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金田一(一)

 少年が拘留されてから、一か月が過ぎた。

 窓の外には、いつもと変わらぬ日常の風景が広がっている。

 それにもかかわらず、少年のいる場所だけは、まるで時間そのものが足を止めたかのように、沈黙に包まれていた。

 少年Aこと金田一七史の母親はテロリストだった。

 公安警察は、首相および警察庁長官の暗殺計画、さらには庁舎爆破の容疑を彼女にかけている。捜査官たちのあいだでは、半ば冗談、半ば畏怖を込めて、彼女は「和製サラ・コナー」と呼ばれていた。

 彼女が所有していた倉庫やロッカーからは、銃器、弾薬、火薬、偽造パスポートが発見された。

 七史の母親は元公安捜査官だった。中東・アフリカ地域や北米地域におけるテロ組織の情報収集と、必要であれば、要人警護や施設警備のアドバイザー、さらには国内の過激派組織と繋がりのある外国人の逮捕や殺害をも行っていた。 

 警視庁公安部の中でも「チヨダ」あるいは「ゼロ」と呼ばれる部署は、存在しない組織であると有名である。しかし、かつて「サクラ」と呼ばれた組織の存在が暴露されたことで、サクラの後継組織である「チヨダ」と「ゼロ」も一般には「存在しない部署」とされながらも、その名は広く認知されるようになった。

 だからこそ公安部は「名前のない部署」を設立するようになった。存在しない部署なのだから、誰も認知せず、暴露されたとしても警察組織や政府は一切関与していない。

 その組織の中で、トップに君臨していたのが七史の母親であった。彼女は「名前のない部署」の係長を務め、チュニジアでの銃乱射事件、アルジェリアの人質事件、ダッカ邦人襲撃事件における容疑者の捜査と逮捕にも関わっている。

 だがある日を境に、公安部を辞職した。

 理由は明らかにされていない。

 前夫とは死別したとされており、彼との間には二人の子どもがいた。それは、七史と彼の妹の八子(やこ)であった。

 後に再婚した金田一丁助は、七史の目から見れば、どうしようもなく自堕落な男だった。前妻との子どもに関心を示すこともなく、連れ子である七史たちの世話をした記憶もない。酒と煙草は日常で、ふらりと姿を消したかと思えば、何事もなかったかのように戻ってくる。そんな生活を繰り返していた。

 七史も八子も、そして丁助の実子である五美(いずみ)でさえ、いつしか彼の存在を忘れたかのように暮らしていた。

 五美は年齢も離れており、七史たちに特別な愛着を抱くこともなく、就職を機に早々に家を出ていった。

 七史にとって、家族とは八子と二人で成り立つものだった。

 海外派遣の多い母親と風来坊の父親がもたらしたネグレクトは、七史に、同年代の子どもたちよりも早い成熟を強いた。

 だが、彼にとって本当に不幸だったのは、その環境が、まだ「まし」だったという点である。

 兵庫県警の警視正を務めていた母方の祖父が自ら命を絶ち、祖母もまた、過労の末に病に倒れて世を去った。その一連の出来事を境に、母親の様子は明らかに変わった。怒りと悲しみを胸の奥に押し込み、まるで何かに追われるように、彼女は七史を連れて家を出た。八子は丁助のもとに残され、やがて離婚が成立した。


 それでも母は旧姓の黒川ではなく、金田一を名乗り続けた。丁助に対する愛情があったのか、それともテロリストになると誓った以上、父親の姓を名乗ることに抵抗があったのか。七史には、どちらとも判断がつかなかった。

 その後の生活は、穏やかなものとは程遠かった。

 母親は、公安警察時代に受けた数々の訓練やプログラムを、息子にそのまま課した。それは各国の特殊部隊の訓練と比べても、なお過酷な内容だった。サバイバル技術に、潜水、近接格闘、銃火器の取り扱い、複数言語の習得、スパイ、尋問術に拷問術。それらは七史の精神と肉体を、容赦なく限界まで追い込んだ。彼の特徴であった黒髪は、年齢にそぐわぬほど白くなっていった。

 母親は七史を連れ、海外を転々とした。

 あるときはエジプトのスラム街に置き去りにされ、現地の小規模なギャング集団を支援するため、敵対組織の幹部を拉致する役を担わされたこともある。

 また別の土地では、ヨーロッパの紛争地域で少年兵に紛れ、戦闘に参加し、敵司令官の暗殺に関与した。

 どの国でも、未成年は都合のよい存在だった。賃金は安く、疑われにくく、思想教育も容易い。真っ白なキャンバスに色を塗るように、役割を与えられる。

 七史もまた、アジアのどこかの国で親に捨てられた子どもを演じながら、母親から与えられた任務を一つずつこなしていった。そこに疑問を挟む余地はなかった。生き延びることと、命じられたことを遂行することが、彼にとっては同義だったからである。 


