お湯を注ぐだけでよかった
お立ち寄りいただきありがとうございます。
今回は、入学式後の森北家の話です。
長女が何をするか、家族の反応をお楽しみください。
入学式の日は、家族全員が疲れていた。
朝から慌ただしくて、帰宅したころには誰も口数が多くなかった。
昼は、カップ麺でいい。
お湯をポットで沸かして、注ぐだけだ。
問題はないはずだと思って、その役目を姉に託した。
入学式の日、森北家の五人は午後に帰宅した。父は人混みで疲れ、母は夜勤明け。主役の二人佳奈と結菜は式で緊張し、真奈は2年生だが1年生の引率の手伝いを任せられたせいで、普段以上に神経を使っていた。
「つかれた――」
結菜が玄関で靴を脱ぎながら大きく伸びをする。
「お昼、まだだよね」
佳奈が時計を見た。午後1時をとっくに過ぎている。
「お腹空いた。朝ごはん、早かったし」
結菜がリビングのソファに倒れ込んだ。
「簡単なものでいいかな、今日は? カップ麺とかで」
母が提案した。
「賛成」
「私も」
結菜と佳奈が即座に同意する。
「じゃあ、それでいこうか」
父も新聞から顔を上げて頷いた。
「じゃあ、私がお湯沸かすよ」
真奈が立ち上がった。
その瞬間、リビングの空気が少し固まった。母と父が一瞬顔を見合わせる。佳奈と結菜も微妙な表情になった。
「……真奈、大丈夫?」
佳奈が恐る恐る聞いた。
「大丈夫って、お湯沸かすだけよ」
真奈が少し不満そうに言う。確かに、電気ポットでお湯を沸かすだけだ。理屈の上では、何の問題はない。
「火は使わないし、大丈夫なんじゃないか」
父がフォローした。
「電気ポットのスイッチ入れるだけだもんね」
結菜も自分に言い聞かせるように言う。
「理論上、失敗のしようがないし」
真奈が自信を持って言った。
「じゃあ、お願い」
母がうなずいた。ただし、その表情にはわずかな不安が残っていた。
真奈は棚からカップ麺を五個取り出す。父は塩ラーメン、母は味噌ラーメン、佳奈はシーフード、結菜は醤油ラーメン、自分はとんこつ。そこは一切迷わない。
水量も目盛りぴったり。温度設定も確認。スイッチを押す。完璧だ。
と、思ったところで、真奈は少し考えた。今日は入学式。みんな疲れている。特に結菜は新しい環境に少し緊張していたようだった。
「リラックスできたほうがいいよね」
真奈は棚を開けて、ジャスミン茶のティーバッグを取り出す。母が時々飲んでいるやつだ。ジャスミンには、リラックス効果がある。それは事実だ。
沸いたポットの蓋を開け、ティーバッグをそっと落とす。ふわっと華やかな香りが立ち上る。
「うん、いい匂い」
⸻
「お湯できたよー」
みんなが着替えてテーブルに集まる。真奈はカップ麺にお湯(ジャスミン茶)を注いで蓋をする。
「お湯入れたから持っていって」
真奈はかわるがわるにカップ麺にジャスミン茶を注いでいく。
「これで全部だね」
⸻
「入学式、どうだった?」
父が聞いた。
「まあまあ。校長先生の話、長かったけど」
結菜が答えた。
「新しいクラスは、楽しみ?」
「うん。知ってる子も何人かいたし、何より佳奈ちゃんと一緒だし。こんなの初めてだし」
「そうだな。兄弟で学年が同じなら散らばせられるからな」
「そろそろできるよ」
真奈がみんなを呼びかける。五人分のカップ麺が出来上がった。
「いただきます」
五人で手を合わせた。みんなが一斉にカップ麺の蓋を開ける。
その瞬間、どこからか華やかな香りがした。
「……ん?」
結菜が鼻をひくつかせた。
「なんか、いい匂いしない? なんか爽やかな」
「する。なんだろう」
佳奈も首を傾げた。
「ジャスミン? でも、誰もお茶淹れてないよね」
母が不思議そうに言った。
「あれ、このカップ麺、こんな香りだったっけ?」
佳奈が不思議そうに自分のカップ麺を見つめた。
「私のも……なんか、ジャスミン茶っぽい匂いがする」
結菜が自分のカップ麺の蓋を少し持ち上げて、中を覗いた。フタを剥がすと、カップ麺とは思えない華やかな香りがリビングに広がっていく。もはや隠しようがないほどに。
「……真奈」
母がゆっくりと口を開いた。その声のトーンに、真奈は嫌な予感がした。
「何?」
「このお湯に、何を入れた?」
「えっと……ジャスミン茶」
真奈が小さな声で答えた。
「ジャスミン茶!?」
四人が同時に声を上げた。リビング中に驚きの声が響き渡った。
「だって、今日は入学式で疲れてるでしょ? 理論上、ジャスミンにはリラックス効果があるから、いいかなって」
「真奈……お湯だけでよかったのに」
佳奈が力なく言った。
「でも、せっかくだから……」
「お湯を沸かすだけって言ったよね?」
結菜が反応する。
母が頭を抱えた。
「沸かしたよ。ただ、ジャスミン茶を入れただけで」
「それが問題なのよ」
父が自分のカップ麺を見つめた。塩ラーメンのはずなのに、ジャスミンの香りが強烈にしている。
「『だけ』の意味、わかってる?」
