第48話「いちばん、聞かせたい人」
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
舞台袖で。
私は、フルートを握っていた。
冷たい。
銀色の管が。
手のひらの熱を、ゆっくり吸っていく。
客席から。
前の演奏者の音が聞こえる。
きれいな音だった。
太くて。
強くて。
少しも、ぶれない。
演奏が終わる。
大きな拍手。
舞台袖に戻ってきた演奏者が。
私の横を通り過ぎた。
私は、一度。
目を閉じた。
前なら。
比べていた。
いまの人より、上手に。
いまの人より、正確に。
だれよりも、きれいに。
一番に、ならなければ。
そう思っていた。
でも。
今日は、違う。
あの人には。
あの人の音がある。
私には。
私の音がある。
「次の方、お願いします」
係の人に呼ばれた。
「はい」
私は、目を開けた。
胸元に。
小さなお守りがある。
慈恩さんから、もらったもの。
服の上から。
一度だけ、そっと触れた。
それから。
舞台へ出た。
* * *
自分の音を取り戻して。
全部の私に戻って。
私は、舞台に立つようになった。
音大の、四年生。
卒業を控えた年。
学内の演奏会。
若い演奏家のためのコンクール。
町の、小さなホール。
たくさんの人が集まる、大きな舞台。
何度、舞台に立っても。
緊張はした。
手も、冷たくなった。
逃げたくなる日もあった。
でも。
もう。
だれかの音になろうとは、しなかった。
前の私は。
上手な子に届こうとしていた。
技術で一番になろうとして。
届かなくて。
沈んでいた。
自分にないものばかり、見ていた。
太い音。
ぶれない息。
速く動く指。
正確な演奏。
同じようになれなければ。
私には価値がないと思っていた。
でも、いまは違う。
一番に、なろうとはしない。
ただ。
私の音で吹く。
だからといって。
技術を捨てたわけではない。
毎日、練習した。
息を整えた。
指が自然に動くまで。
同じ場所を、何度も吹いた。
音を磨いた。
技術は。
私が見てきたものを。
音として届けるために必要だった。
でも。
技術だけを。
私の目的にはしなかった。
曲を作ったのは、私ではない。
私は、作曲ができない。
新しい曲を。
何もないところから生み出すことはできない。
それでも。
古い曲の中へ。
私が見てきたものを、流すことはできる。
同じ楽譜を。
同じフルートで吹いても。
私と同じ音にはならない。
それだけは。
私にしかできない。
* * *
舞台の中央へ歩いた。
ライトが、まぶしい。
客席は、暗くて。
人の顔までは見えない。
それでも。
たくさんの人がいるのが分かった。
息をする音。
服が動く音。
小さな咳。
やがて。
会場が、静かになる。
私は、頭を下げた。
フルートを構える。
銀色の管が。
舞台の光を返した。
息を吸う。
最初の音を、吹く。
植え込みの奥の暗さ。
葉の向こうにいた。
小さな男の子。
空港で。
一度も振り返らずに歩いた背中。
画面の向こうに広がっていた。
世界の芝生。
別れの夜。
鳴らなかった、二回目の拍手。
慈恩さんの。
伸びた語尾。
葵ちゃんの笑い声。
お父さんの。
「休めばええ」
という声。
そして。
もう一度。
互いを選んだ、秋。
全部を。
音にのせた。
明るいものだけではない。
悲しいものだけでもない。
きれいにまとめようともしなかった。
痛かったものは。
痛かったまま。
うれしかったものは。
うれしかったまま。
私の中に残っているものを。
全部。
息に変えた。
音が。
ホールの奥へ伸びていく。
一音。
また、一音。
客席は。
静かだった。
だれも、動かない。
私は。
最後の音まで、吹いた。
音が。
天井へ上がって。
ゆっくり、消えていく。
静けさが残る。
その静けさの中で。
私は、フルートを下ろした。
一秒。
