#1-2 三日月が沈む
Monologue
彼は、無茶をしている自覚がない。
自分がどこまで壊れているかも、どこまで踏み込んでいるかも、全部「まだいける」の一言で片づけてしまう。そのくせ、限界の一歩手前でも、必ず誰かの前に立つ。
あれは、癖だ。自己犠牲野郎。
それが正しいかどうかは、分からない。
――分かりたくない、の間違いだ。
過去の記録は、もう何度も見返した。
自己正当化なんて、今さらバカらしい。
旧区画の避難リスト。赤線で消された番号。
当時の判断は、合理的だったと処理されている。結果も、統計上は「成功」だ。
違う。あの人だけは、成功したなんて思っていない。Ⅲが彼に過剰反応した理由も、たぶんそれだ。ノードの適合率だとか、管理者キーだとか、表向きの理由はいくらでも並べられる。
本質はもっと単純。失敗を、失敗のまま抱えているのだ。それが、向こう側にとってはノイズなんだ。完璧な存在になろうとしているのだから。もし、全部をなかったことにできる選択肢が提示されたら。
もし、正しさと引き換えに、過去を消せると言われたら。彼は、きっと迷う。
そして、その迷いを隠したまま、前に出る。
問題は、そのときだ。
私たちは、どこに立つのか。守られる側でいるのか。
それとも、同じ選択を背負うのか。
答えは、まだ出ていない。
彼は、いつの日か私に言ったことがある。
何のことか、聞けなかった。それを聞いたら、彼がどこかに行ってしまいそうで――
私は、その言葉だけを今も抱えたままでいる。
赤色灯が、天井を鈍く染めていた。
断続的に鳴り響く警報音が、艦内の空気を震わせる。
耳障りなほど甲高いその音は、眠りの浅い意識を無理やり引き剥がすには十分だった。
ユトスは目を開ける。白い天井。
医療デッキ特有の消毒液の匂い。薄く漂う冷却蒸気。
本来なら、激痛でまともに動ける状態ではない。
ノードを限界以上に酷使した術士は、数日はまともに立てない。
筋繊維は裂け、神経は焼き付き、思考さえ濁る。
少なくとも、それが常識だった。
だが。
「……軽いな」
思わず、呟く。異様だった。指先を握る。感覚が鮮明すぎる。
シーツが擦れる音。冷却ファンの低い振動。遠くの警報灯の駆動音。
すべてが輪郭を持って耳に届く。視界まで澄み切っていた。まるで世界の解像度だけが急に上がったみたいだった。
ベッド脇のモニターへ目を向ける。波形は滑らかだった。まるで機械的に整えられた理想値。
「起きたか」
低い声が飛ぶ。カーテン代わりのホログラムを乱暴に押し退け、ダリアが入ってきた。白衣の裾を引きずり、眠そうに欠伸を噛み殺している。
相変わらず医者らしくない。無精髭まで増えていた。
「なんだその顔」
「いや……それよ」
「うるせぇ」
ダリアはモニターへ視線を落とす。その眼だけが、妙に鋭かった。
「普通じゃねぇって話なら、気にしてもしゃーねぇだろ」
「……」
「お前、本来なら寝たきりだ。だが五体満足。よかったじゃねぇか」
端末を叩く。ホロウィンドウが展開される。そこにはユトスの生体ログが並んでいた。
「血管損傷なし。神経断裂なし。脳波正常。ノード同期率、良好。早く起きて、ウィルのとこにでもいけ」
ダリアは鼻で笑う。
「ああ」
その瞬間だった。
【全戦闘要員へ通達】
【超高密度侵食反応を確認】
【繰り返す――】
艦内放送。ノイズ混じりの声。ユトスの視線が自然と上を向く。
空気が変わった。ダリアの表情から眠気が消える。
「……ちっ、来やがったか」
直後。医療デッキの自動扉が勢いよく開いた。
「ユトス!!」
