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〈4〉
「荷物、これで全部かぁ?」
玄関で、ミツルが叫ぶ。ユウタが、部屋から答える。
「うん!後は、僕とムー!」
「よし!待ってろ!」
ミツルは、レンタカーへ最後の荷物を置きに行った。ユウタは、
「いよいよだね。」
と、興奮気味にムーの頭を撫でた。
「行くか!」
ミツルが、戻ってきて、ムーを抱き上げる。
「うん!」
ついに、アジリティ競技大会の時がやってきた。最近のユウタの体調は、良くない時が多くなっていた。そんな中でも、気を配りながら、ムーとの特訓を続けていた。それが、ユウタにとって生きる活力になっていたからだ。
「ムーも僕も、準備オッケーだよ。」
助手席のユウタは、意気込んで言った。
「おう。この目でしっかりと見させてもらうぜ。」
ハンドルを握るミツルが、サングラスをずらして笑ってみせる。
季節は、春を迎えようとしていた。競技大会が行われる、暖かい南の町へと、車を走らせる。
「あー、なんかもう緊張してきた。」
「ウソだろ。早すぎだっつーの。」
「だよねぇ。どうしよう。」
「知らねぇよ。」
「本田くん、緊張してない?」
「さすがに、まだしてねぇな。」
「だよね。あんなにたくさんのお客さんの前で堂々と歩けるんだから、緊張なんかしないよねぇ。」
「単に、図太いんだよ。」
「うん。言えてる。」
「お前なぁ…。」
陽射しが差し込む車内は、暖かかった。車は、快調に走る。カーオーディオから、洋楽が流れてきた。高校時代、英語の授業で聞かされた事がある。授業なんてまともに聞いた事の無いミツルだったが、この授業の事は覚えていた。プリントに、日本語の訳が書かれていた。「悩んだ時には、思った通りに生きよう。」とかいう歌詞だった。赤信号で、車が止まる。歌声が車中に広がり、あの頃の教室がじんわり甦ってくる。と同時に、自分のした事も甦ってきて、胸が痛む。
「どうして、あんな事しちまったのかな…。」
ミツルは、ハンドルを握りしめた。
「ホント…どうしようもないガキだったよな…。」
信号が、青になる。ミツルは、車を走らせる。景色は、南の海の町へと、少しずつ近づいていた。
「俺…卒業しても、お前の事がずっと胸にあってさ…。謝りたいって思ってた。大人になって気がついたんだけど、俺は…。」
ミツルは、言葉を止めた。今更こんな事を言うのは、気が引ける。一瞬、迷ったが、ミツルは思い切って言った。
「俺…あの時、お前と友達になりたかったんだ。」
ユウタの返事を、息を詰めて待つ。なかなかユウタの返事が来ない。
「ユウタ?」
信号が赤になり、ミツルは助手席を覗き込んだ。ユウタは、寝息をたてていた。
「なんだ、寝てんのかよ。」
ホッとしたような、残念なような気持ちで、ミツルは頭を掻いた。ユウタが起きていたら、なんて答えただろう?聞いてみたいような、聞きたくないような、複雑な気持ちだ。いつか、もう一度、話すチャンスが来るだろうか。いつか…どんな時に…。ミツルは、車をスタートさせた。
「しかし、さっきまで緊張してるって言ってたくせになぁ…。」
スヤスヤと眠るユウタに、ミツルは苦笑いした。そうだ。こいつは、いつでも、強い。ミツルは、誇らしい気持ちで、前を見つめた。前方に海が見えてきた。
「おっ、海だ。」
春の海が穏やかに、二人と一匹を歓迎していた。
ホテルに着くと、ユウタは少し休むと言って、ベッドに横になった。体を休めるためで、心配はなさそうなので、ミツルはムーを散歩に連れ出すことにした。海辺の観光地なだけあって、ホテルの周辺は賑やかだ。週末の昼食時で、たくさんの人が行き来している。犬連れも、多く見られる。明日の出場者か。連れられている犬が、みんな賢く見える。ミツルは、ムーを見た。ムーは、ミツルを見上げて楽しそうにしっぽを振った。ミツルは、微笑んだ。大丈夫。ムーだって、ユウタと一緒に訓練してきた。ミツルは、軽快に歩き出す。通りを歩いていると、プリンの幟が目についた。“地鶏の卵をたっぷり使った濃厚プリン”と書いてある。