 ある日、イエメンの分離独立勢力・フーシ派拠点の掃討に協力したことがあった。

 その現場で彼が遭遇したのは、武装した少年兵たちだった。彼らは、暫定政府やサウジアラビアに対する憎悪と恐怖を抱き、捕まれば無惨に殺されると信じ込まされていた。湾岸訛りのアラビア語で「イスラムに勝利を」と叫びながら、彼らは次々と自らを犠牲にしていった。

 七史は不意に、日本に残された八子のことを思い出した。

 今も元気にしているか心配になった。

 そう考えた途端、何かに突き動かされるように暫定政府軍の前線基地を抜け出して、フーシ派の勢力圏に潜入した。

 ほどなくして、七史は「サマーキャンプ」あるいは「カルチャーセンター」と呼ばれる施設の存在を突き止めた。表向きは文化講習を装い、実際には十歳から十七歳までの子どもたちを集め、軍事訓練と思想教育を施す場所だった。地域によっては、家族への危害をちらつかせ、半ば強制的に参加させることもあった。

 施設では銃火器の取り扱いを学び、過酷な訓練を受ける少年たちの姿があった。

 七史はキャンプを襲撃し、フーシ派指令教官を殺害した。

「出ろ、ここから」

 拙いアラビア語で、彼はそう呼びかけた。

 子どもたちは互いに顔を見合わせ、やがて少しずつ、外へと出ていく。外には、七史が用意していたトラックが待っていた。暫定政府軍の前線基地まで、彼らを運ぶためのものだった。

 彼は多くの子どもを解放したが、その場に残った者もいた。

「この裏切り者がっ!」

 年長の少年がカラシニコフを手にし、逃げようとする子どもへ向けた。七史は咄嗟にホルスターに仕舞っていた銃を手に取り、発砲した。銃を手にしようとした少年の肩を弾丸が貫いた。同時に、他の年上の者たちがマチェットや斧を手にして七史に襲い掛かった。七史は彼らをナイフで制圧したが、同時に、自らの未来の姿を垣間見た気がした。

 彼らは長年にわたり洗脳教育を受け、戦場を生き延びてきた子どもたちだった。彼らは口々に「アメリカに死を、イスラエルに死を。ユダヤ人に死を」と叫ぶ。サマーキャンプを出る頃には、聖戦のために命を捧げようと考えるようになる。

 サマーキャンプでの年長の少年たちの役目は、新たにやって来た子どもたちの監視と教育である。彼らは訓練中の子どもが脱走しないように見張り、時にはプレッシャーを与えるために暴言や殴打を放つこともあるという。

 地面に押さえつけられた彼らを見下ろしながら、七史はその瞳に宿る憎しみを見た。そのとき、一人の少年が組み立てられた銃を手に取り、年長者たちへ向けた。引き金に指がかかる寸前、七史は少年を取り押さえた。少年は、親友の名を叫びながら、「復讐だ」と叫び続けた。

 七史は少年を抱え、トラックへ押し込み、年長者たちをその場に残したまま、キャンプを後にした。

 七史は少年たちの家族に感謝されたが、彼らを取り巻く環境が変わることはない。一部はサウジアラビアなどに難民として退避するだろうが、故郷に帰れず、貧困や差別に苦しむことになるだろう。そうなれば、標的になるのはやはり子どもたちなのだ。

 自分は正しかったのだろうか。

 ただ彼らの苦しみを先延ばしにしただけではないだろうかと自問自答した。

 当然ながら、キャンプの襲撃は七史の果たすべき任務でなかったため、母親から咎められた。


 日本に帰国して、久々に母親に会った。彼女は丁助のもとから八子を引き取り、山中の隠れ家へ連れてきていた。

「八子をどうするつもり?」

 七史が問いかけると、母親は事もなげに答えた。

「訓練するのよ」

 その時、七史は母親を殺すことを決意したのだった。

 同時期、九州地方で暴力団関係者が銃器密輸の容疑で逮捕された。捜査を進める中で、密輸ルートの開拓資金を提供していた関係者として、七史の母親の名が浮上する。

 公安警察は、彼女をマークしていた。

 やがて、公安の指揮のもと、七史たちのいる山荘を、機動隊が包囲した。

 母親は、その動きを冷静に観察しながら、地下室に保管していた爆薬を運び出していた。機動隊が突入する瞬間に、山荘ごと吹き飛ばすつもりだった。

 相手が元公安捜査官であり、しかも重武装している可能性が高いことから、警察も軽々しく踏み込むことはできなかった。突入は慎重に、時間をかけて行われることになった。

 母親と警察の睨み合いは、一週間に及んだ。

 立てこもり犯が元公安捜査官であるという事情から、厳重な報道規制が敷かれた。警察機関の内部に関わる不祥事であることに加え、わずかな報道であっても、警察の行動を読まれる危険があったからである。