マリナだった。肩で息をしている。外套も羽織っていない。琥珀色の瞳がユトスを見るなり細くなる。言いながら、マリナはユトスの腕を掴む。
その手が少し冷たかった。
「ブリッジ来て」
「は?」
「反応が出た」
空気が変わる。さっきまでの軽口が消えた。
「聞いてるよ」
「消えたはずの座標に」
マリナの声が低くなる。
「そこに、何かが生えてる」
ユトスの眉が動く。ダリアが横から口を挟んだ。
「構造反応か?」
嫌な沈黙。旧七番区画で味わった感覚が蘇る。数値が存在しない侵食。測定不能の空白。クラスⅢ。ノードの奥が微かに脈打った。
「行くぞ」
「最初からそう言うと思ってた!」
マリナは半ば怒鳴るように言った。だがその声には、どこか安堵も混じっていた。ユトスはベッドから降りる。床に足をつける。驚くほど安定していた。ダリアがその様子を見ながら眉をひそめる。
「無理すんなよ」
ユトスは医療用ジャケットを脱ぎ捨てる。そのまま壁際のロッカーを開いた。指輪型イノベルムが静かに光を返す。
マリナが先に歩き出す。自動扉が開く。赤色灯に染まった通路が伸びていた。
*
ブリッジ前の隔壁が開く。熱気が流れ込む。無数のホロモニター。
飛び交う怒声。中央モニターに映るものを見た瞬間――ユトスは足を止めた。
漆黒。ただ、それだけだった。宇宙空間に巨大な「何か」が浮かんでいる。構造体。
そう呼ぶしかない。黒い輪郭が定まらない。見ているはずなのに焦点が合わない。視線を向けるほど、脳が認識を拒絶する。
「……なんだ、あれ」
誰かが呟く。シルヴィアが操作卓から振り返った。その顔色は悪い。
「周囲ヴェゼル完全停止」
「停止?」
「元素変換そのものが止められてます」
彼女の指がホロを弾く。空間マップが展開される。
「クラスⅢの固有領域です」
静まり返るブリッジ。シルヴィアの声だけが響く。
「現在映像、固定します」
シルヴィアの声が響く。ホログラムが拡大される。構造体の根元。旧七番区画の中心部だ。そこだけ地形が変質している。アスファルトは黒く結晶化し、建造物の残骸は巨大な人体が絡み合っている。世界と人が一つに。
「なんだよ、これ……」
誰かが呟く。返事はない。誰も説明できないからだ。ウィルも黙ったまま映像を見ていた。その顔からいつもの余裕が消えている。
「発生時刻は?」
「七分前です」
「七分……」
短く舌打ちする。つまり誰も見ていない。気づいた時にはそこにあった。それだけだ。
ブリッジに沈黙が落ちる。そのときだった。
「待ってください」
シルヴィアの声。普段より少し低い。
「中心部に熱源を確認」
ホログラムが変化する。黒い構造体の奥。巨大な空洞。その中心で、ひとつだけ光が明滅していた。心臓の鼓動のように。ゆっくり。規則正しく。脈打っている。誰も喋らない。嫌な予感だけが広がる。
「生体反応か」
ウィルが言う。
「断定できませんが、ヴァジュタスと思われます!」
シルヴィアの指が止まる。数秒。それから彼女はモニターを見つめたまま、小さく息を呑んだ。シルヴィアは映像を拡大する。
中心部。ユトスの視線が止まった。
ほんの一瞬。ノイズの向こうに、人影のようなものが見えた気がした。すぐに消える。錯覚かもしれない。だが胸の奥がざわつく。
「ユトス?」
マリナの声。
我に返る。
「いや……」
言葉が続かなかった。
ウィルはそんなユトスを一瞥すると、再びモニターへ視線を戻した。ブリッジの空気が動き出す。だが、その喧騒の中で。シルヴィアだけは作業の手を止めていた。
視線はモニターではない。彼を見つめている。
ドクン。
物理音ではない。だが、全員が同じ錯覚を共有した。次の瞬間だった。
