雉子の妻恋
湯浴みを終え、鬢を整えた小袖姿の大己貴は、諸々を手伝っていた萩乃が嘆息する驚くほど美丈夫で、早蕨が古参の自分を招集したのか合点した。
早蕨が「この青年がここにいることは私と妙白殿、柳舟殿以外には内密に」と念を押したのがよく分かる。
直接的なところは自分が、念を入れて、所用を頼む時も口の固い数人で対応するようにしているから彼がここにいる事は他に漏れる事はないと思うが、きっと彼が邸内を出歩いたなら邸内の若い女房たちが大騒ぎするに違いない。
初めは五十猛神の桜の直衣を勧めたものの、「白の袍は目立ちましょう」と言って、少し落ち着いた桜萌黄の物を選んだものの、それもまた悪くなく、赤みの効いた濃き二藍の衣の色が透けて、御衣黄の花の風情に見えた。
「妙白殿がいらっしゃるまで、しばらく間がございますが、いかがなさいますか?」
「では少し話し相手でもしてくださいませ。」
「ええ、構いませんよ。」
この仕事を請け負った時から、今日の仕事は目の前の彼の相手だ。
「それで何をお聞きになりたいのですか?」
「そうですね、まずは早蕨殿と萩乃殿の事から教えて頂けますか?」
てっきり須勢理の事を聞かれるのだと思っていたから、萩乃は「私と早蕨のことにございますか?」と聞き返す。
「ええ、先程、早蕨殿とご挨拶致しましたが、お見受けするにこの東の対はあの方が取り仕切っていらっしゃるのでしょう?」
そう言うと黒曜石のような目を細めて辺りを見回し、再び萩乃の方を向いて「あの二言、三言の会話で、貴女は彼女に従い、従者や女房の方々は顔を出してこないように人払いまでなさったご様子」と話す。
「もちろん萩乃殿の配慮もあっての事とは存じますが、ここまで人払いできるという事は、貴女も普段は他の対の執り成しをなさっていらっしゃるのではないですか?」
図星を刺されて少しどきりとしたが、「何故、そんな風に思われるのです?」と平静を保って応える。
「昨日、八嶋士奴美神と参りました折に、寝殿にいらっしゃったのをお見受けしました。それにこの桜萌黄の衣の着丈は八嶋士奴美神の物かと推察しまして。元は八嶋士奴美神付きの女房殿ではないかと思うたのです。」
それであればこの東の対ではなく、普段は別の対にいらっしゃるのだろうとも思われた。
「なるほど、確かに元は八嶋士奴美神付きです。彼の乳母子にございますから。」
「そうでしたか。それで合点が行きました。」
大己貴は「文箱をお借りしてもよろしいですか? 八嶋士奴美神に内密に文を届けて欲しいのです」と話す。
「もちろん早蕨殿には、八嶋士奴美神への文だと話して頂いて構いません。ただ、彼に必ず届けていただきたいので、貴女の手ずからお渡し願いたいのですが、お願い出来ませんか?」
人好きしそうな、それでいて底の見えない笑みをされると、嫌とは言いにくく「承知しました、文箱をお持ちしましょう」と話す。
「あ、あと、そうですね・・・・・・。」
大己貴は立ち上がり、庭を眺めると「文に添えるのにあの辺の花を適当に数輪と、少し遠くて申し訳ないのですが、あそこに見える山桜の枝をひと枝、お持ち頂けませんか?」と話す。萩乃が了承すると、さっきとは違って、心底嬉しそうに「ありがとうございます」と言い、優しげな笑みを浮かべる。
萩乃はいったん庇へと出て下男を呼ぶと庭に花を摘みに行かせ、隣の局から文箱をもって戻る。美しい黒の漆塗りに金蒔絵の施された箱の細工に、大己貴は恐る恐る文箱を受け取った。
「これは・・・・・・見事な文箱ですね。」
「そうでしょうか?」
「はい。このような品、葦原中国では見たことがございません。こうして根の堅洲国に来て、数週間が過ぎましたが、ただただ圧倒されるばかり・・・・・・。ましてや、私の生まれは葦原中国の中でも、山深く、もっと粗野な物を使っております。」
文箱のなかに一緒に入れられた料紙を吟味し、ひとつは白のなかに雲母の透かれたもの、もう一つは美しい青緑と薄い黄色を継いだものを選び取る。