 そして七日目の夜。

 山荘の内部で、乾いた一発の銃声が響いた。

 事態を重く見た警察は機動隊を突入させた。

 隊員たちが踏み込んだリビングの中央には、頭部から血を流し、動かなくなった母親の姿があった。その傍らには、硝煙をなお燻らせた拳銃を握りしめたまま立ち尽くす七史がいた。

 隊員は銃を持つ七史を制圧し、その場で身柄を確保した。七史は無抵抗だった。

 その日、速報で立てこもりの発生と被疑者の確保が流れた。

 そして容疑者は「少年A」とされた。つまり、金田一七史こそが、母親と妹を人質に山荘に立てこもった犯人として報道されたのである。

 これは元公安捜査官であった母親のテロ計画を隠蔽しようとした警察組織が描いたシナリオだった。

 機動隊を即座に撤収させ、刑事警察がやって来る前に、公安はテロ計画の関連書類と銃器と爆薬のほとんどを押収した。

 そのため、母親の罪は隠蔽されたのであった。

 七史には殺人未遂が適用される。

 少年法によって七史の情報は規制が敷かれた。七史には前科がなく、立てこもりも計画性がなかった。母親は頭を撃たれ、意識不明の重体であるが、結果的に命に別状はなかった。

 日常的に虐待を受けていたことが明らかになると、情状酌量の余地があるとして、懲役三年、執行猶予四年が言い渡された。

 だが七史の過酷な人生はまだ始まったばかりであった。


 八子は義姉の五夢が引き取った。五夢は七史にも同じ家で暮らすよう勧めたが、彼は丁重にそれを断った。「それならせめて」と五夢が差し出したのは、丁助が義祖父から譲り受けたという不動産の話だった。税金と管理費だけは支払われているものの、長らく使われていない建物である。場所は銀座。かつては高級アパートメントとして名を知られていたという。

 七史は、そこに住むようになった。

 再開発が進み、現代的なビルが林立する街並みの中で、その建物はひっそりと佇んでいる。茶色い煉瓦造りの外観は、ガラス張りの高層ビル群の中で、明らかに異質だった。時代から取り残されたというより、意図的に距離を保っているようにも見える。

 エントランスに入れば時間そのものが止まったかのように感じられる空間が広がっている。

 白く塗られた天井はところどころくすんでおり、かつての清潔さを忘れているようだった。照明は十分に設えられているはずなのに、空間の端へ進むにつれ、光は力を失い、床のタイルには深い影が落ちていた。

 壁を覆う褐色のタイルは、何十年も手を加えられていないように見える。指でなぞれば、角の丸まりや微かな欠けが、ここを通り過ぎていった無数の住人の気配を語り出しそうだった。右へ行けば郵便受けが整然と並んでおり、色あせたチラシ広告や手書きの案内が無遠慮に貼られていた。

 エントランスのさらに奥には、日本で最初に設置されたとされるエレベーターが、いまなお現役のまま残されていた。見上げると、半ば壁に埋め込まれるようにして、金色だったはずの半円形の表示盤が取り付けられている。塗装は剥がれ、色も褪せていたが、その輪郭だけははっきりと主張していた。数字は一から七まである。外観は八階建てであるため、おそらく七階から階段を上がらなければならない。エレベーターは手動開閉式であり、人間に働くよう促している。

 暗い木目調の外扉の内側に、折りたたむようにして蛇腹状の黄色い柵が覗いており、利用者に注意を呼び掛けている。

 七史はエレベーターへと入り、外扉と柵を閉めると、七階へと向かった。

 七階にたどり着くと、廊下は細く、天井は低いように感じられた。床のコンクリートは人が通り続けたからか剥げて、水を零したような外観になっている。右手には茶色や水色の木製の扉が並んでいる。鍵穴の周囲だけが、人の指に触れられ続けた証のようにわずかに明るい。

 左手には階段が口を開けている。上へ続くその暗がりからは、昼でも夜でも変わらない、ひんやりとした空気が上ってくる。階段の手すりは重く、必要以上に頑丈である。

 丁助の所有する物件は八階にある。そのため、七史は目の前の階段を上がっていった。階段の踊り場を通り過ぎると扉は二つあった。いずれも階下の木製の扉と大差がない。踊り場から手前の扉には、「金田一調査事務所」と書かれた古ぼけた表札が掲げられていた。突き当りの扉は、「金田一丁助」という表札があった。

