどり着いたのはイリノイ州のサンガモン郡。いっとき、戦争で食料品すべての値段が高騰するまで、小麦の栽培を手掛けて……当時の……金持ちになった。農業をやめてシカゴに移り住み、商品取引所の会員権を購入して、数年で億万長者になった。ロシア=トルコ戦争当時、クレスラーと二人組のミルウォーキー出身者は、春小麦の在庫をすべて買い占めることに成功した。三名は買い占め三十日目に百万ドル近くの利益をはじき出した。一週間後には百五十万ドルになるかに見えた。そのときになって三人は頭を抱えた。ほんのひと月長く持ち過ぎてしまったのだ。いざ利食いする段になって、莫大な持ち分を値崩れさせることなく売り抜けることができないことに気がついた。一ドル十セントで持っていた小麦が、二日で六十セントにまで暴落した。ミルウォーキーの二人組は破産した。クレスラーの莫大な財産の三分の二は、煙のように消えた。
しかし教訓を学んだ。それ以来、投機をしなくなった。取引所の会員権は手放さなかったが、市場の変動に左右されない委託売買に徹していた。そして飽きもせずに信用取引の悪弊と危険性を訴え続けた。投機を天然痘のように忌み嫌い、どんな方法でも、どんな状況でも、穀物の買い占めは不可能だと信じ続けた。決まってこう言う。「無理なんだよ。第一、小麦は一年中毎月世界のどこかで大量の収穫があるんだ。第二に、買い占めをやろうっていう賢い奴は、世界中の他の賢い奴をみんな敵に回しちゃうんだ。それに間違っている。シカゴの小麦相場に世界の食糧が翻弄されるなんてことがあっちゃいかんのだ」
一行が続々と入場口を通過すると、ランドリー・コートの連れの青年がローラの隣に割り込んだ。ローラの目を見て、青年はつぶやいた。
「ああ、結局つけてくれなかったんだね。小さな花たちにかわいそうなことをしたな」
しかしローラは、マントの下のドレスの肩に留めた一輪のアメリカンビューティーを相手に見せた。
「あるわよ、コーセルさん」ローラは答えた。「一つだけど。一番きれいなのを選ぼうとしたんだけど、うまくいった……かしら? 選ぶの大変だったわ」
「きみがつければ、それが一番きれいなんですよ」コーセルは答えた。
その青年は年の頃は二十八から三十くらい、少しがたいがよく、色黒、小さな尖った顎鬚、フランス人みたいに唇から払い除けた口髭をしていた。職業はアーティストで、ステンドグラスの窓のデザインが専門で、この方面での才能には疑いの余地がなかった。しかしそれを生業にして生活していたわけではない。 両親……亡くなって随分たつが……かなりの財産を残してくれたので恵まれていた。ファインアーツビルに美しいアトリエを構え、二か月に一度、あるいは展示しがいのある立派なガラスの作品ができるたびに発表会を開催した。旅行、読書、研究、時には執筆も行い、ガラスの着色や溶解に関しては権威として引き合いに出され、レイクフロントの古い博覧会ビルの跡地にできた新しいアートギャラリーの理事の一人でもあった。
ローラは彼と知り合ってまだ日が浅かった。以前二回ローラがペイジを訪ねたときに、彼の方が手立てを見つけて週二、三回ローラに会うようになった。一度結婚を申し込んだことさえあったが、当時学業に専念していたローラは、シェークスピア劇の大女優になるという漠然とした野心を抱いており、舞台以外には関心がないことを告げた。彼は笑顔で、待つよと言った。不思議なことに、二人の関係は再び元通りになった。ローラが去ってからも二人は定期的に文通を重ねた。コーセルは『十二夜』の一場面にちなんだ小さなガラス細工の窓……紛れもない宝石……を作って送った。
ロビーで、紳士たちがコートを預けるとき、ローラはジャドウィンがクレスラー氏に話しかけるのを耳にした。
「で、ヘルミックはどうなった?」
相手はじれったそうに肩を動かした。
「まったく、あの馬鹿は何を考えていたんだ……買い占めだと! ふん!」
他にも一、二名別の男がそばにて、自分のオーバーコートとオペラハットをきちんとまとめて、預ける準備をしていた。その瞬間、六つの目が二人の方にちらっと向けられた。どうやら、ヘルミックの買い占めが失敗した噂が流れていた。街中が注目しているようだった。
しかし、劇場の入口を覆っていた重たいカーテンの向こうから、急にくぐもった音楽が聞こえてきて、続いて長い拍手が一斉に起こった。ローラは焦りで頬を赤くして、急いでクレスラー夫人を追いかけた。コーセルが通りやすいようにカーテンを引いたのをうけて、中に入った。
中は暗く、花と香水と内装材とガスの匂いがたっぷり入り混じった熱い空気がもやっと吹付け、たちまちローラを包み込んだ。それは紛れもない、忘れがたい、うっとりするような劇場独特の香りで、めったに味わえないものだったから、たちまちローラの胸を高鳴らせた。
空席はすべて埋まっているように見えた。男性も女性も総立ちで、息苦しいほどの圧迫感に締め付けられた。そのとき観衆全員が盛大な拍手を送っていた。ローラは四方八方からあがる声を聞いた。
「ブラボー!」
「いいぞ、いいぞ!」
「よくやった!」
「アンコール! アンコール!」
