愛、屋烏に及ぶ
和多利と何だかんだと話し込んでしまった事もあり、早蕨が須勢理の文を大己貴命に届けたのは妙白や柳舟が来る少し前の時刻であった。
慌ただしく受け取った桜色の文を、誰も居なくなった部屋で解き読めば「闇ならば うべも来まさじ 山桜咲ける月夜に」と書かれていて、なるほど彼女らしい返信だと笑みが零れる。
初めてあった日の朧な上限の月は丸みを帯び、もうすぐ亥の刻といったところだろう。そぞろ歩きを理由に出るには無理があるし、かと言って、この文を貰ってそのままに眠りがたく思える。
「御二方をご案内して参りました。」
「ありがとうございます。」
戻ってきた萩乃にニコリと挨拶をすれば「気難しいので通っている柳舟殿まで、ご機嫌にさせるなど何をなさったのです」と訊かれる。
「そんな大したことは何も話していませんよ?」
そう言って誤魔化せば「嵐に巻き込まれて、花を散らすのは萩の性分ですから諦めもつきますが、山桜はまだ咲き始めです。姫様は巻き込まないで下さいね」と釘を刺された。
「それでは、きっとお義父上を説得しましょう。」
大己貴命が笑っていえば、萩乃は口元を隠しつつも、「まあ」と言いながらくすくすと笑った。
「貴女もあれこれとお疲れでしょう。昨日、殆ど寝ていませんので、私はこれより休もうと思いますから、貴女も少し早く下がられて、お休みになられてはいかがですか?」
「お言葉に甘えたいところですが、殆ど寝ていらっしゃらないとは、昨夜、何かあったのですか?」
「いや、何、お義父上とお声かけしたのがお気に召さなかったのか、昨夜の局は室だったのです。」
「まあ! それは寝られそうにないですね。」
それ自体は些末な事で、本当は襲撃されたり、宿直をしたりが要因だったが、萩乃はそれだけで納得し、「では、お言葉に甘えます」と言って、一礼するとスルスルと衣擦れをさせて自分の局へと下がっていった。
今夜は篝火を多めに焚いている事もあり、恐らくこの東の対にいれば命を狙われることはないだろう。
しかし――。
大己貴命は萩乃の気配が完全に消えた事を確認してから、生弓矢を携えると、局を抜け出して庭へ降り立った。
今夜は先日の月よりも丸みを帯びた月がぽっかりと空に浮かび、辺りに敷かれた白砂がその光を浴びて青白く感じるほどだ。
黄泉の国に近い根の堅洲国特有の、魂の残滓の光もほの光り、夜だというのに遅咲きの桃や早咲きの山桜の花が照らし出されて、とても美しい。
「まさに春宵一刻値千金の風情だというのに、不粋な方々で困りますね・・・・・・。」
そう呟きながら、昨日と同じように人気のない薄暗がりの森の辺りに行けば、叢からがさりと音がして大刀を構えた三の兄の伊夜彦が姿を現した。
「そのような物騒なものしまってくださいませ。」
「先程から気が付いていたであろう? このような人気のないところに来て、お前は何を考えている・・・・・・?」
「一言、兄者達にお伝えしたいことがありまして。」
「なんだ? い、命乞いか?」
小心者の癖に、精一杯虚勢を張っている三の兄の様子に、大己貴命はやや呆れた口調で「いいえ」と話した。
「時と場所をお考えくださいませ、とお伝えしたかっただけです。」
「時と場所・・・・・・?」
「ええ、ここは曲がりなりにも素戔嗚尊の邸の敷地内。こんな所で身内の者が刃傷沙汰など引き起こしたら、それは伊波の国全体の問題になりますよ。」
顔を赤くしたであろう伊夜彦を後目に、大己貴命はひ、ふ、みと数えながら、「それで、三の兄者は、一体、何人、引き連れてきたのです?」と訊ねた。
「何のことだ・・・・・・?」
