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Alchemist Fantasy I  作者:
序 メインストーリー
2/7

#1-2 三日月が沈む

 Monologue


 彼は、無茶をしている自覚がない。

自分がどこまで壊れているかも、どこまで踏み込んでいるかも、全部「まだいける」の一言で片づけてしまう。そのくせ、限界の一歩手前でも、必ず誰かの前に立つ。

あれは、癖だ。自己犠牲野郎。

それが正しいかどうかは、分からない。

 ――分かりたくない、の間違いだ。

過去の記録は、もう何度も見返した。

自己正当化なんて、今さらバカらしい。

旧区画の避難リスト。赤線で消された番号。

当時の判断は、合理的だったと処理されている。結果も、統計上は「成功」だ。

違う。あの人だけは、成功したなんて思っていない。Ⅲが彼に過剰反応した理由も、たぶんそれだ。ノードの適合率だとか、管理者キーだとか、表向きの理由はいくらでも並べられる。

本質はもっと単純。失敗を、失敗のまま抱えているのだ。それが、向こう側にとってはノイズなんだ。完璧な存在になろうとしているのだから。もし、全部をなかったことにできる選択肢が提示されたら。

 もし、正しさと引き換えに、過去を消せると言われたら。彼は、きっと迷う。

そして、その迷いを隠したまま、前に出る。

問題は、そのときだ。

私たちは、どこに立つのか。守られる側でいるのか。

それとも、同じ選択を背負うのか。

 答えは、まだ出ていない。

彼は、いつの日か私に言ったことがある。

何のことか、聞けなかった。それを聞いたら、彼がどこかに行ってしまいそうで――

私は、その言葉だけを今も抱えたままでいる。

 赤色灯が、天井を鈍く染めていた。

断続的に鳴り響く警報音が、艦内の空気を震わせる。

耳障りなほど甲高いその音は、眠りの浅い意識を無理やり引き剥がすには十分だった。


 ユトスは目を開ける。白い天井。

医療デッキ特有の消毒液の匂い。薄く漂う冷却蒸気。

本来なら、激痛でまともに動ける状態ではない。

ノードを限界以上に酷使した術士は、数日はまともに立てない。

筋繊維は裂け、神経は焼き付き、思考さえ濁る。

少なくとも、それが常識だった。


 だが。


「……軽いな」


 思わず、呟く。異様だった。指先を握る。感覚が鮮明すぎる。

シーツが擦れる音。冷却ファンの低い振動。遠くの警報灯の駆動音。

すべてが輪郭を持って耳に届く。視界まで澄み切っていた。まるで世界の解像度だけが急に上がったみたいだった。


 ベッド脇のモニターへ目を向ける。波形は滑らかだった。まるで機械的に整えられた理想値。


「起きたか」


 低い声が飛ぶ。カーテン代わりのホログラムを乱暴に押し退け、ダリアが入ってきた。白衣の裾を引きずり、眠そうに欠伸を噛み殺している。

相変わらず医者らしくない。無精髭まで増えていた。


「なんだその顔」

「いや……それよ」

「うるせぇ」


 ダリアはモニターへ視線を落とす。その眼だけが、妙に鋭かった。


「普通じゃねぇって話なら、気にしてもしゃーねぇだろ」

「……」

「お前、本来なら寝たきりだ。だが五体満足。よかったじゃねぇか」


 端末を叩く。ホロウィンドウが展開される。そこにはユトスの生体ログが並んでいた。


「血管損傷なし。神経断裂なし。脳波正常。ノード同期率、良好。早く起きて、ウィルのとこにでもいけ」


