プロローグ
筆者がアフガニスタンへ赴いたのは、五年前のことだ。
その夜、バーミヤンの場末のバーで飲んでいて、薄暗いテレビの画面に「アメリカとタリバン政権合意履行のため撤退作業を進めている」の速報が流れた。欧米諸国がアフガニスタンに背を向け、あれほど民主主義と正義を振りかざし、二十年間も砂漠の大地を荒らしたにもかかわらず、返って来たのは裏切りと無駄な時間であった。隣で頭を抱えていたアフガニスタン人の友人の嘆息が、今でも耳にこびりついている。
アフガニスタンの都市バーミヤンは、山岳地帯に囲まれた静かな土地である。カブールほど発展はしていないが、人道支援団体の拠点が建ち並ぶ「グリーンゾーン」も存在する。だが、グリーンゾーンだからといって「安全」であるというわけではなく、月に一、二回の散発的なテロ攻撃を受けていた。
現地に十年以上滞在する日本人の人道支援スタッフが言うには、空気が変わったのは二〇一七年から二〇一八年頃であったという。
当時は年間降水量が例年と比較すると少なく、大干ばつに陥っていたという。そのため、貧富の差が拡大していた農村部の生活に大きな影響を及ぼした。
同時期、タリバンによる大規模攻勢やテロ活動が発生し、主要都市は混乱していた。タリバンはカブールの観光施設の占拠や主要都市の市街地戦を展開した。その隙を突いてイスラム国によるカブールへの大規模テロが勃発した。これによって民間人に多数の死傷者が出て、和平交渉を唱える住民が増えたという。住民の抗議デモが頻発したことで、ようやく重い腰を上げたアフガニスタン政府はタリバンとの交渉の末、停戦を実現したのだった。世論の強い後押しによって、長らく行われていなかった選挙も実施した。だが、不正選挙の発生やカンダハールの警察長官の暗殺によって、現在の政府の正当性に疑問符が付く結果となった。
何よりも二〇一七年から一八年にかけてのカブールへの大規模テロは、各国政府庁舎と人道支援団体の縮小を促した。
小規模な団体は資金が続く限り残ったが、スタッフの多い団体は人員と設備投資を縮小した。
だが、周囲のアフガニスタン人はどこか安堵した様子だった。空気も浮ついており、タリバンによってもたらされる何かに希望を抱いた様子の人間もいた。
「投資収益率しか興味がない大統領で良かったぜ」
皮肉交じりにいうアフガニスタン人の言葉が印象的だった。
それから一か月――タリバンの大規模攻勢が始まると、私はいつの間にかカンダハールまでやってきていた。おそらく、生涯でこの国を見る最後の機会になるだろう。そんな根拠のない直感に突き動かされた。
アフガニスタンは当時、アメリカが独断で行った合意を強く非難した。アメリカがもたらした平和に、表向きは安堵していた市民の瞳にも、恐れが宿っていた。だが、アメリカや西側の価値観を「異物」と断じ、憎悪を募らせてきた層にとっては歓呼をもって迎えられた。
彼らは言う――「抑圧してきたのは、テロ国家であるアメリカと西側だ」と。
アフガニスタン治安部隊は、各防衛拠点に重要度を割り振っていた。カンダハールなどの都市は重要拠点であり、対照的に周辺の小都市・集落は切り捨てられた。結果、タリバンは容易に支配地域を拡大し、各地に駐留する治安部隊は広大な国土の中で孤立あるいは敗走を余儀なくされた。
タリバンはこれを「解放」と報道した。
確かに、アフガニスタンの人々にとっては解放だったかもしれない。なぜなら、アメリカのもたらした民主主義は、結局のところアフガニスタンに根付くことはなかったからだ。大統領を擁立し、選挙で候補者を選んでも、投票のための選挙人登録者はアフガニスタン全体の十%程度であった。おまけに大統領がシーア派だったことも相まって、余計に宗教的対立が激化した。擁立された最初の大統領はハザーラ族であり、アフガニスタンの多くを構成するパシュトゥーン人ですらなかった。
パシュトゥーン人の知人に話を聞くと、「欧米諸国は大統領制だか、議院内閣制だかを妄信していて、政治体制に多様性がないと信じ込んでいる。私たちイスラム諸国には派閥による評議会制度があるのに」とぼやいていた。これをアフガニスタンにやって来るヨーロッパやアメリカの人間に説明しても、中々理解されないという。アフガニスタンには複数の軍閥が存在し、彼らが膝を合わせながら長時間にわたって議論をしたうえで、意思決定を行うというものだった。代表者は宗教的指導者(イスラム法学者など)であり、シャリーアに基づいた統治を行うのである。
