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捜査

2012年9月8日午前。兵庫県警察本部庁舎地下3階の取調室で、岩田刑事と17歳の逢坂瑠那が向き合います。

36台の防犯カメラ映像を突きつけ、103人の子供たちの命を背負って迫る岩田刑事に、瑠那はどう応えるのか。静かな密室での心理戦が始まります。

【2012年9月8日 土曜日 午前十一時 兵庫県警察本部庁舎地下3階】


 その部屋に窓はなかった。

 薄汚れたクリーム色の壁。冷たいグレーの金属製デスク。プラスチックの背もたれが軋むパイプ椅子が二つ。部屋の隅では、二台のビデオカメラが赤いランプを灯し、逢坂瑠那を捉えていた。一部の重大事件で試行が始まったばかりの録音・録画——いわゆる「可視化」の象徴。だがそれは、映像に映らない死角や、途切れる時間を意図的に作り出すための装置にも見えた。


 身体がだるい。

 ずっと力を込めていた指先を、ゆっくりとほぐしながら、瑠那は深い息を吐いた。ここ二、三時間、神経をすり減らしたせいで、一晩中眠れなかったように体が重い。連行されるまでの目まぐるしい展開と、署内での事務的な手続き。指紋を採られ、顔写真を撮られ、冷たい視線に晒され続けた。17歳という、少年法上は『少年』に該当する未成年であるにもかかわらず、保護者である父の同席は拒否された。「捜査の都合上」と、それだけ。とっくに成人であるかのように、彼女は扱われた。


 朝食は、出されたパンを一口食べただけで喉を通らなかった。喉の奥に、鉛の塊が詰まっている。その重苦しさが疲労だけのものでないことを、瑠那は知っていた。彼女の内側には、あの歪覚(わいかく)——自分でそう呼んでいる、名状しがたい第六の知覚——が常に響き、その残響は今も鳴り止まない。9月5日の報道を見てから、あの悲痛な震えは子供たちのものかもしれないと思い始めた。だが、自分には何もできない——そうも思っていた。


 向かいの席には、岩田と山根という2人の刑事が座っていた。

 岩田は五十代半ば。長いキャリアが刻んだ皺が深く、その視線は瑠那の奥まで届こうとするように鋭い。気だるげで一見疲れて見えるのに、背筋は微塵も揺るがず、デスクに置かれた両腕の筋肉の隆起が、内に秘めた気迫を物語っていた。

 彼の隣には、古い陶器製の灰皿が置かれている。かつてこの部屋で、どれほどの煙が吐き出され、どれほどの言葉が(いぶ)されてきたのか。その気配が、湿気を帯びた空気のように部屋を満たしていた。


 その隣の山根は、今朝、自宅まで瑠那を連れに来た刑事だった。三十代後半。黒いスーツに、きっちりとまとめた髪。隙のない佇まいは、あの時と変わらない。視線もまた瑠那に向いているが、岩田のそれとは温度が違った。観察、という言葉がいちばん近い。表情の変化、手の動き、瞬き一つまで見逃すまいとする目——あの部屋で瞳の奥を覗き込まれたときと、同じ目だ。だがその奥には、理解しきれないものを見つめる困惑と、わずかな共感が揺らいでいる。自分の異質さを、この刑事だけは感じ取っているのではないか。あの朝から、瑠那はその思いを拭えずにいた。


「逢坂瑠那さん。いい加減、話してもらおうか」


 岩田の声は低く、沈黙を引き裂いた。直接の怒号ではないのに、有無を言わせぬ圧力がある。瑠那は答えない。答えるべき言葉を、彼女は持ち合わせていなかった。

 あの時、三宮の雑踏でも、六甲道の商店街でも、歪覚は確かにそこに在った。特定の空間だけが音叉のように共鳴し、瑠那の意識を揺さぶった。引き寄せられるまま、彼女は空間を移動した。ただ、それだけのことだった。けれどこの部屋にいる刑事たちに、その現象と行動が理解できるはずもない。彼らの積み重ねてきた三次元の常識では説明のつかない、瑠那の「精神異常」——そう映るに決まっていた。