観衆の頭と、張り出した桟敷席のずっと下の部分の間……闇に包まれた中で煌々と輝くもの……舞台をローラは垣間見た。セットは庭園で、後方と遠方には城、左側に東屋、右側に翼棟がある。フットライトを前から浴び、少年に扮した有名なコントラルトの歌手が花を抱きかかえるようにして観客にお辞儀をしていた。
「残念だったね」他のメンバーの後に続いて横の通路を通ってボックス席に向かう間に、コーセルがローラにささやいた。「残念ながらこれはもう第二幕だ。きみは第一幕を丸々見損ねた……この歌もね。でも僕が拍手喝采の音頭を取らなきゃならなくなったら、彼女はきみのためにもう一辺歌ってくれるよ。僕はきみにこそ聴いてほしかったんだ」
ボックス席に入って気づいたのだが、少し手狭だった。ジャドウィンとクレスラーは立ち見をするしかなかった。みんなは小声で話をしていたが、到着したのを機に「しー! しー!」と声が出始めた。クレスラー夫人はローラを前の座席に座らせた。ジャドウィンはローラから外套を受け取り、ローラは着席して周囲を見回した。場内も観客もほとんど見えなかった。照明は全て落とされた。黄昏の中でバランスをとっている夜蛾のように、薄ぼんやりと、たくさんの扇風機の動きが暗がりを通してわかるだけだ。
しかしローラはすぐに舞台のほうを向いた。拍手は次第に静まり、コントラルトは再びアリアを歌った。メロディーは単純で、テンポもわかりやすく、あまり高尚な音楽ではなかった。しかしローラにとってそれは天啓にほかならなかった。
両手を固く握りしめ、全注意力を最大にして、魔法にかかったように座り込んだ。この音楽はすばらしい、この歌声はすばらしい、このオーケストラはすばらしい、ただのきれいな音に刺激されただけなのにこの高揚感はすばらしい。この夜が忘れらることはない。この初めてのグランド・オペラの夜。このすべての興奮。この香水の、花の、優雅な衣装の、美しい女性たちの、立派で勇敢な男性たちの世界。永遠の別れを告げたばかりの故郷の町の狭い小さな生活、閉ざされた世界、つまらない義務に追われるつまらない日々、わずかな味気ない楽しみ……図書館、お祭り、数少ないコンサート、三文芝居……情けなさを募らせてローラは振り返った。このような音楽が生活の一部になっていたら、生活は簡単に良くも立派にもなるだろう、この瞬間の自分のような至福が実現できるのなら、富はあるに越したことはない。気高さ、純粋さ、勇気、献身が、さっきよりも今の方がはるかに値打ちがあるように思えた。積極的に価値を見いだせないものまでがすべて、物も人もすべてがヒーローになった。ランドリー・コートはガラハッドのように純粋な若い騎士だ。コーセルは美しいルネサンス初期の画家を兼ねた聖職者だ。ジャドウィンさえもが高貴な商人、大物の資本家だ。そして自分は……ああ、わからない。ローラは違う自分を想像した。 もっと上品で、もっと優しくて、もっと美しいローラを。みんなが、みんなが心から優しく愛するローラ、みんなを愛するローラ、どこかの遠くの庭園で美しく、そっと死を迎えるローラ……大恋愛の末に死ぬ……花に抱かれて美しく、そっと、失恋で死んでしまう。そして全世界が自分のために嘆き悲しむ。常に早朝で、静かな音楽が聞こえる遥か彼方の地の、花と小鳥に囲まれた庭園で、美しく死んでいるその姿を見つけて世界が自分のために泣いて悲しむのだ。ローラは自分が不憫でならなかった。善良で誠実で気高く女らしくありたいとひたすら願うあまりに辛かった。このすばらしい夜にクレスラー家のボックス席の前列に座る間ずっと、涙が何度も頬を伝って、固く握りしめた白い手袋の指の上に落ちた。
コントラルトは姿を消し、代わりにテノールが舞台にいた……赤いブラシ天プラッシュのダブレットを着てグレーのシルクのタイツをはいた、恰幅のいい背の低い青年が、顎を突き出し、片腕を伸ばし、片手を胸に当てて、時折、舞台の袖から吹く風で少し揺れるセットの建物に語りかけた。
このアリアは大喝采を浴び、三度の繰り返しを強いられた。極端なことに批判的なコーセルでさえ、うなずいて受け止めた。ローラとペイジは最後の最後まで拍手をやめなかった。しかしランドリー・コートは、もったいつけて、いくらか不満げな態度をとった。
「今夜は声が出てないな。残念だ。金曜の『アイーダ』を聴くべきだったね」
オペラは続いた。プリマドンナの大物のソプラノが登場して、驚くほどの喝采を浴びて十八番の歌を披露した。それからしばらくして舞台が暗くなり、オーケストラの音が小さくなって、テノールとソプラノが再び登場した。テノールはソプラノを抱きかかえて六小節歌い、片方の腕をずっとソプラノのウエストに回したままで、その手を握り、徐々にソプラノから離れて、ソプラノを舞台の前方の中央の位置につかせた。テノールはうっとりと仰ぎ見るような目で、崇拝と驚嘆の態度をとり、ソプラノはオーケストラの持続的で幻想的な和音の伴奏を受けて、とても静かにソロを始めた。