アフガニスタンは、貧富の差が拡大していた。選挙によって選ばれた政治家たちを中心に、彼らを支持し、協力する者は富める者となった。彼らの多くは西洋の資本主義をアフガニスタンにも導入し、格差拡大に尽力してしまった。アフガニスタンに対する諸外国からの資金は支持者や軍閥を引き留めるために利用され、その資金の流動性というものが汚職と利権という悪循環に陥った。国のために使うのではなく、政治体制の維持のために使われたのだ。
これでは本末転倒だろう。アメリカやヨーロッパは、単に汚職と貧困をアフガニスタンに輸出したに過ぎないのだ。アフガニスタンの国民の多くは農村部の出身であるが、干ばつによる不作が原因で、家計は苦しかった。一方で、都市部に住まう一部の人間だけが「外国支援」を享受するシステムができあがった。
その期間、およそ二十年間である。二十年もの間、「支援」があったにもかかわらず、アフガニスタンは「貧困国」のままであった。いや、タリバン時代から貧困国であったが、欧米が価値観と資金を輸出したところで、むしろ格差が悪化したのである。
タリバン兵の多くが農村部の青年たちの「志願」で成立したのは、宗教的な理由ではない。彼らは貧しかったためにタリバンに入るしかなかったのである。
そしてアフガニスタンの治安部隊の中にも、そんな農村部の窮状を知る人々がいた。だからこそ、タリバンが政権を獲得しようとしていても、止めることができなかった。なぜなら、原因は欧化政策による貧富の格差だからだ。彼らは西欧によって価値観や宗教観だけでなく、同じ民族や宗教を持つアフガニスタン人同士での殺し合いをも押し付けられようとしていた。
米軍がもたらす多くの負担も、アフガニスタンの人々にとっては苦痛だったかもしれない。タリバンを匿っているという理由で、無実の家もそうでない家も狙われ、時に拉致監禁までされる。下手をすれば兵士によって殺害されるかもしれない。タリバンの勢力圏であるというだけで、家畜を殺されたり、爆撃を受けて死ぬこともある。そしてそれは決まって都市部ではなく、大多数のアフガニスタン人が住んでいる貧困地域にもたらされるのである。
女性や小数部族の人権を訴えるというのも聞こえは良かったかもしれないが、多くの女性や部族の賛同を得たわけではない。保守的な女性からすれば、シャリーアを遵守したい気持ちもあっただろう。そんな女性に対して、同じリベラルなアフガン女性が口にするシャリーアへの罵詈雑言は苦痛であったに違いない。
人権は重要であるだろう。しかし女性や小数部族の人権を擁護するという建前で米軍が侵攻したのならば、アフガン政府を無視して、タリバンとの合意はしてはならなかった。まして、人権保護の為ならば、米軍の撤退はしてはならない選択だった。
タリバンが北部地域を次々と制圧したため、アフガン政府は北部やタリバン掌握地域の人々を棄民として斬り捨てた。この政策が民心の離反をさらに加速させた。治安部隊も、家族や仲間を見捨てるような国を、命がけで守れなくなってしまったのだ。
アフガニスタンの第二都市であるカンダハールは空が広く感じられる。夏季になると摂氏五十度を超えた暑さに悩まされる。アメリカや日本の中心地のようにビルと呼べるものはなく、素朴な街並みをしている。建物は規則的なようで、空から見れば混沌としているようにも見える。砂漠と一体化した土にまみれた白色の建造物が並んでおり、都市の中央には木々に囲まれた舗装道路がまっすぐに伸びている。中央を走る舗装道路沿いには露店が隙間なく並び、車窓から一望すれば、果てしなく続いているようにも思えた。道路は無秩序な血流のように混み合い、車、トゥクトゥク、自転車が入り乱れていた。歩行者が手を掲げて車列を止め、当然のように横断していく。トランクを開けたまま、人が貨物のように後部に乗せられている風景も見られた。
建物の間にも市場のある区画がある。食料や雑貨などが所狭しと並べられ、店主は本や新聞を読んでいるか、顔見知りの住民と談笑している。ゴミは地面に散乱しており、商品も隣の店のスペースにはみ出していたりもする。たまにバイクで狭い路地に乗り入れる人間もいるが、彼らの多くは配達か、重量のある商品を買いに来た人間だった。
日本の中古市場もある。多くはスマホやゲーム機、テレビやVHSの再生機、そして車だった。クロネコヤマトやパン屋の塗装がされた中古車も見かけた。カンダハールのみならず、アフガニスタンでは、日本車が頻繁に走っていた。
人々は、往来に出てきて喧騒を作りだしていた。まるで戦争などないような日常の風景であった。だが、砂漠の向こうではタリバンが牙を研ぎ、カンダハール奪還に向けて集結していた。
カンダハールとは、アフガニスタンの中南部に位置する標高およそ千メートルの都市であり、本来はタリバンの根拠地でもあった。人口はおよそ五百万人であり、アフガニスタンにおける第二の都市としても知られている。
