僕の幸せな結婚までのお話
晴れ渡る青空
今日は僕の結婚式
義父になるブルク侯爵にエスコートされ、舞い散る桜の花びらよりも美しく、優雅にバージンロードを僕の下へと歩む最愛の花嫁。
神託の巫女と呼ばれ、自身よりも皆の幸せのために生きてきた彼女を誰よりも幸せにすると誓う日。
幸せな僕の結婚までの話を聞いて欲しい。
◇・◇・◇・◇
僕はエーヴェル王国最西に領地を持つナイトレイ侯爵家の長男として生を受けた。
名前は レナート=ノア。生れ落ちた瞬間、伯母のリリィ=ローズ ・ ド・ ナイトレイ女伯爵が勝手に名付けてしまったそうだ。
ナイトレイの領地は広大な山岳地帯を有し、その山々から採掘される様々な鉱石を加工し製品として近隣諸国をはじめ、遥か遠方の国々へも流通させている。
鉱石だけなら珍しいものではないが、買い付けの商人や使者がわざわざ遠方から訪れる目当ては絵の具だ。
ナイトレイ産の鉱石は群を抜いた色鮮やかさが特徴だ。
更に、細かく砕いた鉱石の粉を絵の具として描面に定着させるためには動物の皮や骨や腱などから煮だした溶液を混ぜる必要があるのだが、ナイトレイ家には長年研究した秘伝の溶液の製法が伝えられている。元々持つ鉱石の色をさらに美しく発色させ、数十年後も描いた当時の美しさを損なわない。
故に各国の王侯貴族のお抱え画家や有名な画家からの注文が引きも切らないのだ。
ナイトレイ侯爵家では、各代に一人必ず色と絵の才能を持つ人間が生まれると言われていて、先代のその人が伯母であるリリィだった。
才能が認められると親族会議の承認の下、絵の具と秘伝の溶液のレシピを伝えられ、ミドルネームを与えられて、絵と絵の具の功績で与えられたナイトレイ伯爵位を継ぐことが決まる。
リリィはごく幼い頃から周囲が唸るほど非凡な才能を見せており、絵の情熱と特に色への拘りは歴代一と言われていた。13歳の時にローズというミドルネームを与えられてナイトレイ家始まって以来の初の女伯爵となり、その年に入った王都のアートアカデミーでも色んな意味で数々の伝説を作り続けていたらしい。
17歳と最年少でアートアカデミーの総裁に抜擢されて以来独身を貫き長年精力的に活動していて、今ではアカデミーの女傑と呼ばれている。
生れ落ちた瞬間にその女傑に見いだされ、ナイトレイ伯爵の象徴であるミドルネームまで与えられた僕は、物心つくころには当然のようにリリィ=ローズ女伯爵の仕事を手伝っていたため、鉱石の調合に加え、特に石と色ごとに変える溶液の調合と濃度や量の使い分けは息をするのと同じくらい体に染みついている。
そんな僕に、唯一作りだせない色がある。
幼い頃から定期的に見る夢で、葉のない大きな木を覆い尽くす様に桃色の小さな花が咲き誇っている風景だ。薄い桃色の小さな花弁が風に乗ってはらはらと舞い落ちる風景が幻想的で美しく、目が覚めるといつもなぜか目に涙がたまっている。
そんな木も花も見たことも聞いた事もなく、子どもの頃は不思議な夢だと思っていただけだったが、長じるにつれ、なぜかその風景を留めておかなければならないような気持ちが募っていった。
しかし、どんな調合をしても描き方を変えても描く紙や布などを変えてみても、あの夢の色にならないのだ。夢を見るたびに取りつかれたように調合しては同じ絵を描いている僕を、伯母は満足そうに見て笑っている。
「どんな色でも作れるなどと驕っているからそんな目に合うんだぞ。同じ色でも自分と同じに見える人間はいないからな。」
そんなことはわかってると、口をとがらせて絵の具に目をおとしていてふと思った。
夢を見ている僕と、夢の中であの花を見ている人間は違うのかもしれない。
13歳になり、領地で絵と絵の具の調合に明け暮れていた僕は正式にレナート=ノア・ド・ナイトレイ小伯爵となり、王都のアートアカデミーに入学することになった。
それと同時にナイトレイ侯爵位は一つ年下の妹ミレリアが継ぐことに正式に決まり、飛び級で王都の王立アカデミーの経営学科に合格した優秀な妹は、僕と一緒に王都のタウンハウスへ向かうことになった。