 ダリアは鼻で笑う。


「ああ」


 その瞬間だった。


【全戦闘要員へ通達】


【超高密度侵食反応を確認】


【繰り返す――】


 艦内放送。ノイズ混じりの声。ユトスの視線が自然と上を向く。

空気が変わった。ダリアの表情から眠気が消える。


「……ちっ、来やがったか」


 直後。医療デッキの自動扉が勢いよく開いた。


「ユトス!!」


 マリナだった。肩で息をしている。外套も羽織っていない。琥珀色の瞳がユトスを見るなり細くなる。言いながら、マリナはユトスの腕を掴む。

その手が少し冷たかった。


「ブリッジ来て」

「は?」

「反応が出た」


 空気が変わる。さっきまでの軽口が消えた。


「聞いてるよ」


「消えたはずの座標に」


 マリナの声が低くなる。


「そこに、何かが生えてる」


 ユトスの眉が動く。ダリアが横から口を挟んだ。


「構造反応か?」


 嫌な沈黙。旧七番区画で味わった感覚が蘇る。数値が存在しない侵食。測定不能の空白。クラスⅢ。ノードの奥が微かに脈打った。


「行くぞ」


「最初からそう言うと思ってた!」


 マリナは半ば怒鳴るように言った。だがその声には、どこか安堵も混じっていた。ユトスはベッドから降りる。床に足をつける。驚くほど安定していた。ダリアがその様子を見ながら眉をひそめる。


「無理すんなよ」


 ユトスは医療用ジャケットを脱ぎ捨てる。そのまま壁際のロッカーを開いた。指輪型イノベルムが静かに光を返す。


 マリナが先に歩き出す。自動扉が開く。赤色灯に染まった通路が伸びていた。





 ブリッジ前の隔壁が開く。熱気が流れ込む。無数のホロモニター。

飛び交う怒声。中央モニターに映るものを見た瞬間――ユトスは足を止めた。


 漆黒。ただ、それだけだった。宇宙空間に巨大な「何か」が浮かんでいる。構造体。


 そう呼ぶしかない。黒い輪郭が定まらない。見ているはずなのに焦点が合わない。視線を向けるほど、脳が認識を拒絶する。


「……なんだ、あれ」


 誰かが呟く。シルヴィアが操作卓から振り返った。その顔色は悪い。


「周囲ヴェゼル完全停止」


「停止?」


「元素変換そのものが止められてます」


 彼女の指がホロを弾く。空間マップが展開される。


「クラスⅢの固有領域です」


 静まり返るブリッジ。シルヴィアの声だけが響く。


「現在映像、固定します」


 シルヴィアの声が響く。ホログラムが拡大される。構造体の根元。旧七番区画の中心部だ。そこだけ地形が変質している。アスファルトは黒く結晶化し、建造物の残骸は巨大な人体が絡み合っている。世界と人が一つに。


「なんだよ、これ……」


 誰かが呟く。返事はない。誰も説明できないからだ。ウィルも黙ったまま映像を見ていた。その顔からいつもの余裕が消えている。


「発生時刻は?」


「七分前です」


「七分……」


 短く舌打ちする。つまり誰も見ていない。気づいた時にはそこにあった。それだけだ。

ブリッジに沈黙が落ちる。そのときだった。


「待ってください」


 シルヴィアの声。普段より少し低い。


「中心部に熱源を確認」


 ホログラムが変化する。黒い構造体の奥。巨大な空洞。その中心で、ひとつだけ光が明滅していた。心臓の鼓動のように。ゆっくり。規則正しく。脈打っている。誰も喋らない。嫌な予感だけが広がる。