「お供の方ですよ。もし、覚えがないなら、一の兄者の差し金でしょうか?」
その言葉に伊夜彦は慌てて辺りを見回す。
「目障りな弟を纏めて始末できる美味しい機会です。私が一の兄者なら、このような機会を見逃すことはないでしょう。」
一つ違いの腹違いの兄の顔色は、ますます悪くなり「一の兄者が、まさか」と呟いている。
「七、八人といったところでしょうか・・・・・・。仮に私が討たれたとして、三の兄者はその人数をお一人で捌き切れますか?」
そう言いながらも木陰より飛んできた矢を風の盾で防ぐと、大己貴命は面倒くさそうに「二日続けて衣を汚すわけにも参りませんし」とぼやく。
「昨日は妙白殿が見張っておいででしたから加減をしましたが、今日は少しばかり本気で御相手しましょうか。」
そう言うと伊夜彦の横を一陣の風が吹き抜け、遠くで「ぎゃあ」と叫び声が聞こえてくる。かすり傷ながら、頬にぬるりと血が伝ったのに気付くと、伊夜彦は「ひッ」と短く声を上げてその場にへたり込んだ。
「兄者は《風の力》が、いかほどかご存知ですか?」
そよ風として心地よい気持ちにさせるのも風ならば、鎌鼬となり見えない刃と化して切り裂くのも風だ。
相手方から流れてくる矢は逆巻く風の盾に阻まれて大己貴命のところに届かぬのに、大己貴命の放つ矢は風に乗り、威力や精度を増して一撃で急所を射抜き、次々と敵を仕留めていく。
大己貴命が「これで、大方、邪魔者は片付きましたかね」と言った頃には、伊夜彦や大己貴命の周りには無数の矢が転がっていた。
「それで、いかがなさいます?」
「い、いかが、とは?」
「この状況でも三の兄者が、一の兄者達につくと仰るなら容赦致しませんが、もし《今日を限りにこちら側につく》とおっしゃるなら、全て水に流してお助けしても良いと思うております。」
それに何よりもここは須勢理毘売命のいる地。身内の死など持ち込みたくなどないし、一の兄である日出彦は三の兄の伊夜彦を見限ったようだったから、敵意がないなら話し合う余地もある。
大己貴命が近付けば、恐れ戦きながら伊夜彦は「お前の側につく、だから!」と頭を守るようにして叫んだ。
大己貴命は「そんなに怯えなくても」と言いつつ、その横をすり抜けると、脇腹を押さえながら姿を現した覆面の男に「そんなわけで、三の兄者を殺させるわけにはいきません。今夜は引いていただけないですか?」と話す。
「化け物め・・・・・・。」
「いかようにも呼んでいただいて構いませんが、引いていただけないでしょうか?」
貴方も傷付いておいででしょう、と話しても、男の目は爛々と輝き、刀を構える。
「では、仕方ないですね、この手は使いたくなかったのですが・・・・・・。」
そして、昨夜、妙白に言われたように、ぴいぃぃぃっと指笛を吹くと、近くの木から一斉にバサバサと大きな羽音を立てて烏の群れが飛び立って、邸の方へと飛んでいった。
「これで邸の警備の者がやってきます。やがて他の者も捕まりましょう。」
覆面の男は、さすがに分が悪いと判断したのか、取り落とした刀も拾わずに去っていく。辺りには大己貴命と伊夜彦が残された。
「お、俺の事はどうするつもりだ?」
「三の兄者はこちらに付くのでしょう? それなら堂々としていらっしゃればよろしいかと。兄が弟を訪ねる事に何か問題がございましょうか?」
切れた頬を拭えるようにと大己貴命が懐紙を手渡すと、恐る恐る手を伸ばし受け取る。
「本当に、助けてくれるのか――?」
「ええ、もちろん。味方になって下さるとおっしゃるなら、歓迎致しますよ。」