 瑠那は、無意識に指先でテーブルの表面をなぞった。冷たい金属の感触。なのに、その硬さすら彼女の感覚では頼りない。この部屋のあらゆるものが、歪覚の前ではどこか曖昧な輪郭しか持たない。壁もそうだ。堅固なコンクリートのはずなのに、瑠那の目には一瞬、透明な膜のように揺らいで見える。その向こうに、もう一つの部屋が重なって在るかのように。


 彼は沈黙を破り、ゆっくりと口を開いた。


「103人だ。子供が、103人。お前が連行されてくるまでに、そう報告があった。どういうことか、説明してもらおうか、逢坂さん」


 それは、この世界に理解されないという事実を突きつけられる、始まりの言葉だった。

 瑠那は、何も言えなかった。

 ただ、歪覚はまだ鳴り続け、悲痛な震えを伝えてくる——子供たちは、まだ生きているはずだ。しかし、それをどう伝えればいいのか、瑠那には分からなかった。

 冷えたパイプ椅子の硬さが、瑠那の背骨に鈍く食い込んでいた。それだけが、今の居場所を教える、たった一つの確かな感触だった。壁なら、角度を変えればいつだって消せる。なのにこの椅子の硬さだけは、彼女にはどうしても消せなかった。


 重く分厚いファイルが、目の前のスチールの机に、乾いた音を立てて叩きつけられた。束が巻き上げた細かな埃で、瑠那の視界が一瞬だけ揺らぐ。岩田はそれを広げ、彼女の方へ押しやった。その動作には、一片の迷いもない、剥き出しの怒りがあった。


「おい、逢坂瑠那」


 岩田の太い声が、空気を叩いた。部屋の隅のビデオカメラのレンズが、何の感情もなく刑事たちと少女を映している。赤い点滅が、瑠那の視界の隅を一定の拍子で刺し続けた。監視されているという事実だけで、空間が淀んでいくようだった。


 白い紙の束が広がった。子供たちの顔写真と、そこに挟み込まれた防犯カメラの画像。解像度の低い、ざらついた画像の中の少女が、それぞれの写真に寄り添うように並んでいた。公園のベンチの陰、商店街の雑踏、駅のホーム、そして六甲道の信用金庫前で唯一鮮明に捉えられた、顔の判別がつく一枚。それらは全て、別々の時刻、別々の場所で撮られたものだったが、そこには紛れもなく瑠那が写し出されていた。


「これが何だか分かるか?」


 岩田は、人差し指で乱暴に写真の一枚を指した。


「1人ひとりの親が、血眼になって探し回っている子供たちの顔だ。そして、この子らが消えた直後、お前が必ずそこにいた。どう説明する? なぜそこにいた? 誰の指示だ? 子供たちをどこへ隠した?」


 岩田の容赦のない怒号が、私の頭の中で反響する。言葉の音量が大きくなるほど、特定の方向から伝わってくる歪覚もまた、つられて増幅されるような気がした。言語化できない、しかし確かに存在する「歪み」の感覚。


「お前の行動は、36台の監視カメラが捉えている。三宮の商店街、六甲道の駅前、ポートアイランドのフェリー乗り場。全てが偶然だとでも言うのか?」

「極めて高い一致、という結果です」


 山根が、岩田の隣で静かに告げた。彼女の声は、岩田よりも抑えられていたが、その眼差しは鋭く、私の内面を見透かそうとしているようだった。


「警察庁の技官チームによる歩容解析の結果です。これだけの精度で、別人が映り込んでいるとは考えられないわ」


 その結論は、彼らの世界では、絶対的な重みを持っていた。

 だが私にとっては、その『揺るぎなさ』こそが、どこか現実味を欠いていた。同じ机を挟んでいても、私の立つ世界と彼らの立つ世界は、初めから違う理屈で出来ているのだから。