「生体反応か」


 ウィルが言う。


「断定できませんが、ヴァジュタスと思われます!」


 シルヴィアの指が止まる。数秒。それから彼女はモニターを見つめたまま、小さく息を呑んだ。シルヴィアは映像を拡大する。


 中心部。ユトスの視線が止まった。


 ほんの一瞬。ノイズの向こうに、人影のようなものが見えた気がした。すぐに消える。錯覚かもしれない。だが胸の奥がざわつく。


「ユトス?」


 マリナの声。


 我に返る。


「いや……」


 言葉が続かなかった。


ウィルはそんなユトスを一瞥すると、再びモニターへ視線を戻した。ブリッジの空気が動き出す。だが、その喧騒の中で。シルヴィアだけは作業の手を止めていた。

視線はモニターではない。彼を見つめている。


ドクン。


物理音ではない。だが、全員が同じ錯覚を共有した。次の瞬間だった。

映像が揺れる。


「熱源、変動!」


 オペレーターの声が上ずる。


「増幅しています! 出力……異常上昇!」


 黒い表面が、ゆっくりと剥がれ始めている。アスファルトだったもの。建造物だったもの。人だったもの。それらすべてが、境界を失いながらほどけていく。


「ドコニ、イルノ」


 気持ちの悪い片言が脳に浸透する。


 ヘッドセットを外したのは、オペレーターの一人だった。自分でも気づかないうちに外していた。両手が震えている。膝の上に置いたヘッドセットが、小刻みに揺れている。それが止まらない。


「内外通信の制御を奪われました!」


 ウィルが言いかけて、止まった。


「おでましか」


 誰も答えなかった。答えられなかったのではなく、答えという概念が、この部屋にはもう存在していなかった。


 一瞬だけ。まばたきの裏側で起きたような、そういう速さで。でも全員が見た。視界の端をノイズが走る。最初は一本の細い線だった。次の瞬間には何本にも割れて、引っかくように、重なるように——その中に、言葉があった。文字ではなかった。音でもなかった。もっと内側に直接触れてくる何かだった。


『ドコニ、イルノ』


 繰り返されるたびに、輪郭が濃くなる。最初は遠かった。今は——近い。画面の向こうから手が伸びてくるような、そういう近さだった。


「後退しろ!」


 ウィルが叫んだ。


「できません!」


「戻されています!」


 オペレーターの声が、最後だけ小さくなった。怒鳴るより小さくなるほうが、ずっと怖い。


 シルヴィアが、息を吐いた。それは諦めでも恐怖でもなかった。長い間、引き出しの奥にしまっておいた答えを、ようやく取り出す時の息の吐き方だった。


「やっぱり」


 誰も彼女に聞かなかった。何がやっぱりなのか。いつからそう思っていたのか。なぜ今まで言わなかったのか。聞けなかった。


 その言葉が持つ重さの意味を、部屋の全員が、まだ受け取りたくなかったからだ。


 シルヴィアの指がキーボードの上で止まっている。画面を見ている。でも何も打っていない。視線だけが、ホログラムの層を一枚ずつ抜けて、その奥へ、奥へと落ちていく。まるでそこに底があるかのように。まるで底に、誰かがいるかのように。


「俺は、ここだ」


 ユトスが呼び掛けに答えた。


 ノイズの中で、声が変わる。探している、という感じがした。広い暗闇の中で、手を伸ばしながら、複数の声がまとまって雄叫びのように変わる。


「っ!」


 多くのものが耳を塞ぐ中、彼はまっすぐに見つめる。


「……ロイ」


 部屋の視線が、全部、ユトスに集まった。責めているのではなかった。確かめているのでもなかった。ただ——その名前を、ユトスの口から聞いてしまったという事実を、誰もがまだ、どこに置いていいかわからなかった。


 一年前のあの日に死んだ、彼の姿がノイズとともに露になる。

誰も動かなかった。ブリッジの警報が鳴り続けている。それだけが、まだ時間が動いていることの証拠だった。ユトスが「ロイ」と言った瞬間——何かが、起きた。


 ノードから、漏れた。意図したわけじゃなかった。ヴァジュタスからの接続が強すぎた。ノードが応答した。その応答が、強制リンクを通じて——ブリッジ全員に、流れ込む。

焦げた空気。乾いた風。旧居住区の避難センター。ホログラムの画面に並んだ名前。縦に、横に、果てしなく続く名前の列。その右端に、赤い線が引かれていく。一本。また一本。


