第五話 這うもの、這うモノ。
台所を出て、次は風呂場に向かう。
かたかたと引き戸を開けると、薄暗くかび臭い脱衣室だった。昔住んでいたときはかび臭いなんて一度も思わなかったのだが、古い家屋は、人の管理が入らないでいるとこのようにすえた臭いがするようになるのだろう。
一息吸い込む度に、病気になりそうな空気。堪らず俺は、右手で口と鼻を塞ぎ、脱衣室を通った。歩くと脱衣室の床がミシミシとなり、その音で俺はビクビクと怯えてしまう。自分の足音でさえ、この場所では心臓に悪い。
風呂場の折り戸に手をかけ力を入れると、ぎしっ、と音を立てて開いた。俺は懐中電灯をつけて中をのぞき込んだ。身体を洗うスペースはタイル張りとなっており、水道は錆と、カビのせいで黒ずんでいた。水道のすぐ下の床に、風呂桶が逆さに置きっぱなしになっている。
スペースの奥に位置する、古いプラスチックで埋め込み式の狭い風呂。空色で、内側はもちろん水気はなく乾燥している。天井から降ってきたのか、黒い砂がところどころ落ちていた。
ぽり、ぽり、かさ。
今度はなんの音だと、あたりをうかがった。
……あの風呂桶の中からか?
そっと右手を伸ばし風呂桶に手をかける。覚悟を決めて風呂桶を素早くひっくり返した。
カランッ、カランッという音を立てながら風呂桶が隅に転がる。風呂桶が隠していた空間を見て、俺は思わず情けない悲鳴をあげてしまった。
中にいたのは、仲間の死骸を食べるゴキブリだった。
一つの死体に群がるように、子供の手の平ぐらいの大きさのゴキブリが6、7匹、触角をうねらせていた。ぽりぽりという音は、ゴキブリが死体を咀嚼する音だったのだ。
黒く赤く光る虫たち。ギシギシと口を上下させながら、ただ生きるためだけに身内を喰らう。
俺が風呂桶を開けたせいで、ゴキブリたちは四方八方に散っていく。逃げ遅れた一匹が俺の右足から太もも、腰のところまで駆け上がってきた。素早く艶めかしく動く二本の触角。自分の何倍も体積のある、俺でさえも食糧だと言わんばかりにギチィッと口を鳴らす。ゴキブリの放つ殺意に怯えて、俺は右手で慌てて叩き落した。少しだけグシャっという感覚が手に残る。
恐る恐る懐中電灯で嫌な感触がした手を照らすと、僅かだが茶色にも黄色にも見える体液がついていた。ゲル状の体液から何ともいえない悪臭がする。
タイルの上には中羽を少しだけ出して、力無く手足を動かす瀕死のゴキブリが俺を視あげていた。
視るな。俺をそんな目で視るな。お願いだから視ないでくれと、俺は無言で悲鳴をあげながら、慌てて風呂場から逃げ出した。
廊下にでてしゃがみこむ。俺はすっかり混乱していた。思考がまとまらない。いきなり俺に飛び掛かってきたあのゴキブリが悪い。俺は何も悪くない。俺を喰べようとしたからだ。と同時に俺の思考は、これは罰だ。報いだ。自分の罪を味わえ。思い知れ。罪悪感を感じろとも囁く。
歯が噛み合わず、カチカチと鳴った。両手で頭を抱え蹲る。そんな俺の前方に、誰かの気配を感じた。
……何もないはずの空間に白い手が現れた。さらに恐怖で目を見開く。
なんなんだ。いったい何なんだッ!!
ぐちゃぐちゃになる俺の内心に構わず、白い手が俺に向かって伸びてくる。そして。
白い手は、そっと俺の頬を撫でた。