 岩田は、顔を私の目の前にまで近づけた。その眼差しには、怒りだけではない、過去の悔恨のようなものが混じっている。


「俺は15年前、友が丘で地獄を見た。子供の皮を被った怪物は実在するんだ」


 友が丘。神戸市須磨区で起きた、連続児童殺傷事件。岩田は被害者を救えなかったあの時の悔恨を今回に重ね、私を「子供の皮を被った怪物」の再来と見なしているのだ。


「さあ、言え。どこにいるんだ、子供たちは。何のためにこんなことをした?」


 あの時の感覚は、私にしか知覚できない。空間の隙間を伝って、正体も知れぬ悲痛な震えが、か細い残響となって届く。それと同時に、禍々しいノイズのような不快な歪覚が走るのだ。止むことのない不協和音。だから、私は止めに行こうとした。


「……うるさかったから」


 声は、自分のものとは思えないほど平坦だった。岩田の顔が、一瞬、凍り付いたように固まる。


「音が鳴り止まなくて、それを止めに行こうとしただけ」


 私の言葉は、彼らの理解の範疇(はんちゅう)を超えていた。岩田は、椅子に深く腰掛け直し、眉間に深い皺を刻んだ。山根は、表情を一切変えず、しかしその瞳の奥には、困惑と、ほんのわずかな諦めが浮かんでいた。


「うるさかった、だと? ふざけるな。それはお前の悪質な言い訳か? あるいは精神疾患を装った逃げか?」


 岩田は苛立ちを隠さなかった。


「動機なき犯罪が、刑事にとって最も恐ろしい。だが、お前が本当に何かの病だとすれば、それはそれで厄介だ」


 刑事たちにとって、瑠那の言葉はノイズでしかなかった。そして瑠那にとっても、彼らの追及は、響き続ける「あの音」を掻き消す、新たなノイズでしかなかった。


 山根は、岩田の言葉の合間に、瑠那をじっと見つめた。証拠は全て揃っている。理性はそう告げる。しかし目の前の少女の瞳には、複数の人間を操った狡猾さも、拉致を計画した悪意も、見当たらなかった。ただ、深く静かな——疲弊があるだけだった。

 あの日、会議室で岩田に制された言葉が、山根の脳裏に蘇る。


(あのカメラに映った少女の目——私には、どうしても犯人の目には見えないんです)


 刑事としての理性は、証拠と上司の命令に従えと叫ぶ。しかし直感が、その命令に抗い続けていた。


(逢坂さん、お願いだから何か言って。私の納得できる何かを)


 山根のその思いは、誰にも届かない心の奥底に飲み込まれた。取調室は再び、重い沈黙に包まれた。


 不意に、岩田が椅子を引いて立ち上がった。


「……一旦、出るぞ」


 短くそう告げ、先に立って扉へ向かった。

 山根は瑠那に一度視線を残してから、その後に続いた。


 取調室の重い扉が軋みもなく静かに閉まると、岩田は大きく息を吐き出し、壁に寄りかかって目を閉じた。午前十一時から始まった逢坂瑠那への取り調べは、まだ序の口にすら達していない。だが、すでに彼の頭の中には、吐き気のするような不快感が充満していた。

 山根がペットボトルの水を差し出した。岩田は受け取ると、キャップを勢いよく開けて一口喉に流し込み、不満げに壁際の棚に叩きつけた。


「あの小娘、白々しいにも程がある。とぼけてるつもりか」

「『うるさかったから、止めに行こうとしただけ』……本気でそう言ってるように見えましたけど」

「ああ、そこが気に食わねぇ。あの言い方が、俺には一番タチが悪いように思える」


 岩田は腕を組み直すと、貼り出された写真の一枚をじっと見つめた。壁には、行方不明となった103人の子供たちの顔写真がびっしりと貼り付けられている。あどけない笑顔、はしゃぐ姿、少しすました横顔。彼らの視線が、刑事たちの背中に重くのしかかっていた。

