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森北三姉妹  作者: 古咲一和


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1/3

お湯を注ぐだけでよかった

お立ち寄りいただきありがとうございます。

今回は、入学式後の森北家の話です。

長女が何をするか、家族の反応をお楽しみください。

入学式の日は、家族全員が疲れていた。

 朝から慌ただしくて、帰宅したころには誰も口数が多くなかった。


 昼は、カップ麺でいい。


 お湯をポットで沸かして、注ぐだけだ。

 問題はないはずだと思って、その役目を姉に託した。



入学式の日、森北家の五人は午後に帰宅した。父は人混みで疲れ、母は夜勤明け。主役の二人佳奈と結菜は式で緊張し、真奈は2年生だが1年生の引率の手伝いを任せられたせいで、普段以上に神経を使っていた。


「つかれた――」


 結菜が玄関で靴を脱ぎながら大きく伸びをする。


「お昼、まだだよね」


 佳奈が時計を見た。午後1時をとっくに過ぎている。


「お腹空いた。朝ごはん、早かったし」


 結菜がリビングのソファに倒れ込んだ。


「簡単なものでいいかな、今日は? カップ麺とかで」


 母が提案した。


「賛成」


「私も」


 結菜と佳奈が即座に同意する。


「じゃあ、それでいこうか」


 父も新聞から顔を上げて頷いた。


「じゃあ、私がお湯沸かすよ」


 真奈が立ち上がった。


 その瞬間、リビングの空気が少し固まった。母と父が一瞬顔を見合わせる。佳奈と結菜も微妙な表情になった。


「……真奈、大丈夫?」


 佳奈が恐る恐る聞いた。


「大丈夫って、お湯沸かすだけよ」


 真奈が少し不満そうに言う。確かに、電気ポットでお湯を沸かすだけだ。理屈の上では、何の問題はない。


「火は使わないし、大丈夫なんじゃないか」


 父がフォローした。


「電気ポットのスイッチ入れるだけだもんね」


 結菜も自分に言い聞かせるように言う。


「理論上、失敗のしようがないし」


 真奈が自信を持って言った。


「じゃあ、お願い」


 母がうなずいた。ただし、その表情にはわずかな不安が残っていた。


 真奈は棚からカップ麺を五個取り出す。父は塩ラーメン、母は味噌ラーメン、佳奈はシーフード、結菜は醤油ラーメン、自分はとんこつ。そこは一切迷わない。


 水量も目盛りぴったり。温度設定も確認。スイッチを押す。完璧だ。


 と、思ったところで、真奈は少し考えた。今日は入学式。みんな疲れている。特に結菜は新しい環境に少し緊張していたようだった。


「リラックスできたほうがいいよね」


 真奈は棚を開けて、ジャスミン茶のティーバッグを取り出す。母が時々飲んでいるやつだ。ジャスミンには、リラックス効果がある。それは事実だ。


 沸いたポットの蓋を開け、ティーバッグをそっと落とす。ふわっと華やかな香りが立ち上る。


「うん、いい匂い」



「お湯できたよー」


 みんなが着替えてテーブルに集まる。真奈はカップ麺にお湯(ジャスミン茶)を注いで蓋をする。


「お湯入れたから持っていって」


 真奈はかわるがわるにカップ麺にジャスミン茶を注いでいく。


「これで全部だね」



「入学式、どうだった?」


 父が聞いた。


「まあまあ。校長先生の話、長かったけど」


 結菜が答えた。


「新しいクラスは、楽しみ?」


「うん。知ってる子も何人かいたし、何より佳奈ちゃんと一緒だし。こんなの初めてだし」


「そうだな。兄弟で学年が同じなら散らばせられるからな」


「そろそろできるよ」


 真奈がみんなを呼びかける。五人分のカップ麺が出来上がった。


「いただきます」


 五人で手を合わせた。みんなが一斉にカップ麺の蓋を開ける。


 その瞬間、どこからか華やかな香りがした。


「……ん?」


 結菜が鼻をひくつかせた。


「なんか、いい匂いしない? なんか爽やかな」


「する。なんだろう」


 佳奈も首を傾げた。


「ジャスミン? でも、誰もお茶淹れてないよね」


 母が不思議そうに言った。


「あれ、このカップ麺、こんな香りだったっけ?」


 佳奈が不思議そうに自分のカップ麺を見つめた。


「私のも……なんか、ジャスミン茶っぽい匂いがする」


 結菜が自分のカップ麺の蓋を少し持ち上げて、中を覗いた。フタを剥がすと、カップ麺とは思えない華やかな香りがリビングに広がっていく。もはや隠しようがないほどに。


「……真奈」


 母がゆっくりと口を開いた。その声のトーンに、真奈は嫌な予感がした。


「何?」


「このお湯に、何を入れた?」


「えっと……ジャスミン茶」


 真奈が小さな声で答えた。


「ジャスミン茶!?」


 四人が同時に声を上げた。リビング中に驚きの声が響き渡った。


「だって、今日は入学式で疲れてるでしょ? 理論上、ジャスミンにはリラックス効果があるから、いいかなって」


「真奈……お湯だけでよかったのに」


 佳奈が力なく言った。


「でも、せっかくだから……」


「お湯を沸かすだけって言ったよね?」

 

 結菜が反応する。

 