ローラは目を閉じた。これほどまでに癒されたり、抱かれてあやされて気をぬいていられると感じたことはなかった。ああ、あんな風に愛したいものだ! 愛し、愛されたいものだ。今どきあんな愛はない。ローラは、理由もわからずにしがみつかねばならない卑しい物質的な今の生活を手放して漂流を続け、バラ色の霧と透明なベールを通り抜けてはるか遠い過去へ流れ込むか、白鳥が引く銀色の小舟に乗って、どこまでも続く滑らかな川の静かな流れに身を任せたい、と願った。
しかし場違いな要素が出てきた。すぐそばで……照明が暗いのでその場所まではわからないが……低いささやき声で続く会話が、次第にローラの気を散らし始めた。ローラはそれを閉め出そうとしたが閉め出せなかった。そして今、音楽はだんだん小さくなって消えてゆき、声とオーケストラは混ざって一つのかろうじて聞き取れるざわつきになった。ローラは感情とロマンスと情操に震えながら、かすれた男のひそひそ話を聞くはめになった。
「どう少なく見積もっても百万ブッシェルは不足している。貨車二百台両が昨夜ミルウォーキーから到着することになってたんだ」
ローラは絶望を示す小さな仕草をして、ちらっと首を回して周囲の暗がりを探った。しかしステージに関心のない者は見当たらなかった。どうして男性は自分の仕事を外に置いておくことができないのかしら。どうして耳障りな商談がこの瞬間の調和を台無しにしなければならないのかしら。
しかし突然起こった長い拍手に、すべての音がかき消された。テノールとソプラノがフットライトの向こうでお辞儀をして微笑んだ。ソプラノが消えてセットの建物のバルコニーに再び現れた。星と夜鳥が『彼はあなたを愛しています』を一緒に歌いますと発表しているのに、すぐそばでは雑談が続いた。
「……貨車百六台分……」
「……買い方を抑えろ……」
「……五万ドル……」
すると、照明が一斉に点いた。この幕が終わったのだ。
ローラは約五分後にようやく我に返った気がした。ローラとコーセルはボックス席の後ろのロビーにいた。みんな歩いていた。大勢の女性たちの歯切れのいいおしゃべりがその場を満たした。しかしローラは自分が……自分とシェルドン・コーセルが……ずっと遠くにいる気がした。コーセルの顔は、色黒で、夢見がち、柔らかい顎鬚をはやし、雄弁な目で、まるでローラの理想のようだった。耳もとで語りかけるその低い声は、ある意味で終わったばかりのデュエットのメロディーをそのまま引き継いでいた。
コーセルはローラに心の準備をさせようとしていたから、コーセルが何を言おうとしているのかローラはピンときた。今夜相手がこんな形で告白する気ではなかったことも感じとった。ローラは、コーセルが自分を愛していることを知っていた。自分たちは遅かれ早かれ必ず、長い間二人の会話から除外されていた話題に戻らなければならなかった。しかしそれは、人混みや、二人の目をくらますようなまばゆい電光や、耳障りな何百人もの雑談の騒がしさの真っ只中ではなく、二人っきりで遠くのひと家のない環境でなくてはならない。しかし、こういう重要なことは、生死のように時間や場所とは関係なく、自然にやってくるらしい。その状況は受け入れるしかないのだ。コーセルが声の調子を下げたから、いよいよこの話かとローラが突然意識したも不思議ではなかった。
「だから、改めて愛しているときみに言う必要はないだろ?」
ローラは大きく息を吸った。
「わかってるわ。あなたが私を愛していることは」
二人は通路の端にあるソファに腰かけた。歓談のちょっとした話術に長けたコーセルは、それを普通の話でもしているように見せた。ローラは高揚し、このすてきな夜に催眠術にかけられたも同然で、あまり気にせず、体裁をつくろおうとさえしなかった。
「はい、はい」ローラは言った。「あなたが私を愛していることはわかってるわ」
「言うことはそれだけかい?」コーセルは迫った。「きみが僕のすべてだということは、きみには何でもないことなのかい?」
ローラは少し自分を取り戻しかけていた。愛は結局、どこかのロマンチックな夢の国の神秘的な庭園の中よりも……たとえこの人混みのロビーの中、シルクと宝石に囲まれた雰囲気の中、大都市の社会的な名所の中であろうと……現実の中の方が甘美なのだ。ローラは改めて自分が一人の女であることを感じた。現代の、生命力にあふれる女であって、決して騎士道伝説の乙女ではないのだ。
「私には何でもない?」ローラは答えた。「わからないわ。むしろあなたには私を愛してもらいたいわよ……愛さないよりはね」
「じゃあ、ずっと僕にきみを愛させてくれよ」コーセルは続けた。「僕の気持ちは知ってるよね。僕たちは最初からお互いを理解し合ってたんだ。はっきりと、ごく単純に、僕は心からきみを愛している。僕が真実を語っていることは今知ったよね。僕を信じられることは知っているよね。僕はきみに、きみの人生と僕の人生を分かち合おうと言ってるんじゃない。僕はきみに大きな幸せを求めてるんだ」……コーセルは鋭く頭を上げて、突然誇らしげに言った……「僕が持つすべてのいいものをきみに与える機会という、すばらしい名誉を求めてるんだ。神さまは僕に謙虚さをくれた。でもね、それは僕がきみと知り合ったせいなんだよ。もし僕が自分の力で前よりも立派な人間になったのなら、そのことを自分から言ったりしないよ。 でも、もし僕が身勝手でなくなり、もっと誠実になり、もっと強くなり、より勇敢になったのだとしたら、それはひとえにきみの何かが僕の一部になって、僕を生まれ変わらせたからだよ。だから、僕がきみにこの身をささげるのは、きみが少しの間僕にくれたものをただきみに返しているに過ぎないんだ。僕はきみのためにそれを守る努力をしてきた。明るく、大事に、汚さずに、守ってきたんだ。きみがそれを手に入れれば、また改めてそれはきみのものになるんだ」