 踊り場から右側には今では立ち入り禁止のテラスと共同トイレがあった。

 まず足を踏み入れたのは、「金田一調査事務所」と表札のかかった部屋だった。中は想像以上に広い、ワンルームの空間である。扉を開けて最初に目に入るのは、大きな窓と、その前に置かれた応接用のソファ、そして長いテーブルだった。窓からは、表通りと反対側のビルが見える。両端にカーテンが取り付けられていて、ひっぱると窓を覆うことができた。

 玄関から手前には、簡易的なキッチンが設えられていた。古びたガスコンロとグリル、オーブンレンジ。ベースキャビネットとシンク、作業用のカウンター。その上にはレンジフードと収納棚があり、玄関脇には二ドアの冷蔵庫が鎮座している。必要なものは一通り揃っているが、そこに生活感は乏しい。

 キッチンの奥には食器棚があり、その隣には書庫があった。食器棚には皿やマグカップ、紙コップ、ティーセットが雑然と置かれている。使われている形跡はあるが、整えられた印象はない。書庫には、色褪せかけた青色のバインダーが整然と並んでいた。

 窓際には事務机と椅子が置かれ、机の上には数枚の書類が無造作に散らばっている。おそらく、調査資料を途中のまま放置したのだろう。机の足元には、小型のシュレッダーが置かれていた。

 ワンルームだけあって、内装はシンプルだった。

 部屋を出ると、突き当たりにある「金田一丁助」と書かれた表札の扉へ向かった。

 こちらは二LDKの住居である。

 玄関を入ると、右手にやや広めの廊下が延びていた。脇にはシューズボックスがあり、靴を脱いで上がると、収納棚がいくつか並んでいる。改装されたのだろうか、トイレは現代的な造りだった。さらに洗面台、洗濯機と乾燥機が並び、その奥には浴室がある。

 廊下の突き当たりの扉を開けると、そこはリビングダイニングだった。

 ベージュのソファ、ガラス張りの丸いテーブル、そして敷かれたラグ。壁際にはテレビが置かれている。左手にはカウンターキッチンがあり、そこには事務所とは異なる三ドアの冷蔵庫が据えられていた。

 さらに右手には扉があり、それを開けると、思いのほか広々とした空間が現れた。書斎として使われているのだろう。本棚がいくつも並び、その中には和書と洋書が混在している。小説、学術書、専門書など分野に統一感はなく、だが量だけは十分で、ちょっとした私設図書館のようだった。

 奥には三つの扉が並んでいる。一つはトイレ、残る二つはベッドルームだった。それぞれの部屋に収納棚が備え付けられており、より広い方の部屋には、ウォークインクローゼットまで設えられている。

 住まいとして見れば、過不足はない。


 七史の生活は、快適と呼ぶほどではなかったが、決して窮屈でもなかった。

 誰も自分のことを殺人未遂犯だということを知らないようで、報道記者や雑誌記者が個人情報保護を侵害してやって来るようなこともなかった。

 そんな生活が、ひと月ほど続いた頃だった。スーツを身に纏った若い女が、事務所を訪ねに来た。彼女は自らを「東郷」と名乗り、役職を「監視官」と称していた。警察関係者であるらしく、どうやら七史の行動を、定期的に確認する立場にあるらしい。同じ公務員でも、保護司や保護観察官ではなさそうだった。

 スーツは明らかに上質で、靴も念入りに磨かれている。一方で、目の下には隠しきれない隈があり、化粧の気配はない。髪は短く整えられているが、装いに余裕は感じられなかった。

 彼女の視線は、非行少年の生活態度を点検するものではない。むしろ、七史の奥底にある「何か」を測ろうとしているように見えた。

「君は中東や西南アジア地域のことをどれくらい知っている?」

 銀座に定住して半年が過ぎたある日、東郷は不意に、こんな問いを投げかけた。

「アラビア語とパシュトー語は知ってます。ペルシア語は基本的なことしか」

 七史はそう答え、母親に連れられてイエメンやアルジェリア、UAE、バーレーンを転々とした記憶を簡単に語った。日本の十代といえば、学校に行き、あるいは働き始める年齢である。だがどの家庭でも、中東・アフリカの紛争地帯で戦闘に参加する子どもなどいないだろう。

「……そうか」

 東郷はソファに腰を下ろし、七史の淹れたコーヒーを口に運んだ。七史もまた、マグカップを手に、熱い液体を少しずつ飲んでいる。部屋の中は焙煎の香りが漂っていたが、東郷の鼻腔は目の前の少年に気を取られて中々刺激されなかった。