柔らかく笑えば、伊夜彦は気が抜けたのか「お前は相変わらず分からん奴だな」とこぼした。
「由支彦の罠には、簡単に引っかかったと思うたのに・・・・・・。」
「あれはやられた振りをしたに過ぎませんよ。あれでお二人の気が済み、安全に暮らせるならこのまま死んでもとも思ったのですが、あの後、お二人とも不思議と嘆いていらっしゃったでしょう?」
「あ、あれはだな・・・・・・。」
「由支彦がな」と呟き、照れ臭そうにしてそっぽを向く。大己貴命はへたりこんでいる伊夜彦に「だから、兄者達とこうして話をする機会が欲しかったのですよ」と手を貸した。
「ならば、隠密裏に現れれば良かろう。それをあんなド派手に・・・・・・。」
「ああ、あれは少しばかり悪戯心が働いたんですよ。」
神皇産霊神らの全面協力のもと、八上比売への正式な求婚の宴の日に、大己貴命が誰よりも煌びやか着飾り、沢山の貢物を乗せた車と共に姿を現したのだから、一同、息を呑んだ。
「皆様、見事に顔面蒼白でしたよね。」
「御前試合と称して確かに剣を交えて殺したと思うたのが、次の瞬間には八上比売の隣にいて酒を酌み交わしているのを見たら、普通、大抵の者がその反応になると思うぞ?」
何度、刺客を放っても、イリュージョンのようにして大己貴命が逃げ回るから、日出彦はムキになって、最近は倭種の忍びの者まで使うようになってきている。
「今までは反撃してこなかったのに、昨日、今日と、一体、どういう風の吹き回しだ?」
常なら逃げ回るだけで、このように返り討ちにはしていなかったはずと言えば、大己貴命は「もう少し生き長らえたいと思えるような人に会ってしまったからですよ」といつになく優しげな笑みを浮かべて話した。
山桜咲ける月夜に 出でまさじとは――。
山桜の白い花びらと、同じように白い柔らかな暈を被った朧月夜。
その下で自分を待っている人がいると思うだけで、春の優しいそよ風のように優しい心地になる。
「自分でも不思議なんですよ。どうしてここまで心惹かれるのか。」
ほんの少しの語らいと、ほんの少しの触れ合いだけで、どうしようもなく「欲しい」と思わされる。これを「恋」と言っていいのかも分からないほどに。
「ただ、彼の女をこの内輪揉めに巻き込みたくはない。それゆえ、さっさと片をつける事に舵を切り直したのです。」
それを聞くと、伊夜彦は「ならば、これはお前に譲る」と大刀を差し出す。
「俺には過ぎたるものだ、お前が持っていてくれ。」
「まだ刺客が残っているかもしれないのですよ?」
「それならさっきの奴が落としていったこの刀を使うから良い。」
そう言うと道端に落ちた刀を拾い上げる。
「その大刀の銘は分からない。使うのにコツもいるが、不思議とお前の鎌鼬のようによく斬れる。」
月明かりに手渡された大刀を見てみれば、反りが入った片刃のもので、兄の拾ったよくある直刀のものとは形からして違っている。
「このようなものをどこで?」
「倭種だ。あの国は高皇産霊神と天照大神の息が掛かっている。」
その力は祭司に留まらず、政治や経済、文化にも影響を与え、一般には流通しないような最新鋭の武器が裏取引されているというのだ。
「その刀や弓矢は天日槍命らが、倭種へと持ち込んだものだ。」
「天日槍命?」
「ああ、そいつは何でも高皇産霊神と親交が深いようで、倭種ではかなりの高い地位に就任している。そして、我らの元に比々羅木の銘のついた矛を持ち込んだ。」
「比々羅木の矛?」
「そうだ。一の兄がその矛を持っている。」
伊夜彦は「あの矛はお前にとって脅威になろう」と話す。大己貴命は「肝に銘じます」と答えた。