 母が頭を抱えた。


「沸かしたよ。ただ、ジャスミン茶を入れただけで」


「それが問題なのよ」


 父が自分のカップ麺を見つめた。塩ラーメンのはずなのに、ジャスミンの香りが強烈にしている。


「『だけ』の意味、わかってる?」


 佳奈が諦めたような顔で聞いた。


「わかってるけど……」


「わかってないよね」


 結菜がため息をついた。


「飲める……のかな、これ」


 結菜が恐る恐るカップ麺のスープを啜った。醤油ラーメンとジャスミン茶のコラボレーション。想像もしていなかった組み合わせだ。


「……うん、飲めるけど」


「おいしい?」


 母が聞いた。


「おいしくはない」


 結菜が正直に答えた。


「ジャスミンと醤油って、全然合わない」


 佳奈も味見をして、微妙な顔をした。シーフードとジャスミンの組み合わせも、決して良いものではなかった。


「でも、食べられないほどじゃないから……」


 母が前向きに言った。さすが看護師、どんな状況でも冷静だ。


「そうだね。もったいないし、食べよう」


 父も頷いた。


「すいませんでした……」


 真奈が申し訳なさそうに言った。


 五人で、ジャスミンの香りがするカップ麺を食べ始めた。沈黙が続く。箸が進まない。いつもなら賑やかな食卓なのに、今日はいつもと空気感が違う。


「……ごめん」


 真奈が小さく、また謝った。


「いいのよ。食べられるし」


 母が優しく言ったけれど、その表情は微妙だった。味噌ラーメンとジャスミンの組み合わせは、予想以上に合わなかった。


「真奈、次からはお湯だけにしてね。本当に、ただのお湯」


 母が念を押した。


「うん……」


「気持ちはわかるけどね。真奈の理論、リラックスができると考える。でも実際は違うんだよ」


 佳奈がフォローした。


「あ、そういえば」


 真奈がふと思い出したように言った。


「何?」


 四人が警戒した顔で真奈を見た。


「ジャスミン茶と迷ったんだけど、インスタントコーヒーを入れようかなとも思ってたの。そっちの方がよかったかな」


「コーヒー!?」


 四人がまた同時に声を上げた。


「だって、リラックスして、覚醒効果があるでしょ? 疲れた時にいいかなって」


「真奈……」


 母が深くため息をついた。


「コーヒー味のカップ麺って、想像もしたくない」


 父が顔をしかめた。塩ラーメンにコーヒー。考えただけで胃が痛くなる。


「ジャスミン茶でよかったね。まだ食べられる分こっちの方がマシ。コーヒーなんて入れたら一口も食べられないよ、絶対」


 結菜が真剣な顔で言った。


「そうだね。コーヒーじゃなくて、本当によかった」


 佳奈もうなずいた。


「でも、どっちもダメだからね」


「わかったって……」


 真奈がしょんぼりした。


「真奈の理論上はいいのかもしれないが……」


 父がフォローした。


「でも、カップ麺に入れるものじゃないよね」


 母が付け加えた。


「まー姉がお湯を沸かすだけでも信用できなくなってきた」


 結菜がぼそっと言った。


「私の信用率、低くない?」


「当たり前でしょ。事実、こうなってるんだから」


 佳奈が自分のカップを指差した。


「これが証拠だよ」


「今度からは、お湯を沸かす時も誰かが監視することにしましょう」


「……はい」


 真奈は素直に頷くしかなかった。


 五人で、ジャスミンの香りがするカップ麺を食べ続ける。


「……これ、慣れると意外といける気がしてきた」


 父が前向きに言った。


「そう?」


 母が期待を込めて聞いた。


「いや、やっぱり無理」


 父がすぐに訂正した。


 みんなで笑った。緊張が少しほぐれた。


「でも、完食はするよ。もったいないし」


 父が麺をすすった。


「私も。食べ物を無駄にしちゃダメだし」


 結菜も頑張って食べた。


 窓の外では、春の日差しが明るく降り注いでいる。入学式の日、ちょっと変わったお昼ごはん。


 真奈はカップ麺を食べながら思った。あんまりおいしくはならない……。次は、本当にお湯だけにしよう。理論上……じゃなくて、カップ麺にはお湯だけが一番いいんだ。


 でも、と心の中で少し思う。ジャスミンの香り、そんなに悪くないと思うんだけどな。


「真奈、何考えてるの?」


 佳奈が聞いた。


「えっ、何も」


「顔に出てるよ。『そんなに悪くないかな』って思ってるでしょ」


「……なんでわかるの」


「妹だからね」


 佳奈は目に力を入れ、真奈を指差す。


「まー姉は反省してないよね」


 なんとか食べ切った結菜は笑った。


「してる、すごくしてる」


「してないでしょ」


「してる」


「してない」


 真奈と結菜の言い合いに、佳奈も口を出す。


「もし真奈が兄だったら私は手出してる。コーヒーだったら足が出てるところ」


「そこまで罪深いの、私の行動」


 三姉妹の言い合いを見て、母と父は顔を見合わせて笑った。


「まあ、これも森北家らしいわね」


「そうだね。退屈しない家族だ」


 父が新聞を広げた。


「お父さん、またクロスワード?」


 結菜が聞いた。


「うん。この前の続き、手強くてまだ全部埋まってないんだ」


「わからなかったら、また家族会議だね」


 佳奈が笑った。


 春の午後、ジャスミンの香りがするリビングで、森北家の新学期が始まった。


 そして、真奈がキッチンに向かう時の警戒レベルは、また一段階上がったのだった。

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