 しばらくの沈黙の後、東郷はカップを静かにテーブルへ置いた。黒い水面がわずかに揺れる。

「ならば、この国のためにその能力を使うことはできるか?」

 七史は手を止めた。

「……どういう意味ですか?」

「君の力を貸してほしいんだ」

 東郷の瞳はとても真剣なものだった。

 七史は東郷の表情を測りかねていた。

「詳しいことを聞かないと何とも言えません。たとえば、あなたの正体とか」

 七史は立ち上がり、キッチン台へと移動した。そして、マグカップの残りを流しに捨てた。

「正体?」

 七史は振り返らずに続ける。

「あまり擦り切れてない靴を見れば、非行少年を訪問して回る保護司や保護観察官でもなさそうですし。どこかで車に乗せてもらってから、ここにやって来ているんじゃないですか? それにスーツはブランド品で、毎日別のものを着てますから、給料は良いはずです。でも、かなり忙しそうな様子ですよね。そうなると、公務員の中でも部下がいるくらいの地位ではあるけども、トップではない」

 東郷は、言葉を失ったように七史を見つめていた。彼女は、頭の中を整理するために、ソファに深く座り込んで、次の言葉を考える。

「それは……お母さんから教わったの?」

 七史は静かに首を振った。

「いいえ。生まれつき、なぜかわかってしまうんですよね」

「わかってしまう?」

「たとえば、東郷さんは福島の出身ですよね。多分、小学校か中学までは福島にいたんじゃないですか?」 

 東郷の表情が、はっきりと変わった。

「どうしてそれを?」

「アクセントですよ。福島の人は無アクセントといって、音の高低を気にしないで平坦にしゃべることがあるんです。アクセントが共通語と違うんです。東郷さんの話し方にも、福島の平板調がかなり出てるんですよ」

 七史は淡々と答えた。

 東郷は、ゆっくりと息を吐いた。

 七史の推理通り、確かに彼女は福島県の出身で、小学校を卒業すると同時に、父親の仕事の都合で東京へ移っている。元々、自分は標準語に近い言葉遣いであると自負していたが、両親の影響を受けて、アクセントまでは直せなかった。

「すごいな……他には?」

「手の震えだけで、飲酒しているのか、パーキンソン病なのか、薬物依存なのかも推理できますよ」

 それは誇張ではなかった。

 七史には、生まれつき異様なほど鋭い観察力と洞察眼が備わっていた。

「この能力のせいで、周りには不気味がられましたけどね」

 七史は視線を落として、無表情にそう言った。東郷の目には、その様子がどこか寂しそうな幼い子どものように映った。

 七史は、意図せずして相手が隠していることや、自分でも気づいていなかった事実を言い当ててしまうことがあった。幼い頃は友人たちから「占い師」だの「超能力者」だのと囃し立てられたが、その親たちの反応は違った。彼の存在は、後ろめたいものを抱えた大人にとって、静かな脅威だったに違いない。

 東郷は、俯いたままの七史をじっと見つめていた。やがて、決意したように口を開く。

「助けてほしい人がいる」

 東郷は、カバンの中から数枚の写真を取り出し、テーブルの上に一枚ずつ並べる。

 そこには中東系の顔立ちの女性と、三十代ほどのアジア人女性が一人写っていた。

「これは、アフガニスタンに支部を置いているピースネットワーク・ジャパンの職員の写真だ。この二人はそこの職員で、日本人の方は外務省の職員でもある」

 アジア人女性の名前は嘉村菫(かむらすみれ)という。宮城県の出身で就職活動中に東京にいた際、東日本大震災に遭遇した。実家は岩手の津波範囲にあたり、家屋は流されていった。両親は無事だったが、実家に帰省していた兄が死んだという。その影響で、外務省に入省した際は、邦人保護の政策に携わり、安全対策セミナーや防災業務計画、海外緊急展開チームにも関わった。

 ピースネットワーク・ジャパンは、表向きには外務省管轄の外郭団体として知られている。だが、その実態は、人道支援を装った情報収集機関でもあった。

 菫は、国際情報統括官組織の中でも、南西アジア地域を担当する国際情報官室に所属していた。表立って名が出ることはないが、外交の裏側で必要とされる情報を集め、整理し、然るべき場所へと送る役割を担う部署である。

 大学時代、彼女はイスラム文化と南西アジアの国際政治を専攻し、加えてパシュトー語を習得していた。その組み合わせは稀であり、貴重な能力であった。

「現在、彼女はピースネットワーク・ジャパンの人道支援の一環として、アフガニスタンに滞在している。彼女は人道支援団体と在アフガニスタン日本国大使館の連絡役でもある。アフガニスタンにいる日系団体や企業の多くが彼女の元を訪れるんだ」