ミレリアは出発前に開かれた壮行の晩餐会の席で、みんなから祝いの言葉を貰う度にレナートを頼むぞと言われている。
普通は兄の私に言う言葉ではないだろうかと解せぬ思いで見つめていると、ミレリアに呆れた顔で言われた。
「絵の具バカのお兄さまを一人にしてはおけないもの。皆さま心配してくださっているのよ。」
「僕は至って普通だ。」
そう答えると、ワイングラス片手に伯母が言い放った。
「ナイトレイ伯爵の仕事をこなしている時点で変わり者なんだ。そもそも何日も夜通し絵の具の調合をして倒れる人間が普通であるわけがないだろう。ノア、そろそろ自覚を持て。」
周囲を見渡すと皆納得の表情をしている。
ちょっと人としての自信がなくなってきた。
王都と領地は馬車で12日かかる。
言葉としてはわかっていたが、実際移動してみるととんでもなく遠い。気が遠くなるほど遠い。
年に何度も頻繁にこの距離を行き来している伯母のリリィ=ローズは一体どんな体をしているんだ。
女傑と言われる理由の一つが分かった気がした。
なんとか王都にたどり着き、タウンハウスで入学の準備をする。
伯母のリリィ=ローズは馬車から降りると同時にドレスを脱ぎ棄ていつものシンプルなリネンワンピースに着替えてアトリエに籠った。
これから数日は声を掛けてもろくな返事は返ってこないだろう。
二人で移動途中の村や町の風景をスケッチしていたのだが、その中の一場面が気に入ったらしいことは気が付いていた。午後遅く、手を伸ばす夜と昼の色が溶け合ったその空の色は僕の脳裏にも残っている。
メイドから絵の具の調合のメモを渡され、記憶の中にある色を数十色調合していく。
ノックの音にドアを開けると、侍従が朝食の迎えに来ていた。
「そう言う所よ、お兄さま。」
酷い顔色の僕を見て、ミレリアはため息を吐いている。
ますます自信がなくなってきた。
アートアカデミーでは、予想の遥か斜め上に君臨する伯母のリリィ=ローズの弾けっぷりを目の当たりにしながら刺激的な4年間を過ごした。
アートアカデミーの指導に王室主催の展覧会の準備や肖像画の依頼、自身の個展に教会の絵画の補修の請負まで、古い慣例で無駄だと思うものは容赦なく切り捨てて新しい試みや新しい人材を勝手に採用していく。お金を出す大臣相手にさえ文句を言わせない迫力満点の姿に驚き、新しいものを取り入れる際に必要な研究は、玉石混淆のまま手当たり次第に実験するので、派手に失敗しては頭を抱える出資者の背中をバンバン叩いて豪快に笑っていたり。
一応は侯爵令嬢だったのだが、きっと若い頃から令嬢という言葉とは無縁だったのだろう。
アカデミー卒業間近のある日、ミレリアに言ってみた。
「伯母のリリィ=ローズに比べるとやっぱり僕は普通の人間だと思う。」
ミレリアは遠い目をして答えた。
「…比べる対象を絞ったことは評価しますわ。でも、相変わらずそう言う所ですわよ、お兄さま。」
王都に来てから、僕にはもう一つ居場所が出来た。
タウンハウスのアトリエは伯母のリリィ=ローズが占拠していて僕の作業場は調色室のみだったので、ナイトレイ侯爵家が支援して、今ではミレリアが管理している王都の教会に併設する孤児院で絵や勉強を教える代わりに空いている部屋を一つ貸してもらえることになったのだ。
理由は簡単、タウンハウスから歩いて数分の立地と、何よりそこでの僕の行動は全てミレリアに報告が上がり、行動が把握できるからだ。そして、食事の時間には従者が必ず迎えに来る。
この頃には少し人と違うと自覚し始めたこともあり、将来の侯爵が妹であるミレリアで本当にありがたいと思った。壮行会の親戚の言葉も納得だ。
アートアカデミーを卒業後は、アートアカデミー唯一の調色博士として研究所と部屋を与えられる事になっているが、教会の部屋はそのまま貸してもらっている。
王家の肖像画家の打診には、まだ返事をする決心がつかないでいる。