二秒。
遅れて。
拍手が、鳴った。
一人の拍手が。
いくつにも重なっていく。
大きくなる。
会場を満たす。
私は、頭を下げた。
顔を上げたとき。
暗い客席の中に。
目元を押さえている人が見えた。
* * *
結果だけを見れば。
私は、勝った。
卒業前に出場したコンクールで。
最優秀として、名前を呼ばれた。
そのあとも。
いくつかの演奏会に呼ばれた。
新聞の、小さな欄にも載った。
お父さんは。
その新聞を何枚も買った。
「一枚で、ええやん」
私が言うと。
「保存用と、店に置く用と、親戚に送る用や」
と答えた。
お母さんは、笑っていた。
ほのかは。
記事の写真を見て。
「もっと、いい顔できなかったの?」
と言った。
「緊張してたんだから、仕方ないでしょ」
「指名手配みたい」
「ひどい」
二人で、笑った。
結果は、うれしかった。
名前を呼ばれたことも。
だれかに認めてもらえたことも。
うれしくないわけがない。
でも。
私は知っていた。
これは、終わりではない。
賞を取ったから。
私の音が完成したわけではない。
次の日に吹けば。
また、うまく鳴らないかもしれない。
技術なら。
私より上手な人は、いまもたくさんいる。
そのことも、変わらない。
それでも。
審査員も。
客席にいた人も。
私の音を聞いて。
涙ぐんだ。
息を止めるように。
じっと、動かなくなった。
楽屋へ戻る途中。
知らない女性に、呼び止められた。
年配の人だった。
胸元に。
出演者用の札をつけている。
「すみません」
「はい」
「あなたの演奏」
女性は、言葉をさがした。
「不思議ですね」
「不思議?」
「上手だ、だけでは終わらないの」
女性は。
少し、目を細めた。
「あなたの音には、物語がありますね」
その言葉を聞いて。
私は、立ち止まった。
ほのかが。
ずっと前に、同じことを言ってくれた。
まだ。
私が自分の音を知らなかったころ。
私には何もないと。
思っていたころ。
その言葉を。
いま。
大きな舞台で。
知らない人が、もう一度言った。
「ありがとうございます」
私は、頭を下げた。
女性が立ち去ったあとも。
しばらく。
そこから動けなかった。
* * *
音大附属の、最初の日。
私は。
大きな壁にぶつかった。
みんなが、上手だった。
私は、普通だった。
むしろ。
下のほうだった。
どれだけ手を伸ばしても。
届かないと思った。
その壁は。
いまも、なくなってはいない。
私より。
速く吹ける人がいる。
強い音を出せる人がいる。
正確に吹ける人がいる。
世界のすべての奏者に勝つことなんて。
きっと、できない。
でも。
もう。
それで、自分を下に置くことはなかった。
私は。
一番になる人ではなかった。
私にしか出せない音を持つ。
私になる人だった。
一番ではなく。
代わりがいない。
それは。
比べて勝つことではない。
だれかの上へ立つことでも。
だれかの下へ入ることでもない。
私の場所に。
私として立つことだった。
海斗くんは。
見る力で、世界に立った。
相手を見る。
味方を見る。
次に起こることを見る。
その力が。
海斗くんのゴールになった。
私は。
見てきたものを、音にした。
同じ「見る」でも。
形は違う。
立っている場所も違う。
どちらが高いわけでもない。
どちらが下でもない。
海斗くんは。
海斗くんの場所に立っている。
私は。
私の場所に立っている。
根っこだけが。
同じだった。
* * *
大きな舞台の前の日。
私は。
慈恩さんのところへ寄った。
報告したかった。
十階の扉を開ける。
部屋には。
あいかわらず。
匂わない煙が浮かんでいる。
慈恩さんは。
ソファに深く沈んでいた。
「あー。菜々子ちゃん」
目を、すこしだけ開ける。
「明日なんです」
「何がです?」
「言ったでしょう。演奏会」
「あー」
「忘れてましたね?」