映像が揺れる。
「熱源、変動!」
オペレーターの声が上ずる。
「増幅しています! 出力……異常上昇!」
黒い表面が、ゆっくりと剥がれ始めている。アスファルトだったもの。建造物だったもの。人だったもの。それらすべてが、境界を失いながらほどけていく。
「ドコニ、イルノ」
気持ちの悪い片言が脳に浸透する。
ヘッドセットを外したのは、オペレーターの一人だった。自分でも気づかないうちに外していた。両手が震えている。膝の上に置いたヘッドセットが、小刻みに揺れている。それが止まらない。
「内外通信の制御を奪われました!」
ウィルが言いかけて、止まった。
「おでましか」
誰も答えなかった。答えられなかったのではなく、答えという概念が、この部屋にはもう存在していなかった。
一瞬だけ。まばたきの裏側で起きたような、そういう速さで。でも全員が見た。視界の端をノイズが走る。最初は一本の細い線だった。次の瞬間には何本にも割れて、引っかくように、重なるように——その中に、言葉があった。文字ではなかった。音でもなかった。もっと内側に直接触れてくる何かだった。
『ドコニ、イルノ』
繰り返されるたびに、輪郭が濃くなる。最初は遠かった。今は——近い。画面の向こうから手が伸びてくるような、そういう近さだった。
「後退しろ!」
ウィルが叫んだ。
「できません!」
「戻されています!」
オペレーターの声が、最後だけ小さくなった。怒鳴るより小さくなるほうが、ずっと怖い。
シルヴィアが、息を吐いた。それは諦めでも恐怖でもなかった。長い間、引き出しの奥にしまっておいた答えを、ようやく取り出す時の息の吐き方だった。
「やっぱり」
誰も彼女に聞かなかった。何がやっぱりなのか。いつからそう思っていたのか。なぜ今まで言わなかったのか。聞けなかった。
その言葉が持つ重さの意味を、部屋の全員が、まだ受け取りたくなかったからだ。
シルヴィアの指がキーボードの上で止まっている。画面を見ている。でも何も打っていない。視線だけが、ホログラムの層を一枚ずつ抜けて、その奥へ、奥へと落ちていく。まるでそこに底があるかのように。まるで底に、誰かがいるかのように。
「俺は、ここだ」
ユトスが呼び掛けに答えた。
ノイズの中で、声が変わる。探している、という感じがした。広い暗闇の中で、手を伸ばしながら、複数の声がまとまって雄叫びのように変わる。
「っ!」
多くのものが耳を塞ぐ中、彼はまっすぐに見つめる。
「……ロイ」
部屋の視線が、全部、ユトスに集まった。責めているのではなかった。確かめているのでもなかった。ただ——その名前を、ユトスの口から聞いてしまったという事実を、誰もがまだ、どこに置いていいかわからなかった。
一年前のあの日に死んだ、彼の姿がノイズとともに露になる。
誰も動かなかった。ブリッジの警報が鳴り続けている。それだけが、まだ時間が動いていることの証拠だった。ユトスが「ロイ」と言った瞬間——何かが、起きた。
ノードから、漏れた。意図したわけじゃなかった。ヴァジュタスからの接続が強すぎた。ノードが応答した。その応答が、強制リンクを通じて——ブリッジ全員に、流れ込む。
焦げた空気。乾いた風。旧居住区の避難センター。ホログラムの画面に並んだ名前。縦に、横に、果てしなく続く名前の列。その右端に、赤い線が引かれていく。一本。また一本。
止めようとして、止められなかった視点が。
命令だった。逆らえる立場じゃなかった。
でも——、画面を見ていた。赤い線が、一本ずつ引かれていくのを。黙って、見ていた。
