第八話 眠る記憶と滑る体液。
メモ用紙を持つ手は震えていた。
その場に蹲り、膝を抱えながら暗い天井を見上げて俺は思う。
俺は、何かを思い出そうとしている。俺の中の喪失した部分を、再び取り戻そうとしている。いや、失われてなんかいない。
きっと俺の奥深くに眠っているのだ。頭の痛みと共に俺はそう感じていた。
この家で、その記憶を眠りから起こすことができるのだろうか。それとも俺は、忘れたまま再び日常に沈んでいくのか。
人はいつか死ぬ。今、息をして生きているとしてもすべては灰同然だ。心、精神、記憶、感情。
そのすべては存在しない偶像だ。それらは無きに等しい。失ったままだとしても、どうせ象のない物に意味を求めてどうするというのか。
……だが。
失ったことによる影響はいつまでも在り続けるのかもしれない。現に、何か忘れてはいけない物を忘れた時、俺の精神は壊れだした。きっとそうだ。
実体を構成する俺という人間に、記憶という欠けた象のないピースが収まれば、俺はいったい何者に成る事ができるのだろう?
少しはまともな人間になることができるならという、曖昧で疑問だらけな行動動機が身体を突き動かした。
メモ用紙をポケットに突っ込み、夢遊病のようにフラフラと、誰かの足音を追って居間の前まで移動する。この家には、2階に続く階段が居間のすぐ横にあるのだ。
暗い階段を下から見上げると、あの女の子がこちらを見降ろしていた。俺は、答えが出るのを諦めかけていた問いを久しぶりに呟いた。
「……君は、誰?」
その声が聞こえたのか。女の子はノイズ混じりの映像の如く存在を揺らした。そしてテレビ画面が消えるように、いきなり女の子は消えて無くなった。
もしかしたら、もう再び女の子の幻覚を視ることはできないかもしれない。そんな言い知れぬ予感が心の中に湧いた。
懐中電灯で階段を照らすと、確かに誰かが上った跡があった。
何者かの小さな足跡。
先ほど逃走した、姿を捉えることのできなかった何者かはまだこの家に潜んでいるのかもしれない。
外に逃げたと思わせて、家の中に戻り、俺のショルダーバッグを漁って携帯電話を持っていった……
考えたくはないがその可能性もあるだろう。階段に足をかけて上を見上げると、暗闇の中に吸い込まれそうな錯覚に陥る。
階段の柱に手を伸ばし、掴んで体を引き上げようとしたその時。
ぬちゃぬちゃと、嫌な感触が手のひらを通して伝わる。懐中電灯で柱を照らすと、てらてらと光る無数の線が見えた。
そして、ちょうど手で掴んだところには。
俺の小指くらいの大きさの蛞蝓が、俺の手で身体の半分を潰されてのたうち回っていた。
滑る体液。
汚く透ける、生臭い肉色。
少し乾燥しかかっているからだろうか、特徴的な黒い筋というか、模様が何本か走っている。暫くのたうち回った後、ぼとりと潰れなかった頭部が階段に落ちた。
手の平にこびりついた感触が身体に伝う。それは陰湿で不快で。
いったん立ち止まり、ウエットティッシュを取り出してそれを拭う。
時間をかけて、ケースが空になるまで枚数を費やして、痛みを感じるまで何度も何度も俺は手を拭い続けた。そうしていると、次第に心が落ち着いた。
……行かないと。
持ってきた軍手を両手にはめて、一段一段と階段を登る。
分厚い木の板でできた階段を、一段ずつ踏みしめながら2階へと上がる。俺が小さい頃は、この急勾配な階段を両手両足で、ロッククライミングのようにバランスをとりながら上っていた。
大人になった今は、きちんと自分の足だけで登れる。
手で埃を拭うと、板の漆塗りを施した表面が現れる。それぞれの段の隙間は空洞になっており、そこから覗く景色は相変わらず闇だった。
体重がかかるごとに、悲鳴のような、または疲れて呻いているかのような音が板からあがる。
再び蛞蝓を潰さないように、触らないように階段を支える柱は触らないようにする。左右の柱を照らすと、至る所に怪しく光る筋が這いまわっていた。足元にはいないみたいだが、警戒しながら進む。
先を懐中電灯で照らすと、二階の天井がチラリと見えた。二階は、俺の部屋だった所と屋根裏部屋、物置部屋があったはずだ。長い階段を上りきって、ゆっくりと顔を出す。
上りきるとL字型の短い廊下に出た。物音をなるべく立てないようにゆっくりと廊下の角を曲がると、廊下の先に小窓が見えた。小窓からは暗い曇り空と、それをところどころ炎のように照らす夕陽が見える。
もうすっかり日は落ちてしまった。階段よりは明るいが、鈍い薄闇で廊下全体ははっきりしない。
階段を登りきり、女の子が立っていた場所に立つ。
女の子は、もういない。
自分の視界に、時折ノイズが走る。そして、現実と虚構が時折交じり合う。
俺の周囲をたくさんの蛞蝓の幻覚が這いまわる。
いったん目を閉じて開くと、それらは消える。だが、瞬きするとまた蛞蝓が。
目を閉じる。
開く。
再び閉じる。
開く。
点滅するように、何度も現れては消える不快な軟体動物。
蠢く触角。
這う。
這う。
俺の周りを、壁を、床を這い回る。
......あぁ、吐きそうだ。
両手で顔を覆う。恐怖と不安感で涙と鼻水が顔を伝い、人には見せられないことになる。軍手をはめた手で掻きむしるように顔のそれを拭きながら、俺は俺の不完全さを呪う。
膝から床に跪く。
「誰か、助けてくれよぉ……」
俺の苦痛は、誰かに届いたのだろうか。顔を覆う俺の手の甲に体温を感じた。指の間から前を視ると、闇から伸びる白い手が、両手がそっと俺の顔を包んでいた。
この優しい手は、いったい誰の?
そして、俺はあの花の匂いを再び感じたのだった。