ここで、今ではライフワークとなったあの夢の中の薄桃色の花を描き続けている。
繰り返し夢に出てくるその風景を、どうしても書き留めておきたい。
忘れることなど出来ないし、絶対に忘れてはいけないとも強く思う。
ここへ来てからもう100枚以上描いた絵のどれもが今はまだ納得できていない。
それでもきっといつか、必ず納得できる風景を書き留める事が出来ると不思議な確信があるのだ。
研究所が休みの今日、朝から部屋で絵を描いていると周囲が騒がしくなってきた。
窓から通りを見ると、伯母のリリィ=ローズとミレリアが出迎え、王家の馬車から第四王子のフィリップ殿下が降りて来た。
僕が今日ここにいる事はミレリアには言っていなかったからいないことになってるんだろうな。挨拶にもいかなくて良いか。
そう思って作業に戻ってしばらくすると後ろから声がかかった。
「やっぱり素晴らしいな」
驚いて顔を上げると第四王子のフィリップ殿下その人が入口に立っていた。
慌てて礼を取ろうとしたところ、レナート殿に会いたくてミレリア嬢に無理を言って休みの日に急に押しかけて来てしまったのはこちらだからと止められた。
「先日、大叔父上のフランシア大公夫妻の肖像画を描いただろう?それを自慢されて見せてもらった絵は本当に素晴らしかった。誇張も若作りも一切していないのに、しわの一本まで忠実に書かれているにも関わらず、美しいと思ってしまった。お二人の内面の人柄がにじみ出ているようで、羨ましかったんだ。
是非、来月の私と婚約者の聖女ココの成婚の肖像画を君の筆に委ねたいんだ。」
そう言われてとても光栄だったが、私は私の見たまましか書けませんと正直に答えた。
「伯母のリリィ=ローズも、見たままにしか描けずご婦人方には不人気と聞きますし…」
と、困った表情を向けるとフィリップ殿下が私のあの薄桃色の花の絵を目を見開いて食い入るように見つめている。
声を掛けると、はっと我に返った様子で真剣な表情で聞かれた。
「レナート殿は、桜を見たことがあるのか?」
食い入るように見つめられて、少々驚きながら否定した。
「いえ、これは子供のころからずっと夢に見続けている風景なんです。その花の名前は今知りました。
殿下はこの花を良くご存じなのでしょうか。この国でも近隣の国でも見たことがないので、長い間、幼い私の想像の産物だと思っていました。」
僕は他の膨大な数の桜の絵も見せながらさらに続けた。
「どんなに思い出しながら描いても描いても、夢と同じにならないのです。
この花が夢に出てきたときは、切ないような悲しいような不思議な気持ちになるんです。
忘れたくない、絶対忘れてはいけないとも強く思っていて、目が覚めると描き留めずにいられない。
そんな風に過ごすうちに、こんな枚数になってしまいました。
本物と比べてどうですか?」
そう言ってフィリップ殿下を振り返ると、思いつめたような表情で絵をじっと見ている。
「桜は、今は使っていない王宮の北にある離宮の庭にたくさんある。王宮内でも王族しか入れない場所で閉鎖されているから知る人はほとんどいないが…。
数代前の国王が当時の聖女を見初めて、教会は聖女を妾として差し出したんだ。
彼女は離宮に迎えられたけど、王妃やその周辺から守ってくれる人がいなくて体を壊してしまった。
その聖女を慰めるために、彼女が好きだと言った桜に似た木を大陸の端からさらに海を渡った先にある国から取り寄せたと聞いている。」
そう言いながら、なおもフィリップ殿下はじっと桜の絵を見つめている。
「…そうですか。切ない話ですね…。」
そういうと、フィリップ殿下は慌てて続けた。
「いや、そんなことは無いんだ! 桜は聖女が居た世界では春を告げる象徴の花で、民は皆桜が咲く日を指折り数えて楽しみにしているそうだ。咲き始めから散るまで10日程しかないから、桜の時期は春の訪れを祝う祭りの時期でもあるらしい。」
振り返ったフィリップ殿下に肩を掴まれて約束させられた。肖像画の件は出来ればよい返事をもらいたいが、それよりも! 次の桜の時期に離宮に招待するからぜひ本物の桜を見に来て欲しい。絶対来ると約束してくれと。
