第1話「残高8420」
勇者が世界を救うまで、あと8420ルーン。
そう聞けば、ずいぶんお買い得な世界だと思うかもしれない。
俺は思わなかった。机に置かれた財布が、世界より先に救いを求めていたからだ。
「確認します。この袋が、討伐隊の現金全部ですか」
「そうだ。足りないか?」
向かいの青年は、俺の顔を心配そうに見た。金色の髪に、旅支度の外套。背には柄だけで俺の月給を超えそうな剣がある。月給というものが、この世界にもあればの話だが。
「何日分の資金なのかによります。魔王は、ここから近いんですか」
「近くはない。北の砦を抜けて、その先だ」
「その先というのは」
「まだ、正確には分かっていない」
8420ルーンの頼りなさが増した。
俺は佐倉直人、29歳。昨日まで、中堅企業で経費精算を担当していた。正確には、昨日という言葉でよいかも分からない。
横断歩道で白い光を見た。そのあと、柔らかい寝台で目を覚ました。窓の外を、大きな角のある馬が歩いていた。枕元の女性に住所を尋ねたら、アルヴェリア王国の王都だと答えられた。
病院ではない。外国でもない。
俺が異世界に転生したと説明を受けるまでに、半日かかった。理解には、もう少しかかりそうだ。鏡に映る顔が前と同じなのは助かった。それ以外の安心材料は、今のところ少ない。
王国ではまれに、別の世界で死んだ人間が現れるという。その人間に衣食を与え、本人の持つ技術を聞く制度があった。
剣も魔法も使えないと答えた俺に、担当者は少し考えてから質問した。
『では、何ができますか』
『経理です』
その時は、ここまで早く仕事が決まると思っていなかった。
「先に名乗るべきだったな。俺はイグナス・アークライト。討伐隊を率いている」
青年が右手を差し出した。
握ると、手のひらに硬い部分があった。剣を振ってきた人の手だと、戦いを知らない俺にも分かる。
「佐倉直人です。佐倉で構いません」
「ナオト、と呼んでもいいか。こっちの言葉だと、その方が言いやすい」
「ええ。ただ、俺の仕事について、どこまで聞いていますか」
「隊の金を見てくれる人だ。必要な仕事だと聞いた」
必要だと言い切った時の顔に、軽さはなかった。
その一言で少し落ち着き、俺は机の紙束を引き寄せた。
最初の紙に、王国の紋章が押してある。
魔王討伐委任状。討伐隊長イグナス・アークライト。活動費120000ルーン。
その下の数字を見直す。
120000。
財布には8420。
「111580ルーンは、すでに使ったんですね」
「ああ。出発準備と、この前の討伐で」
「この前の討伐?」
「王都へ向かっていた魔獣を止めた。北へ発つ前に、街道を空ける必要があったんだ」
窓の下から、車輪の音が聞こえた。
誰かが野菜を積んだ荷車を押している。別の誰かが、通りの向こうへ挨拶する。あの道が使えることにも、俺の知らない費用がかかっているらしい。
視線を紙へ戻す。
表紙には、大きく『未精算 31600』と書かれていた。
「未精算が31600……」
俺は財布の口を閉めかけた。
使える八千余りに対して、さらに三万余りの請求が待っているのか。そう考えた瞬間、数字の横の小さな印が目に入る。
支払済。
「待ってください。この未精算は、未払いではなく、使い道の確認が終わっていないという意味ですか」
「そう聞いている。相手には全部払ったぞ」
紙を1枚ずつめくる。
薬剤、21600。支払済。
神殿救護寄付、6000。支払済。
荷車保証金、4000。支払済。
合わせて31600。
「分かりました。これを財布から、もう一度引くわけではないですね」
「もう一度払う必要があるなら、俺もおかしいと思う」
「その通りです。俺が早とちりしました」
最初の仕事が、自分の勘違いを直すことになった。
口に出して訂正すると、イグナスは頷いた。俺の面目より、二度払わずに済むことの方が大事そうだった。その判断には賛成だ。
確認の済んだ支出は、79980。確認前の支出を足すと、さっきの111580になる。
現金とも合う。
少なくとも、金がどこかへ消えたところから始めなくてよかった。
「皆も呼ぼう。俺一人じゃ、薬の説明はできない」
イグナスが扉を開けると、廊下で待っていた3人が入ってきた。
細い杖を持つ女性が、真っ先に薬剤の紙へ手を伸ばす。
「リシア・フェルグラン。魔術師よ。説明が必要なのは、金額? 使用量?」
「両方です。まず、何を買ったか確認したい」
「一覧はある。使用記録も。売った店の紙がいるのなら、明日行けばいい」
リシアは革の小冊子を置いた。
頁には時刻、術式、魔石の種類、消費数が並んでいた。文字は細かいが、乱れてはいない。
俺が紙束を見た時より、情報が増えている。
「記録してくれていたんですね」
