幕間 『取引』
静まり返った牢屋。空気中を漂う微弱なマナによって発光する魔力石のわずかな光によって、牢内は薄暗くなっている。
退屈でしかないこの空間で、狂人はご機嫌に鼻歌を歌っていた。
「――今まで気にしていなかったが、私はなぜこの鼻歌を口ずさんでいるんだ? 聞き覚えはないのだが……まあいいか。それよりもどうするべきか、流石にこのような地下牢があるとは予想外だった」
自問自答をうやむやにした後、自分の状況を再確認し始めた。
「…予想外というのなら私が敗れた時点で予想外であったか」
エレナ・レザドネアを殺せなかったことは不愉快だが、あの黒髪の少年に敗北したことに関しては特別府の感情は生まれていなかった。むしろ欠落者でありながら、自分を倒した彼は称賛に価するとまで思っている。
「いや、それ以前に『物語』が狂いすぎているというのが問題だな。やはり奴は信用できん」
予定は大幅に狂っている。本来であれば森の中でエレナは死んでいたはずなのだ。
…自分が殺さなくとも。
「これは教祖に報告しておく必要が……ん?」
正面の鉄格子を見やると、そこには見知らぬ黒髪の男が立っていた。
男の細く鋭い瞳は、フルデメンスを正面に捉えている。
(私が感知できなかっただと…?)
警戒。
王国の鎧を着ていないことから騎士ではないことは確実、そもそもここにはルーダス以外の騎士は来たことがないし、来られない。明らかな部外者だ。少なくとも王国の者ではない。
「……シェバート。交代だ」
「はっ」
黒髪の男――シェバートの影から長身で黒い外套を着た魔人――ゼノスが現れる。シェバートはゼノスと入れ替わるように彼の影へと消えた。
「これはこれは。劔の魔人ではないか。貴様の姿を見るのは100年ぶりか?」
ゼノスの顔を見るなりフルデメンスは笑みを浮かべる。友人に向けるようなものではなく、嘲笑うかのような笑みだ。
「シェバートの顔を覚えていないようだからもしやと思ったが、案の定記憶を失っているらしい。これで何度目だ? 物忘れが激しいなどという言葉では済まされないぞ」
ゼノスはフルデメンスと初対面ではない。面識はある。
二人の間で顔を合わせた回数は一致していないが。
「確かに貴様の言う通り私の記憶は欠損が激しく不確かだが、正直そんなものなどどうでもいいのだ。我らエクリプスの崇める神への信仰心が健在ならば私は私なのだから」
「信仰心…。やはりお前たちエクリプスは理解に苦しむ」
反吐が出ると言いたげな表情だった。
ゼノスはフルデメンスを…フルデメンスの所属するエクリプス自体を嫌っている。相手にすると面倒なのは目に見えているので手出しはしないが、心の中では滅びてしまえばいいと思っていた。
「理解される必要はない。信仰心とは己と神の間だけで完結するものだ。他の干渉は不必要でしかない。もちろんで同志は歓迎だがな?」
「どうでもいい。私はお前と宗教について論じるためにここに来たわけではない」
「だろうな。それで何用だ? わざわざ西の国からここまで来たのだろう。余程の理由があるのではないか?」
「こんな地下牢でお前に会うためにバミラ王国まで来たのではない。偶然だ。お前が囚われたことを知ったのも今朝到着してからだった」
フルデメンスなどが目的で来たわけではない。都市ノンバラにはもっと別の用事があってきている。が、この男が身動きを取れない状態でいるというのは好都合であった。
「…それでだが、実はお前に聞きたいことができた」
「残念ながら信徒ではない者に『物語』の話は聞き出せないぞ? そのようにされているからな」
「そんな話に興味はない。どうせ奴の世迷言だ。それよりも聞かせろ。この都市について何か知っているか?」
「この都市だと?」
質問の意図が理解できなかったフルデメンスは思わず聞き返した。
「訳の分からない質問だな」
「なるほど。その様子だとこの都市についてお前は知らないのか」
「? ……ああ、確かにザナムが何か言っていた気がするが、私は過去の異物には興味はない。貴様の望む回答はできないぞ」
「――なら、『イーター』についてはどこまで知っている」
「…………」
初めてフルデメンスから沈黙が返ってきた。彼はゼノスの言葉を受けて押し黙ったのだ。
「…アレに何の用がある?」
しばらくの間の後に発せられたフルデメンスの声音は変化していた。不快感とも呼べるものをあらわにしている。
「消滅させに来た」
「なに?」
狂人が驚いているのが見て取れる。彼が驚くほどにゼノスの発言は突拍子もないことだったのだ。
「正気か?」
「お前に言われると腹が立つな…。私は正気だとも。なぜ今起動したのかは知らないが、『イーター』をこれ以上残しておくのは危険だ。この世界自体に危害が及びかねない」
「――まあいい。アレも神の遺物…この世界を作った不快でしかない神どもの使いだ。『トロワ』は気に入って何かしらしているらしいが、本来我々にしてみれば邪魔者でしかない。消し去るのなら好きにしろ。だが…」
利はある。
不確定要素が消えるのは素晴らしいことだ。
しかし、
「…殺せるのか? アレを」
「可能だ。そのためにここまで来たのだから」
ハッキリと、彼は断言した。
それがフルデメンスに笑みをもたらす。
「おもしろい。ならば知っている情報は提示してやろう。せいぜい我らに益をもたらせ」
狂人にとってこれは実に悪くない取引だった。