 止めようとして、止められなかった視点が。

命令だった。逆らえる立場じゃなかった。

でも——、画面を見ていた。赤い線が、一本ずつ引かれていくのを。黙って、見ていた。


一つだけ、知っている名前があった。


強制リンクが、切れた。

マリナは唇を引き結んだまま、動かなかった。ゆっくりと開いたその目から余裕が消えていた。自分でも気づかないうちに。

受け取ったものの重さを、どこへ置けばいいか、誰にも分からなかった。

さっき流れ込んできた感覚が、まだ胸の奥に残っていた。あの画面。あの名前。あの、どうすることもできなかった視点の重さが。


「俺がやる」


 静かな声だった。怒ってもいなかった。震えてもいなかった。ただ、決まっていた。最初から決まっていたみたいに、淡々としていた。これは、自分がやらなければならない。





 隔壁が開く。冷気が流れ込んだ。

ヴァジュタスの輪郭が、肉眼で見えた。でかい。思っていたより、ずっとでかかった。


 マリナが隣に立った。外套の干渉膜が、静かに展開される。


 シルヴィアが反対側に立った。インターフェースを起動する。淡紫色のパターンが走った。


 言葉はなかった。位置だけがあった。

ユトスはイノベルムに触れた。熱を帯びる。装甲が噛み合う。皮膚の上に、もう一枚の感覚が重なる。ヴァジュタスが、脈打った。

一拍。また一拍。まるで、こちらに気づいたように。一歩踏み込んだ瞬間、音が変わった。


 遠くなったのではない。質が変わった。警報も、エンジンも、マリナの呼吸も——全部、膜一枚を隔てたみたいに、薄くなった。


 足元のアスファルトが黒く結晶化している。壁だったものと天井だったものの境界が溶けている。建造物の残骸が、巨大な何かの肋骨みたいに湾曲して、頭上を覆っている。


進むほど、上下が怪しくなる。


「侵食深度、増加しています」


 シルヴィアの声だけが鮮明だった。


「中枢まで推定四十メートル。ただし——」

「変わってる」


 マリナが先を引き取った。そうだった。来るたびに変わっている。まるで、内側から作り直しているみたいに。


 ユトスはエアルを前方に展開した。青白い光が走り、周囲の情報を拾い上げる。


「反応、前方」


 来る。





 最初の一撃が、天井から来た。


 影が落ちる。でかい。クラスⅡじゃない。関節の数が合っていない腕が、四本同時に叩きつけられた。ユトスは踏み込んだ。正面から。刃が走る。二本、断ち切る。残り二本を装甲で受ける。衝撃が腕を殴る。骨が軋む。そのまま押し返した。