私が、分かりましたと返事をすると、フィリップ殿下はなんだか慌てた様子で戻っていった。
何だったんだろう。
そう思いながら思わずそばに広げた桜の絵たちに笑いかけてしまった。
「君たちは桜って言う名前だったんだな。」
この花の名前が分かり、しかも近々本物を見る事が出来るなんてことが一気に起こるなど思ってもみなかった。ずっと会いたい人にやっと会えるような高揚感がなんだか不思議だった。
◎・◎・◎・◎
お兄さまは自分の才能に無自覚すぎる。
本人は、私や家族が揶揄っていう「絵の具バカ」を、至って真面目にその通りに受け止めている。
それもこれも、リリィ伯母様が子供のころからナイトレイ伯爵家の仕事をさせたりするからいけなかったんだわ。
生まれてすぐにナイトレイ伯爵家の後継象徴であるミドルネームまで勝手につけてしまったことも、まだ年端の行かない幼児のお兄さまにナイトレイ伯爵家の秘伝を教えてあろうことかその作業をさせたりすることに親戚たちはお冠だったが、普通の人では到底出来ない調色をはじめ、スケッチやデッサンなどもリリィ伯母様の適当すぎる説明を一度聞いただけで当たり前に出来てしまうお兄さまを見て認めざるを得なくなったようで、リリィ伯母様には誰も何も言えなくなってしまった。お陰でリリィ伯母様はナイトレイ伯爵の仕事の大半をお兄さまに任せて、それはもうやりたい放題に生きている。
お兄さまの最大のマイナスポイントは、肖像画が苦手だと思っている事だ。
手前みそと言われようと、私はお兄さまの描く肖像画よりも素晴らしい絵を見たことがない。
領地に居た時には毎年必ず家族の肖像画を描いていた。
お兄さまは皆を前に坐らせてポーズを取らせたりしない。みんなを集めて談笑させるのだ。みんなの楽しそうな会話を聞きながら、透き通るような眼差しを向けてその様子を描いていく。
出来上がった肖像画は、誇張は一切なくもその絵の中の人たちから笑い声が聞こえてきそうなほど生き生きしている。使用人たちの結婚式には必ず式に駆け付け、その幸せ溢れる一場面を祝福の声ごと切り取ったような絵を祝いとして送る。
正に天才、その一言に尽きる。
しかし当の本人はその完成を見て、やっぱり見たままにしか描けないとため息を吐いているのを見ると、目を覚ませと頬を張りたくなってくる。一応令嬢なのでやりませんけれども。
もし本当にやってしまっても、良くやったと褒めてもらえる自信がある。
リリィ伯母様曰く、ノアが見ている世界と私たち大多数が見ている世界がきっと違うんだろうから、どんなに言って聞かせても無駄。なのだそう。
先日、フランシア大公夫妻の銀婚式の肖像画を依頼され、お二人はわざわざ我が侯爵邸のタウンハウスへ足を運んで下さった。
お二人からは出会った頃のお話やご夫婦円満の秘訣など、息の合った掛け合いを楽しく伺いながら、お兄さまはいつもの透き通る瞳を楽し気に細めてお二人の姿を描き留めていた。
そして出来上がった肖像画をお届けした日、その絵を前にモデルのフランシア大公夫妻はじめ、御家中の皆さんが息を飲んだのが分かった。長年培った深い愛情と信頼、お互いを思いやり寄り添う柔らかな雰囲気、そして、若さだけでは到底適わない年を重ねた深みのある美しさ。
大公妃様は涙を浮かべて褒めて下さった。
レナート様にお願いして本当に良かったと。
フランシア大公夫妻の銀婚式のパーティーは、それは華やかなものだったそうだ。
広間にはあの肖像画が掲げられ、招待客から挨拶を受けるたびに自慢していたのだとか。
そして今日、学園で同じクラスの第四王子フィリップ殿下に呼び止められたのだ。
「ナイトレイ小伯爵はミレリア嬢の兄上だよね。肖像画をお願いしたいのだけれど、紹介してもらえないだろうか。」
お兄さまにはどこかで自信をつけてもらって肖像画家としても大成してほしい。
そう思って、同級生の今しか直に接するチャンスがないフィリップ殿下に思い切って伝えてみた。
