第四話 物音と足音、存在感。
客間をあとにし、俺は物音のしたほうに向かう。それぞれの部屋を間切る廊下は、静かに埃が舞う空間だ。その静けさを感じながら歩いていると、自分が気狂いでおかしくなった当時のことが甦ってきた。
もともと俺は、ある程度壊れかけていたのかもしれない。何がきっかけかはどうしても思い出せないが、小学生のころからだろうか。俺は俺自身をこんな風に感じていた。
俺は、俺の身体は偽物である。こうやって上から自分自身を見つめている俺のほうが本物だ。そんな俺は、果たして生きているのか死んでいるのか。
無口な俺は、そんな風に感じていてもあまり表情には出さなかった。周囲になんだか変わった子だと思われることはあるにしても、学校での生活自体は問題なくクリアできていた。しかし、周りの評価がどんな慰めであったとしても、俺は自分が不良品であることを自覚していた。
今思えば。実家から出て、慣れない環境に身をさらしたことが、さらに自分の状況を悪くしたのかもしれない。そうすることで、社会人としての一歩を踏み出そうとしたときに、俺は派手にその一歩を踏み外したのだろう。しかし。会社は特にひどい環境というわけではなかった。一人暮らしに関しても、する前は楽しみにしていたくらいだったし、実際に始めてみるといろいろと面白さも感じていたのは確かだ。
きちんと社会人として歩んでいこう、生活を楽しみながらも、自分の身の丈に合う現実を生きていこうと思っていた。だが、自分が自覚していないところで俺の壊れている部分は更にずれ、軋み、摩耗し取り返しがつかなくなっていったのだ。
最初に気づいた変化はこのようなものだ。まず俺は、同じ空間にいる人に監視されているような気がしだした。自意識が過剰だと自分に何度言い聞かせても、他人の視線を感じているようで怖かった。肩越しに、誰かが後ろから俺を睨みつけている。そんなふうに感じるのだ。
次に、ありもしない気配が気になりだす。物陰に誰かがいる。天井裏に何者かが潜んでいる。ドアの向こう側で何者かが潜んでいて、俺がドアを開けるのを待ち伏せしている。ベッドの下に誰か潜んでいる。鏡の向こうから誰かが見ている。……そのような事の積み重ねは、段々と俺の精神を削いでいった。
そして俺は、ついに在りもしない幻覚を視だすようになった。黒いコートにハットを被った男が俺を視ている。鏡の向こうで女が嗤っている。頭の三つある鴉がベランダにいる。顔がはっきりとしない女の子が、ひまわりの花束を持ってそばに立っている。
様々な幻覚はよりいっそう俺という存在をすり減らしていった。幻覚を視だした俺は、現実のものも幻覚のものもすべて恐怖の対象となった。
変わらず昇る白い太陽が怖い。
突然落ちる椿の花が怖い。
地面でのたうつ虫が怖い。
手で脈打つ血管が怖い。
怖い、生きとし生ける全てのものが。
怖い、息をしない動かぬ全てのものが。
会社を欠勤し、マンションの部屋に閉じこもるようになった俺を病院に連れていってくれたのは彩だった。そのおかげで、与えられた診断名に対して適切な治療が開始され、俺はやがて人間らしさを取り戻すことができた。
今のところ何も恩返しはできていないのだが、彩には返すことができないほどの借りがある。俺はいつか、彩だけではないが俺を支えてくれた人たちに何かを返すことができるのだろうか。
――いつの間にか、在りもしない女の子が俺の前にいた。小走りにパタパタと廊下を走って曲がり角に消える。俺は、懐中電灯をいつでも点けれるように左手に持って、女の子の導きに従うことにした。
そのようにして進むと、廊下が中庭を囲むような作りになるところに出た。ガラス戸から中庭の草木が見える。黄色く枯れており、手入れをしていないからだろう、雑然とした印象をそこから受けた。
その枯れ草にほとんど隠れていたが、飛び石が幾つかと、水の溜まっていない池が真ん中にあった。その池には昔、鯉が何匹か泳いでいた。昔はよくここで遊んだものだ。少し懐かしさに浸ったが、そうしながらも警戒を怠るなと自分に言い聞かせる。俺は自分の足音を潜ませながら、物音がしたほうを耳で探った。
角を二回曲がり、居間の障子を開ける。そこは昔、畳が敷かれてあった場所だった。今は撤去されて下地の板が見えている。この部屋は日当たりが悪く、さっきの客間よりも暗い。懐中電灯で中を照らしたが、やはりそこには何も在なかった。さっきの物音は、ネズミか温度の変化で木が鳴っただけなのではないか。ここ最近の出来事で、神経が過敏になっているのだろうか。そう考えた俺は、今の入り口で背筋を伸ばして深呼吸をしてみた。そのようにして、無駄に緊張するなと自分に言い聞かせるのだ。
一息ついた俺は、居間の中に入った。ところどころ床板が腐っているみたいで、踏みどころが悪いと床板にひびが入る音が鳴る。
がたがた。
と再び音がした。俺は素早く、居間の入り口に振り向いた。しかし何も在ない。
今の物音は、扉を開け閉めするような音だった。俺は素早く居間から廊下にでて、音のしたほうの見当をつける。今度は台所だろうか? 急いで台所の開き戸に向かい、それを勢いよく開ける。しかし、何も無いし誰も在ない。少し狭い台所には殺風景な空間しかなかった。
台所は窓から外の日が差していて明るかった。いつの間にか日が傾いてきたみたいで、黒ずんだ木の床が少しオレンジがかった光に染まっている。ひととおり点検して何も異常かないことを確認すると、俺は台所を後にして廊下に出た。
そして俺は、今更ながら気付いた。中庭から入る光で分かったのだが、埃の積もった床に俺以外の足跡があることに。
……それはつい最近のものだった。その足跡と自分の足跡を並べてみると、俺より一回り小さい足の持ち主らしい。最近は誰も入ったことがないんじゃなかったのか?
嫌な汗がじわりと背中を濡らす。心臓が落ち着かない。勿論の事だが、あの女の子は足跡を残すことができない。
「誰かいるのか?」
闇に向かって声をあげるが、何か返事があるわけでもない。
だが。再び家のどこからか、ぎしぎしという音が鳴った。