 5歳くらいの幼い少女が、無邪気な笑顔でピースサインを送っている。103人のうち、(なだ)区で最初に行方不明になった子供の1人だ。当時、六甲道公園の遊具で遊んでいたが、親が少し目を離した隙に、いなくなったそうだ。


「十四時十二分に三宮。十四時二十六分に六甲道。つまり十四分で4.5kmを移動。倉田が何度調べ直しても、出てくる答えは同じだ」


 岩田の低い声に、山根はぴくりと反応した。倉田という名前を聞けば、脳裏に「移動矛盾」という言葉が条件反射的に浮かぶ。

 山根は何も言わなかった。そのデータは彼女も把握していた。理論上、その距離をその時間で走り抜けるには、平均時速約19キロを保ち続けなければならない。マラソン選手でもない限り、ましてや女子高生が、人通りの多い市街地をそんな速度で移動するのは不可能だ。しかも、間に設置された全ての防犯カメラ、Nシステム、Tシステムには、彼女の姿も、彼女を乗せた不審車両も一切映っていない。


「警察庁の技官チームが歩容解析をかけた。結果は、極めて高い一致——同一人物だ。どうだ、山根。信じられるか? あの娘は、空を飛んだとでも言うのか?」


 岩田の問いは、山根に向けられているようで、実際は岩田自身の内心の戸惑いの表れだった。彼の目が、一瞬だけ、微かに泳いだのを山根は見逃さなかった。


「立件方針を決める」


 岩田は低く、しかし有無を言わせない口調で言った。


「六甲道の信用金庫のHD映像——あの1台だけで、逢坂瑠那を主犯として立件する。顔が割れているのはあれだけだ。他の35台は組織的な攪乱工作の状況証拠として添える。主犯は逢坂瑠那、共犯者が複数いた——そこに絞る」

「移動矛盾と歩容解析のデータは」

「出すな。内部で留め置け」


 岩田は壁に貼られた子供たちの写真に視線を向けたまま、続けた。


「裁判官に36台が同一人物だと説明すれば、移動の矛盾も一緒に説明しなければならなくなる。それは出来ん。だから35台は共犯者が写っていたことにする」


 山根は黙って聞いていた。しかしその頭の中では、一つの問いが繰り返されていた。

 35台が共犯者なら、そもそもなぜ逢坂瑠那が怪しいと判断したのか。36地点に「同一人物」が映っていたことが出発点のはずだ。その前提を自分たちで崩しながら、逢坂瑠那だけを立件する。その矛盾に、岩田は気づいていないのか。それとも、気づいたうえで押し切ろうとしているのか。


「共犯者を取り逃がした、ということになりますが」


 山根は、抑えた声で言った。


「裁判官が突っ込んでくれば——」

「突っ込まれたら、その時考える」


 岩田の声には、怒りよりも疲弊が滲んでいた。


「103人の失踪で、誰も挙げられなければ兵庫県警は終わりだ。穴のある立件でも、今ある材料で前に進むしかない。分かるか、山根」


 山根は答えなかった。岩田が「分かっていてやっている」ことは、もはや明らかだった。穴だらけの論理を、組織の存続という重しで無理やり押し込もうとしている。その欺瞞は、岩田自身が一番よく知っているはずだ。だからこそ声に怒気はなく、ただ重いだけだった。

 今朝、あの部屋で初めて目を合わせて以来、彼女の瞳が脳裏から離れなかった。奥にあったのは、端から居場所などないと諦め切った乾いた悲しみ——「圧倒的な孤独」とでも呼ぶべきものだった。103人を束ねて操る犯罪者の(かげ)りなど、到底感じられなかった。

 それでも、岩田の怒りも焦りも理解できる。友が丘の連続児童殺傷事件で初動を見誤った悔恨。「今度こそ、手遅れになる前に怪物を食い止める」というあの執念が、彼を突き動かしているのだ。だが、皮肉にも、その執念こそが、自分たちを事実から遠ざけているのではないか。