長い沈黙があった。オペラハットをかぶり白い手袋をした男たちが、すぐそばの階段をのぼった。通路に出た人が流れるように劇内の入口へと向かった。小さな電鈴の警報音が鳴り響いた。
ローラはようやく顔を上げた。互いの目が合ったとき、コーセルは相手の目に涙が浮かんでいるのを見た。このコーセルの愛の告白が最後の仕上げになって、ローラはこれまで経験した幸福の中でも一番浮かれた気分になった。ああ、確かに、オペラのあの若い少女が愛されたように、自分は愛されるのだ。少なくとも今夜一晩、人生のすばらしさは損なわれない。何も自分から残酷な言葉を浴びせてそれを台無しにすることはない。世界はすばらしい。人はすべて善良で、気高く、正直である。義務と小さな責任と冷淡かつ冷静な判断が目白押しの明日は遠かった。
衝動に負け、後先のことを考えず、とっさにローラはコーセルの方を向いた。
「ああ、うれしい、うれしいわ」ローラは叫んだ。「あなたが私を愛してくれるだなんて!」
しかしランドリー・コートとペイジがやってきてしまい、コーセルはそれ以上話を続けられなかった。
「ずっとあなたを探してたんだから」若い少女は静かに言った。ペイジは不機嫌だった。ペイジは自分や姉のことを……実際には存在の全体を……異常なほど真剣に考えた。ユーモアがわからず、寛容さに欠け、けじめとか息抜きについての考え方が恒星のように不変だった。ローラの適切な振る舞いは、シェルドン・コーセルと隅っこへなど行かないことだ。そんなことしなくても話はできるはずだ。クレスラー夫人に義理立てしないにしても、せめて体裁は考えるべきだった。
「また始まるわよ」ペイジは真面目に言った。「あなたのことだからてっきりこのオペラを見逃したと感じてると思ったの」
みんなはボックス席へ戻った。他のメンバーも集まりかけていた。
「ねえ、ローラ 」席につくとクレスラー夫人が言った。「気に入ってくれた?」
「ここを離れたくないほどです……ずーと」ローラは答えた。「ここになら私ずっといられます」
「私はあの青年が一番気に入りました」ウェス叔母さんは言った。「マントをした背の高い人の友人らしい人よ。でも、どうしてあんなに悲しそうに見えるのかしらね? どうしてあの若いご婦人と結婚しないんでしょう? ええと、名前まで覚えてないわ」
「獣のような声だからです」ランドリー・コートは言った。「一度破産寸前でしたし。ひどいのなんのって。昔の彼とは違うんですよ。放蕩三昧らしいです……酒でね。そうなんです、うわばみです。一度フィラデルフィアの舞台裏で酒客譫妄を起こして、舞台の短剣で大道具係の者を刺したことがあるんです。控えめに言っても、悪党ですから」
「まあ、ランドリーたら」クレスラー夫人はたしなめた。「言ったそばからまた出任せを言ってるわ」続いて起こった笑いにランドリーまで釣り込まれた。
「結局」コーセルは言った。「この音楽は、イタリア風の素朴なメロディーとワーグナーの手の込んだ複雑もののちょうど中間のような感じがしますね。ちゃんとわかってはいても……時々夢中にならずにはいられません」
間奏の間ロビーで葉巻を吸っていたジャドウィンは考え込むように顎をこすった。
「うん」彼は言った。「とてもよかったですね。それだけは間違いありません。しかし私としては世界中のくだらない騒がしいオペラよりも、うちの老いた親父がギターを持って『お父さん、ねえ、お父さん、そろそろと一緒に帰ろうや』を歌うのを聞きたいところです」
舞台下のウサギ小屋の入口ほどの小さな扉から、演奏者たちが一人ずつ這い出てきて、オーケストラが戻りつつあった。譜面台の前で上着の裾を正したり、楽譜をいじったりしている。演奏者たちはさっそく調律を始めた。漫然とだらだら続くいろいろな音……コルネットの控えめに唸る音、バス・ヴィオールの鈍い低音、フラジオレットと木管楽器の液体が流れるような音が、時折ヴァイオリンの耳障りな甲高い叫び声に貫かれて、劇場のいたるところからのべつ幕なく聞こえてくる騒々しい雑談を制しながら空中に立ちのぼった。
突然、照明が落ちてフットライトが灯った。劇場のあちこちから盛んに「しっ! しっ!」とささやく声が聞こえた。舞台の袖から、大槌を打つような、陰鬱で、荘厳な音が三回した。オーケストラの指揮者が指揮棒を上げてゆっくりと下ろすと、すぐにすべての楽器から長めのマイナーコードが発せられ、ティンパニのくぐもった連打で強調され、中世の広場の幕が上がった。ソプラノがベンチに物憂げに座っていた。この幕は彼女の見せ場である。髪は束ねず、流れるような袖のクリームホワイトのゆったりとしたローブを着て、腕は肩まで露出し、シルクの紐のガードルでウエストが締め付けられていた。
