千度の限り恋わたるかも
夕暮れ時、須勢理の元に届いたのはまだ花が咲ききらぬ山桜のひと枝だった。結ばれた文を解いてみれば「冬こもり 春咲く花を 手折りもつ 心地して」と散らし書かれている。それを見て、須勢理はできる限りを平静を装ったものの、嬉しさに笑みを零した。
控えていた早蕨は、喜色を露わにする須勢理の様子に「萩乃の言う噂は思い過ごしだといいのだけれど」と思い悩む。こうした折はいつもなら代筆や代返を依頼してくるのだが、須勢理は大事そうに文を畳んで懐にしまっただけで何も言わないから、早蕨はそっと「いかがしますか?」と訊ねた。
「文箱をお願い。」
「承知しました。何を添えましょう?」
「そうね、先程頂いた桜の花をひと房、散らなそうなところをより分けて欲しいのだけれど。」
そう言いながらも差し出した文箱の蓋に手をかけて、いくつかの料紙を選び始める。そして、薄桜色の透かし入りの料紙を取り出すと、ぶつぶつと呟きながら言葉を推敲しながら決めているようだ。
こうして須勢理の様子を見てみれば、確かにその様子は恋い初めの気配で初々しく、愛らしさが常より勝っているように思えてくる。
「早蕨?」
ぼんやりとしていたのから我に返ると、早蕨は「ああ、お花でしたね」と答えて、須勢理から文を受け取る。そして、まだ咲ききらない花のひと房を、結び目に差し込むと「これでよろしいですか」と須勢理に訊ねた。
「ええ、それでお渡しして?」
「承知致しました。」
「送り主の方にも、どうぞよろしくお伝えしてね。」
くすくすと楽しげに笑う須勢理の様子に、早蕨もこのまま幸せにあれと思いながら、一礼して局を後にする。
早蕨は須勢理から受け取った文を手にして、同じ対の屋の、ほぼ反対端に用意させた大己貴命の元へと向かうことにした。
(大屋彦なら男を囲っているのではと聞かされても、鼻で笑って一蹴で終わるのに、三名狭漏彦だとそうもいかないし・・・・・。)
やんちゃ坊主がそのまま大きくなったような五十猛神と違って、八嶋士奴美神はこういう時には上手にその痕跡を消して回る。それ故、須勢理は純粋に兄を慕っているが、邸の者にとっての「八嶋士奴美神」は「好色者」として認識されているし、ましてや大己貴命の美丈夫ぶりを考えると萩乃のいう噂話も全く有り得ぬ話と一蹴できないのが難しいところだ。
(この話が上手くいくことを願っている姫様のお耳に、このような話・・・・・・。事実ならば、それこそ大変な事になりかねない。)
可愛い妹姫の須勢理に嫌われるのを心底恐れている八嶋士奴美神の事だから、この話は事実無根だと信じたいが、日頃の行いが災いしていまいち信用に欠ける。もし、これが事実無根だとしても、少し日々の事を改めるように小言を言ってちょうど良さそうだと思えた。
外は日暮れて、群青色に染まり、空に夕星が見えている。早くせねば、大己貴命のところに妙白や柳舟が訪れよう。
早蕨がそう思って足を早めれば、辺りを伺いながら庭を進む人影が見えて立ち止まる。一瞬、顔立ちが変わっていたから不審者かと思ったが、見知った顔だと気がつくと、木陰に潜んでいる男に早蕨は声を掛けた。
「それで隠れているつもりですか? 和多利。出ていらっしゃい。」
早蕨の呼び掛けにひょっこり顔を見せた男は、こちらを見ると白い歯を見せてニカッと笑い「早蕨殿でしたか!」と近付いてくる。
「ご無沙汰しておりました!」
以前、邸にいた時は、筋肉も薄くもやしっ子のようだった和多利は、いつの間にやら健康優良児そのものになっていて、日に焼けた肌にガッチリとした体躯の男に育っている。
「すっかり海人の仲間入りですね。」
「ええ、お陰様で。初めの頃はもやしっ子と舐められてばかりでしたが、その度に若様まで一緒になって扱いてやれと言われて大変な目に会いました。戻ってきたら、誰だか分からぬと言われる始末です。」
そして、若干、そわそわした様子で「それで、若竹殿も息災ですか?」と訊ねてくる。
「久しぶりにこちらに留まるので、ご挨拶したいと思うてこちらまで来たのですが・・・・・・。」
そう尻すぼみに話す様子に、早蕨は「なるほど若竹会いたさにこの辺りまでコソコソとやってきたのだな」と合点した。
「若竹なら元気にしていますよ。相変わらず姫様に忠義立てていて、素戔嗚尊が断る度に《私が先にお嫁に行くことは決してしない》と豪語しております。」
その言葉に和多利はほっとしたような、残念なような顔をする。
「ですので、私は此度の縁談こそ、上手くいって欲しいと願っていますよ。」