「覚えてますよー」
語尾が伸びた。
たぶん。
忘れていた。
私は、慈恩さんの前に立った。
「ちゃんと、自分の音で吹いてきます」
「そうですか」
「緊張は、してますけど」
「したら、いいんじゃないですか」
「え?」
「緊張」
慈恩さんは。
煙草を灰皿へ置いた。
「それも」
「あしたの、あなたの音でしょう」
私は、少し笑った。
「そうですね」
帰ろうとしたとき。
「あー。ちょっと」
慈恩さんに、呼び止められた。
ポケットを探る。
出てきたのは。
小さな、お守りだった。
神宝町の神社のもの。
布は。
すこし色があせている。
ずいぶん前から。
持っていたように見えた。
「これ」
慈恩さんが。
私に差し出した。
「いいんですか?」
「別に」
いつもの、気のない声。
「ご利益とか」
「ないですけどねー」
語尾が、伸びた。
照れ隠しの伸び。
「ないんですか」
「ないかもしれないですし」
「あるかもしれないですし」
「どっちですか」
「さあ」
慈恩さんは。
いつものように笑った。
それから。
すこしだけ、目を開けた。
「あなたが」
私を見る。
「いちばん」
「しょうにんですからー」
それだけ言って。
また、目を閉じた。
「あー。めんどくせぇ」
自分からは。
何もしていないように見える人。
でも。
必要なときに。
種だけは、渡してくれる人。
私は。
お守りを、ぎゅっと握った。
布は。
慈恩さんの体温が残っていて。
少し、温かかった。
「ありがとうございます」
「返さなくて、いいですよ」
「返します」
「なぜです?」
「この音を」
私は、お守りを見た。
「いちばん聞かせたい人に、聞かせられたら」
「ありがとうって言って」
「返しに来ます」
慈恩さんは。
答えなかった。
ただ。
糸みたいな目のまま。
すこしだけ、笑った。
◆◇
――慈恩
菜々子ちゃんが。
帰っていった。
扉が閉まる。
ぼくは。
ソファに、深く沈んだ。
あの子は。
もう、自分の音を見つけている。
だから。
渡した。
あの、お守り。
ご利益なんかないと。
言ったけれど。
ほんとうは。
どうだか。
それは。
ぼくにも、わからない。
でも。
勝たせるために渡したんじゃない。
勝つか。
負けるか。
そんなものは。
あの子が。
あの子の音で決める。
お守りが。
吹くわけじゃない。
お守りが。
だれかの胸を動かすわけでもない。
ただ。
あの子が。
舞台の上で。
ひとりではないと。
ほんの少し、思えればいい。
あの子の音が。
届くべき場所へ。
ちゃんと届く。
それだけでいい。
一年もすれば。
あの子は。
自分の場所をつかむ。
そのあとは。
お守りなんか、なくても。
立っていける。
ぼくは。
種をまくだけ。
水をやるのも。
根を張るのも。
咲くのも。
あの子が、自分でする。
いつも。
そうだ。
目を閉じる。
胸の奥に。
少し、疲れがあった。
右手で。
胸元を押さえる。
でも。
悪くない。
「あー」
息を吐く。
「めんどくせぇ」
◆◇
――海斗
本番の夜。
海の向こうで。
僕は。
小さな画面を見ていた。
ななちゃんの演奏会。
配信の映像。
試合の遠征先。
ホテルの部屋。
練習を終えて。
急いで、戻ってきた。
開始には。
ぎりぎり、間に合った。
スマートフォンを。
机の上に立てる。
画面の中に。
大きな舞台が映っている。
ずっと。
ななちゃんは。
こんなふうに。
僕を見ていた。
十年も。
夜中に。
ひとりで。
小さな画面の中にいる僕を。
今度は。
僕が見る。
小さな画面で。
ななちゃんを。
立場が。
反対になった。
名前を呼ばれる。
ななちゃんが。
舞台へ出てくる。
ステージの真ん中に立つ。
フルートを構える。
知らない人みたいだった。
でも。
ななちゃんだった。
植え込みの奥にいた僕を。
最初に見つけてくれた人。
ずっと。
僕を見てきた人。
その人が。
いま。