「この一幕はすごいんだから」ローラの肩から身を乗り出すようにしてクレスラー夫人がささやいた。「これからがすごいのよ。見てなさい」
「あの人たちが話すのをやめてくれたらいいのに」曲に混じって「……交換尻が三千ドル」と声が聞こえたものだからローラは泣きたい思いで暗闇を探しながらつぶやいた。
そうこうするうちにプリマドンナは立ち上がり、長い独唱を披露した。顎を胸に当て、上目遣いで、腕をフットライトの上に伸ばした。フットライトの左側へ闊歩しながら、プリマドンナをどやしつけるようにして、バリトンが登場した。プリマドンナは哀願するように両手を合わせて、近づかないよう懇願し、時折叫び声をあげた。
「あっちへ行って……
ヴェル・チエコ、お願い」
そしてオーケストラが鳴り響く中、二人は一気に互いの腕の中に倒れ込んだ。
「どうしてあんなことをするのかしら」ウェス叔母さんは戸惑いながらつぶやいた。「鬚の紳士は彼女を好いてないと思ったのだけど」
「だって、あれは公爵なのよ、ウェス叔母さん、わからない?」ローラは説明するように言った。「そして彼は女を許すのよ。私だって正確には知らないわ。ご自分の冊子をご覧になったら」
「……買い方の謀略だ……七十セントだぞ……すると先方は自然にお終いだな」
プリマドンナの親友のメゾ・ソプラノが登場した。出来上がった三人組の活躍はぱっとしなかった。最後にバリトンが突然剣を抜き、プリマドンナはひざまづき、詠唱した。
「悲しくも、私は震えている!」
「またあの男が狂ってる」ウェス叔母さんは冊子を見ながら、また混乱してつぶやいた。「私にはわからないわ。女の台詞は……オペラの冊子によると『私は震える』ですって。どうしてなのかしらね」
「ほら」ペイジが言った。「テノールが登場よ。これで片付くのよ」
テノールは帽子もかぶらず、いきなり登場し、激怒し、前屈みで両手を胸に当てて、バリトンに語りかけた。他はイタリア語で歌っているのに、パリジャンのテノールはやたらとフランス語を使い、今度はバリトンを悪者扱いしてどなった。
「悪名高き裏切り者よ、
卑怯な罪人よ」
「どうしてあの娘と結婚して終わりにしないのかわからないわ」ウェス叔母さんは言った。
この幕は終わった。プリマドンナは「見せ場」をやりとげた。その中で声の高さをアルトのハ音にまで上げて、ウェス叔母さんが心配するほど長々と声の調子を維持した。歌い終わると、場内は拍手喝采に包まれた。親友に支えられて退場したソプラノは三度もリコールを受けた。バリトンとテノールの決闘が続き、瀕死の重傷を負ったテノールは、途切れ途切れの激しい言葉を発しながら仲間の腕の中に倒れ込んだ。合唱団……自警団と町民で構成……が舞台後方に押し寄せた。ソプラノと親友が戻ってきた。黒い鬚を生やした、猪首の、陰気で、得体の知れない男が務めるバスが、合唱団を左右に分け、フットライトまで前進した。少年に扮したコントラルトが登場する。ソプラノが一身に注目を集めた。突如、ラストシーンが始まる。
ヴァイオリンが一斉に慟哭した。弓が一斉に精密機械の部品のように動く。ティンパニがリズムをつけながら、正確なテンポで鳴り響く。指揮者は、指揮棒の先で雰囲気や感情を引き出してでもいるかのように盛んに調子をとった。一方でホルンとコーネットが鳴り響き、バス・ヴィオールが唸り、フラジオレットとピッコロが没我的に、流れるようなグル音と転調したルラードの中で見事に混ざり合った。
舞台では全員が歌っている。中央のソプラノは最高声域で発声し、全身を盛んにひねって生み出した音を、頭を鋭く動かして空中に放り出していた。右側では、バスが顔をしかめて音楽の合間に「裏切り者、恩知らず」と繰り返すのが聞こえた。
ソプラノの左側で、バリトンが胸をたたいて、倒れたテノールを剣で指し示しながら、判然としない仰々しい台詞を詠唱した。舞台の左端では、タイツにブラシ天のダブレット姿のコントラルトが、両手を伸ばしたり両腕を後ろに回したりして、客席の方を向いた。高音のたびに眉をあげて、低音になるときは襞襟に入るほど顎を下げた。歌っているうちに一定の間隔で、コントラルトの音域がソプラノの音域と混ざり合った。
「さらば、天の幸よ!」
テノールは片手を上げ、友人に肩を支えられ、ソプラノがリードする旋律を歌い続けた。
「私は死んでしまう。
ああ、不幸だ。
ああ、苦しい。
魂が去ってゆく」
コーラスがその真後ろで半円を描いた。片側が女性で、反対側は男性である。彼らに求めたいものはたくさんあった。急遽切り詰めた経営方針が祟ったのか、ところ構わず急いでかき集めた連中らしい。女はデブ、年増、ひどく地味である。男は痩せて、骨ばっていて、似合わない半ズボンをはいて古めかしい。しかし彼らはみっちり叩き込まれていた。みんな一緒に手を動かし、同時に一斉に動き、絶え間なく何度も詠唱を繰り返した。
