第5話「二つの、理由」
助けを求められない少年と、助けたいと願う少女――二人の理由が少しずつ重なりはじめます。
次の朝、わたしはとなりのビルに行った。
うちのお店の、となり。
十階建てのビル。
ジオンさんの事務所は、いちばん上。
エレベーターのボタンに、手を伸ばす。
届かない。
背伸びしても、十のボタンは、少し高い。
もう一度、背伸びする。
指の先が、やっと届いた。
ぽん。
ボタンが、光った。
十階は、大人の場所みたいだった。
わたしだけで行っていい場所じゃない気がした。
エレベーターが、ゆっくり上がっていく。
階段の数字が、一つずつ増えていく。
一、二、三。
胸が、どきどきした。
大人のところへ、一人で行くのは、はじめてだった。
でも、昨日の植え込みを思い出すと、帰れなかった。
十。
とびらが、開く。
うす暗い、ろうかだった。
いちばん奥のドアに、小さな札がかかっている。
「相談屋 ジオン・オフィス」
わたしは、ドアをこんこん、とたたいた。
返事が、ない。
もう一度、たたく。
「……開いてますよ」
中から、声がした。
眠そうな、声。
ドアを開ける。
たばこの匂いがした。
ううん。
匂いが、した気が、した。
煙が、見えたから。
だから、匂うはずだと、思っただけ。
よく、かいでみると。
部屋の中は、不思議と、何の匂いもしなかった。
部屋の中は、ものがいっぱい。
本とか、紙とか、よくわからないものが積み上がっている。
窓ぎわの机に、おにいさんより、ずっと大人の男の人がいた。
糸みたいに、細い目。
たばこを持っている。
煙が、まっすぐ上にのぼって、天井のあたりで、すうっと消えていく。
ジオンさんだ。
「……お、中野さんとこの、ちびっこじゃないですか」
ジオンさんは、わたしを見て、ちょっと目を細めた。
「どうしました。お父さんのおつかい?」
「ちがう」
わたしは、首をふった。
「あのね、お願いが、あるの」
「お願い?」
ジオンさんは、たばこを灰皿に置いた。
「めずらしいですね。ちびっこが、一人で来るなんて」
わたしは、こくり、とうなずいた。
ジオンさんは、いすに深くもたれた。
「で、なんですか。お願いって」
わたしは、一生けんめい、話した。
公園の、植え込みのこと。
その奥に、おにいさんがいること。
毎日、お茶を持っていってること。
でも、おにいさんは、そこから出てこないこと。
長そでを着てること。
けがをしてるのに、ころんだ、ってうそをつくこと。
話は、あっちこっちにとんだ。
自分でも、うまく説明できなかった。
でも、ジオンさんは、だまって聞いてくれた。
わたしが、話し終わると、ジオンさんは、少しだまった。
そのだまっている時間が、こわかった。
おこられるより、ずっと。
それから、言った。
「で。ぼくに、何をしてほしいんですか」
わたしは、はっとした。
そうだ。
わたしは、ジオンさんに、何をしてほしいんだろう。
助けて、って言いに来た。
でも、どうやって、助けてほしいのか。
それは、自分でも、わからなかった。
わたしは、困った。
何をしてほしいか、自分でもわからない。
でも、何か言わなきゃ。
「えっと。おにいさんを助けてほしいの」
ジオンさんは、ふうん、と鼻で笑った。
「助ける、ねえ」
たばこの煙をはいた。
「ぼく、そういうの、やってないんですよ」
「やってないの?」
「相談屋ですからね。話を聞くだけ」
ジオンさんは、いすにもたれたまま、動かない。
「それに、頼まれてないですし」
「今、頼んだよ」
「きみに、じゃなくて。そのおにいさんに、ですよ」
わたしは、わからなくなった。
「おにいさんが、頼まなきゃ、だめなの?」
「まあ、ふつうは、そうですね」
ジオンさんは、めんどくさそうに、目をつむった。
もう、おしまい、っていう感じだった。
わたしは、どうしよう、と思った。
でも、ここで、帰ったら。
おにいさんは、ずっとあのまま。
ずっと植え込みの、奥。
