第1話 一行目で止めないで
「好きな人に、気持ちを伝えるべきでしょうか」
久瀬悠斗がそう読んだところで、向かいの早瀬琴音は右手を上げた。
「止めよう」
「まだ質問の1行目だけど」
「1行目で相談者より困っている」
琴音はヘッドホンを外し、マイクの前に広げた紙を指した。悠斗の台本には、読む箇所を示す薄い線があるだけだ。彼女の台本には色の違う線が3本、付箋が2枚、余白には秒数まで書かれていた。
4月の青葉大学。学生会館3階の放送研究会室では、新入生向けの案内を持った会長の藤堂拓海が、ブースの外から親指を立てていた。
「いいぞ、二人とも。最初から意見が違う」
「まだ意見は言ってません」
悠斗が返すと、隣で音量を確かめていた白石陸が小さく吹き出した。新入生なのに機材の扱いは落ち着いていて、録音を止める手も速かった。
今日作るのは、ネット音声番組『恋の答え合わせ』の試験回だった。学内の恋愛相談を、二人のパーソナリティが一緒に考える。2年生になったばかりの悠斗には、他人の恋を語る資格が自分にあるのか、まだよく分からない。
ただ、募集の準備を手伝っていたとき、匿名で届いた最初の相談を放っておけなかった。
「暗く読んだつもりはなかったんだけど」
「気持ちは分かる。でも、この人の声を私たちは知らないから」
琴音は、きつく言い切ってから少し声を緩めた。
「こちらが悲しい話だと決めないほうがよくない?」
悠斗は台本を見直した。相談には、仲のよい友人を好きになったこと、今の関係を壊したくないこと、気持ちを伝えずにいるのも苦しいことが書かれている。どんな表情で送信したのかは、確かに分からない。
「うん。そこは、早瀬さんの言うとおりだ」
琴音は何か言い足そうとしていた口を閉じた。
「……じゃあ、もう一度」
録音の印が点いた。悠斗は今度、届いた文章を落ち着いて読み、その後に言葉を置いた。
「今ある関係が大事だからこそ、迷うんですよね」
琴音は台本から顔を上げた。
「まず、告白するか、何も言わないか、その2つだけで考えなくてもいいと思います」
「たとえば?」
「二人で出かける機会を作る。普段より個人的な話をしてみる。相手がどういう関係を心地よいと感じているか、少しずつ知る」
「それなら、いきなり全部を変えなくてすむね」
「ただし、相手の反応を確率に置き換えて、必ず成功すると言うことはできません」
丁寧で正確だった。悠斗はうなずいたが、琴音の紙に小さく並んだ項目を眺めるうち、相談を送った人がそれを全部できるだろうかと思った。
「でも、一緒に出かけようって誘うのも、怖いんじゃないかな」
琴音の指先が止まる。
「もちろん、そういう場合もあると思う」
「友達として会ってた時間が、好きだって分かった途端、全部違って見えることもあるだろうし」
「それは……」
琴音は少し考えた。
「では、怖さがなくなるまで待つ?」
問われて、悠斗は返事に詰まった。
怖い気持ちを否定したくない。しかし、怖いままでいていいと言うだけで、この人が欲しかった答えになるのだろうか。
「なくならないかもしれないね」
「私も、そう思う」
そこで二人とも黙った。ブースの外の藤堂が、ゆっくり両手を広げる。続きをどうぞ、という意味らしい。
悠斗は相談の末尾を読み返した。『このまま友達でいたい気持ちと、もう少し近づきたい気持ちがあります』。
「どっちの気持ちも、大事にしていいんだと思う」
彼が言うと、琴音はうなずいた。
「そのうえで、今の自分にできる小さい行動を選ぶ。今日は誘えなくても、相手の話をもう少し聞いてみるとか」
「できなかった自分を、責めなくていいよね」
「ただ、相手の気持ちは、こちらが想像しただけでは決められない。それは覚えておいたほうがいい」