「恐怖よ、去れ」
フィナーレが始まった。舞台上の全員が一歩前に出て、キーをもっと高くしてもう一遍繰り返した。ソプラノの歌声はシャンデリアまで届きそうだった。オーケストラは奮闘し、指揮者は手と頭と身体でリズムをとった。
「裏切り者、恩知らず」
バスが怒鳴る。
「口に出せない秘密なのだ」
バリトンは胸をたたき、剣で指し示しながら答えた。突然再び響き渡るソプラノが、観衆のすべてにはっと息を呑ませるほどのすてきなクレッシェンドを始め、それからもう一度あの有名なアルトのハ音まで一気に盛り上げて、合唱が繰り返して歌う間それを維持した。
「恐怖、冒涜」
を四回繰り返した。
それから指揮者の指揮棒が勢いよく振り下ろされた。轟くようなハーモニー、全歌声と全楽器が総力を注いた最後の大合唱が延々と続いた。歌手たちが大見得を切り、テノールは断末魔の叫び声をあげて退場した。
「私は死ぬ」
ソプラノは親友の腕の中で意識を失った。幕が下りた。
場内は拍手喝采に包まれた。そのシーンは何度もリコールがかかった。テノールがよろよろと立ち上がり、バリトン、ソプラノ、その他の歌手と手をつなぎ、全員が繰り返しお辞儀をした。そして最後の幕が下りた。大きなシャンデリアの照明がカチカチと音を立てて燃え上がるように灯り、劇場のあちこちからプログラム売りの叫び声が聞こえてきた。
「リブレットはいかが、リブレットだよ。オペラの歌詞と楽譜が載ってるよ」
ローラはこの最後の幕あいを、クレスラー夫人、コーセル、ジャドウィンと一緒にボックス席で待機して過ごした。他のメンバーは桟敷席からロビーを見物しようと出て行った。
ボックス席では舞台の使い方の話になっていて、コーセルはパリのオペラ座で上演された『アフリカの女』で、ヴァスコ・ダ・ガマが船を出すときに舞台の上部構造……袖、セリ、背景……がまるごと回転した話をした。それと一緒に役者が誰一人として回らなかったとしてジャドウィンがその効果を批判したところ、クレスラー夫人とコーセルからわかってませんねと評された。しかし反論しようとしたところで、クレスラー夫人がコーセルの方を向いてオペラグラスを押し付けて尋ねた。
「あの一階席の三列目にいるのはどなたかしら……ほら、真ん中の通路にいる……赤い服の女性よ。グレトリーさんじゃない?」
これがジャドウィンとローラを会話から締め出した。資本家はすかさずローラに話しかけるチャンスを手に入れた。やがてローラは、相手が懸命に自分に合わせようとしていることに気がついて驚いた。しかも、一ダースと言葉を交わさないうちに慣れないお世辞を言い始めた。その態度から察するに、若い女性に気を遣うのは相手にとって完全に異例なことなのだ。このとき、この二人が知り合った最初の夜、ローラは直感的に自分が突然相手に興味を持ったことに気がついた。
ホールで話したときは、こんな間近で話す機会を得ようとか話したいとは思わなかったが、今こうして座って相手が話すのを聞いていると、少しは惹きつけられざるを得なかった。体格のいい男で、コーセルの倍はありそうだった。手は大きくて幅があり、つかみ方、そして何よりも、しがみつき方を知っている実業家の手だった。その幅の広い力強い手と、鋭くて冷静な目は、とんでもない強さで目的を包み込んでしまい、目的が達成されるまで、迷わず、揺らがず、たゆまず、ねばってねばってねばり抜くのだろう。そして、二本の細長い繊維質の腕は、どこまででも届き、どんなに広大な、どでかい、手に負えないものでも包み込んでしまうのだ。その日、金持ちの仲間が手掛けた大相場の一つが終わった。ヘルミックが破産したのである。 有名なオペラの音と小節の合間に、男たちが興奮した小声で話したのがそれだ。一人の偉大な指導者が、最後の力を振り絞って生き残りを賭けて戦い、まさにその瞬間に賭け、破れ、有り金を使い果たしたのである。ジャドウィンはそのすべてを見とおしていた。この急落とは関係がなかったが、それでも彼は間近にいて、それを見、それに触れ、それによって大暴落へと至るのが必然的な一連の急落を予見していた。その晩が始まった頃、ローラを散々悩ませた二人の男の声が、また突然あがった。
「……ひどいもんだったぞ、今朝の取引所は。まったく! 買い方が貨車単位で穀物を投げ始めると、互いに譲らなかったからな」
そして突然、情熱とロマンスの音楽劇の二つの幕間の中ほどと同時に……まさにその瞬間に……すぐそばで繰り広げられている、同じように絵になり、同じようにロマンチックで、同じように情熱的な、もう一つのドラマの、一瞬の鮮烈な印象がローラにもたらされた。しかし、それ以上に、本物の、現実の、最新のものが、ローラが活動しているその生活のど真ん中にあった。そして、このジャドウィンは、夜会用の礼装姿で、ここに静かに座り、好きでもないのに、この美しい音楽と、このうるさいだけのくだらないものに、大人しく耳を傾け、この気取ったり不自然なポーズをとるものすべてを静かに鑑賞していた。そのすべてがどんなに小さく、取るに足らないものにジャドウィンには見えたことだろう!