 確信めいた疑念を抱きながらも、山根は岩田への敬意と、刑事としての職務の間で揺れる感情を押し殺した。理性的な根拠なしに反論したところで、捜査の停滞を招くだけだ。


「……分かりました」


 山根は、かすかに震える声で答えた。その言葉が、ひどく乾いた響きを立てて、蛍光灯の下の廊下に吸い込まれていった。岩田は満足げに頷いた。しかし、その顔には疲労が色濃く浮かんでいる。


「俺たちは、この女を犯人にしないと、次がないんだ。この事件を迷宮入りになどさせない。子供たちの居場所を、必ず突き止める」


 その言葉は一見、正義の炎に燃えているように響いた。しかし山根には、彼が踏み込んではいけない領域をその炎で焼き尽くし、事実を灰燼(かいじん)に帰していくようにも感じられた。


「休憩終わりだ。行くぞ、山根」


 岩田は取調室の扉へと向かった。山根は一歩遅れてその後を追う。何を言っても、何を見せても、少女は揺るがなかった。まるで最初から、この場所と自分は関係ないと決め込んでいたかのように。刑事たちの言葉は、その見えない壁に阻まれ、手応えなく跳ね返されるばかりだった。

 岩田は重い扉を押して戻ると、後ろ手にそれを閉めた。鈍い音が、狭い室内に短く響く。再びテーブルの向かいに腰を下ろした。山根は今度は席に着かず、自ら一歩引くように、少し離れた壁際へと下がった。


 部屋の隅のビデオカメラが、微かに赤い光を灯している。その光は、瑠那には視覚的なノイズとなって、視界の隅でちらついた。物理的な壁の向こう側も、角度を変えれば容易に「存在しない」空間にできる。仮にここで力を使って抜け出したとすると、それは彼らの言う「理解不能な怪物」だと自ら証明することになってしまう。この場においてその力は、彼女を縛りつける枷でしかなかった。


「逢坂さんよ」


 岩田の声は低く、沈鬱(ちんうつ)だった。彼の目には、焦りと、決して無垢な外見に騙されないという執念が宿っている。それは15年前、友が丘の地獄で味わった後悔が為せる業だった。


「我々警察はな、お前のような人間を何度も見てきた。最初は白々しい嘘をつき、次に心神喪失を装い、最後は被害者面して逃げようとする。だが、今回は違う。お前はもう逃げられない」


 岩田は、部屋の隅に置かれた小型テレビのリモコンを手に取ると、乱暴に電源を入れた。砂嵐のようなざらついた画面が数秒続いた後、いきなりけたたましいニュース速報のチャイムが鳴り響いた。


『速報です。神戸市児童連続行方不明事件で、兵庫県警は先ほど、重要参考人として女子高生一名を任意同行し、現在、詳しく事情を聴いている模様です』


 画面には、見慣れた神戸港の空撮映像が映し出され、その後、不鮮明な防犯カメラの画像がモザイク処理された状態で大写しになった。そこには、先日自分が着ていた白いTシャツと、一つに束ねた髪のシルエットが映っている。テロップには、そっけないゴシック体でこう表示されていた。


《神戸103人不明事件 重要参考人の17歳女子高生を任意同行》


 岩田はリモコンを放り投げ、瑠那を睨みつけた。


「見ろ。お前がやったことは、もう世間に知られている。ネットではもう、お前の個人情報が特定され始めてるぞ」


 彼の言葉に、山根は小さく息を呑んだ。彼女のタブレットには、すでにSNSのキャプチャ画像が流れ込んできている。瑠那の自宅住所と父親の勤務先が洗い出され、悪質な誹謗中傷が渦巻いていた。


『父親もグルなんじゃないか? 厳罰に処すべき』


 瑠那は、テレビの映像と、岩田の怒気に満ちた視線を、ただ黙って受け止めていた。耳の奥で、不協和音がさらに大きくなる。外から押し寄せる情報の濁流が、内なる歪みと共鳴し、逃げ場のない騒音へと膨らんでいくような気がした。