琴音がそう締めたあと、白石が録音を止めた。
悠斗は背もたれに少し体を預けた。20分にも満たないのに、講義を1つ受けた後より頭を使っている。
「どうでした?」
藤堂に聞くと、彼は腕を組んだ。
「途中、二人とも相手の返事を本気で待ってた。それがよかった」
「完成度の話ではないですね」
琴音の指摘に、会長は笑った。
「完成度は今から上げるだろ」
編集スペースへ移り、自分たちの声を聞くと、悠斗は最初の5秒で顔を伏せた。
「こんな声なんだ、俺」
「自分の声は違って聞こえるらしいよ」
「早瀬さん、平気?」
「平気ではない。でも、聞かないと直せない」
琴音も耳の辺りが少し赤かった。悠斗だけが居心地の悪い思いをしているわけではないらしい。
音声の中で、琴音が選択肢を読み上げる。悠斗は手元の紙に印をつけた。
「ここの3つ、少し間を空けたら聞きやすいかも」
「長すぎる?」
「長さというより、最初の案を考えている間に、次が来るから」
琴音は再生位置を戻し、目を閉じて聞いた。
「……本当だ。文字なら読み直せるけど、音声は進んでしまうんだね」
悠斗は、その返答に少し驚いた。彼女は自分の用意したものを簡単には変えない人だと思っていた。
今度は悠斗の回答が流れた。相談者の迷いに共感したあと、似た意味の言葉が3度続いている。
「ここ、俺が迷ってるだけだな」
「最初の1つは残したい」
琴音がすぐに言った。
「この前置きがあるから、次の提案を聞ける気がする。全部削ると急になる」
彼女は自分の文章の前に、悠斗の言葉を入れた。2人分の台本が、ようやく一つの流れになっていく。
白石が操作を教え、3人で不用意な言い直しや紙の音を確認した。会話の間を全て消すと妙に急かされる感じがしたので、二人で考えた沈黙は少し残した。
「正解、出てないですね」
完成した試験回を聞いて、悠斗は言った。
「恋の答え合わせ、なのに」
琴音は画面の番組名を見た。
「答えを採点する番組には、したくない」
「俺も」
「だったら、相談した人が自分で選ぶための材料を出す。その意味での答え合わせでいいと思う」
悠斗は隣の横顔を見た。意見を言うときは迷わないのに、最後の「思う」のところだけ、少し慎重になる。
「早瀬さんとなら、ちゃんと考えられそう」
琴音がこちらを向く。
「最初から、そういう分担のつもりだったけど」
「うん。でも今、そう思った」
彼女は視線を紙へ戻し、端をそろえた。
「次は、読み始める前に感想を言わないでね」
「あれ、感想だったんだ」
「少なくとも、質問文ではなかった」
悠斗が笑うと、琴音も口元だけ少し緩めた。
片付けの途中、新歓見学の学生が入ってきた。成瀬理央と名乗った1年生は、机のマイクを見て、これで話せるのかと目を輝かせた。藤堂が見学の案内を引き受ける傍らで、琴音はコピー用紙を2枚取った。
「次回の候補、明日まとめるね。久瀬くんの分も作っておく」
「じゃあ俺、少し早く来る。読む前に一緒に確認したいから」
琴音の手が一度止まり、それから紙に日付が書かれた。
「16時?」
「うん」
「了解」
教室では同じ学年の学生で、部室では次の担当者だった。その二つに、もう一つ呼び方が加わる気がした。
相棒、というほど立派ではない。まだ一度、収録をしただけだ。
それでも悠斗は、今日より少し長く彼女の意見を聞きたいと思っていた。
階段へ向かう背中に、琴音が声をかけた。
「次の相談も、二人で考えてみよう」
悠斗は振り返った。
「うん。また明日、早瀬さん」
初回の配信はまだ先だった。けれど、次に部室へ来る理由は、もう決まっていた。悠斗は携帯の予定に16時と入れた。明日の空き時間が、待つ時間に変わった。