一つだけ、知っている名前があった。
強制リンクが、切れた。
マリナは唇を引き結んだまま、動かなかった。ゆっくりと開いたその目から余裕が消えていた。自分でも気づかないうちに。
受け取ったものの重さを、どこへ置けばいいか、誰にも分からなかった。
さっき流れ込んできた感覚が、まだ胸の奥に残っていた。あの画面。あの名前。あの、どうすることもできなかった視点の重さが。
「俺がやる」
静かな声だった。怒ってもいなかった。震えてもいなかった。ただ、決まっていた。最初から決まっていたみたいに、淡々としていた。これは、自分がやらなければならない。
*
隔壁が開く。冷気が流れ込んだ。
ヴァジュタスの輪郭が、肉眼で見えた。でかい。思っていたより、ずっとでかかった。
マリナが隣に立った。外套の干渉膜が、静かに展開される。
シルヴィアが反対側に立った。インターフェースを起動する。淡紫色のパターンが走った。
言葉はなかった。位置だけがあった。
ユトスはイノベルムに触れた。熱を帯びる。装甲が噛み合う。皮膚の上に、もう一枚の感覚が重なる。ヴァジュタスが、脈打った。
一拍。また一拍。まるで、こちらに気づいたように。一歩踏み込んだ瞬間、音が変わった。
遠くなったのではない。質が変わった。警報も、エンジンも、マリナの呼吸も——全部、膜一枚を隔てたみたいに、薄くなった。
足元のアスファルトが黒く結晶化している。壁だったものと天井だったものの境界が溶けている。建造物の残骸が、巨大な何かの肋骨みたいに湾曲して、頭上を覆っている。
進むほど、上下が怪しくなる。
「侵食深度、増加しています」
シルヴィアの声だけが鮮明だった。
「中枢まで推定四十メートル。ただし——」
「変わってる」
マリナが先を引き取った。そうだった。来るたびに変わっている。まるで、内側から作り直しているみたいに。
ユトスはエアルを前方に展開した。青白い光が走り、周囲の情報を拾い上げる。
「反応、前方」
来る。
*
最初の一撃が、天井から来た。
影が落ちる。でかい。クラスⅡじゃない。関節の数が合っていない腕が、四本同時に叩きつけられた。ユトスは踏み込んだ。正面から。刃が走る。二本、断ち切る。残り二本を装甲で受ける。衝撃が腕を殴る。骨が軋む。そのまま押し返した。
「左!」
マリナの声。
反射で軸をずらす。壁から伸びた腕が空を掴み、粒子が頬を刺した。振り返らずに肘を叩き込む。核が露出した刹那、刃を突き立てる。黒い霧が噴いた。
「後方、二体!」
シルヴィアのエアルが交差する。高周波が縫い止め、ユトスは前へ進む。減らない。
斬っても、斬っても、減らない。むしろ中枢に近づくほど密度が増す。まるで——守っているみたいに。
声が、来た。音ではなかった。ノードに直接触れてくる振動。それが意味になって、脳に流れ込んだ。
『来たな』
ぶれた先に——顔があった。霧の中に。黒いものに絡まれながら。ぐずぐずに溶けかけながら。それでも知っていた。
「……」
『そんな顔するなよ。久しぶりだろ』
笑い声だった。
『知ってるか。俺、リストに入ってなかったんだ。二百人の中に。弾かれた。価値がないって、計算された。だから俺は——お前と違って——』
ロイはあんな目をしない。あんな言い方をしない。
何より——あいつは絶対に、それを「だから」に繋げない。
どれだけ傷ついていても。どれだけ悔しくても。
人のせいにして楽になるくらいなら、一人で抱えて笑っている男だった。
ずっと。最後まで。死ぬほど嫌だったものを。最後まで手放さなかったものを。
ユトスの中で、何かが、静かに燃えた。
