帰還、そして新しい日常
光の中へ飛び込んだ瞬間、すべての感覚が途切れた。
重力も、温度も、音もない。
上下も前後も分からない虚無の中で、ただ一つだけ残っていたのは――帰りたい、という想いだった。
次の瞬間。
俺は会社の前に立っていた。
「……」
金曜の夜、23時過ぎ。
残業帰りのサラリーマンが足早に通り過ぎる。クラクションの音。遠くのサイレン。コンビニの白い灯り。
見慣れた街。見慣れた匂い。
「帰って……きた」
膝がわずかに震える。
スマホを確認する。23時14分。
転移したあの瞬間から、一秒も経っていなかった。
だが、体の奥には確かに残っている。
【万能解析】の感覚。積み重ねたスキル。戦い抜いた記憶。
夢じゃない。
「……ただいま」
誰もいない夜道に、小さく呟いた。
タクシーで帰宅し、玄関を開ける。
にゃあ、と短い声。
三毛猫のコロ。七歳。
少し不機嫌そうな顔でこちらを見上げている。
「ただいま、コロ」
抱き上げると、抗議するように鳴いた。
遅い、とでも言いたげだ。
「ごめんな。ちょっと長い残業だった」
二ヶ月分の「ごめん」を込めて、強く抱きしめる。
コロは戸惑いながらも、やがて大人しくなった。
「ありがとう。待っててくれて」
月曜のプレゼンは成功した。
準備時間はほぼなかったが、【万能解析】が聴衆の反応を読み取り、最適な言葉を導いてくれた。
「佐藤さん、今日のプレゼン良かったよ。何か変わった?」
上司が笑う。
「少し成長しました」
魔王を倒し、世界を攻略した、とは言えない。
一週間後。
机の上に、差出人不明の封筒が置かれていた。
開封すると、見覚えのある丁寧な字。
『ケンタさんへ。
無事に帰れたでしょうか。この手紙が届いているなら、成功ですね。
私は今、召喚魔法の逆演算研究を始めました。あなたの帰還が理論の突破口になりました。数年以内に、他の召喚者も帰せると思います。
マリアさんは元気です。お酒は少しだけ減りました。本当に少しだけ。
レオンさんたちは新しい仲間と冒険を続けています。ギルドマスターも喜んでいました。
あなたがいなくなって、世界は静かになりました。でも、それでいいんです。英雄がいなくても回る世界の方が、きっと平和です。
一つだけお願いがあります。
そちらで、ちゃんと幸せになってください。残業しすぎないで。猫を大事にして。たまには美味しいものを食べてください。
いつかまた会えたら、その時はたくさんお話しましょう。
エリス・ノートン』
読み終え、窓の外を見る。
青い空。
「エリス、マリア、レオン……ありがとう」
届かないと分かっていても、口にした。
三ヶ月後、俺は会社を辞めた。
フリーランスのコンサルタントとして独立する。
【万能解析】で企業の課題を分析し、最適解を示す仕事だ。
「どうしてそこまで正確に分かるんですか?」
「勘です」
収入は三倍。残業ゼロ。
コロと過ごす時間が増えた。
これが、欲しかった生活。
以前はただ繰り返していただけの日常。
今は違う。
これは、二ヶ月戦い続けて取り戻した日常だ。
ある夜。
窓の外に小さな光が瞬いた。
気のせいかと思ったが、机の上に紙飛行機が落ちていた。
開く。
『研究、進んでます。もう少しで完成します。』
横に、乱暴な字。
『そっちまだいるか? 遊びに行っていいか?』
思わず笑う。
裏に返事を書く。
『いつでも来い。部屋、掃除しとく。』
紙飛行機を折り、窓の外へ投げる。
光に包まれ、消えた。
届くかどうかは分からない。
それでもいい。
コロが足元に寄り添う。
「そうだな。飯の時間だ」
キッチンへ向かう。
取り戻した場所。
帰ってきた日常。
これで十分だ。
ただ――もし、また会えるなら。
その日を少しだけ楽しみにしながら、俺は生きていく。