 自分が「シロ」であることを、どう証明すればいいのだろう。自分の見ている世界が、彼らの世界とは少し違うことは分かっている。けれど、その違いを言い表す言葉を、瑠那はまだ持っていない。大人たちの強固な先入観を切り崩すほどの饒舌(じょうぜつ)さも、今の彼女には備わっていない。

 そして出た言葉が「うるさかったから」——この一言が、更に自分の出口を狭めてしまった。刑事たちには「精神疾患を装った言い逃れ」としか聞こえていない。ありのままを語れば語るほど、この世界の常識から遠ざかっていく。瑠那は、誰にも打ち崩せない言葉の壁の前で立ち尽くし、その理不尽に心が震えた。やがて、抗うことをやめるように、力なく視線が落ちる。


 山根は、そんな瑠那の瞳の揺らぎを見逃さなかった。その目の奥に沈む、深く乾いた諦め。とても17歳の少女が抱くべきものではなかった。


『17歳の少女は……未成年です。実名報道は控えられていますが、インターネット上ではすでに特定され、私刑に近い状態が始まっています』


 テレビのアナウンサーの声が、感情を込めずにそう告げる。

 岩田の重い言葉、テレビ報道が代弁する社会の怒り、そして瑠那の瞳が語る苦悩。それぞれが相容れないことで生まれる葛藤に、山根は深く心を(えぐ)られるような痛みを感じていた。岩田は正義を信じ、事件の解決のために動いている。その信念は揺るぎない。しかしその正義が、少女を追い詰める凶器となりつつあるのではないか。


(それでもあなたが本当にシロなら——なぜ、何も言えないの)


 その問いは、口に出されることなく、山根の心の奥底に沈んでいった。彼女は、理性と直感、組織の論理と、目の前の少女の圧倒的な孤独との間で、ただ苦悩するしかなかった。


 ——ふいに、外側の世界の音が遠のいた。


 私の視界は次第にぼやけ、目の前の光景が、じわじわと現実感を失っていく。どこかで何かが、根本からずれているような感覚。父への非難が始まっているという岩田の言葉が、私の胸の奥に沈み込む。

 警察は私を犯人と疑っている。真美には——いや、彼女にこんな話は荷が重すぎる。信じてくれるかもしれないが、巻き込むわけにはいかない。父は——たぶん、私が無実だと知っている。それでも、あの人が何者なのかさえ私には分からず、いつからか、分かり合えるとも思えなくなっていた。もう、頼れる人間は、この世界のどこにもいない。


(私は、ひとりぼっちなんだ)


 その孤独が、私の心を深く、深く凍らせていった。


 三時間以上に及ぶ問い詰めと、社会からの私刑を告げるニュース映像。それが唐突に途切れ、取調室には重く澱んだ静寂が満ちた。壁時計の秒針だけが耳障りに響く。疲労が身体を蝕み、胃液が逆流するような不快感が喉元にせり上がってきた。

 結局、彼らには、私の感覚は理解できない。この世界で、私の歪覚が捉える現実は、彼らにとっては「魔法」か「病気」でしかないのだ。


 そして、歪覚が再び私の内側で鳴り始めた。目をつぶる。闇の中に、神戸の街の輪郭が浮かび上がる——陸地ではなく、海に突き出た島の形が、くっきりと。ポートアイランド。歪覚はそこを指している。物理的な目では捉えられない何かが、その座標に異常なほど凝縮されていた。


 以前も、この歪覚は迷子になった犬や倒壊寸前の仮設住宅へと私を導いた。いつも、誰かの切実な存在と共鳴していた。そして今、その「音」は、複数の微細な振動の集合体として私の中に流れ込んでくる。無秩序なようで、確かな規則性を持った波紋——それは多くの生命の鼓動が、一斉に、しかしわずかにずれたリズムで鳴り響いているかのようだった。