その歴史は、血と征服の記憶である。紀元前三三〇年、アレクサンダー大王がこの地を拠点として築き上げたのがカンダハールの祖型であると伝えられる。それ以降、この都市は 「支配」と「衰退」 を繰り返しながら、ペルシア、モンゴル、そしてインドに奪われてきた。大国が睨みを利かせるたび、カンダハールは血煙を吸い込み、再び立ち上がってきたのである。
一七四三年にアフマド・シャー・ドゥッラーニーがドゥッラーニー朝を成立させ、カンダハールを首都とした。これが現在のアフガニスタン国家へと繋がっていったとされている。そしてこのドゥッラーニーはパシュトゥーン人であった。
タリバン政権は厳格なシャリーアの適用を掲げ、宗教的ナショナリズムを頂点とした勢力である。イスラム原理主義とパシュトゥーン民族主義が結びつき、外来の価値観をことごとく拒絶する極右勢力として国家を統べた。その中心を成すのは、パシュトゥーン人を主体とした戦士たちであった。だが彼らの多くはマダリと呼ばれるイスラム学校の学生で構成されている。タリバンはパシュトー語で「学生」を意味している。
アフガニスタンは、いくつもの民族で構成された多民族国家である。パシュトゥーン人が四割を占め、次いでタジク人が三割、ハザーラ人とウズベク人が一割。さらにバローチやアイマクなどが共存している。民族が異なるため、言語も混在している。
パシュトゥーン人はイギリスやソ連などの大国を打ち破った者たちの末裔である。ヨーロッパはかねてより彼らの勇猛な気質を理解できておらず、アメリカもまた自信に満ち溢れていた二十年前とは打って変わって、歴史を繰り返そうとしていた。
タリバンは一九九二年のムジャヒディン政権の樹立に伴う各派閥の内戦を受けて決起し、九六年にカブールを掌握した。それまでのアフガニスタンは軍閥の群雄割拠によって争いが絶えず、村は略奪や死が蔓延した。そこに登場したタリバンは、シャリーアを掲げてイスラム主義の国家体制による秩序を構築することを目標に掲げていた。当時のアフガニスタンは無秩序状態であったため、そこにシャリーアという体系化された秩序を持っていたタリバンは歓迎された。
だが極右的なシャリーアの実行は新たなる内戦の原因となり、治安維持の名目で同盟を結んだのがビンラディン率いるアル=カーイダであった。ビンラディンによるアメリカ同時多発テロ事件が勃発すると、タリバン政権はアメリカへの協力を拒否し、二十年に及ぶアフガニスタン戦争へと突入したのだった。
二〇二〇年二月。アメリカ政府は二十年に及んだアフガニスタン戦争の終結を宣言するため、タリバンとの合意に踏み切った。これはアフガニスタン政府の関与しないところで行われ、現地治安部隊の崩壊を決定的なものにした。同時にアメリカは軍事行動を急速に縮小し、国土を覆っていた米軍とNATO軍の監視網は次々と引き上げられていった。
その結果、戦線は一気に動き始める。欧米諸国の支援という盾を失った治安部隊に、タリバンは容赦のない攻撃を仕掛けてきたのだ。二〇二一年一月には、アメリカ駐留軍の人員はおよそ二千人となった。それは、この国を覆う巨大な傘が消え失せたことを意味していた。
二〇二一年五月。米軍とNATO軍の残存兵力が撤退を開始すると同時に、タリバン軍はカブール侵攻の号砲を放つ。かつてない速度で、前線は崩壊した。
八月にはタリバン支配領域が急激に増加し、ついに主要都市であるヘラート、ラシュカルガ、そしてカンダハールへと及ぼうとしていた。そのときカンダハールに残っていたのは、少数のアメリカ人工作員や護衛、士気を失いつつある治安部隊、そして最後の砦と呼ばれたアフガン特殊部隊「コマンド」だけだった。
同月。イランでは、アメリカとイスラエルによる極秘合同作戦が、水面下で動いていた。折悪く、この作戦が、カンダハールに残っていた人々をさらなる混乱に陥れることになった。
カンダハールに残留していた外務省職員と通訳の退避オペレーションを実行するため、一人の日本人工作員が向かっていた。
人道支援団体の取材のためにハザーラ人の住むバーミヤンを訪れていた私は、他のジャーナリストたちと共にアメリカとアフガン治安部隊、そしてタリバンの死闘の真っただ中に取り残される形となった。
タリバンに掌握されたバーミヤンの中に、安全地帯など、もうどこにもない。
私はハザーラ人の避難キャラバンと共に、南部・カンダハールへと退避した。しかしカンダハールもついに陥落という瀬戸際に立たされており、タリバンの優勢と裏切り者への粛清が行われていた。
混沌と化したカンダハールで「彼ら」に出会った。
カンダハールの戦いは、彼らの予想に反して、すぐそこまで迫っていたのだった。