「左!」


 マリナの声。


 反射で軸をずらす。壁から伸びた腕が空を掴み、粒子が頬を刺した。振り返らずに肘を叩き込む。核が露出した刹那、刃を突き立てる。黒い霧が噴いた。


「後方、二体!」


 シルヴィアのエアルが交差する。高周波が縫い止め、ユトスは前へ進む。減らない。

斬っても、斬っても、減らない。むしろ中枢に近づくほど密度が増す。まるで——守っているみたいに。


 声が、来た。音ではなかった。ノードに直接触れてくる振動。それが意味になって、脳に流れ込んだ。


『来たな』


 ぶれた先に——顔があった。霧の中に。黒いものに絡まれながら。ぐずぐずに溶けかけながら。それでも知っていた。


「……」


『そんな顔するなよ。久しぶりだろ』


 笑い声だった。


『知ってるか。俺、リストに入ってなかったんだ。二百人の中に。弾かれた。価値がないって、計算された。だから俺は——お前と違って——』


 ロイはあんな目をしない。あんな言い方をしない。

何より——あいつは絶対に、それを「だから」に繋げない。


どれだけ傷ついていても。どれだけ悔しくても。

人のせいにして楽になるくらいなら、一人で抱えて笑っている男だった。


ずっと。最後まで。死ぬほど嫌だったものを。最後まで手放さなかったものを。

ユトスの中で、何かが、静かに燃えた。


「お前は」


 声が出た。思ったより低かった。


「ロイじゃない」


『……』


「ロイは」


 一語一語、確かめるように言った。


「人のせいにする男じゃねぇんだよ」


 ヴァジュタスが、震えた。


「クソッタレ」





 ヴァジュタスが、悲鳴を上げた。

 外壁が波打つ。天井が割れる。無数の腕が一斉に伸びる。壁から、床から、頭上から。四方全部から同時に来た。ユトスは躱さなかった。


 踏み込んだ。正面から。

 刃に全出力を叩き込む。蒼が爆ぜる。腕が一本、また一本、断ち切れる。切り口から黒い霧が噴く。次が生える。また斬る。また生える。


 減らない。

 むしろ、速くなる。


「数、増加! 分裂しています!」


 シルヴィアの声が跳ね上がる。

 構わない。ユトスは前に出た。腕を一本掴んで引き千切る。霧が噴く。肘で次を弾く。膝で潰す。刃で薙ぐ。リズムを殺さずに進む。止まった瞬間に囲まれる。それだけは分かっていた。





 補強鉄骨が根元から剥がれ、コンクリートの骨格が生き物の肋骨みたいに湾曲して立ち上がる。床を走っていた配管が突き破られ、鞭の形に変わった。壁面に這う黒い糸が太くなり、Terra属性を吸い上げながら建造物ごと取り込んでいく。


 クラスⅢが、武装した。


 ルクス因子を終結させる、。


「——っ!」

 

 天井から剥がれた鉄骨が黒く染まり、圧縮されて弾丸になる。身体を傾けて躱す——間に合わない。肩口を掠め、装甲に亀裂が走る。着地した瞬間、床の配管が螺旋状に伸びてきた。刃を走らせる、両断する——が、断面から黒い糸が噴き出して、切り口が塞がっていく。


 ヴェゼルに触れた。圧縮していたはずのルクス因子が、指先まで来ていない。Aqua属性の流動が阻害されている。元素変換が、止まっていた。


(中枢に近すぎる)


「Aerisの情報経路は生きてます——エアルは動く」


 シルヴィアが操作台を叩きながら言った。声だけが少し高かった。指先は乱れていない。


 三機が対角に展開する。Aeris術式が空中に幾何学模様を描き、ヴァジュタスの各腕が共有している情報経路を焼き切った。統率が一瞬だけ乱れる——腕の動きがバラバラになる。


 その隙に踏み込んで薙ぐ。二本、根元から断ち切る。が、すぐに生える。Terra属性を取り込んで、周囲の廃材が補充される。


「前方、情報路が再統合します。七秒」

「早い」


 壁そのものが腕になった。コンクリートが解体され、黒い糸が骨格を作る。密度が違う。鉄骨を芯に持った腕が振り下ろされる——受ける。骨が軋む。押し返せない。膝が沈んだ。


 刃が、薄くなっていた。


 ヴェゼルからの供給が落ちている。Ignis変換が弱まれば刃の出力も落ちる。これ以上中枢に近づくほど、詰まりは悪化する。それでも前に出るしかなかった。


「マリナさん!」


 シルヴィアが叫んだ。


 マリナが跳んだ。床から伸びた腕が彼女の足首を掴もうとして、空を切る。着地と同時に干渉膜を展開し、配管を押し返した。ヴェールアゼル素材の外套が蒼白く揺れる。


「五分が限界です」


「分かってる」


 マリナが短く言った。唇が薄く引き結ばれていた。


 そのときだった。


 ヴァジュタスが、息を吸った。


 音ではなかった。空気圧の変化だった。中枢の周囲に散らばっていた黒い粒子が一点へと引き寄せられ、Ignis属性のエネルギーが急速に圧縮されていく。ルクス因子の密度が、その一点だけ異様に高くなった。


「収束——散開!」


 轟音が来た。


 圧縮されたIgnis放出。黒く変色したエネルギーの塊が解放され、熱と衝撃波を同時に叩き込む。光柱が通路を縦に貫いた。シルヴィアのエアルが防壁を張るが、出力差が違いすぎた。