「お前は」
声が出た。思ったより低かった。
「ロイじゃない」
『……』
「ロイは」
一語一語、確かめるように言った。
「人のせいにする男じゃねぇんだよ」
ヴァジュタスが、震えた。
「クソッタレ」
*
ヴァジュタスが、悲鳴を上げた。
外壁が波打つ。天井が割れる。無数の腕が一斉に伸びる。壁から、床から、頭上から。四方全部から同時に来た。ユトスは躱さなかった。
踏み込んだ。正面から。
刃に全出力を叩き込む。蒼が爆ぜる。腕が一本、また一本、断ち切れる。切り口から黒い霧が噴く。次が生える。また斬る。また生える。
減らない。
むしろ、速くなる。
「数、増加! 分裂しています!」
シルヴィアの声が跳ね上がる。
構わない。ユトスは前に出た。腕を一本掴んで引き千切る。霧が噴く。肘で次を弾く。膝で潰す。刃で薙ぐ。リズムを殺さずに進む。止まった瞬間に囲まれる。それだけは分かっていた。
*
補強鉄骨が根元から剥がれ、コンクリートの骨格が生き物の肋骨みたいに湾曲して立ち上がる。床を走っていた配管が突き破られ、鞭の形に変わった。壁面に這う黒い糸が太くなり、Terra属性を吸い上げながら建造物ごと取り込んでいく。
クラスⅢが、武装した。
ルクス因子を終結させる、。
「——っ!」
天井から剥がれた鉄骨が黒く染まり、圧縮されて弾丸になる。身体を傾けて躱す——間に合わない。肩口を掠め、装甲に亀裂が走る。着地した瞬間、床の配管が螺旋状に伸びてきた。刃を走らせる、両断する——が、断面から黒い糸が噴き出して、切り口が塞がっていく。
ヴェゼルに触れた。圧縮していたはずのルクス因子が、指先まで来ていない。Aqua属性の流動が阻害されている。元素変換が、止まっていた。
(中枢に近すぎる)
「Aerisの情報経路は生きてます——エアルは動く」
シルヴィアが操作台を叩きながら言った。声だけが少し高かった。指先は乱れていない。
三機が対角に展開する。Aeris術式が空中に幾何学模様を描き、ヴァジュタスの各腕が共有している情報経路を焼き切った。統率が一瞬だけ乱れる——腕の動きがバラバラになる。
その隙に踏み込んで薙ぐ。二本、根元から断ち切る。が、すぐに生える。Terra属性を取り込んで、周囲の廃材が補充される。
「前方、情報路が再統合します。七秒」
「早い」
壁そのものが腕になった。コンクリートが解体され、黒い糸が骨格を作る。密度が違う。鉄骨を芯に持った腕が振り下ろされる——受ける。骨が軋む。押し返せない。膝が沈んだ。
刃が、薄くなっていた。
ヴェゼルからの供給が落ちている。Ignis変換が弱まれば刃の出力も落ちる。これ以上中枢に近づくほど、詰まりは悪化する。それでも前に出るしかなかった。
「マリナさん!」
シルヴィアが叫んだ。
マリナが跳んだ。床から伸びた腕が彼女の足首を掴もうとして、空を切る。着地と同時に干渉膜を展開し、配管を押し返した。ヴェールアゼル素材の外套が蒼白く揺れる。
「五分が限界です」
「分かってる」
マリナが短く言った。唇が薄く引き結ばれていた。
そのときだった。
ヴァジュタスが、息を吸った。
音ではなかった。空気圧の変化だった。中枢の周囲に散らばっていた黒い粒子が一点へと引き寄せられ、Ignis属性のエネルギーが急速に圧縮されていく。ルクス因子の密度が、その一点だけ異様に高くなった。
「収束——散開!」
轟音が来た。
圧縮されたIgnis放出。黒く変色したエネルギーの塊が解放され、熱と衝撃波を同時に叩き込む。光柱が通路を縦に貫いた。シルヴィアのエアルが防壁を張るが、出力差が違いすぎた。