わたしは、ぎゅっと手をにぎった。
「おにいさんは、頼めないの」
ジオンさんのまゆが、ちょっと動いた。
「助けて、って言えないの。言ったら、負けだと思ってるから」
「……へえ」
「だから、わたしが、代わりに、頼みに来たの」
しん、と、なった。
ジオンさんは、目を開けた。
糸みたいな目が、ほんのちょっと開いた。
わたしをじっと見ている。
何か、考えてるみたいだった。
見られているのに、見つけられているみたいだった。
「……まいったな」
ジオンさんは、頭をかいた。
「そういうの、いちばん、ずるいんですよね」
「ずるい?」
「いや。こっちの話です」
ジオンさんは、長いため息をついた。
それから、のっそりと立ち上がった。
「……めんどくせぇ」
小さく、そう言ったのが、聞こえた。
「ちょっと見に行くだけ、ですよ。助けるとは、言ってません」
「うん!」
わたしは、うれしくて立ち上がった。
ジオンさんは、たばこを消した。
上着をはおって、ドアのほうへ歩いていく。
「案内、してください。その、植え込み」
「うん!」
わたしは、先にドアを開けた。
* * *
公園に、ついた。
お昼すぎの、いつもの時間。
誰も、いない。
わたしは、植え込みを指さした。
「あそこ。あの、奥に、いるの」
ジオンさんは、立ちどまった。
植え込みまで、まだずいぶんある。
そこから、動かない。
「近くに、行かないの?」
「いいんですよ、ここで」
ジオンさんは、目を細めて、植え込みのほうを見た。
ただ、見ている。
じっと見ている。
近づいていないのに。
もう、奥まで入っているみたいだった。
何を見てるんだろう。
わたしには、ただの植え込みにしか見えない。
でも、ジオンさんの目は、何か別のものを見ているみたいだった。
しばらく、ジオンさんは、だまっていた。
それから、小さくつぶやいた。
「……へえ」
「なに?」
「いや」
ジオンさんは、少し笑った。
いつもの、めんどくさそうな顔とちがった。
何か、おもしろいものを見つけた、みたいな。
「……もったいない、ですね」
「もったいない?」
「こんなところに、置いとくには」
わたしには、意味がわからなかった。
ジオンさんは、それ以上何も言わなかった。
代わりに、たばこをもう一本くわえた。
火は、つけない。
ただ、くわえたまま、植え込みのほうを見ている。
それから、小さな声で、何か言った。
言葉じゃ、ないみたいだった。
おまじない、みたいな。
わたしには、聞き取れなかった。
風が、ふいた。
植え込みの葉が、さわさわ、とゆれる。
それだけだった。
でも、その一瞬だけ。
植え込みの奥の空気が、少し軽くなった気がした。
何も、起きなかった。
「……はい。終わり」
ジオンさんは、たばこをポケットにしまった。
「え?」
「厄除け、しときました」
「やくよけ?」
「おまじないみたいなもんです。気休めですよ」
わたしは、きょとんとした。
厄除けって、何?
それで、おにいさんが、助かるの?
「これで、おにいさん、元気になる?」
「さあ。どうですかね」
ジオンさんは、はぐらかすように、そう言った。
「ぼくは、何も、してませんよ。ただの、気休めです」
わたしは、なんだか、もやもや、した。
わざわざ、来てくれたのに。
見ただけ。
おまじない、しただけ。
おにいさんは、まだ、植え込みの奥。
何も、変わってない。
帰り道、ジオンさんは、ずっとだまっていた。
わたしも、だまっていた。
本当に、これで、いいのかな。
でも、一つだけ、気になることがあった。
ジオンさん、植え込みを見て、「もったいない」って言った。
あれ、どういう、意味だろう。
おにいさんのこと、なのかな。
それとも。
まだ、誰にも見えていない、何かのことなのかな。
小さな一歩が、閉ざされた心を少しずつ動かしていく、その始まりを見届けていただけたらうれしいです。
ほっとできた方は、続きもブクマでどうぞ。( ´ ▽ ` )