「機密情報などに触れる機会も多そうですね」

 七史は何の気なしに言った。

「ええ表向きは人道支援団体だけれど、彼女一人の存在で、ピースネットワーク・ジャパンは南西アジア地域における、日本の中核的な情報拠点になっている」

 だが、状況は刻一刻と悪化していた。

 タリバンによるカブールへの進軍を受け、日本政府は、大使館とピースネットワーク・ジャパンのアフガン支部の退避を検討しているという。とはいえ、各国の分析にはばらつきがあり、攻勢の速度や到達時期を正確に見極めることは困難だった。

「問題は現地協力者の退避と難民申請、それに人道支援団体に所属する日本人がまだ何人も残っているため、その退避支援があることよ。そのため、政府はまだ大使館職員を退避させる決定を下せていないわ」

「退避する際の基準は?」

「内閣官房の危機管理対応室の方針では、タリバンがカブールに侵攻した時点で、自衛隊の輸送機を邦人退避のためにカブール国際空港に派遣する予定だね」

 七史は、そこに潜む矛盾をすぐに察した。

「現地協力者の輸送は?」

「外国人輸送は現行法では規定されていないから不可能だね」

 この時点で、日本の退避計画には現地の大使館や独立行政法人で働く外国人は盛り込まれていなかった。結果論になるが、アメリカの要請で現地の政府関係者を超法規的措置で輸送する反面、日本に協力した外国人の退避には自衛隊法の規定によって輸送することはできない状態であった。

「では、こっちの女の人は助けられないんじゃないですか?」

 彼は中東系の女性の写真を指差した。菫の横で少し恥ずかしそうな表情でカメラを見つめている様子がとても可愛らしかった。

「だから工作員が必要なんだよ」

 東郷がカバンの中から書類を取り出し、七史に突き出した。

 タイトルは「要保護外国人に関する超法規的措置計画」と題されていた。内容は内閣官房内閣情報調査室、防衛省情報本部、警視庁警備局、法務省公安調査庁、外務省情報統括官組織、警察庁警備局及び警視庁公安部、さらには独立行政法人やその他の外郭団体など、日本のインテリジェンス活動において特定機密情報を取り扱った現地外国人を監視または保護を目的とした超法規的措置に関する行動計画であった。これは現行法や情報公開、民主主義の観点から、特定外国人の保護のため、超法規的措置を取る場合、特定外国人の基準を国会及び国民に公開しなければならない問題を取り上げていた。

 七史の目の前に置かれた計画書は、官僚的な言葉で装われていたが、その本質は明白だった。

 特定機密情報に触れた一部の外国人の保護が必要であるが、法的な問題で、保護の根拠説明のためには、その人物が日本の機密情報に接触したことに触れなければならない。

「確かに、これだとその外国人は狙われることになりますね」

 特定外国人は、いわば日本に関する機密情報を知っているということだ。

「この計画に携わるのは、内閣総理大臣、内閣官房の中でも情報調査室に関わる官房長官、情報官、情報調査室室長、その他は内調の職員ですら知らない」

「僕が知っても問題ないんですか?」

「少年法で執行猶予中の未成年の話を誰が信じると思う?」

 東郷はにやりと笑った。

 当然だろう―――。

 七史は憤慨することもなく、冷静に資料に目を通した。

 計画では各国のインテリジェンス部門では言語能力や分析能力の専門性の拡張を目的に、現地協力者にも情報収集や工作・宣伝活動に参加させる、いわゆる「諜報外注(外国資産やアウトソース・ヒューミントなどとも呼ばれている)」を行う傾向があることを指摘していた。アフガニスタンにおいてタリバンが現地協力者を殺害する点も、外国勢力による工作活動を行われる恐れがあるためである。各国は、現地協力者を「使い捨てのセンサー」として運用することができるようになった。

 他方、近年の諜報活動やそれに伴う作戦は非公式の状態である。諜報外注における現地人への資金提供や秘密工作も、非公式に行われている。

 スノーデン事件によって、各国の秘密工作の一部が暴露されるようになったことが、この非公式作戦の乱発を行わせるきっかけとなった。二〇一三年以降、各国政府は「公的記録を残す」ことを警戒するようになった。そして書類の削減、口頭の命令体型、秘密資金の確保、外部委託によるネットワークの複雑化を加速させ、「否定可能な作戦を行うことができる時代」に突入した。

 結果として、各国諜報機関は、正規職員ではなく外部協力者を利用し、必要であれば秘密裏に暗殺や処理が可能な人員を確保するようになった。

 スノーデン事件は、各国の諜報機関の作戦を不可視化させた。

 地下に潜った諜報機関は、国際条約すらも無視した非合法かつ非人道的な作戦を実行するようになった。情報公開や知る権利は侵害され、諜報機関は透明性の確保をやめ、作戦計画の多くが認知されなくなった。