「兄に肖像画を依頼するとき、事前にアポイントを取ろうとするとしり込みして逃げます。
突然訪ねて考える暇を与えずに承諾させるのがコツです。
失礼ながらフランシア大公ご夫妻にもそうしていただきました。
今日、兄は休みで孤児院の作業場に居るはずです。不躾で申し訳ございませんが、本日孤児院にいらしていただければ成功率は高いかと。」
フィリップ殿下は心底驚いたように聞き返してきた。
「あの絵を描いた人物が何をしり込みするの? 私も見たんだが、本当に素晴らしい出来だった。」
「兄曰く、見たままにしか描けなくて申し訳ないのだと。」
怪訝な表情を浮かべたフィリップ殿下は、では今日の午後に伺うよと手を振ってココ様たちの待つ席へと戻っていった。
第四王子フィリップ殿下と聖女ココ様が女神さまのご神託によってご婚約されたのはもう10年も前の事だ。
巫女として神託を授けたのは当時フィリップ殿下の婚約者だったブルク侯爵家のルイーゼ様だった。
ルイーゼ様は神託の奇跡を起こした後、フィリップ殿下の婚約者だったことや聖女ココ様と共に交流を深めていた間の記憶を女神さまにお返ししたと聞いている。
その間のお二人と過ごした記憶が一切ないのは周囲の皆が何度も確認し、結局その神託通りにルイーゼ様との婚約は白紙とされ、フィリップ殿下と聖女ココ様の婚約が成ったのだ。
教会関係者やそれに追従する人々は声高に聖女ココ様を王家が取り込むための陰謀であり神への冒涜だと言い募り、結果として王家が侯爵令嬢であるルイーゼ様を蔑ろにする行為となったことに眉を顰める貴族家も多かった。
しかし、当のルイーゼ様が身寄りのない聖女ココ様をブルク侯爵家の養女に迎える事を強く願い、義姉となったココ様と婚約者のフィリップ殿下の強力な後ろ盾となって、矢面に立ち続けたのだ。
同情を装いつつルイーゼ様からお二人への負の言葉を引き出そうとする人物や噂を駆使して貶めようとする人々は後を絶たなかったらしいが、神託の巫女は一筋縄ではいかなかった。
10歳にも満たない少女でありながら、当時の老獪な大司教様と互角に対峙する才女の見事な切り替えしで次々に返り討ちにして行く姿に、彼女の前でフィリップ様と聖女ココ様へ不遜な態度を表に出す人間はいなくなった。
そして、聖女ココ様の革新的な医療知識とフィリップ王子と共に精力的に行う公衆衛生への献身的な取り組みが流行り病の拡大防止と初期の抑え込みに絶大な効果を顕したことで未来の第四王子夫妻としての功績は誰の目にも明らかだった。
『聖女ココの英知は広く王国民に提供されるものであり、教会の中で奇跡を生み出す類いの物ではない。聖女ココは王族の伴侶となり、国のためにその英智と奇跡を公開する』
奇しくも神託の予言通りの結果に、フィリップ殿下と聖女ココ様の地位も信望も揺るぎないものとなっている。
そしてその陰には常にルイーゼ様の献身と彼女を支えるワイマー大公閣下の姿があった。
聖女ココ様の医療や公衆衛生の知識に肉付けをして対策や有効な流布方法を考え、施策を行うための資金調達方法から周辺貴族への根回しや効果的な支援要請案まで、新しい政策の度に宰相閣下が舌を巻く程完璧な請願書が届くという。
あれから10年、彼らの数々の功績や血の滲むような努力を尻目に、フィリップ殿下と聖女ココ様の結婚式を間近に控えた今、学園内でかつての噂をひそやかに囁く者が現れ始めた。
婚約者を捨てた薄情な王子
婚約者から王子を奪った性悪な聖女
婚約者を聖女に奪われた魅力のない令嬢
妬みは人の心の窓を曇らせる。
曇った窓の向こうに締め出して見えないからと言って彼らの功績や努力は無くならない。
見えないのは締め出した本人たちだけだと気づいた時にはもう遅いというのに。
学園の庭園の隅で噂話を囁き合っている令嬢たちを見かけて、ふと、お兄さまに彼女らの肖像画を描かせたらどんな絵になるだろうと思った。
だめだ、お兄さまのあの透き通った瞳にこの醜悪なものを写してはいけない。
