32話
「今日はここがお気に入りなの?」
旧校舎、3階の元演劇部部室。
椅子に座って雨粒が伝う窓の外を見ていると王子が声をかけてきた。
今日は雨で屋上は使えない。だからここにきたのだが、まさか王子もそうだとは思わなかった。
「衣装は見つかったんだからここに来るのはやめなよ。埃っぽいから喉悪くするよ」
『もう悪いよ』
「もっと悪くなる。それに呪われちゃうかもよ」
『呪い?』
「昔商業科の生徒が学校で飛び降りたんだって。その幽霊が夜な夜な出るらしい」
『あぁ、そんなこと』
「……随分反応薄いね」
『興味ないもん』
「へぇ、ゴシップ系の類の話は全国共通で優秀な話の種だと思ってた」
『自分の事で精一杯な人間はそうじゃない。それに俺はそのネタ元を知ってる』
「というと? 」
『ここから落ちたら死ぬと思う?』
旧校舎の三階、高さは十mくらいだ。即死というわけにはいかない高さだが、そうじゃなくてもただでは済まなさそうだ。
「さぁ?でも結構あるから打ち所が悪ければ死ぬか、それでなくても大怪我しそうだね」
『だよね、俺もそう思った。そう思ったからここに来たんだ』
「死にたいの?」
『まさか!昔の話だよ、まだ1人で頑張ってた時の話』
三年前、俺は死のうと思った。
理由はよく思い出せない。ただどうせ父さん関係だろうなとは思う。
そのくらいしか俺の悩みなんてないし、そもそも父さん以外のことなんてそれこそ演劇関係くらいしか興味がない。
俺の人生はその二つで構成されていて、だからあんなことを言われて全てを否定された様な気がした。
『お前が生まれたせいで俺は全部捨てなきゃならなくなったんだ』
『お前なんて生まれて来なければよかったのに』
『どうして僕ばっかり』
……そうだ。泣かれたことがあって。大好きな人だったから、どうしても喜ばせたかった。
どうしたらいいんだろう、俺がいなくなったらその人が楽になれるのかな、って考えたんだ。
旧校舎はその時から立ち入り禁止で背も高かったから飛ぶには丁度よかった。
それで父さんを解放してあげて楽になろうって思って。
そこに立ってた。
今だったら多分無理だ。でもその時の俺は柵の向こう側にいても何も感じなかった。
(案外怖くないんだな)
一歩踏み出せば死ぬというのに呑気だと自分でも思う。
(……空が綺麗だ)
人が一人死のうとしているというのに、その日の空はここ数ヶ月で一番鮮やかな青をしていて、俺が死んでも世界は何も変わらないんだと考えたりして。
(もういいか)
その日俺は飛ぼうとした。
「結斗ッ!」
重心を前に倒そうとして誰かの声で押し止まった。それは知ってる声だったから思わず振り向いてしまう。
「何やってんだよ!」
親友が泣きそうな顔で俺の方を見ていた。なんでそんな顔するんだろう、と俺は不思議に思った。
「…………」
「……なあ、変なこと考えてんだろ?結斗、ちょっと話そう。とりあえずこっち側来いよ」
「………」
「頼むよ……」
俺はそこから動かなかった。その代わりに振り向いて問い掛ける。
「なんでここにいるの」
「……お前の様子が変だったから」
「ついてきたの」
「……ごめん」
智仁はバツが悪そうに言った。
「見ない方がいいよ。早く帰りな」
「わかった。一緒に帰ろう」
「俺は父さんを幸せにしなきゃいけないからかえれないよ」
「帰れるよ」
「かえれないよ」
その日は遺書を部屋に置いて来ていた。帰るつもりはなかった。
「俺がいなくならないと父さん、幸せになれないから。それにもう、俺も楽になりたいんだ」
俺も疲れていた。顔色を伺って毎日過ごすのも、暴力に耐えるのも、自分を責めるのも何もかも全部やめて楽になりたかった。
「他に方法はあるよ。お前が死ななくてもみんな幸せになれる方法はある」
「ないよ」
「あるよ」
「じゃあたとえば」
智仁は息を詰まらせて何も答えなかった。
その時の俺たちはまだ子供で、世界を知らなかった。
学校と家しか知らない子供に解決策なんて出るわけない。
虐待や暴力は当事者の俺でさえも遠いものだと感じていたのだから、普通の子供の代表である智仁に何か出せるわけがない。そこまでわかってて俺は言った。
ここで何も出なければわかった様な口を聞いた罰として目の前で飛び降りるつもりだった。
「……王子様」
