第一話 旗の夜
群訴が起きようとしていた。
都を南北に貫く大路は、人で埋まっていた。
商人がいる。
職人がいる。
畑仕事を終えて、そのまま都へ入ったらしい泥まみれの男もいる。
子を背負った女も、杖をついた老人もいた。
誰もが旗を持っていた。
だが、声はない。
石も飛ばない。
火も放たれていない。
ただ人々は、ゆっくりと歩いていた。
静かに。
一定の速さで。
旗だけが夜風を受けて揺れている。
その列は朱雀の大路を越え、
橋を渡り、さらに向こうの闇へ続いていた。
炎など、どこにもない。
それなのに都は、焦げつくような熱を帯びていた。
「ありえへん!なんで逆らうん!!」
御所の一室で、女の声が響いた。
几帳が揺れる。
文机の上の硯が落ち、墨が畳へ飛び散る。
狐里は高見の帳近くに立っていた。
細い目をさらに吊り上げ、眼下を睨んでいる。
「黙って言うとおりにしたり、このアホウども!」
誰も答えない。
部屋には何人もの文官が控えていたが、
皆、視線を伏せている。
ただ一人。
入口近くに立つ青年だけが狐里を見ていた。
国渡。
海の向こうから来た男だった。
何年も狐里に付き従っているが、
誰も彼が笑ったところを見たことがない。
「おかあさんの祝福をもろうたあたしがてっぺんなんや!」
狐里が叫ぶ。
キツネのように目を吊り上げ、キリキリと歯ぎしりをする。
その姿は、もはや政に携わる者には見えなかった。
足元で、小さな音がした。
ぴし。
狐里が止まった。
「……なんや?」
右足を見る。
裾に隠れて見えない。
だが確かに、何かが鳴った。
木が乾いて割れるような音だった。
「狐里様」
文官がおそるおそる声をかける。
「議会場へ。審議が始まります」
「わかっとるわ!」
狐里は裾を翻した。
その瞬間、わずかによろめいた。
国渡が一歩動く。
「触んな!」
青年の足が止まった。
狐里は何事もなかったように歩きだす。
長い廊下の向こうから、人々の声が聞こえてきた。
今度は外ではない。
議会場の中だった。
狐里が入った瞬間、怒号が飛んだ。
公金。
進物。
外国勢力。
高祖。
天津社。
次々に言葉が投げつけられる。
狐里は笑った。
「証拠あるん?」
さらに怒号が増した。
卓が叩かれる。
紙が舞う。
武官たちが狐里の周囲を固めた。
狐里はその中央を堂々と歩いた。
まだ、自分が勝っていると思っていた。
議会場を出たところで、一人の武官が兜を外した。
「職務は果たしましたので、これで。」
狐里が振り返る。
「は?」
武官は一礼した。
そして去っていく。
文官が慌てて追いすがった。
「さすがにそれは……非常識では。」
武官は振り返らなかった。
狐里の顔から笑みが消えた。
遠くから鐘が聞こえた。
群訴を知らせる鐘だった。
一つ。
二つ。
三つ。
都中の寺社が応えるように鐘を鳴らしていく。
国渡だけが、狐里の足元を見ていた。
裾の下。
ほんの一瞬。
白いものが覗いていた。
人の肌ではなかった。




