ふたりは姉妹 後日談
それは、ほんの一言だった。
「結菜、背、伸びた?」
靴箱の前で、クラスの友達がそう言った。結菜は少し驚いた顔をしてから、首をかしげる。
「そうかな」
「うん、前より目線が上じゃない?」
「気のせいだよ」
結菜は笑って流し、会話はそれで終わった。
佳奈は、その少し後ろで靴を履き替えていた。
(――私には、聞かれなかった)
それだけのことなのに、靴の中に入った小さな石のように、一歩歩くたびに意識の端を異物が叩いてくる。
帰り道、3人の自転車が西日に影を伸ばしながら走っていた。先頭を行く結菜。一定の距離を保つ真奈。佳奈は2人の背中から少し遅れて、重いペダルを回していた。
別に、比べられたわけじゃない。ただ、自分だけが「声をかけられなかった」という事実が、消えない違和感として残っている。
「佳奈、今日遅くない?」
真奈が、ハンドルを握ったまま肩越しに振り返る。
「……そう?」
「なんか疲れてる?」
結菜が前方から声を張り上げた。
「置いていくよー!」
「……別に。普通だよ」
風に乗せて返した。嘘じゃない。でも、本当でもない。家に着き、玄関で靴を揃える。結菜の靴と、自分の靴。並んだ踵の高さは、ほとんど同じ。それをわざわざ確認してしまった自分に、佳奈は少しだけ腹が立った。
――もう、気にしないって決めたのに。
⸻
夕飯の支度中、キッチンには小気味よい音が響いていた。真奈が握る包丁が、迷いなくまな板を叩く。一流料理人かと思うほどの正確さで、リズム良くキャベツの千切りの山を築いていく。
その横で、佳奈はフライパンを握っていた。熱せられた脂が跳ね、タレと生姜の香ばしい香りが一気に立ち上がる。手を動かしたまま、真奈が何気なく言う。
「そういえば、結菜」
「なに?」
「最近、服ちょっと短くない?」
「え、そう?」
結菜が笑う。
「やっぱり成長期なのかな、私」
でも、佳奈の中で、昼間の一言とつながってしまう。佳奈は菜箸を持ったまま、手を止めた。
「……それ、言われるの、結菜ばっかだね」
声は、思ったより普通だった。
キッチンが、一瞬だけ静かになる。
「そう?」
結菜が首をかしげる。
「別に、意識してないけど」
それが答えだった。
真奈が、すぐに空気を動かす。
「はいはい、焦がす前に手動かして」
「……分かってる」
佳奈は思う。これは爆発じゃない。でも、無視できるほど小さくもない。この違和感が、自分をどこへ連れていくのか。まだ、分からなかった。
⸻
夕飯のあと、3人はそれぞれ何もせずにリビングにいた。テレビはついているけど、誰もちゃんと見ていない。
佳奈はソファの端で、スマホの画面をあてもなくスクロールしていた。
「佳奈」
真奈が、不意に呼ぶ。
「なに」
「今日、ちょっと引っかかってるでしょ」
佳奈は否定できなかった。
「……別に」
「うん、別に、だね」
真奈は真剣な表情で言った。
少し間を置いてから、真奈が続ける。二人の方を見るでもなく、独り言みたいに話し出す。
「私だってさ」
「料理で比べられたら、2人には絶対勝てないよ」
佳奈の指が止まる。結菜は顔を上げた。
「え、まー姉?」
「2人も承知の事実でしょ。私の火加減も、味も」
真奈は肩をすくめる。
「昔は気にしたこともあったし、今でも料理はできるようになりたいって思ってる」
真奈は髪を耳にかけ、少しだけ、照れたように付け足す。
「でもさ」
真奈の声は、軽い。
「それでいいと思ってる」
佳奈は、何も言えなかった。
「向き不向きは人それぞれだし」
「全部で勝とうとするとさ」
真奈は自分の胸のあたりを、指で軽く叩く。
「心臓に悪いぞ」
冗談みたいな言い方だった。
でも、その言葉は、佳奈の中に静かに入ってくる。勝てない分野がある。追いつけない部分もある。それでも、そこに立っていていいんだ――。
「まー姉、ずるい」
結菜が、ぽつりと言った。
「なにが?」
「いつも、一番先に分かってる」
真奈は少しだけ考えてから、言葉を返した。
「分かったわけじゃないし、諦めたわけでもないよ」
「ただ、それを抱えたまま生きるって決めただけ」
佳奈が、深く息を吸い込む。
「……それ、簡単じゃないよ」
「簡単じゃないね」
真奈は即答した。
「だから、たまにこうやって言うの」
真奈は佳奈の目をまっすぐに見つめた。
「気にしすぎるな、って」
佳奈はふいと目を伏せた。でも、今度は――逃げるためじゃなく、受け止めるために。
「……ありがと」
小さな、掠れた声だった。
真奈は満足そうに立ち上がって手を叩く。
「はい、この話はおしまい!」
「また?」
「また」
そう言ってキッチンへ向かう背中は、やっぱり少しだけ大きかった。佳奈は思う。追い越せない背中があることは、そんなに悪くないのかもしれない、と。