世界中から見られる場所に立っている。
演奏が始まった。
小さなスピーカーから。
音が流れてくる。
配信の音。
海を越えて。
少し遅れて届く音。
それなのに。
最初の一音で。
胸をつかまれた。
上手いとか。
正確だとか。
僕には。
そういうことは、分からない。
世界には。
もっと上手な奏者がいるのかもしれない。
でも。
そんなことは。
どうでもよかった。
僕には。
見えた気がした。
植え込み。
空港。
夜の公園。
別れた日の。
ななちゃんの声。
もう一度。
手を取った秋。
僕が知っている景色と。
僕の知らない、ななちゃんの時間。
その両方が。
音の中にあった。
ななちゃんの音は。
世界で一番。
僕の胸に届いた。
あの子が。
あの子の場所で、光っている。
僕が見つけた場所じゃない。
僕が与えた場所でもない。
ななちゃんが。
自分で見つけた場所。
画面の中で。
最後の音が消えた。
拍手が鳴る。
僕は。
画面の前で。
すぐには動けなかった。
「今度は」
声に出す。
「僕が、見てる」
ずっと。
見てくれた、きみを。
今度は。
僕が見る。
口下手な僕は。
拍手をする代わりに。
画面へ手を伸ばした。
もちろん。
届かない。
それでも。
涙が、一つ。
指の近くへ落ちた。
◆◇
――菜々子
本番が終わって。
楽屋へ戻った。
スマートフォンを見る。
海斗くんから。
メッセージが届いていた。
『見た』
その下に。
『聞いた』
そして。
もう一つ。
『ななちゃんの音だった』
私は。
しばらく、画面を見つめた。
海を越えて。
届いた。
画面越しでも。
私の音は。
海斗くんのところまで届いた。
でも。
まだ。
約束は、終わっていない。
海斗くんは。
配信の向こうで、私の演奏を聞いた。
けれど。
私はまだ。
海斗くんの前で。
海斗くん一人に向けて。
吹いたことがない。
私が、いちばん聞かせたい人に。
同じ場所で。
同じ空気の中で。
私の息から生まれた音を。
直接、渡していない。
だから。
『ありがとう』
とだけ返した。
『でも、約束は、まだだからね』
少しして。
返事が来た。
『わかってる』
『聞きに行く』
私は、笑った。
* * *
家へ帰った。
神棚の前に立つ。
二礼。
両手を上げる。
パン。
パン。
二回。
ちゃんと鳴った。
慈恩さんのお守りを。
神棚のすみに、そっと置いた。
まだ。
返さない。
いちばん聞かせたい人に。
直接、音を届けていないから。
私は。
机に向かった。
日記帳を開く。
『ななちゃんの、しょうにん』
今日の日付を書く。
その下に。
『大きな舞台で、吹けた』
『私の音で』
ゆっくり。
一文字ずつ書いた。
下手な字。
でも。
まっすぐな字。
『全部の私で、立てた』
『ここまで、来られた』
そこで。
鉛筆を止めた。
少し考えて。
続きを書く。
『海斗くんには、届いた』
『でも、まだ、直接は聞かせていない』
海斗くんに。
画面越しではなく。
同じ場所で。
私の息が震わせた空気を。
そのまま、聞いてもらいたい。
全部の私の音を。
いつか。
本当に。
あの人に聞かせる日が来る。
それまで。
私は。
ただ待つんじゃない。
この音を磨く。
私の場所で。
私の生活を生きながら。
吹き続ける。
窓の外には。
秋の星が見えた。
海斗くんと、私。
海をへだてて。
別々の場所に立っている。
それぞれの場所で。
互いを見ている。
次に会うのは。
きっと。
約束を果たすため。
私は。
神棚のすみに置いた。
古いお守りを見た。
それを慈恩さんへ返す日が。
少しだけ。
近づいた気がした。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
notoやってます。
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