「次に同じ敵へ同じ量を使えるか、判断するためよ。あなたが必要なら、見て」
自分の仕事には、自分の理由で記録を残していた。
これなら話ができる。そう思って小冊子を開くと、後ろから柔らかい声がした。
「エレナ・ミルフォードです。治療を担当しています。神殿への寄付は、私がお願いしました」
胸元に白い印をつけた女性だった。
俺の目が6000の欄へ戻ると、彼女もそこを見た。
「街道から運ばれた人の治療に、薬が足りなかったんです。隊の費用から出してよいと、イグナスが確認してくれました」
「その確認も、紙に残っていますか」
「神殿にはあります。こちらに写しをもらっていませんでした」
「それなら、確認しましょう。理由が分からないのと、理由がないのは別ですから」
エレナの肩から、わずかに力が抜けた。
俺は6000の横に、神殿照会、と小さく書いた。取り戻す、と書く気にはならなかった。
最後の一人が、俺の椅子の後ろを通ろうとして立ち止まった。大きな盾が、扉の枠に引っかかっている。
「ガルド・ヴァレンだ。前で受ける役をやってる。すまん、椅子を少し寄せてくれ」
俺は横へ動いた。
ガルドは盾を壁際に置き、鎧のまま慎重に腰掛けた。椅子が短く鳴った。
「整備の12000は俺だ。安い額じゃない。だが、必要な場所を直した」
「内容を教えてもらえますか」
「ここで鎧を脱ぐより、職人のところで見た方が早い。傷を隠して、金だけ請求するつもりはないぞ」
彼は笑ったが、盾の縁を撫でる手は丁寧だった。
4人とも、使い道を隠そうとはしていない。俺に説明する準備の形が違うだけだ。
財布が薄いというだけで、浪費家の集団だと決めつけなくてよかった。
ただし、薄いものは薄い。
「俺がまず確認したいのは、出発予定です。いつですか」
「明日だった」
イグナスの返事に、ペンが止まった。
「その予定を、今ここで変更できますか」
「理由があれば。急ぐ理由もある。北の砦が、補給を待っている」
ここへ来て初めて、仕事の期限が世界の事情とつながった。
俺は委任状の裏を読む。文字は不思議なほど意味が分かった。どうして読めるのかは、あとで驚くことにする。
行程変更時は、追加承認を要する。
支出証明を提出できない場合、次期活動の交付を保留する。
その2行を、指で押さえた。
「今の残高で北の砦まで行けるか、途中で足りなくなるか、俺にはまだ分かりません。分からないまま、行けるとは言えないです」
「必要な薬の数なら出せるわ」
「休む場所と、道の状態は俺が聞いてくる」
「神殿から、途中の救護所を教えてもらえます」
3人の返事に、俺は頷いた。
頼むための言葉を選んでいる間に、頼める仕事が並んでいた。
「ありがとうございます。それを俺が、同じ行程にまとめます。使った金の確認も並行してやる。追加の費用が必要なら、必要な理由をつけて申請します」
「どれだけ待てばいい?」
イグナスが尋ねた。
俺は未確認の紙を数え、照会先を書き、審査の日を聞いた。9日後に、次の公費審査があるという。
余裕があるとは思えない。ただ、出発したあとで書類を求められて戻るよりはいい。
「9日です。その間も街道の警戒は続けられますか」
「できる。北には、予定を変える伝令を出す」
即答だった。進むことと、進む準備をすることを、彼は敵対させなかった。
俺は新しい紙に大きく、出発までに必要なこと、と書く。現金。支出の確認。行程。物資。交付の条件。
そこで一つ、空欄を作った。
「最後に、分からない費用を隠さないでください。使ったあとでも、俺に教えてほしい。怒るために聞くんじゃないです」
「助かるわ。私も、使わずに済む薬を見分けたいもの」
リシアが小冊子を俺の方へ押した。
エレナは神殿への照会を引き受け、ガルドは職人の場所を紙の隅へ描いた。盾よりずいぶん小さな絵だった。
イグナスは、未確認の束の向こうから1枚拾い上げた。
「剣の費用も見てくれ。保証があると聞いたが、保証書が見つからないんだ」
「剣はいくらでした?」
「48000」
俺は最初の支出一覧を見直した。
ある。伝説剣、48000。
120000の予算から、それを買ったのか。
頭の中で文句が3つほど立ち上がった。いったん全部、座らせる。まず用途を聞く。それが俺の仕事だ。
「明日、その剣を見せてください」
「もちろん。魔王の外殻を斬るための剣だ」
青年の顔が、初めて少し誇らしげになった。
俺は財布を開けて、硬貨をもう一度数えた。8420。さっきと同じだ。
異世界に来て最初に手にした武器は、ペンだった。
使い方を間違えれば、旅を止める。
正しく使えれば、少なくとも、帰りの宿代くらいは守れるかもしれない。
「分かりました。剣の保証書も、皆で探しましょう」
勇者の冒険に、経理担当が加わった。
最初の共同作業は、紙探しになった。




