第0話 夜当番
「石滝先生、施錠確認完了しました」
「ん。誰も残ってないの、ちゃんと確認した?」
「はい。一緒に回ってくださった藤原先生と吉住先生もお先に帰られました」
「よし。じゃあ僕ら以外誰もいないね」
「……あの、それは……」
「ああ、いや」
新米女教師の加洲がわずかに不安感を浮かべた表情をするのを見て、一年生の学年主任を務める石滝は狼狽した。
「ちがう、今のは、ああ、ごめんね」
「い、いえ、こちらこそ」
「すまない、申し訳ない、疲れてて、ああごめん、ごめんね、気持ち悪かったね、すまない、すみません、すみません、ああ、あああああっ、ぐうっ、うううう」
尋常ではないうろたえ方だった。
神妙な顔つきでノートPCに向かっていたベテラン教師の風格はどこへやら、隙間風の音に怯えて泣き出す子供のように石滝は謝罪を繰り返す。
加洲は彼の怯えを取り除けるよう努めて優しい声色で「謝らなくていいですから」と繰り返し、間食の駄菓子を差し出したりコーヒーを勧めたりして宥めたのち無理やりに話題を変えた。
「その、それで。今日は戸締り後の大事な業務を教えてくださるとのことでしたが」
「うううぅ……。そうだったね。じゃあ案内するから付いてきて」
パニックから突然平静に戻った主任教師はノートPCといくつかのファイルを机から回収すると、職員室の壁に掛かった一つの鍵を摘まみ取って出入口へと歩いていく。
さっきまでの光景は新しい環境に慣れない自分が見た悪夢かなにかかと一瞬疑ったが、加洲はすぐに考えるのをやめて彼に付いて行く。
この職に就いて一か月。私立学校教師の過酷な労働環境にいち早く慣れるためには、思考停止能力が必要だったのだ。
職員室に誰も残っていないことを確認すると、外で待っていた石滝は職員室の明かりを消し扉を施錠した。
「あれ、帰っちゃうんですか? でしたら私中にまだカバンが……」
「んーん。後で戻ってくるよ」
「こっち」詳しい説明を後回しにして、彼は夜の学校の暗い廊下を歩きだす。
なぜ先に話をしてくれないのか。不信感と疲労から刺々しい気持ちが湧き起こってくるのを感じながら、加洲はその後を追う。
足音からその感情が伝わってしまったのだろうか、やがて石滝は特別棟の階段を下りながら、振り返ることなく訊いてきた。
「加洲先生はOB……いや、OGっていうのかな、でしたよね? 卒業生。それも、あの七不思議事件当時の」
「えっ……、その、ええ。…………はい」
びくりと加洲の肩が跳ねた。適当な相槌にも震えが混じる。どう受け答えしたものかしどろもどろになり、それが誠実でないことについて罪悪感を覚える。
石滝はそんな様子の加洲をやはり振り返らないまま、無言で前を歩き続けた。
こつ、こつ。足音が響く。滲みだした夜の暗闇が小さな音を何倍にも響かせておどろおどろしくする。
何度見ていようと、白色の照明が照らしていても、昼間備えている騒がしさを一切失ってしまった校舎はそら恐ろしい気分がするものだった。
何気ない音の一つがまつろわぬ者の存在を示唆するかのように感じる。足音がいつのまに増えていたらどうしようと想像する。窓を叩く風の音から子供の手のひらが張り付いたガラスを想像する。鋭敏化した感覚がすべて恐怖へ繋がろうとする。
背筋に覚えた寒気から逃れようとして加洲は主任教師に聞き返した。
「あの、これからする『大事な業務』というのは、関係があることなのですか? その……七不思議の、ことと」
「うん」
特別棟一階の廊下。頭上に「放送準備室」という名札が突き出たその扉の前で主任は止まる。振り返って、新人に向かってこう言った。
「夜当番」
あの事件以来、毎晩、持ち回りでやることになったんだよ。
ひどく素っ気なく、あまりにあっけなく、きわめて平坦に答えて。彼は扉を開ける。
中はウォークインクローゼットのような細く狭い空間に、棚に並んだシートの上から埃をかぶった機材たち。壮年の教師はその間を迷いなく歩んでいくと、突き当りの壁に手を突く。
壁に見えたそれにはスライド式の隠し錠が付いていた。石滝は職員室から持ってきた金属の鍵で開錠すると、体重をかけてその扉を押し開ける。
「重そうに見えるけど、コツがいるだけだから」
後に続いてその薄暗い隠し部屋に入る。
そこにあったものを見て、加洲は愕然とした。
これは、学校にあっていいものじゃない……。
加洲は目の前の現実を受け容れられず、座り心地のよさそうなチェアの前で茫然と立ち尽くす。
「先生……ここで、ここで何を、してるんですか……?」
「難しいことじゃないよ。マニュアルはあるし、事例集を読む暇もある」
加洲の後ろで扉の締まる音がした。隠し部屋のスライド扉と、その向こうの教室の扉も。それらはひとりでに締まった。
「石滝先生……っ、が、学校は、何を、ここは、何が、……あの事件で、何が起こったんですか!?」
恐慌して声を荒げる加洲。主任教師は横長のソファに腰を落ち着けると、持ってきたパソコンを開き、青白く照らされた能面のような顔で言う。
「手当も出る。まずは座って?」
石滝の両目は骸骨のような白に染まっていた。
深衣たちが入学し、その担任に彼女が就く、その一年と一か月前のことだった。




