おかしな子供の話
光臨歴四三二四年、夏の終わり。
ヒュグノー領の朝は早い。
森を渡る風が屋敷の窓を叩き、蜂蜜色の陽光が廊下を満たしていた。
ルークス・アルネモイドは、まだ二歳になったばかりだった。
だが彼は、同年代の子供とは明らかに違っていた。
歩くことに迷いがない。
転ぶ前に体勢を整え、段差を見れば自然と足を止める。
――考えているわけではない。
体が、先に理解している。
廊下を進みながら、彼は壁に掛けられた装飾剣を見上げた。
陽光を受け、刃が淡く光る。
その瞬間。
胸の奥がざわついた。
理由は分からない。
ただ――
怖い。
息が浅くなる。
小さな手が無意識に胸元を掴む。
頭の奥で、何かが軋んだ。
風の音。
石畳。
血の匂い。
そして。
見えないほど速く振られる剣。
「……あ、」
声にならない音が漏れる。
次の瞬間、ルークスは後ろへ尻もちをついていた。
涙が出る。
痛くもないのに。
そこへ通りかかったテネシアが駆け寄った。
「ルークス?どうしたの?」
優しく抱き上げられる。
温もりに触れた瞬間、恐怖は霧のように消えた。
彼自身も、なぜ怖かったのか理解できない。
ただ装飾剣だけが、静かに揺れていた。
⸻
数日後。
庭では長男ラウノートが木刀の稽古をしていた。
乾いた打撃音が響く。
偶然、ルークスが通りかかった。
音が鳴るたび、体がわずかに強張る。
視線だけが剣の軌道を追っている。
避ける位置。
踏み込み。
間合い。
教わってもいないのに理解している。
ラウノートが笑いながら木刀を差し出した。
「ほら、ルークスもやるか?」
周囲の大人たちが微笑む。
幼い遊びの一幕。
ルークスは木刀を握った。
その瞬間――
自然に構えていた。
重心が落ちる。
足が半歩下がる。
刃筋がまっすぐ相手へ向く。
庭の空気が止まった。
それは子供の遊びではなかった。
訓練を積んだ者の立ち方だった。
だが次の瞬間。
ルークスの手から木刀が落ちた。
カラン、と乾いた音。
激しい動悸。
呼吸が乱れる。
――だめだ。
理由は分からない。
ただ、体の何処かが拒絶していた。
ルークスは泣き出した。
ルークスは剣を構え、そして落とした。
その出来事はあまりに短い時間で起こり、周りの誰も気づかなかった。
きっかけは、火事だった。
その日、アルネモイド家の屋敷には来客があった。
隣接するサネトア領の領主一行である。
ヒュグノー領で生産される蜂蜜は、ネリアス公国内でも特に品質が高いことで知られていた。今回の訪問は、その蜂蜜を従来より安価で継続的に仕入れたいという正式な商談のためだった。
サネトア領は鉄鉱石の産地として栄えており、地理的にも近い両領は以前から交易関係にある。互いに利益が見込める話でもあり、領主リュトワーは慎重な確認をいくつか行った後、あっさりと提案を受け入れた。
商談そのものは驚くほど早く終わった。
重苦しい空気が解けると、話題は自然と街の様子へと移っていく。
ヒュグノーの街並みは、森林資源を活かした木造建築で統一されており、訪問者の目には新鮮に映るらしい。蜂蜜色の外壁が陽光を反射し、領都全体が柔らかな光をまとって見える――そんな評判を、リュトワーは何度も聞いていた。
「ほんとに美しい街だ。」
感嘆の声を上げたのは、サネトア領主の息子の長男だった。
まだ少年と呼ぶべき年頃、その瞳は好奇心に満ちている。
彼はしばらく黙って大人たちの会話を聞いていたが、不意に口を開いた。
「……街に、行ってみたい。」
突然の言葉に、部屋の空気が一瞬だけ止まる。
だが次の瞬間、父である領主が豪快に笑った。
「よし、それなら皆で見て回ろうではないか。」
そしてリュトワーへ向き直る。
「もちろん、そちらの子供たちもご一緒に。せっかくの機会だ。」
提案は半ば決定事項のような調子だった。
リュトワーは苦笑しながら頷く。
貴族たちの一団は、数名のメイドを伴い街へと繰り出した。
最初は穏やかな見物だった。整えられた街路を歩き、建築を眺め、屋台で焼き菓子を買い、他愛ない感想を交わす。領主の子供たちにとっては、ただの小さな遠足のような時間だった。
気づけば日が傾き、通りには人工灯がひとつ、またひとつと灯り始めていた。
その時だった。
通りの先で、人々が慌ただしく外へ飛び出してくる。
「火事だ!」
叫び声とともに、近くの料理屋から黒煙が立ち上っていた。
リュトワーは即座に状況を把握した。
「子供たちを下がらせろ。」
冷静に指示を出し、護衛とメイドへ子供たちを任せると、自らは火元へ向かう。周囲では水桶が運ばれ、住民たちが必死に消火を始めていた。
一団は屋敷へ戻るため移動を始める。
――その中で、ただ一人。
ルークスだけが立ち止まっていた。
燃え上がる建物を、じっと見上げている。
専属メイドのナナが気付き、慌てて手を取った。
「ルークス様、危険です。戻りましょう」
しかし、ルークスは動かなかった。
代わりに、小さな指が静かに持ち上がる。
料理屋の――二階。
その先、窓辺に少女がいた。
煙を吸ったのか、激しく咳き込みながら助けを求めている。
ルークスは何も言わない。ただ無言で、その光景を指し続けた。
感情の色をほとんど映さない瞳で。
ナナは一瞬だけ息を呑む。
そして理解した。
「……そういうことね。」
次の瞬間、彼女は迷いなく建物へ駆け込んだ。
五年前まで剣士を志していた彼女にとって、人一人を救い出すことなど難しいことではない。煙を避け、階段を駆け上がり、少女を抱えて外へ戻るまで、時間はほとんどかからなかった。
やがて火は鎮まり、騒ぎも収束する。
日が完全に落ちた頃、ルークスとナナは少し遅れて屋敷へ戻った。
帰路のあいだ、ナナは何度も隣を歩く幼子を見た。
活発で、成長の早い子供。
――それだけではない。
皆が慌ただしく動く中で、彼だけが泣きもせず、怯えもせず、ただ「助けを求める場所」を指し示した。
まるで最初から、何をするべきか知っていたかのように。
その瞳は、幼児のものとは思えないほど静かだった。
ナナの中で、ルークスという存在の印象が、わずかに変わった瞬間だった。