「え?」
「おとぎ話の王子様はお姫様のことハッピーエンドに導いてくれるだろ?それみたいにあと三年もすればきっと王子様が結斗のこと助けてくれるから!両方とも幸せになれる方法ちゃんと探すから!だからそれまで待ってくれよ……っ!」
昔見た王子様の姿が目に浮かんだ。
凛とした声を板の上に響かせる黒い髪の王子様。
彼が迎えに来て俺を幸せにしてくれるのなら、身を呈して暴力から守ってくれるのなら、父さんを救ってくれるのなら。
三年くらいは待っても良い気がした。
「……期待してる」
智仁を信じているわけじゃない。
もしあの智仁の言う王子様が来なかったら。
その時は潔く死のう。
俺はそうしてこっち側に帰って来た。
『……と、この時の奇行に尾ひれがついて俺は自殺した女子生徒になったのである!』
「お前かよ」
まさか俺が飛び降りようとしていた姿を他の生徒が見ているとは思わなかったのだ。
その時の俺は男にしては髪の毛が長く、制服のスラックスに目を瞑れば一見女の子に見えなくもなかったから女子生徒に間違えられるのも無理はない。
それに、その後一時期不登校になり、次に登校したときにはイメチェンしていたから名実ともにあの女の子は消えてしまったのだ。死んだと噂されても仕方がない。
「……と言うかさすがに近衛くんに罪悪感が湧くな」
『何で?』
「いやだってその王子様って……」
『結局王子様にはなってくれなかったね智仁は』
「気づいてたのか。ってか気づいててこれか」
『でもどちらにしろアイツを俺の王子様にする気は無かったよ。父さんは何するか分からないから智仁だけは近づけたくない』
智仁は助けを求めれば俺の王子様になってくれるのだろう。
求めていたハッピーエンドは難しいにせよ、きっと俺をあの家から連れ出してくれて、愛して、護ってくれる。
だって智仁は俺を失うのを怖がっているから。
誰だって身近な人間を失うのは怖い。それが「あり得る話」なら尚更だ。そしてそれは俺も同じだ。
「……あのさ、結斗はどうしたい?家のこと。お父さん居なくなればいいって思ってる?」
『どうだろ』
『父さんが父さんじゃなきゃ幸せだったかもしれないけど、それでも父さんが父さんでよかったよ』
「どうして?」
『いやな思い出だけじゃ無いから。だから手を差し出されても振り払っちゃう。だったら最初から助けなんて求めるなって話だよね。わかるよ。でもね、俺はハッピーエンドがいいから俺も父さんも幸せなのがいいよ』
そうだ。二人が幸せなのがいい。それ以外はいらない。
「甘いよ。そんなことができるなら世界中から虐待がなくなるはずだ。君たちに必要なのは臨床心理士のカウンセリングだよ 。スケープゴートの王子様じゃない」
『それができたら苦労しない』
俺はヘラヘラと笑ってスマートフォンを見せつけた。多分、酷い顔をしていたと思う。
『王子様が父さんから俺を助けるんだ。王子様の説得で父さんはまともになってちゃんとした親子に戻るんだ』
シンデレラが王子様に見初められて変われたように。
シンデレラコンプレックス。立っているだけで王子様が助けてくれる様な、そういうお話を俺は夢見ていた。
『だって全部他人に任せて楽になりたい。俺は傷つきたくない。それって願っちゃいけないこと?』
「普通だよ。でも現実はそれをゆるさない。酷い話だけど」
王子は机に頰杖をついて俺の目を見るようにした。
「だから結斗は自分で立たなきゃいけない」
『無理だ。そんな勇気はない。幻覚にすらビビってるやつが向かい合えるわけない』
「出来るよ。それに声だって治る」
『根拠は』
「僕は魔法使いだから」
『なにそれ』
「魔法使いは主人公の手助けをする生き物だ。それで、その魔法使いの僕が協力してるんだから絶対本番までには間に合う。それじゃダメ?」
シンデレラの魔法使いは彼女に幸せになるきっかけをくれた。
それと同じように彼が助けてくれるのなら。
『期待していいの』
「期待じゃなくて信じてよ」
そう言うと、王子は俺を安心させるように撫でて笑った。
『ありがとう』
俺はその暖かさに涙が出そうになったけれど、結局涙は出なかった。
多分、枯れてしまったんだと思う。
それでも俺にとって王子のその手は救いで、魔法みたいに心の暗い部分を溶かしてくれた。