「プリンか…。」
最近、また食が細くなってきたユウタも、プリンなら食べやすいだろう。しかも、濃厚だから栄養もありそうだ。
「よし。」
ミツルは、店の前の行列に加わった。十人程の人が並んでいる。なかなかの人気商品なのか。昼過ぎの陽射しは暑いほどで、時折吹いてくる海風が心地よく感じられる。ムーは、ミツルの足元で、おとなしくお座りをしている。
「暑くないか?」
ミツルは、ムーに声をかけた。
「ユウタにみやげだ。みんなで食おうな。」
クスッと笑い声がした。ミツルが振り向くと、若い女性が並んでいた。
「あ、ごめんなさい。」
ミツルと目が合い、口に手をあててペコッと頭を下げる。
「可愛らしいから、つい…。」
ショートカットヘアの快活そうな女は、ミツルの顔を見つめ、アッと小さく叫んだ。
「ミツルさん、ですよね?モデルの。」
「あ?」
女の意表をついた問いかけに、戸惑うミツル。
「そう!ですよねッ?」
強烈な熱視線を浴び、
「そう、だけど…。」
と、ミツルは答えた。
「やだ!すごい!」
女は、胸に手をあて、飛び上がった。ミツルは、女を横目で見ながら、
「よく知ってんね、俺の事なんか。」
と、照れくさそうに言った。
「一応、報道の世界で生きてますので。」
少しすまして、女が答えた。
「は?」
「私、フリーの記者をしております。」
女は、バッグから名刺を取り出し、
「羽鳥と申します。明日のアジリティ競技大会の取材に参りました。カメラマンも兼任しております。」
と、かしこまってミツルに差し出した。
「へぇ…。」
ミツルは、名刺をサッと眺め、シャツのポケットに押し込んだ。
「ミツルさんも、出場なさるんですか?」
ムーを見て、羽鳥が尋ねた。
「え?」
羽鳥は、ムーを見る目を見開いた。
「こんなに綺麗なワンちゃんとミツルさんが出場したら、すごく目立っちゃうんじゃないですか?」
腰を屈め、ムーに微笑みかける羽鳥。お座りしたムーが、体を後ろへ引く。
「しかも、お利口さんですねー。」
ムーは、迷惑そうに羽鳥から目を逸らし、ミツルを見上げた。ミツルは、プッと吹き出した。
「出場すんのは、こいつを訓練したヤツだよ。」
「あ、そうなんですか?ミツルさんのお友達ですか?」
「ん?まぁ。」
そこまで突っ込んだ話をする気は無い。ミツルは、列が動いたのをきっかけに、前を向いた。ミツルの態度で察したのか、それ以降、羽鳥も話しかけてこなかった。
ミツルは、プリンを三つ買った。再び通りを歩き出すと、後ろからミツルを呼ぶ声がした。振り向くと、羽鳥が手を振って走ってくる。もう、話す事なんて無い。
「何?」
ミツルは、無愛想に言った。羽鳥が追いついてきて、息を弾ませる。
「すいません。どうしても、お願いしたい、事が。」
ミツルは、眉間に皺を寄せた。
「は?」
羽鳥は、バッグからカメラを取り出した。
「写真を、一枚お願いできませんか?」
「はあッ?」
ミツルの怒ったような顔に、羽鳥は頭を下げる。
「お怒りごもっともです!そこをなんとかお願いします!」
更に、深々と頭を下げる。
「仕事に使うとか、ブログにのせるとか、そういうのじゃないんです!ただもう、撮りたいんです!」
「…何言ってんの?」
ミツルが、不機嫌そうに頭を掻く。羽鳥は、顔を上げた。その顔は、興奮で赤くなっている。
「どうしても撮りたいんです!素敵なものは、放っておけない質でして。ぜひ、残したいんです!春の海辺の町に、白い犬を連れたミツルさん!こんな素敵なもの撮らんでどーするんかと!」
興奮し過ぎて、語尾がおかしい。ミツルは警戒心が解けて、思わず吹き出してしまった。羽鳥は、顔を紅潮させ、目を輝かせてミツルを見ている。ミツルは、ユウタの事を思い出した。満面の笑みで、子供のように夢中になって、様々な事を楽しむ姿を。ミツルは、顎を撫でながら、
「いいよ、撮っても。」
と、笑った。