あのお兄さまの透き通った瞳には、彼の描く絵に相応しい美しいものだけを映すのだ。
女侯爵の地位は高い。
お兄さまの才能を守るために地位と財産をフル活用できる私をお兄さまの妹に選んだ神様を、とっても褒めて差し上げたい。
◇・◇・◇・◇
ココとの結婚式を控え、私とココは王妃の茶会に招かれた。
今日は珍しくルイーゼ嬢が同席しておらず、三人でルイーゼ嬢がココを王城に連れてきた日とその頃を懐かしく穏やかに話していた。
あの頃はルイーゼ嬢が婚約者として王城で暮らしており、頻繁に訪問するブルク侯爵家の人々とも家族の様に楽しく過ごしていたのだ。
ルイーゼ嬢曰く、ココは召喚前の世界では特別とされる高貴な家柄の令嬢だったという。
幼くして召喚されたとはいえ、その躾はこの世界の貴族令嬢と遜色がないはずだとも言っていた。
その言葉通り、ココのマナーや所作は教育係が驚くほどの優雅さと気品があり、こちらの世界の知識も砂に水が滲み込むように吸収して行った。
そして、子供のころから病院で過ごしていたのなら、医療知識や公衆衛生に詳しいはずだと色々質問して行き、この世界で転用できる方法や手段、広めて活用していく方法など一緒に考えてココの居場所を作る手助けをしてくれていた。
そんな中、女神さまの神託が顕現し、ルイーゼ嬢は私とココの記憶を手放してしまった。
私は当時、ルイーゼ嬢という婚約者がありながらココに惹かれてしまったことを隠すのに必死だった。
その醜い心を女神さまに見抜かれて、ルイーゼ嬢から私の記憶を消されたのだと思っていた。
それはココも同じで、二人が屈託なく幸せになるなど許されないのではという気持ちがお互いの心の底に重石のように残っていた。
しばらくの歓談の後、王妃が人払いをして真剣な表情で私とココに向き直った。
「ルイーゼ嬢には固く口止めされているけれど、あなたたちには話しておかなくてはなりません。
ルイーゼ嬢が神託を受けたあの日の事は、全てルイーゼ嬢の計画です。この事を知っているのは陛下と私、ワイマー大公閣下とブルク侯爵夫妻だけです。
それから、ルイーゼ嬢は記憶を失ってはいないわ」
ああ、やはり。
時折ふと、以前の記憶があるのではと思う事があった。
しかし、ココとの婚約がなくなることを恐れた私はそのことに目を瞑ってしまったのだ。
傍らのココはハンカチで静かに目元を押さえている。
「どうあれ、この10年の事を振り返ってもルイーゼ嬢が心からあなたたちの幸せを願ってくれている事は明らかです。彼女の気持ちを汲み、民に尽くして必ず二人で幸せになりなさい。」
そう言って立ち去った王妃と入れ替わりに、ルイーゼ嬢が案内されてやって来た。
私たちの様子を見て、王妃様は話してしまわれたのねと、眉尻を下げて微笑んで言った。
「私の秘密を聞いて下さる?」
ルイーゼ嬢は、ココの召喚の日に見た前世の記憶を話してくれた。
ココの召喚前の人生を聞き、せっかく生まれ変わったこの世界でココが幸せになるように力を貸すと決めたこと、私たちが想い合っている事に気が付いてあの神託の場を計画した事も。
「だって、あの時の私たちは7歳だったでしょう? 前世の私が亡くなった時の孫と同じくらいの年齢だったのですもの。フィリップ殿下が孫と同じに見えて困惑していたの。結婚なんて絶対無理だって思ってしまったこと、許していただけるかしら?」
おどけた口調でそう告げられた後、柔らかい表情になってもう一つの秘密も告げられた。
桜の木の下の前世の夫からの告白が嬉しくて、約束のその日を心待ちにしている事を。
「今の私の姿が前世と違うように、彼もきっと前の姿ではないと思うの。でもね、彼の透き通った瞳はきっと変わらないわ。」
そう華やかに笑って、ルイーゼ嬢は帰っていった。
残された私とココは、彼女の今までに報いるために私たちの人生を捧げる事を決めた。
桜はこの国や近隣諸国には自生していないが、今は閉鎖されている離宮の奥の庭で毎年春になると息を飲むほど美しく咲き誇っている。