 マリナは干渉膜を全展開で受けた。外套の表面が燃える。ヴェールアゼル素材が限界以上のAeris干渉を吸収し、衝撃の方向だけを変えた。貫かれはしない。が——


 衝撃波が、彼女を吹き飛ばした。


 壁に叩きつけられる。乾いた音がした。ずり落ちる。外套の右肩が炭化して崩れた。立ち上がろうとして、膝が滑った。


 同時に六本の腕が迫る。マリナの周囲を包囲するように、天井から。床から。壁の両側から。逃げ場がなかった。クラスⅢが彼女を選んだ——管理者キーの反応だ。複数の鍵を同時に確保しようとしている。


 マリナのイノベルムが展開する。干渉膜が広がる。だが六本の腕は均等に圧縮を始めた。外から。内から。じわじわと。彼女の防壁を潰していく。


「マリナァ!」


 ユトスは走った。刃を振り上げて腕に叩き込む——弾かれた。


 ヴェゼルの枯渇が完全になっていた。刃が薄すぎる。Terra素材で強化された腕に通らなかった。


 次の瞬間、横から腕が来た。


 胸に直撃した。


 肺から空気が消えた。体が後方へ吹き飛ぶ。床を二度転がり、瓦礫に背中を打って止まった。鉄の味が口に広がる。右腕が動かない。ノードの伝達経路が焼けている。視界の端が赤く染まっていた。


 立ち上がろうとした。


 膝が震えた。


 マリナの防壁が軋んでいた。割れ始めていた。シルヴィアは操作台が潰れて膝をついたまま、一機だけ残ったエアルを起動しようと端末を握り直していた。指が震えていた。それでも止まらなかった。


(また)


 思考が、そこで止まる。


(また)


 この感覚だけが鮮明だった。あの日も、こうだった。





 任務が失敗した夜だった。仲間が怪我をした。ユトスの判断ミスだった。格納庫の隅で一人でいたら、ロイが来た。理由を聞かなかった。何も言わずに隣に座った。しばらくして、缶コーヒーを一つ渡してきた。冷めていた。


「……ぬるい」


「自販機、一番遠いやつしかなかった」


 何の話だよ。


 ロイが床に足を伸ばして、天井を見た。換気扇が唸っている。遠くで誰かが走っている。


「お前さ」


「何だよ」


「死んでもいいと思ってるだろ、なんとなく」


 返せなかった。


「俺はそれが嫌なんだよ」


 ロイはそれだけ言って、また黙った。格納庫の音だけが続いた。


「別にかっこいいことは言えないけど」


 空の缶を床に置いた。


「お前が生きてる方が、俺は嬉しい」


 馬鹿みたいに単純だった。でもあの夜は、それだけで十分だった。





 世界が戻る。


「十戒」


 一瞬の出来事に何が起きたのか理解できないでいた。


 赤い滲みの向こうに、マリナが見えた。防壁が崩壊寸前だった。シルヴィアは血の滲む額。一機だけのエアルが、起動するユトス。


 ユトスは立つ。


 意識したわけじゃない。


 右腕が動かない。ヴェゼルが完全に枯渇している。残った出力はゼロに近い。それでも。


 熱がなかった。応答がなかった。


 ——外から取り込む必要はない。


 足を踏み込んだ瞬間——ノードの奥で、何かが弾けた。


 Ignis属性の変換ではなかった。ヴェゼルを経由した供給でもなかった。もっと内側——焼き刻みが刻まれた神経回路の根っこで、直接、燃えた。


 管理者キーが、応答していた。


 光が走る。右腕から、肩を経由して首筋を上がり、背中まで。細い。でも鮮明だった。装甲が噛み合う音がした——金属音じゃない。ノード経路そのものが再編成される音。


 視界が、変わった。


 六本の腕の圧縮軌道が全部見えた。力の分散、タイミング、隙間の座標。シルヴィアのエアルが通れる角度——全部、一瞬で入ってきた。


「シルヴィア」


 声が落ち着いていた。自分でも驚くくらいに。


 返事はなかった。でも一機だけ青白い光が飛んだ。三時方向、腕の束の情報経路へ——迷わずに。


 走った。


 一本の下を潜る。二本目を右腕で弾く——動いた。三本目を肩で受ける、熱い、構わない。四本目、五本目、身体で押し返して前へ。エアルの術式が六本目の情報経路を焼き切った刹那、ユトスはマリナの手首を掴んで引いた。