 103人。

 彼らは生きている。

 あの歪覚は、彼らがまだこの世界に存在していること、そして何らかの形で「閉じ込められている」ことを告げていた。


 私の口から「ポートアイランドに、子供たちが閉じ込められている」と告げれば、彼らは助けられるだろう。しかし、私が事実を語れば語るほど、彼らの世界における私の存在は歪み、悪意に満ちたものとして解釈される。岩田の嘲笑が蘇る。彼らは私の言葉を決して事実とは受け取らない。精神疾患を装った言い逃れ、あるいは巧妙な嘘と断じるだけだ。自らの無実を証明することと、子供たちの命を救うこと。この二つは、私の能力がこの世界で理解されない限り、両立しない。

 後になって、ふと気づく。六甲道の映像は私だと認めて、他の場所には移動できるはずがないと言えばよかった。それだけで、警察の立てている論理は崩れていたかもしれない。でも取調室では、そんな賢い計算はすぐに思いつかなかった。なぜそこにいたのかと問われて自然に浮かんだのは、「うるさかったから」という率直な言葉だけだった。


 ビデオカメラの赤いランプが、私を凝視している。目を閉じる。


(助けたい……)

(パパ、お願い……)


 私は今朝キッチンに残してきた便箋のことを思った。あの人が見つけていれば。あの人が何者かは、私には分からない。私に対して愛情があったのかも、よく分からない。ただ、普通の父親ではないという感覚だけが、物心ついた頃から積み上がっている。だから残した。届いているかどうかは分からない。しかし私にできることは、それだけだった。

 今なお、歪覚は疼いている。禍々しいノイズの奥に、か細い震えがある。それがまだ続いているのなら、子供たちがそこにいることを意味する。今、この二つを受け取ることができるのは、この世界で私だけだ。私がなんとかしなければならない。その想いは義務でも使命でもなく、もっと手前にある『衝動』だった。だが、それがどこから湧いてくるのか、自分でも判然としなかった。


 午後三時。


 岩田は手元の調書から目を離し、壁のアナログ時計を確認した。午前十一時から四時間。逢坂瑠那の口から出てきた言葉は、結局「うるさかったから」の一言だけだった。

 山根はどことなく居心地が悪そうに腕を組み、壁際に立っていた。取り調べの合間、瑠那の瞳が何かを映している、とずっと感じていた。犯意でも怯えでもない、もっと遠い場所を見つめるような目だ。それが山根の胸に、ひっかかり続けていた。


「もう一度聞く」


 岩田は低く言った。疲労が声ににじむのを、押し隠すように。


「お前はなぜ、あの子供たちの近くにいた。それだけでいい。一言で答えろ」

「……うるさかったから」


 瑠那は、ただ静かに答えた。その声に、嘘も気負いもなかった。岩田は額に手を当て、深く息を吐いた。


 その時、ドアが二度、短くノックされた。


「どうぞ」


 山根が反射的に答えると、三十代前半とおぼしき女性が入ってきた。紺のパンツスーツ。肩口で切り揃えた髪。表情は穏やかだが、その目に感情の揺れは見えなかった。彼女は迷いなく岩田の前へ進み、黒い薄型のホルダーを差し出した。


「内閣情報調査室の室谷と申します。少々、よろしいでしょうか」


 岩田は身分証の印字を一瞥した。「内閣情報調査室」——警察庁OBが多く出向する、官邸直属の情報機関。捜査権限はないが、その肩書きの重みを、現場の刑事たちはよく理解している。


「何の用だ」


 岩田の声は低かった。


「逢坂瑠那さんの任意同行の同意を、ここで取り下げていただきます。以降の対応は、我々が引き継ぎます」

「何を言ってる。捜査はまだ終わってない。勝手なことをするな」

「捜査の妨害ではありません」


 室谷は表情を変えなかった。


「任意同行はあくまで本人の同意に基づくものです。同意を撤回するかどうかは、本人の自由意思に委ねられています。我々は逢坂さんご本人に、直接意思を確認させていただきます」