私たちの結婚式の一月後、奇しくもルイーゼ嬢の18歳の誕生日頃に桜が満開になるのだ。この時期、このタイミング、これも女神様からの思し召しかもしれない。
私たちは、自身の結婚式の準備もそこそこに、ルイーゼ嬢の誕生日パーティーの準備を始めた。
◇・◇・◇・◇
フィリップ殿下から招待状が届いた。
以前聞いた、王宮の北の離宮にある桜の庭で、ご友人の誕生日パーティーを開催するそうだ。
満開の桜をぜひその目で見て欲しいと直筆でお言葉が添えられている。
ありがたいと思う反面、そういえば肖像画の返事をしていないなと思い至ってため息が出た。
お二人の婚姻式は先月だった。
第四王子と聖女の結婚式とは言え、いずれは臣下に下るのだからとあまり華々しくせずに、浮いた費用の一部は王都病院の新棟建設に回されたと話題になった。
そんな奇特なお二人には、後世に残る華やかで素晴らしい肖像画が相応しいのに、見たままにしか描けない僕では力不足だとやはり気が重い。
一緒に招待されているミレリアにそういうと、いつになく真剣に見つめられた。
「お兄さま、いつも絵の具バカって揶揄って本当にごめんなさい。」
は? びっくりしすぎて声が出ない。
「お兄さまは肖像画の天才よ。私だけでなく書いてもらった方たちの評価ももちろん、その肖像画を見た人は皆そう思っているわ。私は肖像画の納品に行く度に絵を見た皆さまが息を呑む姿を見るのを楽しみにしているの。そして必ず言われるのよ。『レナート様にお願いして本当に良かった』と。
いつも見たままにしか描けないと言っているわよね。それが本当なら、お兄さまに見えているものが私たちとは違っているのよ。リリィ伯母様もそうおっしゃっていたわ。どうか自覚を持って? お兄さまの見ている世界は、普通の人が見ている世界よりもずっとずっと美しいの。」
変なものでも食べたのかと言うと、せっかく一世一代の決心で話したのにとぷりぷり怒っている。
でも、誰に言われるよりミレリアに言われたことは信用できるし、そう思ってくれている事が嬉しいというと、あっけにとられた顔で今度は涙ぐみながらやっぱりぷりぷり怒って言われた。
「私は女侯爵としてお兄さまの美しい世界を守るって決めてるの! もう、不意打ちだなんて、相変わらずそういう所よ、お兄さま!」
ミレリアが妹で本当に良かったと思う。
そして迎えた北の離宮でのパーティーの日、案内された庭園で僕は満開の桜に圧倒された。
辺りの空気まで仄かな桃色に染め上げ、はらりはらりと優雅に風に舞う花弁の軌跡さえも美しい。
夢に見たこの風景、この空気感、この温度、そしてそのすべてを含んだこの色たち。
ああ、今なら描ける。
そう思った時、白昼夢のように目の前に見たことのない異世界が広がった。
‥‥◆◆‥‥◆◆‥‥
隣に住んでいる日本画の師匠は、年を重ねるにつれ頑固になっているらしい。
ご家族から、僕の言う事なら聞くからという理由で休日には必ず呼び出され、なんとなく世話をしている。
締め切った部屋から連れ出し、お手伝いさんが部屋の掃除をしている間に庭の見える北の座敷の縁側で一緒に絵を描く。岩絵の具を膠で溶く手伝いをしながら、毎日遅くまで絵を描いていてはいけないとか、ちゃんとご飯を食べてとか、たまには外に散歩に行こうとか、ご家族に頼まれた伝言を交えながら世間話をする。
そんなある日、庭に女の子が立っていた。高校を卒業したばかりの遠縁のお嬢さんだそうだ。
ちょっと首をかしげてにっこり会釈をされた。
たったそれだけの事がずっと頭から離れず、誰にも言わなかったはずなのにいつの間にか見合いの席が設けられ、周囲の皆から良かった良かったと祝われて、程なく僕は彼女と結婚した。
もちろん、誠心誠意大切にしたし、娘が生まれてからは彼女と娘が幸せであるように願い、尽くしてきたつもりだった。しかし、10歳も年下の彼女にどう接していいのか戸惑い続け、一目惚れだったことも、出会った時からずっと好きだったことも、結婚出来て嬉しかったことも伝えられずにいた。