マリナは干渉膜を全展開で受けた。外套の表面が燃える。ヴェールアゼル素材が限界以上のAeris干渉を吸収し、衝撃の方向だけを変えた。貫かれはしない。が——
衝撃波が、彼女を吹き飛ばした。
壁に叩きつけられる。乾いた音がした。ずり落ちる。外套の右肩が炭化して崩れた。立ち上がろうとして、膝が滑った。
同時に六本の腕が迫る。マリナの周囲を包囲するように、天井から。床から。壁の両側から。逃げ場がなかった。クラスⅢが彼女を選んだ——管理者キーの反応だ。複数の鍵を同時に確保しようとしている。
マリナのイノベルムが展開する。干渉膜が広がる。だが六本の腕は均等に圧縮を始めた。外から。内から。じわじわと。彼女の防壁を潰していく。
「マリナァ!」
ユトスは走った。刃を振り上げて腕に叩き込む——弾かれた。
ヴェゼルの枯渇が完全になっていた。刃が薄すぎる。Terra素材で強化された腕に通らなかった。
次の瞬間、横から腕が来た。
胸に直撃した。
肺から空気が消えた。体が後方へ吹き飛ぶ。床を二度転がり、瓦礫に背中を打って止まった。鉄の味が口に広がる。右腕が動かない。ノードの伝達経路が焼けている。視界の端が赤く染まっていた。
立ち上がろうとした。
膝が震えた。
マリナの防壁が軋んでいた。割れ始めていた。シルヴィアは操作台が潰れて膝をついたまま、一機だけ残ったエアルを起動しようと端末を握り直していた。指が震えていた。それでも止まらなかった。
(また)
思考が、そこで止まる。
(また)
この感覚だけが鮮明だった。あの日も、こうだった。
*
任務が失敗した夜だった。仲間が怪我をした。ユトスの判断ミスだった。格納庫の隅で一人でいたら、ロイが来た。理由を聞かなかった。何も言わずに隣に座った。しばらくして、缶コーヒーを一つ渡してきた。冷めていた。
「……ぬるい」
「自販機、一番遠いやつしかなかった」
何の話だよ。
ロイが床に足を伸ばして、天井を見た。換気扇が唸っている。遠くで誰かが走っている。
「お前さ」
「何だよ」
「死んでもいいと思ってるだろ、なんとなく」
返せなかった。
「俺はそれが嫌なんだよ」
ロイはそれだけ言って、また黙った。格納庫の音だけが続いた。
「別にかっこいいことは言えないけど」
空の缶を床に置いた。
「お前が生きてる方が、俺は嬉しい」
馬鹿みたいに単純だった。でもあの夜は、それだけで十分だった。
*
世界が戻る。
「十戒」
一瞬の出来事に何が起きたのか理解できないでいた。
赤い滲みの向こうに、マリナが見えた。防壁が崩壊寸前だった。シルヴィアは血の滲む額。一機だけのエアルが、起動するユトス。
ユトスは立つ。
意識したわけじゃない。
右腕が動かない。ヴェゼルが完全に枯渇している。残った出力はゼロに近い。それでも。
熱がなかった。応答がなかった。
——外から取り込む必要はない。
足を踏み込んだ瞬間——ノードの奥で、何かが弾けた。
Ignis属性の変換ではなかった。ヴェゼルを経由した供給でもなかった。もっと内側——焼き刻みが刻まれた神経回路の根っこで、直接、燃えた。
管理者キーが、応答していた。
光が走る。右腕から、肩を経由して首筋を上がり、背中まで。細い。でも鮮明だった。装甲が噛み合う音がした——金属音じゃない。ノード経路そのものが再編成される音。
視界が、変わった。
六本の腕の圧縮軌道が全部見えた。力の分散、タイミング、隙間の座標。シルヴィアのエアルが通れる角度——全部、一瞬で入ってきた。
「シルヴィア」
声が落ち着いていた。自分でも驚くくらいに。