 腕が空を切った。


「っ——!」


 マリナが、前に出た。言葉はなかった。外套がボロボロで、右肩から血が滲んでいた。琥珀色の瞳が、揺れながらも前を向いていた。干渉膜が広がる。


 エアルが六機、跳ね上がる。三角軌道が二重に交差した。蒼光が格子状に走り——


「今だ!」


 走る。並んで。肩が触れるくらいの距離で。腕が来る。二人で受ける。装甲が悲鳴を上げる。それでも前へ。


 ヴェゼルが——唸った。


 管理者キーの回路に引き寄せられるように、詰まっていたルクス因子の流れが動き始めた。Ignis変換が再開する。わずかに。でも確かに。


 圧縮された蒼光が、二つ同時に弾けた。扇状の閃光が前方の腕を根元から一掃する。霧が逆流する。


 視界が、開いた。


 中枢が、むき出しになった。


 脈打っていた。規則正しく。ゆっくり。まるで心臓みたいに。


 霧の向こうで——ロイの顔が揺れていた。崩れかけていた。溶けかけていた。それでも笑おうとしていた。あの、片側だけ上がる口の端で。


 ユトスの足が、一瞬だけ乱れた。


 それだけだった。すぐに立て直した。


 中枢まで、あと数メートル。


 反射で軸をずらす。天井から落ちてきた腕が、肩口を掠めた。装甲が弾け飛ぶ。熱と痛みが遅れて走る。構わない。振り返らずに刃を逆手に持ち替え、背後へ突き込む。手応え。核が露出する感触。そのまま引き抜く。


 黒い霧が広がった。

 床が、脈打った。嫌な感触だった。地面そのものが生きているみたいに、足裏から振動が上がってくる。


 直後、足元の床が爆ぜた。黒い腕が束になって突き出てくる。

空中で体を捻り、エアルを足場に軌道を変える。着地した瞬間、今度は壁が割れた。

 また腕。また来る。また来る。

 斬る。弾く。躱す。斬る。

 肺が、焼け始めていた。


「ユトス、ノード警告!」


 シルヴィアが叫んだ。


「出力落としてください!」

「落とせるか!」


 怒鳴り返した瞬間、背後から衝撃が来た。

 真後ろだった。エアルが間に合わなかった。腕が背中を直撃し、前方へ吹き飛ぶ。床を転がる。瓦礫が頬を削る。視界がぶれた。立ち上がろうとした。

 膝が震えた。

 ノードが悲鳴を上げている。波形が乱れる。出力が落ちる。刃が薄くなる。

 まずい。

 正面から腕が迫る。受けた。装甲が軋む。押し返せない。膝が折れる。床に手をつく。また来る。また来る。

 視界の端が、赤くなり始めた。


「いくよ」


 低い声が割り込んだ。深紺の外套が翻る。干渉膜が展開される。マリナがユトスの前に出た。

次の腕を、正面から受け止めた。衝撃。床が抉れる。だが止まった。


 エアルが六機——マリナとユトスのエアルが合流し、同時に展開される。三角軌道が二重に交差する。蒼光が格子状に走り、ヴァジュタスの腕が次々と縫い止められた。

 硬直。一瞬だけ、空間が凍りついた。


「今!」


 ユトスは立ち上がった。膝が笑っていた。構わなかった。走った。硬直したヴァジュタスの腕の隙間を抜ける。一本、また一本。肩を掠める。装甲が削れる。止まらない。

 中枢が、見えた。


 近づくほど、密度が増した。

 前が見えない。腕が、霧が、無数の黒い線が、中枢を覆い隠すように集まってくる。守っている。最後の一線だと言うように。ユトスはヴェゼルを引き絞った。低く唸る。蒼が脈打つ。空気が一瞬、冷たく沈む。