彼女が余命宣告を受けた次の日、僕は美術教師を辞めた。
医師に告げられた時間は3か月。
その日から彼女のそばを離れないと決めた。彼女がやりたいという事を一緒にやり、行きたいという所には一緒に旅行に行った。
持たないと言われていた春を迎え、体力的にもこれが最後だと思う旅行先で、満開の桜の下で渾身の告白をした。もしも君と同じ年だったら、もっと素直に好意を伝えられていただろうかと、ずっと思っていた事だった。
「生まれ変わったら今度は君と同い年になる。出会った時の君と同じ18歳の春、僕は君にもう一度一目ぼれをして恋をするんだ。」
◇・◇・◇・◇
夢から覚めたように辺りの風景が戻ると、花びらの舞い散る桜の木の下に彼女が立っている。
ちょっと首をかしげて会釈をする彼女の癖をそのままに、美しい笑顔を向けられた。
やっと辿り着けた。
万感の思いを込めて自己紹介した。
「初めまして、レナート=ノア・ド・ナイトレイと申します。美しい人、あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか。」
◎◎‥‥◎◎‥‥◎◎‥‥
ああ、今年も届いたのか。
毎年ルイーゼの誕生日に贈られるナイトレイ伯爵家族の肖像画だ。
体調が悪い日が続き、眠っている時間が増えている私にマリアが優しく声を掛けてくれ、背中に当てるクッションの位置を調整して絵を見やすい様にしてくれる。
相変わらず、まるでそこにいて声が聞こえるような幸せにあふれた家族の肖像画だ。
家族の肖像画になぜ君が居ないんだ? と言って以来、鏡に映る家族の肖像画を描く画家の姿が書き足されるようになった。
全く、彼らしい。
肖像画の天才、色彩の魔術師などの賞賛を受けるたびに、恥ずかしそうに目を泳がせるレナート=ノア・ド・ナイトレイ伯爵を義息子と呼ぶようになって10年が過ぎた。
満開の桜の下で運命の出会いを果たした二人は、次の年の桜が満開の日、あの離宮で皆に祝福されて結婚式を挙げ、今は遠く離れたナイトレイ領で家族仲良く幸せに暮らしている。
遠方すぎて年に何度も会わせてあげる事が出来ないからと、レナート殿からは頻繁にルイーゼや孫たちの幸せそうな瞬間を切り取った小さなポートレートが届けられる。
今ではワイマー大公夫妻となったフィリップ様とココ様はあの北の離宮を居城として賜り、そこを拠点に医療技術と公衆衛生を広めるために国中を飛び回っている。
その旅程で毎年必ずナイトレイ領で数週間の休暇を過ごして交流を続けていて、王都に戻ると一番に私とマリアの元に訪れてナイトレイ領での土産話を聞かせてくれる。
先代のワイマー大公閣下は、フィリップ様とココ様夫妻に地位を譲った後、ルイーゼに請われてナイトレイ領に暮らしている。
孫娘夫妻とひ孫たちに大切にされて幸せに過ごす一方、意気投合したリリィ=ローズ殿の茶飲み友達兼、仕事の相談役として刺激的な体験もされているようだ。
ルイーゼを甚く気に入ったリリィ=ローズ殿は領地に戻るとルイーゼから離れず、レナート殿とルイーゼを取り合って喧嘩しているとか、ルイーゼの末の息子が生れ落ちると同時にまたもや勝手にミドルネームを付けようとして、命名権を主張するミレリア女侯爵と喧嘩していたとか。
当のリリィ=ローズ殿と言えば、爵位をレナート殿に譲ってから自由になった事でさらにパワーアップして国内外を駆け回っているようだ。王都に滞在するときには必ず我が侯爵邸に訪れて、ルイーゼや孫たちの近況を伝えてくれる。甥にはもったいない程の素晴らしい嫁だと毎回盛大に自慢しては春の嵐のようにあっという間に去って行く。女傑の名を手放す日はまだまだ先のようだ。
ルイーゼを送り出してからの10年、愛娘を手放した寂しさを周囲の温かさが支えてくれたことに感謝し、肖像画を眺めながらマリアとさまざまな思い出を語り合う。
ああ、少し疲れてしまったようだ。横になり額にマリアの口づけを受けて幸せな気持ちで眠りについた。