返事はなかった。でも一機だけ青白い光が飛んだ。三時方向、腕の束の情報経路へ——迷わずに。
走った。
一本の下を潜る。二本目を右腕で弾く——動いた。三本目を肩で受ける、熱い、構わない。四本目、五本目、身体で押し返して前へ。エアルの術式が六本目の情報経路を焼き切った刹那、ユトスはマリナの手首を掴んで引いた。
腕が空を切った。
「っ——!」
マリナが、前に出た。言葉はなかった。外套がボロボロで、右肩から血が滲んでいた。琥珀色の瞳が、揺れながらも前を向いていた。干渉膜が広がる。
エアルが六機、跳ね上がる。三角軌道が二重に交差した。蒼光が格子状に走り——
「今だ!」
走る。並んで。肩が触れるくらいの距離で。腕が来る。二人で受ける。装甲が悲鳴を上げる。それでも前へ。
ヴェゼルが——唸った。
管理者キーの回路に引き寄せられるように、詰まっていたルクス因子の流れが動き始めた。Ignis変換が再開する。わずかに。でも確かに。
圧縮された蒼光が、二つ同時に弾けた。扇状の閃光が前方の腕を根元から一掃する。霧が逆流する。
視界が、開いた。
中枢が、むき出しになった。
脈打っていた。規則正しく。ゆっくり。まるで心臓みたいに。
霧の向こうで——ロイの顔が揺れていた。崩れかけていた。溶けかけていた。それでも笑おうとしていた。あの、片側だけ上がる口の端で。
ユトスの足が、一瞬だけ乱れた。
それだけだった。すぐに立て直した。
中枢まで、あと数メートル。
反射で軸をずらす。天井から落ちてきた腕が、肩口を掠めた。装甲が弾け飛ぶ。熱と痛みが遅れて走る。構わない。振り返らずに刃を逆手に持ち替え、背後へ突き込む。手応え。核が露出する感触。そのまま引き抜く。
黒い霧が広がった。
床が、脈打った。嫌な感触だった。地面そのものが生きているみたいに、足裏から振動が上がってくる。
直後、足元の床が爆ぜた。黒い腕が束になって突き出てくる。
空中で体を捻り、エアルを足場に軌道を変える。着地した瞬間、今度は壁が割れた。
また腕。また来る。また来る。
斬る。弾く。躱す。斬る。
肺が、焼け始めていた。
「ユトス、ノード警告!」
シルヴィアが叫んだ。
「出力落としてください!」
「落とせるか!」
怒鳴り返した瞬間、背後から衝撃が来た。
真後ろだった。エアルが間に合わなかった。腕が背中を直撃し、前方へ吹き飛ぶ。床を転がる。瓦礫が頬を削る。視界がぶれた。立ち上がろうとした。
膝が震えた。
ノードが悲鳴を上げている。波形が乱れる。出力が落ちる。刃が薄くなる。
まずい。
正面から腕が迫る。受けた。装甲が軋む。押し返せない。膝が折れる。床に手をつく。また来る。また来る。
視界の端が、赤くなり始めた。
「いくよ」
低い声が割り込んだ。深紺の外套が翻る。干渉膜が展開される。マリナがユトスの前に出た。
次の腕を、正面から受け止めた。衝撃。床が抉れる。だが止まった。
エアルが六機——マリナとユトスのエアルが合流し、同時に展開される。三角軌道が二重に交差する。蒼光が格子状に走り、ヴァジュタスの腕が次々と縫い止められた。
硬直。一瞬だけ、空間が凍りついた。
「今!」
ユトスは立ち上がった。膝が笑っていた。構わなかった。走った。硬直したヴァジュタスの腕の隙間を抜ける。一本、また一本。肩を掠める。装甲が削れる。止まらない。
中枢が、見えた。
近づくほど、密度が増した。
前が見えない。腕が、霧が、無数の黒い線が、中枢を覆い隠すように集まってくる。守っている。最後の一線だと言うように。ユトスはヴェゼルを引き絞った。低く唸る。蒼が脈打つ。空気が一瞬、冷たく沈む。
エンバース。