「同意を取り下げたところで、こちらには逮捕状の準備がある。請求すれば、それで済む話だ」

「その請求は、もう上がりません」


 室谷の声に、力みはなかった。


「県警本部長から刑事部長へ、令状請求を見送るよう指示が下りています。今この瞬間、逢坂さんを逮捕できる根拠は、県警のどこにもありません」


 法的に、反論の余地はなかった。岩田は奥歯を噛んだ。


 廊下に出ると、もう1人がいた。四十代の男。無地のスーツ。胸のポケットの通行証は、警察庁警備局のものだった。瑠那を実際に連れ出すのは、捜査権を持たない室谷ではなく、この公安の男の役回りらしい。岩田が扉を出た瞬間、男は一歩引いて岩田の前に立った。


「岩田さん。今回の件は、県警の権限が及ばない領域に踏み込んでいます」

「どういう意味だ」

「官邸の判断です。詳細はお伝えできません」

「彼女の身柄は、これより警察庁警備局の任意の保護下に移ります。逮捕ではない。本人の同意に基づく、保護です」


 岩田は男の胸倉を掴みかけ——止まった。怒鳴っても、殴っても、この男は動じないだろう。それより何より、この状況はもう動かせない。そのことを、三十年の刑事経験が教えていた。


「……子供たちはどうなる」

「それも、我々が対処します」


 取調室では、室谷が瑠那の正面に立った。


「逢坂さん。あなたがここにいらっしゃるのは、任意のご協力によるものですね」

「……はい」

「でしたら、この場での同意を取り下げていただいて構いません。よろしいですか」


 瑠那はゆっくりと顔を上げた。岩田のいない室内。初めて見る顔。この場所から出られる、ということだけが、かすかに伝わった。


「……はい」


 室谷は頷き、山根に向けて短く言った。


「調書はそのままで結構です。ご協力ありがとうございました」


 瑠那は立ち上がった。足元が覚束なかったが、室谷は手を差し出すでも急かすでもなく、ただドアの方へと先を歩いた。瑠那はその背を追う。廊下へ出ると、岩田が壁際に立っていた。男に制された格好で、腕を組み、床を見ていた。瑠那は一瞥することもなく、ただ室谷の後ろを歩いた。


 室谷は廊下の奥へと歩を進めた。突き当たりにエレベーターがある。扉が開くと、室谷は地下1階のボタンを押した。

 地下1階の公用車駐車場には、タイヤの焦げたような匂いが漂っていた。剥き出しのコンクリート天井では、蛍光灯の白い光が冷ややかに灯っている。正面玄関に陣取っているマスコミの目には、決して触れない場所だ。黒塗りのセダンがすでにエンジンをかけたまま停まっていた。後部座席のドアが開かれ、室谷は促すように手を示した。瑠那は迷うことなく乗り込んだ。ドアが閉まると、車は駐車場のスロープを上り、地上へ出て、そのまま神戸の街へと滑り込んでいった。


 取調室に戻った岩田は、椅子を引いて座った。乱れた呼吸を整えながら、壁の写真を見つめる。103人のあどけない顔が、蛍光灯の下で静かに並んでいる。

 山根は机の上の紙コップを手に取った。とうに冷めたコーヒーを一口飲む。


「……岩田さん」

「黙れ」


 岩田の声は静かだった。怒鳴る気力も、残っていなかった。


「俺たちは正しいことをしていたんだろうな、山根」


 山根は答えなかった。ただ、窓のない取調室で、蛍光灯だけが変わらず明るかった。


取調室での息詰まる時間、いかがでしたでしょうか。岩田の「ベテランの圧力」と、17歳の瑠那が口にしてしまう「最も素直で、最も最悪な一言」——噛み合わない対話の苦さを書くことが、この話の最大の挑戦でした。誰とも噛み合わないこの感覚は、今に始まったものではありません。時を遡る次話と並べて読んでいただけると、また違う景色が見えるかもしれません。

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