懸け守り
いつになく騒がしくなった邸の様子に、須勢理は若竹を呼ぶと「いかがしましたか?」と訊ねた。
「南の森で烏が急を告げてきたようです。今、衛士の者達が確認に向かっているようですよ。」
若竹は「恐ろしき事」と言いながらも「姫様の事は、この若竹が守りますからねッ!」と息巻くから、須勢理はふっと微笑んだ。
「ところで何か用があって、こちらに来たのではなくて?」
「ああ、そうでした。まもなく殿がこちらにお渡りになります。」
そう話している合間にも、ひたひたと庇を歩んでくる音が聞こえてきて、物々しい気配に須勢理は居住まいを正した。
「大事ないか?」
「はい、こちらは大事ございません。」
息苦しさを覚えるまでの素戔嗚尊の気迫に、傍に控えている若竹は怯え、打ち震えながら答える。須勢理はその様子に若竹に下がるように促すと御簾越しに「おもう様」と柔らかく声をかけた。
「なんだ?」
「山桜が咲き始めましたのに、なぜそのように張り詰めておいでなのです? 折角の春の庭です。たまにはごゆるりとなさればよろしいのに。」
途端に素戔嗚尊は毒気が抜かれたかのようにため息を吐く。
「須勢理はもう少し危機感を持たねばならぬな。」
「危機感にございますか?」
努めておっとりと返せば、一層、呆れたような表情で「何者かが邸の敷地内に忍び込んだのだ」と教えてくれる。
「西の対の警備を固くした分、こちらは人少なであったであろう?」
「まあ、そうだったのですね。」
気が付かなかったと言わんばかりに「おもう様がいらしたのであれば、もう安心ですわね」と答えれば、途端に素戔嗚尊は満足そうな顔になった。
須勢理は和琴を引き寄せて「少しお寛ぎくださいませ」と奏で始める。その頃には素戔嗚尊の恐ろしいまでの覇気はすっかり言祝がれ、重々しい雰囲気は須勢理によって取り払われていた。
「また少し腕前を上げたな。」
須勢理はそれにはにこりとしただけで答えることはなく、いよいよ華やかに聞こえるように琴を爪弾く。素戔嗚尊がその音に聴き入っている中、庭より「殿、こちらにいらっしゃいましたか」と妙白の声が聞こえてきたから、須勢理は琴の演奏をそっと止めた。
「ああ、妙白か、いかがであった?」
「入り込んでいたのは七人。内、六人はこの者が討ち取りましてございます。」
「烏は八人と告げてきていたが?」
「一人は弟の身を案じて訪ねてきた、この者の兄との事にございます。」
須勢理の位置からはよく見えなかったが、どうやら妙白の他にもう一人連れ立っているらしい。素戔嗚尊は立ち上がると、半分ほど階を下り、丹塗の弓矢と反りのある刀を篝火の元で検分する。そして「よもや高天原の物をこの地で再び見る事になるとはな」と呟いた。
「そなた、一人で幾人も討ち取ったとはまことか?」
品定めをするように素戔嗚尊が訊ねれば、妙白が「この者の腕前は私めが保証致します」と添える。
「ならば、明日は賭射に付き合うが良い。どうやら野に雉子が多いようだからな。」
そして、すくりと立ち上がると「この刀とその弓矢はその方へ褒美として取らそう」と階を何段か降り、やがて元の位置まで戻ってくるとどさりと腰を下ろした。
「須勢理、明日は物見遊山と思うて、お主も野に付き合うが良い。」
「私もですか?」
意外な申し出に須勢理が驚いて訊ねれば、「ああ、高天原が関わっているとなれば、ここに一人置いていくことは出来ぬ」と言い出す。妙白は「恐れながら、ご心配とあらば、神大市比売の元でお待ちいただくのはいかがですか?」と話したが、素戔嗚尊は「ならぬ」と一喝した。
再びピリピリとしてきた父の様子に須勢理は「おもう様」と声を掛けた。
「おもう様がお決めになられた事、私は従いましょう。」
「ですが・・・・・・。」
「若竹も控えなさい。おもう様にもお考えあっての事でしょうから。」
須勢理はぴしゃりと言ってはねつけ、素戔嗚尊に「高天原とのことは、諸々、早蕨に聞いております」と答える。そして、妙白に「数ならぬ我が身を案じて、おもう様にご進言下さったこと、心より御礼申し上げます」と静々と答えるから、素戔嗚尊はバツが悪そうな顔になった。
「おもう様にも、ご心配をおかけ致します。」
「あ、ああ。」
そのやり取りを目の当たりにして、どっちが親なのか分からない素戔嗚尊と須勢理の様子に、妙白は「嵐を呼ぶ神として畏れられている殿も、姫様には頭が上がりませぬな」と笑い出した。
「あら、私はおもう様の身を案じておりますのよ? 伯母様や伯父様の顔をお潰しになってしまって・・・・・・。」
そうして小言を言いつつも、昼間に作った懸け守りを御簾の下からそっと差し出す。素戔嗚尊はそれを拾い上げると「私にか?」と嬉しそうにした。
「ええ、不出来なところもあるかと思いますが、良ければお使いくださいませ。」
それからそっと袖を引くと、声を潜めて「敵の目的が気に掛かります」と添えれば、素戔嗚尊も短く「ああ」と返した。
「おもう様も偵察ではないとお思いだから、ご心配なさっていらっしゃるのでしょう? お継母様はどうなさるのです?」
「神大市比売のところは結界が破られた気配はなかった。とはいえ、あそこも安全とは言い難い。」