『白錬』
圧縮された蒼光が扇状に広がり、前方の腕を一掃する。霧が逆流する。視界が開く。
中枢が、むき出しになった。脈打っていた。規則正しく。ゆっくり。
ロイの顔が、霧の中に見えた。崩れかけていた。溶けかけていた。それでも——笑おうとしていた。あの、片側だけ上がる口の端で。ユトスの足が、一瞬だけ乱れた。
それだけだった。すぐに立て直した。中枢まで、あと数メートル。
「させないっ」
マリナが後方で叫んだ。
振り返る暇はなかった。だが音で分かった。彼女が残りの腕を全部引き受けた。外套の干渉膜が限界まで展開される。エアルが全機、防御に回る。衝撃が連続して響く。それでも声が来た。
「今だけです!」
一言だけ。シルヴィアが後方から叫んだ。
「最終出力!」
ヴェゼルが唸った。
残った全エネルギーが刃に集束する。蒼が白くなる。眩しくて、目を開けていられない。それでも開けた。目を逸らす理由がなかった。
走った。
腕が来る。受ける。また来る。受ける。装甲が割れる。血が滲む。肩が砕ける。膝が割れる。肺が焼ける。それでも走った。止まる理由が、なかった。中枢まで、あと一歩。
そのとき。ノイズが、消えた。ヴァジュタスの声ではなかった。歪みがなかった。ただの、声だった。手が、止まった。一瞬だけ。
「……」
間があった。長い間だった。ユトスは、目を閉じた。一拍だけ。
それから開いた。
「知ってる」
「お前はそういう奴だった。俺が一番知ってる」
沈黙が落ちた。ヴァジュタスの脈動が、ゆっくりと乱れ始めた。
蒼が、爆ぜた。中枢を、貫いた。ヴァジュタスが内側から崩れた。音はなかった。静かだった。黒い霧が霧散し、壁だったもの、天井だったもの、人だったものの境界が溶けて、ただの粒子に戻っていく。脈動が、止まった。
ロイの顔が——最後に一瞬だけ、はっきりする。
笑っていた。
ユトスは膝をついた。
意図したわけじゃない。足が折れた。それだけだ。粉塵が降る。蒼い光の残滓が宙に漂い、やがて消えた。
マリナが来た。何も言わなかった。隣に膝をついて、ただ、前を向いた。外套の肩口が裂けていた。血が滲んでいた。それでも座っていた。シルヴィアが後ろで静かに言った。
「ヴァジュタス、崩壊確認。侵食率——低下しています」
誰も動かなかった。ロイがいた場所には、何も残っていなかった。粉塵だけが、まだ、落ちていた。
【用語集】
・Ignis:変換属性。物質とエネルギーの相互転化を司る。イノベルムと刃の出力基盤。
・Aeris:情報属性。構造・記録・伝達を担う。ノードとエアルの動作基盤。
・Aqua:流動属性。状態変化・因果の流れを司る。クラスⅢの侵食域では阻害される。
・Terra:構造属性。物質・空間の固定を司る。クラスⅢが建造物を吸収するのはこの属性の取り込み。
・ルクス因子:四属性を内包する粒子。イノベルムの錬成素材。
・ヴェゼル:元素資源を圧縮・保持する鞘型構造体。クラスⅢ近傍ではAqua阻害により変換停止。
・管理者キー:神経構造に焼き付いたアラクス層へのアクセス権限。ヴェゼルを経由せず、ノード直結でIgnisを点火できる。
・エアル:Aeris属性の情報処理ユニット。Aquaが阻害される状況でも、Aeris系術式は独立して機能する。
・ヴェールアゼル干渉材:マリナの外套に縫い込まれた素材。Aeris属性の干渉膜を形成し、衝撃の方向を変換する。
・自錬化:イノベルム過負荷時に術士本体を素材と認識するリスク。本シーンでの管理者キー点火はこの境界に近い。
・十戒:世界改変。現実世界に戻す。詳細は不明。