ローラは驚きの瞬間を見つけた。まさか! この男に初めて会ったとき、ローラは『威厳に満ちた態度』を全面に出して偉そうに構え、相手の出鼻を挫き、最初に自分に不審な視線を向けた代償を払わせてやろうと心に決めていた。それが今やこのとおり、ローラは相手を研究し、研究のし甲斐があることを発見していた。相手が夕方宵の口の自分の繊細な感情とは相容れないとわかってはいたが、 それにもかかわらず、相手に賞賛すべき多くのものを見出した。いつもそんな調子だった。自分はいつも予想外のことを、矛盾したことをしているとローラは自分を振り返った。女性は奇妙な生き物で、自分のことさえわからないのだ。
「きみがすべてを楽しんでいるみたいだから嬉しいよ」肩越しにコーセルの声がした。「きみならそう来ると思ったんだ。こういう音楽ほど感情とか心とか……きみの気質……に訴えるものはないからね」
すぐにコーセルはローラに自分が女性であることを感じさせた。今またローラは、女の限界をすべて兼ね備えたただの女に戻った。そして、自分とコーセルとの関係は絶対に男女の関係以外のものにはなり得ない……とローラは悟った。どういうわけか、ジャドウィンとの関係は違っていた。女性の立場の自分の女らしさ以上に、彼の男らしさを感じたのである。そして、二人の間には、より強力な持ちつ持たれつの関係、対等な関係、仲間意識があった。コーセルはローラの心の問題をローラの心に語りかけるだけだった。しかし、ジャドウィンはローラに感じさせた……というかジャドウィンはローラに話しかけるときにローラに彼女自身を感じさせた……彼女には心だけでなく頭もあると。
そしてオペラの最終幕がローラの注意を完全に引きつけることはなかった。歌手が登場し退場し、オーケストラが嘆き活気づき、聴衆が拍手した。そして最後にテノールは、突然の義務感と義理堅さから奮起し、ソプラノの腕から身を振りほどいて、非情な運命と天に向かって叫び、栄光のむなしさを熱く語り、心は砕けても涙を見せず、友人のバスにその場面から引きずりおろされるにまかせた。ソプラノはこの曲で五回も辛抱強い親友の腕に抱かれて気絶した。観客は急に帽子と外套を思い出して、せっせと帰り支度に取りかかった。幕が下りる頃には、すでに何組もが立ち上がり、ぞろぞろと出て行くところだった。
クレスラー夫妻一行は最後までロビーに居残る人たちの中にいた。しかし外気を最初に肌で感じるロビーから出るが早いか叫び声が上がった。
「雨が降ってる」
「あれ、雨が降ってきたな」
そのとおりだった。急に天候が和らいた。夕方早いうちから降っていたサラサラの大雪は、鬱陶しい霧雨に変わっていた。馬車で来なかった人たち、あるいは、馬車が迎えに到着していなかった人たちのせいで、ロビーはごった返した。蜂の巣をつついたような騒ぎである。耳当てをして、フィシューやマンティラで頭を保護しただけの女性たちが傘を巡って亭主やいとこや兄弟と揉めていた。ロビーは窒息するほどの混みようだった。外からの湿った冷たい空気と、劇場内のドアから延々と吐き出されて来るこもった熱い空気とが交互に吹き付けるたびに、エイグレットが再び上下左右に揺れ動いた。シルクハットをゴムのケースに収め、両手で傘をかかえる使用人が、人混みをかき分けるようにして自分たちの主人を必死に探していた。
外では歩道や路肩で、収集のつかない混乱が広がっている。警官が警棒を抜いて叱りながら整理に当たった。気を揉んで、対応に追われた若い衆が、オペラハットや手袋を雨ざらしにして、右往左往しながら自分たちの馬車を探していた。天幕の端では、金色の制服を着たでかい案内係が、他のあらゆる音を圧倒する怒鳴り声で淡々と番号を叫んだ。灯火が反射する雨具を着た御者たちがあちこちで声をあげ、辻馬車の御者と警官の間で激しい衝突があった。銜をジャラジャラ言わせ、背中を深緑色の布で覆った馬が湯気をあげながら元気よく駆けつけた。馬車のドアがバタンと音をあげ、舗道を軽がる車輪がまるで大砲の残響のような音をあげた。
「馬車を呼んできましょうか?」クレスラーの間近で、みすぼらしい未成年のアラブ人が叫んだ。
「じゃあ、急いで頼むよ」クレスラーは言った。刻一刻と騒ぎが大きくなるものだから、今度は声を大きくした。「きみのは何番だい、ローラ? まずきみたちからだ。九十三か? わかったか、兄ちゃん? 九十三番だ。急いでな」
馬車がやって来た。急遽別れの挨拶となった。ローラは取るものもとりあえずクレスラー夫人に感謝と感動を伝えた。コーセルはみんなを馬車まで見送り、みんなの後から乗り込んでドアを閉めた。馬車は出発した。
ローラは、湿った革と布地がにおう馬車の中のひんやりとする暗がりに沈むように座り込んだ。
「すてきな晩だったわ! 何てすてきな晩なのかしら!」ローラはつぶやいた。
帰り道、ローラとペイジは、オペラに詳しいこのアーティストに、一番良かったメロディーを自分たちのために口ずさむか口笛で吹いてくれるように頼んだ。その都度、みんなは盛り上がった。そう、そう、そんな感じだった。きれな音色じゃない? すてきじゃない?