 日本政府はアメリカやイギリスが呼称している「シャドウウォー」に倣い、この秘密諜報活動を「影の戦争」と呼称した。これは正式な戦争ではないため、議会の承認や国連の決議も必要としない。だがその実態は、無人機による標的の殺害、軍事施設の破壊工作、事故に見せかけたインフラの破壊、反政府組織への資金提供や人的要員の確保、偽情報による世論操作、現地協力者の保護あるいは暗殺などが含まれているという。

 日本においても秘密裏にこの戦争に関する準備と制度を整えなければならないと指摘している。

 七史の前に出された計画書は、日本が「影の戦争」に参戦する断片的な資料であった。

「現在最優先でアフガニスタンから退避させなければならないのは、嘉村菫だ」

 東郷はスーツ姿の女性が写った証明写真を指差した。資料では三十代とあるが、写真の中の彼女は穏やかでどこか若々しい印象だった。

「表向きは外務省から出向したピースネットワーク・ジャパンの職員だが、外務省の情報当局の人間だ。日本政府がこれまでアフガニスタンで行ってきた非公式外交の情報を握っている」

「非公式外交ね」

 七史は写真から視線を外さず、それ以上は尋ねなかった。

「あまり知られていないが、日本政府はアフガンの旧軍閥とコネクションがある。なにせ大規模な武装解除計画を実行したのは日本だったからな。他にも麻薬密売拠点を治安当局と撲滅したこともある。それらの多くは、タリバンの資金源だった。彼らが日本を快く思うはずがない」

 資料には、アフガニスタンの山岳地帯にひっそりと佇む麻薬精製所の全景や撲滅後に治安部隊が男たちを跪かせている姿が写っていた。

「タリバンは中国に接近して、日本の人道支援計画を潰していった。先の日本人医師の殺害も、タリバンの反日的な派閥の影響だ」

 東郷は別の写真を取り上げ、机の中央に置いた。遠くから盗撮されたらしい、中東系の若い男がスマートフォンを片手にどこかに連絡している姿が写し出されていた。

「この男は、ハッサンといってタリバンの青年幹部の一人だ。かなり右翼的で、評議会の中でも異質な存在として知られている。この男はパキスタンとの国境沿いを拠点に、アメリカのCIA基地を探している。パキスタンのタリバン運動も支援しているが、パキスタン政府は黙認している」

「この男が彼女たちを狙っていると?」

「嘉村菫がターゲットになっているかは、まだ断定できない。ただ、彼女を混乱に乗じて拉致することができれば、タリバンにとって大きなアドバンテージになる」

 東郷は一度、唇を噛んだ。

「一方で、彼女が通訳にしているアーヤ・ポハナというアフガニスタン人は、このハッサンに脅迫されている。ハッサンが、アーヤ・ポハナを脅迫する内容の電話とメールをCIAが傍受したらしい。これがわかったのもつい最近のことだ」

「CIAがタダで情報を提供するわけないですからね」

「その通りだ」

 東郷は苦く頷いた。

「最初は、米軍基地経由で内閣官房に伝えられた。でも、その時点では重要性が理解されていなかった。ところが、嘉村菫が情報統括官組織の職員だと判明した途端、空気が一変した」

「アフガニスタンでの非公式外交の情報を持っていたからですね」

「ああ。内閣調査室や警察庁、自衛隊と違って、外務省の情報部というのは訓練をあまり受けていない連中だ。だから情報保全のプロトコルが甘かったり、捕虜になると尋問や拷問に耐えきれない可能性がある」

 内閣調査室が嘉村菫の重要性を認識できなかったのは、縦割り行政の弊害だった。外務省が必要以上に他の省庁の協力を仰がなかった結果、国家全体を揺るがしかねない事態に陥っている。

 東郷自身、自国の秘密作戦をアメリカから教えられたということに屈辱感を感じていた。

「外国人の超法規的保護措置なら、この女性の保護も嘉村菫と同じように重要ということですね」

 七史はそこでようやくアーヤ・ポハナの写真を取り上げた。

「それだけじゃない。嘉村菫に意図があったのかは不明だが、日本が実行した麻薬撲滅計画や秘密軍事作戦に関連する情報を彼女は握っている」

「具体的には?」

「アクセスコードだ」

 七史は腕を組みながら考えていた。

「何のアクセスコードですか?」

「外務省の雇用する工作員の拠点。そこにあるデータベースの解読コードだ」

 データベースは、外務省が雇用した技術者やプログラマーによって、二重、三重とプロテクトがかけられているという。解読コードは、この中でもデータの暗号化に必要なものであった。