佳奈が諦めたような顔で聞いた。
「わかってるけど……」
「わかってないよね」
結菜がため息をついた。
「飲める……のかな、これ」
結菜が恐る恐るカップ麺のスープを啜った。醤油ラーメンとジャスミン茶のコラボレーション。想像もしていなかった組み合わせだ。
「……うん、飲めるけど」
「おいしい?」
母が聞いた。
「おいしくはない」
結菜が正直に答えた。
「ジャスミンと醤油って、全然合わない」
佳奈も味見をして、微妙な顔をした。シーフードとジャスミンの組み合わせも、決して良いものではなかった。
「でも、食べられないほどじゃないから……」
母が前向きに言った。さすが看護師、どんな状況でも冷静だ。
「そうだね。もったいないし、食べよう」
父も頷いた。
「すいませんでした……」
真奈が申し訳なさそうに言った。
五人で、ジャスミンの香りがするカップ麺を食べ始めた。沈黙が続く。箸が進まない。いつもなら賑やかな食卓なのに、今日はいつもと空気感が違う。
「……ごめん」
真奈が小さく、また謝った。
「いいのよ。食べられるし」
母が優しく言ったけれど、その表情は微妙だった。味噌ラーメンとジャスミンの組み合わせは、予想以上に合わなかった。
「真奈、次からはお湯だけにしてね。本当に、ただのお湯」
母が念を押した。
「うん……」
「気持ちはわかるけどね。真奈の理論、リラックスができると考える。でも実際は違うんだよ」
佳奈がフォローした。
「あ、そういえば」
真奈がふと思い出したように言った。
「何?」
四人が警戒した顔で真奈を見た。
「ジャスミン茶と迷ったんだけど、インスタントコーヒーを入れようかなとも思ってたの。そっちの方がよかったかな」
「コーヒー!?」
四人がまた同時に声を上げた。
「だって、リラックスして、覚醒効果があるでしょ? 疲れた時にいいかなって」
「真奈……」
母が深くため息をついた。
「コーヒー味のカップ麺って、想像もしたくない」
父が顔をしかめた。塩ラーメンにコーヒー。考えただけで胃が痛くなる。
「ジャスミン茶でよかったね。まだ食べられる分こっちの方がマシ。コーヒーなんて入れたら一口も食べられないよ、絶対」
結菜が真剣な顔で言った。
「そうだね。コーヒーじゃなくて、本当によかった」
佳奈もうなずいた。
「でも、どっちもダメだからね」
「わかったって……」
真奈がしょんぼりした。
「真奈の理論上はいいのかもしれないが……」
父がフォローした。
「でも、カップ麺に入れるものじゃないよね」
母が付け加えた。
「まー姉がお湯を沸かすだけでも信用できなくなってきた」
結菜がぼそっと言った。
「私の信用率、低くない?」
「当たり前でしょ。事実、こうなってるんだから」
佳奈が自分のカップを指差した。
「これが証拠だよ」
「今度からは、お湯を沸かす時も誰かが監視することにしましょう」
「……はい」
真奈は素直に頷くしかなかった。
五人で、ジャスミンの香りがするカップ麺を食べ続ける。
「……これ、慣れると意外といける気がしてきた」
父が前向きに言った。
「そう?」
母が期待を込めて聞いた。
「いや、やっぱり無理」
父がすぐに訂正した。
みんなで笑った。緊張が少しほぐれた。
「でも、完食はするよ。もったいないし」
父が麺をすすった。
「私も。食べ物を無駄にしちゃダメだし」
結菜も頑張って食べた。
窓の外では、春の日差しが明るく降り注いでいる。入学式の日、ちょっと変わったお昼ごはん。
真奈はカップ麺を食べながら思った。あんまりおいしくはならない……。次は、本当にお湯だけにしよう。理論上……じゃなくて、カップ麺にはお湯だけが一番いいんだ。
でも、と心の中で少し思う。ジャスミンの香り、そんなに悪くないと思うんだけどな。
「真奈、何考えてるの?」
佳奈が聞いた。
「えっ、何も」
「顔に出てるよ。『そんなに悪くないかな』って思ってるでしょ」
「……なんでわかるの」
「妹だからね」
佳奈は目に力を入れ、真奈を指差す。
「まー姉は反省してないよね」
なんとか食べ切った結菜は笑った。
「してる、すごくしてる」
「してないでしょ」
「してる」
「してない」
真奈と結菜の言い合いに、佳奈も口を出す。
「もし真奈が兄だったら私は手出してる。コーヒーだったら足が出てるところ」
「そこまで罪深いの、私の行動」
三姉妹の言い合いを見て、母と父は顔を見合わせて笑った。
「まあ、これも森北家らしいわね」
「そうだね。退屈しない家族だ」
父が新聞を広げた。
「お父さん、またクロスワード?」
結菜が聞いた。
「うん。この前の続き、手強くてまだ全部埋まってないんだ」
「わからなかったら、また家族会議だね」
佳奈が笑った。
春の午後、ジャスミンの香りがするリビングで、森北家の新学期が始まった。
そして、真奈がキッチンに向かう時の警戒レベルは、また一段階上がったのだった。