すると、和多利は「ええ、ええ、そうですね」と相槌を力強く打った。
「ああ、ところで、和多利。お前の率直な意見を聞きたいのだけれど、大己貴命という方はどういう方なの?」
「率直な意見、ですか?」
「ええ、寝殿の女房たちが若様と彼のご客人との間を憶測して、良からぬ噂を立てているようなのです。私くらいは本当のところを知っておかなければ、と思うて。」
和多利はうんうんと頷く。
「若様も気にしておられました。あんな大きな隠し子はおらぬのに、と。珍しく若様が他人の恋路の味方をなさっていらっしゃるのですから、此度の件は上手くいって欲しいものです。」
「隠し子・・・・・・?」
「あれ? そのお話ではございませんでしたか?」
早蕨はにっこりとすると「それはそれでもう少し詳しく話を聞かせてはおくれ」と言う。和多利はその剣幕に思わず後退りした。
「話を聞かせてくれたら、私の手ずから若竹に文を届けてやっても良い。」
「え?!」
早蕨が「良い話であろう?」と言うと、和多利はきょろきょろ当たりを見回して「御用がお済みになりましたら、あちらの階の辺りでいかがでしょうか」と話す。
「そちらでは姫様に気付かれます。あちらの角がちょうど良い物陰になりましょうから、そのまま庭から回って貰えませぬか?」
「承知しました。」
そう言うと和多利は嬉しそうな足取りで、早蕨が指示した辺りに向かう。早蕨は辺りに人気がないのを確認して、和多利に「それで、先程の隠し子というのは真実なのですか?」と訊ねた。
「いいえ、いいえ! ただ、若様は殿に、ご客人の出自を詐称したらしく・・・・・・。」
「殿を前になんと大胆な。」
「彼の方のご出身の地域が、現在は治安の悪い土地である事を考えて、素戔嗚尊には時が満つるまで、そのように伝えて置いた方がよかろうというのご判断なのです。いずれきちんとお話なさると仰っておいででした。」
八嶋士奴美神の筋書きによれば、和迩族の長、布波の主と仮の兄弟の契りを交わしていることをいい事に、大己貴命をその息子の「海人の布由伎奴」の息子をいう事にしたと言う。
「でも、そこだけですよ? ご出身は伊波の国とお聞ききしておりますが、それ以外は紛れもない真実。母君は刺国の方と仰っていました。」
和多利はそう言ったが、大己貴命の母親が刺国の出身であれば、この根の堅洲国への来訪の意味と、須勢理への妻問の意味が変わってくる。早蕨は思案顔になった。
「母方は刺国なのは間違いないのですね?」
「ええ。東の果て刺国の方に相違ございません。」
それが事実なら「伊波の国の後ろには、刺国が控えている」という事になる。そして、それは倭種の国を挟んで、二国が縁を結ぶ事で倭種の国が攻め込んで来ないように両側から牽制しているということだ。
「若は伊波の国と刺国の事について何か言っていませんでしたか?」
「ご本人の口からは何とも・・・・・・。しかし、伊波の国は谷合を抜け北の地に他の国に入らずとも抜ける道がある国ですから、陸路の確保をお考えなのかもしれません。」
「陸路?」
「はい、彼の方がゆくゆく伊波の国か、刺国を治めるならば、北の海の覇権を争っている高志の国に周防を回らずとも進む道の確保をしたり、刺国が領有する東の海の安全な航行が出来たりしますから。」
後継者の問題があるとはいえ、刺国は比較的安定している。それであれば、荒れている伊波の国を平定し、軌道に乗ったら刺国を統治するのを考えているに違いない。
聞いた限りでは夢物語みたいな話だが、大己貴命と八嶋士奴美神が本気を出せば、陸は大己貴命が、海は八嶋士奴美神が治める道筋は立っている。そして、その和合の証のように、大己貴命が須勢理を娶る心積りとなれば葦原中国どころか、三界にも影響を及ぼしかねない大事だ。早蕨はそれに気づくと話の大きさに思わず鳥肌が立った。
一方、和多利はすっかり大己貴命に心酔しているのか、大己貴命を褒めそやす。
「彼の方は幼き頃に、今は亡き伊波の国の先代に連れられて、諸国を行脚なさっていたそうです。近隣の稲葉の国、丹波の国を始め、今は倭種の傘下に下っている北の高志の国や科野の国についても刺国を通じて情報を色々お持ちですから、若様もとても喜ばれて・・・・・・。」
しかも、夜の食国、高天原の風俗など各界の事も、押さえるべきところは押さえており、充分に天津神とも渡り合えるほどの見聞の広さだという。