 近年の外務省ではあまり表ざたになっていないが、縦割り行政だけでなく、省庁内の派閥抗争も存在する。戦後GHQの影響を受け、米軍基地やアメリカ経済界とパイプのある親米派官僚と、日中国交正常化以来、中国との交流やチャイナスクールでの外交官の育成などで出来上がった親中派官僚、ソ連崩壊と共に政治・経済で強く結びつく親露派官僚、日本の自主独立を掲げ、どちらの派閥にも属さない独立派官僚である。外務省はどのような国でも諸外国との交流やコネクションが出来上がるため、他国の影響を受けやすいという実態がある。日本においても近隣諸国の影響を受けた官僚たちの派閥抗争が存在するのである。

「この抗争は外務省の情報統括官組織にもあって、嘉村菫と中東・アフリカ地域担当の多くは親米派官僚で占めている。他派閥からすれば、秘密作戦の一つでも出てくれば、失脚させるための攻撃材料になる」

 データベースをわざわざアフガニスタンに置いたのも、他派閥の職員の数を制限し、訪問の記録も容易に取れ、脅威を把握するための措置であった。タリバンの大規模攻勢が始まるまで、拠点のデータベースは国内外の脅威にさらされることはなかった。

「だが、日々の業務に加えて、秘密計画の実行、それらをまとめたデータベースの管理や派閥への報告、全体への報告は、嘉村菫だけでやるわけにはいかなかった。外務省の親米派には、パシュトー語の分析ができる人材が不足していたからだ。嘉村菫は現地人を何人も雇っていたが、アーヤ・ポハナだけには全幅の信頼を寄せていた。秘密保持契約をしたうえで、実際はニュース分析やネット言説の分析と称して、タリバンや米軍の行動に関する情報を分析させていた。アフガンの治安部隊とのコミュニケーションに彼女を連れだしたこともあったらしい」

 七史は資料を読み進めているうちに、前任の統括官組織の人間を確認した。

 名前は久喜耕三という六十代の男性だった。彼がアフガニスタンのピースネットワーク・ジャパンの出向から外務省に戻って来たのが二年前であった。後任に選ばれたのが、嘉村菫であるという。菫は、六年ほど前にピースネットワーク・ジャパンに出向し、情報統括官組織の重鎮である久喜の肝いりとなった。

「この人に話を聞くことはできませんか?」

 七史は東郷に提案した。

「どうして?」

「彼女のことをよく知っている人から聞いた方が彼女をコントロールできるかなと思ったので」

 高校生とは思えない発言に、東郷は唖然とした。

「わ、わかった。そうしよう……」

 七史にとって必要な情報はまだある、と東郷はつぶやいた。

「今回、米軍基地を経由してCIAから情報が提供された。見返りとして、CIAの工作員がアフガニスタンの作戦にアーヤ・ポハナを同行させてほしいというものだ」

「作戦の内容は?」

「高度に機密性の高い作戦のため、現地に向かってから説明するとのことだ」

 七史はしばし考えた。

 アメリカの秘密作戦ということは、多くが非合法的な可能性が高い。その中で、現地協力者とはいえ民間人のアーヤ・ポハナを使う意図は何なのだろうか。

「作戦が非合法で、任務中に僕たちが死んでも日本政府は何も言えませんよね?」

「確かにな」

「アーヤ・ポハナを警護しろということは、嘉村菫は―――」

「外務省側は、内閣調査室に彼女たちの警護を依頼した。自分たちではどうにもならないと考えたのだろう。CIAが嘉村菫の情報を握っているということは、ピースネットワーク・ジャパンを中心とした秘密外交についても掴んでいるということだ。こちらの出方次第では、暴露して内閣を総辞職させることもできるし、中国やロシアの圧力にさらされることもある。つまりこれは協力要請という名の脅迫だ」

 東郷はアメリカ側が日本の秘密外交について何を、どの程度掴んでいるのかは把握できていないという。しかし嘉村菫が監視されており、何人もの現地協力者がいる中で、アーヤ・ポハナと結び付けたということは、この二人が秘密外交の工作員であることを把握しているということだ。

「リスクを避けることはできない。だから君には嘉村菫とアーヤ・ポハナを警護して、アフガニスタンから無事に退避させてほしい」

「タリバンやアメリカ人が彼女たちを殺そうとした場合は?」

「戦闘もやむを得ないだろう。君は彼女たちが雇った警備員や傭兵という位置づけだから、日本国政府とは無関係だ」

「もし彼女たちが死亡した場合は?」

「遺体を回収して日本まで輸送するか、できなければ、タリバンが射殺したように偽装してほしい」

 最悪の可能性だが、想定するに越したことはないだろう。

「ところで―――」

 東郷は首を傾げた。

「君が死んだ場合、我々はどうすればいい?」





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