 エンバース。


『白錬』


圧縮された蒼光が扇状に広がり、前方の腕を一掃する。霧が逆流する。視界が開く。

中枢が、むき出しになった。脈打っていた。規則正しく。ゆっくり。


ロイの顔が、霧の中に見えた。崩れかけていた。溶けかけていた。それでも——笑おうとしていた。あの、片側だけ上がる口の端で。ユトスの足が、一瞬だけ乱れた。

 それだけだった。すぐに立て直した。中枢まで、あと数メートル。


「させないっ」


 マリナが後方で叫んだ。

 振り返る暇はなかった。だが音で分かった。彼女が残りの腕を全部引き受けた。外套の干渉膜が限界まで展開される。エアルが全機、防御に回る。衝撃が連続して響く。それでも声が来た。


「今だけです!」


 一言だけ。シルヴィアが後方から叫んだ。


「最終出力!」


 ヴェゼルが唸った。

 残った全エネルギーが刃に集束する。蒼が白くなる。眩しくて、目を開けていられない。それでも開けた。目を逸らす理由がなかった。


 走った。

 腕が来る。受ける。また来る。受ける。装甲が割れる。血が滲む。肩が砕ける。膝が割れる。肺が焼ける。それでも走った。止まる理由が、なかった。中枢まで、あと一歩。


 そのとき。ノイズが、消えた。ヴァジュタスの声ではなかった。歪みがなかった。ただの、声だった。手が、止まった。一瞬だけ。


「……」


 間があった。長い間だった。ユトスは、目を閉じた。一拍だけ。

 それから開いた。


「知ってる」


「お前はそういう奴だった。俺が一番知ってる」

 

 沈黙が落ちた。ヴァジュタスの脈動が、ゆっくりと乱れ始めた。

蒼が、爆ぜた。中枢を、貫いた。ヴァジュタスが内側から崩れた。音はなかった。静かだった。黒い霧が霧散し、壁だったもの、天井だったもの、人だったものの境界が溶けて、ただの粒子に戻っていく。脈動が、止まった。


 ロイの顔が——最後に一瞬だけ、はっきりする。

笑っていた。


 ユトスは膝をついた。

意図したわけじゃない。足が折れた。それだけだ。粉塵が降る。蒼い光の残滓が宙に漂い、やがて消えた。

マリナが来た。何も言わなかった。隣に膝をついて、ただ、前を向いた。外套の肩口が裂けていた。血が滲んでいた。それでも座っていた。シルヴィアが後ろで静かに言った。


「ヴァジュタス、崩壊確認。侵食率——低下しています」

 

 誰も動かなかった。ロイがいた場所には、何も残っていなかった。粉塵だけが、まだ、落ちていた。

【用語集】

Ignisイグニス:変換属性。物質とエネルギーの相互転化を司る。イノベルムと刃の出力基盤。

Aerisエアリス:情報属性。構造・記録・伝達を担う。ノードとエアルの動作基盤。

Aquaアクア:流動属性。状態変化・因果の流れを司る。クラスⅢの侵食域では阻害される。

Terraテラ:構造属性。物質・空間の固定を司る。クラスⅢが建造物を吸収するのはこの属性の取り込み。

・ルクス因子:四属性を内包する粒子。イノベルムの錬成素材。

・ヴェゼル:元素資源を圧縮・保持する鞘型構造体。クラスⅢ近傍ではAqua阻害により変換停止。

・管理者キー:神経構造に焼き付いたアラクス層へのアクセス権限。ヴェゼルを経由せず、ノード直結でIgnisを点火できる。

・エアル:Aeris属性の情報処理ユニット。Aquaが阻害される状況でも、Aeris系術式は独立して機能する。

・ヴェールアゼル干渉材:マリナの外套に縫い込まれた素材。Aeris属性の干渉膜を形成し、衝撃の方向を変換する。

自錬化セルフファブリケーション:イノベルム過負荷時に術士本体を素材と認識するリスク。本シーンでの管理者キー点火はこの境界に近い。


・十戒:世界改変。現実世界に戻す。詳細は不明。

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