しかしウェス叔母さんはまだ納得していなかった。
「まだわからないわ」叔母は不満なのだ。「どうしてあのとんがり鬚の青年はあの女と結婚して終わりにしなかったのかしら。一件落着と見せて、すぐにまた騒動が始まって、胸を叩いて退場でしょ。はっきり言って、あれはどう見ても愚かなことだと思うわ」
「だって、公爵だもの……おわかりになりません? バスを歌っていた人は……」ペイジは必死に説明した。
「ああ、あの男はまったく好きになれなかったわ」ウェス叔母さんは言った。「足を踏み鳴らして歩き回るんだもの」しかし叔母の関心は観客そのものにあった。襟ぐりの深い女性の夜会服がやたらと目についたからだ。
「生まれてこのかたああいうドレスにはお目にかかったことがないわ」叔母は明言した。「それに私たちの隣の席にいたあの女もそうよ! あなた気づいてたでしょ!」叔母は眉をつりあげて唇をひきしめた。「ああ、口にしたくもないわ」
馬車は暗い下町を抜け、ディアボーン家の住むノースサイドへ向かった。舗道の往来を妨げる泥濘……泥と半解けの雪と雨水……の中を馬がびじゃびじゃ駆け抜ける音が聞こえた。暗がりの中で、少女たちの外套が青白い透明のような光を放った。雨が馬車の窓に長い斜めの平行線を描いた。二人はワバシュ・アベニューを進み、ステート・ストリートとクラーク・ストリートを横切って、暗く寂れた通りに出た。
ローラはしばらくすると、物思いにふけり、ほとんど何も話さなくなった。すばらしい夜だった……単に音楽というよりも別のものが原因だった。コーセルが再びプロポーズしてくれた。ローラはその場の興奮に流されて、相手を元気づかせる返事をしてしまった。そのあとですぐ、資本家のジャドウィンと少し話をした。それ以来、なぜかローラは落ち着きを取り戻し、冷静になった。冷たい空気と顔に当たる雨が、火照る頬と熱いこめかみを冷ましてくれた。自分は本当にこのアーティストを愛しているのだろうか、今自分に問いかけた。いや、愛してはいない。本当に、本気で愛しているわけではない。馬車がビジネス街の寂れた通りを駆け抜ける今は、自分が彼と結婚したいわけではないことがとてもよくわかった。コーセルに失礼なことをしてしまった。しかし、コーセルとの関係を正し、誤った印象を正す問題は、先延ばしにするつもりだった。ローラは彼に愛されたかった。彼にはその非の打ち所のない細やかさで小さな気配りを限りなく自分に払ってほしいと思った。「いいえ、コーセルさん、私はあなたを愛していません、あなたの妻になることはありません」 と言ったら……今度こそ……お終いだ。コーセルは去っていくだろう。ローラは彼にそんなことをさせるつもりはなかった。
しかし突如ローラの考察は中断された。このすべてを考えている間、ローラは窓ガラスの湯気をこすりとった小さな隙間から馬車の窓の外を眺めていた。こうしているうちに馬車がジャクソン・ストリートを出て北上し、ラサール・ストリートへ進入すると、いきなり付近の見慣れない光景がローラの目に飛び込んできた。ローラは感嘆の声を上げた。
通りの両側のオフィスビルは、足もとからてっぺんまで明かりがついていた。窓を通して、ワイシャツ姿で机にかじりつく事務員や簿記係の姿がちらほら見えた。どのオフィスも就業中で、社員はみなやる気満々である。歩道はまるで昼間のように混雑し、メッセンジャーが行き交い、街角でたむろする人たちが真剣な会話をしていた。もう午前一時だというのにこの辺り一帯には活気があった。
「まあ、一体何事かしら?」ローラはつぶやいた。
コーセルは説明できなかった。しかしすぐにペイジが叫んだ。
「あら、私、知ってるわ。ここはジャクソン・ストリートとラサール・ストリートでしょ。ランドリーが言ってたわ。『手数料で食ってる地区』ってね。それに残業しているのはブローカーのオフィスよ……例のヘルミックの関係だわ」
ローラが突然はっとなった。今ここに別のドラマがあった。別の悲劇が、ここで、夜通し、猛威を振るって荒れ狂いながら進行していた。なのにローラと他のメンバーはみんな、花と香水の雰囲気に包まれ座って音楽に耳を傾けていた。突然、ローラの心の目の前に、それが不吉で、恐ろしい、途方もないものとしてに迫って来た。ああ、これは「食糧取引の立会場」のドラマだ。何百万ブッシェルの穀物が押し寄せ、何百万ドルもの金がうなり、何千人ものが足を踏み合いと野次を飛ばし合い、それらが戦いの騒音と共に会場を満たした。そう、ここには命がけのドラマがあった……ドラマと悲劇と死があり、死闘であふれていた。その反響は芸術の聖域にまで侵入し、イタリアの音楽と上品な会話のリズムを切り裂いた。そしてその衝撃は、世界中が眠りについたはず時間まで続き、この地味なオフィスビル街を活気づかせた。この徹夜の作業は大変だった。どう見ても戦闘後の野戦病院と同じくらい重要だった……病院と総司令部を兼ねていた。当日の負傷兵が手当されて、死者数が集計される一方で、司令部では部隊長と司令官が、夜明けとともに再開される軍隊同士の戦いの計画を練った。
「そうなのよね、その真っ最中なんだわ」ペイジは続けた。「ほら、ルッカリーだわ。ヘルミックさんの事務所があるコンスタブルビルもある。いつだったかランドリーが全部案内してくれたのよ。それと、後ろを見て」ペイジは馬車の後ろの小さな窓を覆うフラップを上げた。「ほら、あそこの通りの突き当り。商品取引所のビルがあるわ。穀物の取引が行われるところでね……小麦の立会場やトウモロコシの立会場があるのよ」
ローラは振り返って見た。透視図のそれぞれの集中線上に、煌々と明かりが灯るオフィスビルが連なっている。しかし、通りの突き当りの鉛色の上空に、少し切れ目があった。ぼんやりした長い光の棒がこの景色を突っ切るように伸びている。これに輪郭を浮かびあがらせて、どの光にも負けず、後ろのかすかな光を背にした黒い立派な外見をそびえさせている不気味な塊があった。
これが、ローラが受けた今夜の最後の印象だった。明かりの灯るオフィス街、視界を遮る雨、神々しい光の霞、それを背景にして、黒く、陰鬱で、馬鹿でかい、広壮な商品取引所のビルが、台座にががむように建っていた。まるで目の見えない奇っ怪なスフィンクスのように、静かに、厳粛に……夜と降りしきる雨に包まれて、音も生きている気配もなくそこにうずくまっていた。