「私も若様にくっついて、老若男女、貴賎を問わず、様々な方とお会いしましたが、彼の方ほど、目端の利いた方にはお会いしておりません。打てば響くとはまさにあの方のためにある言葉のよう。伊波の国でのお立場でこそ難しいお立場にいらっしゃいますが、若様とて、今のうちに囲っておきたい人材というのが本音でしょう。」
それ故、八嶋士奴美神は大己貴命を庇護し、言葉を尽くしては懐柔しようと躍起なのだという。そして、その話に尾がつき、ひれがつき、男娼説やら隠し子説を生んだようだ。
早蕨は八嶋士奴美神が大己貴命に目をかける理由が色恋沙汰ではなさそうだと分かったものの、難しい顔は崩さなかった。
「ともあれ早蕨殿がご心配なさるような方ではございません。ご立派な御仁ですよ?」
「ええ・・・・・・、そのようですね。」
早蕨の歯切れの悪い返答に、和多利は「いったいどんな噂を聞いたんですか?」と笑う。早蕨は「そうではないの」と首を横に振った。
「この縁談の裏にそんな政略的なものがあるとは思うてなかったから。」
大己貴命の真摯な態度からは思いもよらなかった話だ。すると、和多利は慌てたように「それは違いますよ」と話す。
「若様はきっぱりとその和合の話と、この件は別だと言い切っておいででした。それに彼の方も、政略的なものなど何もいらないと仰せなのです。」
八嶋士奴美神は妹姫の須勢理毘売命の紹介を始めは断ったと言う。
「若様は和合の件を須勢理で贖えというなら、今までの話は聞かなかったことにしてくれ、とまで仰ったのですが、彼の方もそうではないのですと仰られて・・・・・・。」
月夜に垣間見て、たまたま好いたのが須勢理毘売命であったというのだ。
「正直、そこからが大変で・・・・・・。」
八嶋士奴美神が「守りの固い邸で見られるわけがあるまい」と再度断ったものの、大己貴命は確かに須勢理毘売命の風貌やこの東の対の造りを話し「それでも信じて頂けないなら、人知れず連れ出す他にございませんね」と言い出したのだ。
「いやあ、男でも女でも美人の笑顔は怖いですね。」
絵物語に出てきそうなほど微笑んだ姿は美しいのに、目がひとつも笑っていなくて、背筋の凍る思いがしたと和多利は話す。八嶋士奴美神も思わず「お主、お願いに来たのではなかったのか?」と狼狽した程だったそうだ。
和多利は「ともかく、それくらいには姫様のことをお想いになって、今回のお願いですから、早蕨殿が心配するようなことにはなりませんでしょう」と太鼓判を押した。
※地理を少しだけ補足しておきます。ちなみにフィクションですので、あくまでおおよそな感じでお読みください。
伊波の国:兵庫県中央部の辺り一帯を治める国。幼い大己貴やその母の刺国若比売を追いやるために、穴粟の辺りに二人は拠点を置くことになったが、実際に栄えているのはもう少し東寄り。北~南に抜ける道は市川沿い、円山川沿いに敷かれている。丹波の国、稲葉の国、美作の国と接し、美作とは比較的良好な関係だが、他の二国間は緊張状態にある。
刺国:別名、佐斯の国。静岡県の大井川の東側~神奈川県、東京にかけての大きな国。直接的には、高志の国、科野の国、巴里の国と接する。神皇産霊神の傘下の国。倭種の勢力圏の事を考えて、伊波の国と協力関係にある。科野の国とは比較的友好関係にあったが、倭種の介入に伴い最近は関係が悪化し始めている。
倭種の国:別名、大和の国。京都府を中心とした国で、高天原(特に高御産霊神)との結び付きが強い。合衆国の体をとっており、真ん中に「宮処」が置かれ、宇治、瑳峨など小さな州の長による合議制を取っている。範囲は京都、大阪、滋賀、奈良の北の方、三重、岐阜の西側。その他、丹波の国は武力で制圧し属国化した他、高志の国、科野の国、巴里の国(愛知界隈)とは協力関係を取っている。その他接しているのは熊野の国(和歌山界隈)があるが、そことは緊張状態にある。
高志の国:別名、越の国。新潟県糸魚川市辺りに首都をおく。おおよそ越前、越中、越後の範囲。翡翠が取れるため、その交易で潤っている。
科野の国:別名、風の野の国。長野県、岐阜県の辺りを納める。
当初は刺国と友好関係にあったが、倭種の国に攻め込まれるのを防ぐため、人質に国長の娘が京に預けられており、刺国との友好関係がやや崩れてきている。
丹波の国:丹波市、福知山市を中心とした小国。しかし、鉱山が多く、そこで産出した金・銀・鉄などで国の財政を潤している。倭種の属国。
稲葉の国:鳥取県界隈を想定。八上比売の妻問のために向かったのはこの国で大己貴と木花知流比売があったのもこの国の海岸線。沖合に八嶋士奴美神が勝手に拠点にしている島がある。