そして、声を潜めて「これからあちらへ渡り、しばらく大年神の元に避難してもらうつもりだ。お前の心配するような事にはなるまいよ」と話すから、須勢理は安堵して頷いた。
素戔嗚尊は「また、あくる朝、迎えに参ろう」と話すと「妙白、明日の賭射の采配はお主に任す。善きに計らえ」と指示を出して去っていく。
妙白はその姿が見えなくなったのを確認してから、「姫様」と須勢理に声を掛けた。
「いかがしましたか?」
若竹の代わりに萩乃が傍についたのであろう。妙白は聞き知った声に安堵した。
「本来、私が今宵の宿直役なのですが、ご存知のように、これより明日の準備にかからねばなりません。代わりにこの者に宿直をさせます事、ご容赦頂けませんでしょうか?」
妙白の申し出にややあって「姫様は構わないとのお答えです」と返ってくる。「それではお言葉に甘えて失礼します」と妙白が去ると、それまで静かに黙っていた大己貴命はようやく口を利いた。
「今宵、この庇をお借り致します大己貴命と申します。」
退席しようとしていた須勢理は思わず狼狽し、控えていた萩乃も目を見張った。
「貴方が今夜の宿直を?」
須勢理の代わりに萩乃が問えば「ええ」と短く答えが返ってくる。どうしたものかと萩乃が思案顔になると、須勢理は「萩乃」と声を掛けた。
「早蕨を迎えに行ってくれないかしら。」
「姫様・・・・・・。」
暗に人払いをしようとする須勢理に萩乃は咎めるように口にしたが「呼びにいかないのであれば、口を二枚貝のように閉じていて」と告げる。それから静々と庇近くに行くと、御簾を隔てただけで大己貴命のすぐ側に腰を下ろした。
薫き染められた沈香が風に乗り、すぐ傍に狩衣姿の彼がいるのを感じる。
「どうも月影を隔てることは難しいようですね――。」
そう声を掛ければくすりと笑う気配がして、そっとその指先が御簾下から覗いていた色鮮やかな衣の端を捉える。大己貴命はそっとその衣に触れながら、「山桜を見にいらっしゃいとお呼びくださったのは、貴女ではないですか?」と切り返した。
僅か御簾一枚の隔てこそあれ、すぐ傍で愛しい女がいる。不思議とそれだけで心は浮きたち笑みが漏れる。先程まで気を張りつめて弓を引いていたのが、まるで夢での出来事のようだ。
一方、須勢理は答えに窮したように「こんな風にいらっしゃるとは」と口篭る。その初心な感じがまた愛らしくて大己貴命は目を細めた。
「梅の頃はさらなり、山桜もなお・・・・・・。」
咲き始めの白い花が月明かりに照らされて映え、魂の残滓の光がまるで散り急ぐ花びらのように見えて美しい。
「きっと霞に紛れて見える花も美しいでしょう?」
御簾越しに見る貴女のように、と大己貴命が萩乃にも聞こえぬ程に小さな声で甘く囁くから、須勢理は顔を真っ赤にする。一方で、大己貴命はこの姫を手に入れようとする事が、急に酷く畏れ多いことのような心地がしてきて、胸苦しくなった。
この姫は自分とは違う――。
母親を早くに亡くしていても、血を分けた兄弟に厭われる目にも、ましてや命を狙われるような目にもあったことはあるまい。
素戔嗚尊だけではない。八嶋士奴美神や邸の誰もが彼女を慈しみ大切に思っている。そんな姫をどうして危険な目に合わせられようか。
大己貴命は昨夜に続き、今宵も襲われた事を誰よりも重く考えていた。
今回の伊波の国盗りに高天原までも関わってきているとあらば、自分が伊波の国や刺国を治めたとしても、倭種との対立は避けられない。そうなれば根の堅洲国との和合の象徴とも捉えられる須勢理は、人攫いの恰好の標的となってしまうだろう。
そんな危ういところへ彼女を連れ出してはいけない。それゆえ、大己貴命は「明日の賭射ですが、もし負けたなら、もう二度と貴女の前には現れないと誓いましょう」と言うとそっと須勢理の衣の端から手を引いた。
大己貴命の急な申し出に、須勢理は驚きのあまり掠れた声で「なぜ?」と訊ねる。
「貴女を危険に晒すのは本意ではないのです。」
そして、ぽつぽつと葦原中国の情勢を交えて、自分の置かれた状況を話す。須勢理は黙ってその話を静かに聞いていた。
「もし賭射に勝てたなら――?」
「そうですね、その時は・・・・・・。」
大己貴命に耳打ちされた内容に、須勢理は答えに窮した。
自分が言い出したことを思えば無理もない事と「賭射の勝負が決するまで時間がございます」と話せば、御簾が大きく揺れ動き、肩をわなわなと震わせた須勢理が姿を現す。
その表情は怒っているのか、泣きそうなのか、口をへの字にしていた。
「心を奪っておいて、お逃げになるの?」
詰られているのに、どうした事か、その姿さえ愛おしくて堪らない。
大己貴命が手を伸ばした、次の瞬間、須勢理は握りしめていた懸け守りを投げ付けた。
「必ず勝って下さいませ。答えはその時に――。」
震える声でそう言って、須勢理は再び御簾の内に引っ込み、そのまま奥へと立ち去る。「姫様?!」と萩乃が慌てて後を追う気配がした。
手元に残ったのは丁寧に縫われた懸け守りで、中を覗けば護符が入っている。移り香か、僅かに須勢理の薫き染めていた香りがした。