「山桜のものを早蕨殿に。須勢理毘売命にお渡しくださるようお伝えください。あと、春の野草のものは八嶋士奴美神に直にお願い出来ますか?」
萩乃は「ええ」と言って文を受け取った。
「ああ、あとお言伝てをいくつかお願いしたいのですが・・・・・・。」
そうして大己貴に追加で二、三つ言われて頷くと萩乃は局を出た。
日は沈んだのだろうか、外は群青の色に染まっていく。星はきらきらとしていて、何だか夢見心地だ。
「萩乃――?」
そう早蕨に声をかけられるまで、萩乃は少し浮ついた心地で渡殿を渡っていた。
「ああ、ちょうど良いところに。今、文を預かって頂こうとお伺いするところだったのです。」
そう話す萩乃はのぼせ上がるというほどではないものの、少し弾んだ声をしている。早蕨は萩乃をしても浮ついた雰囲気に、若竹には全て片付くまで、大己貴には会わせまいと心に決めた。
「こちら、姫様にとの事です。」
数輪綻び始めた山桜の枝に文が結ばれている。
「承知しました。こちらは姫様にお届けしましょう。彼の君にも確かに受け取りましたとお伝えください。」
「はい。」
そして、萩乃の持つ、もう一つの春の草花を括り、同じよう文を結びつけたものを見る。
「そちらは?」
「八嶋士奴美神に直接お渡しするようにと言付かっています。」
そして、萩乃は「あの噂は本当なのかもしれませんね」と呟く。
「噂――?」
「はい、姫様への妻問は隠れ蓑で、その実、彼の方は八嶋士奴美神の本命ではないかという噂にございます。」
早蕨は「なッ」と声を上げたあと、声を潜めて「そんな事、誰が言うているのです」と詰問する。
「誰と言うか・・・・・・、昨日の昼、寝殿の方ではその話題で持ち切りでしたよ? 須勢理毘売命のいない時には気難しくていらっしゃる八嶋士奴美神が彼の君とは親しげで、とても和やかなご様子で、いつもとは見違えるばかりだったものですから・・・・・・。」
そんな仲睦まじい姿を見せられたら、須勢理毘売命への縁談は隠れ蓑だと思うのが自然だと萩乃が言えば、早蕨は素戔嗚尊の思惑を読み違えたかもしれないと思った。
「ああ、そうでした! もう一つ、《雉子が庭を荒らさぬように、念の為、篝火を絶やさぬように》とお言伝てです。」
「雉子――?」
「はい、これも必ずお伝えするようにと託かりました。」
大己貴命の思惑は読み取れなかったが、考えなしにそういう事を言う男にも思えなかったから早蕨は頷く。
「それでは西の対に行って参ります。」
萩乃はそう告げると、一礼して早蕨のもとを離れる。寝殿を抜け、西の対に着く頃には群青の空は黒く変わり、釣り灯籠に火がくべられ始めていた。
八嶋士奴美神の局に着くと庇のところで額づき「東の対より文をお持ちしました」と声をかける。しかし、中からは返事がなく、萩乃は冷ややかに「三名狭漏彦」と囁いた。
途端にがばっと物音がして御簾が揺らぐ。
それから、ややあって八嶋士奴美神がしどけない姿で現れると、苦々しげな顔で「萩乃か」と見下ろしてきた。
「何用だ――?」
どこぞの女房だろう。奥で急いで服をかき集める気配がするから、思わずため息をこぼす。
「八嶋士奴美神、お手付けなさるのは、程々になさいませ。」
氷のような声で言いながら、大己貴からの手紙をぶっきらぼうに差し出せば、八嶋士奴美は「須勢理には内緒な」と言いながら文を受け取る。どうやら年の離れた兄に尊敬の目を向ける妹には、威厳を保っていたいらしい。
そして、文の結び目を解き、書き付けられた和歌に目を通す八嶋士奴美神に、萩乃は半ば呆れながらも、早蕨に話したのと同じように篝火を焚くように話した。
「雉子が庭に・・・・・・?」
大己貴命からの文を読み終えた八嶋士奴美は、寝殿で噂されたような甘い気配ではなく、逆にピリピリとしたものに雰囲気が変わる。そして、先程の大己貴の文の裏に、端的に何か書き付けると「これを急ぎ持って帰れ」と萩乃にやや乱暴に押し付けてきた。
「お、お待ちくださいませ、まだお伝えすべき事がございます。」
「何だ――?」
険しい表情をした時の八嶋士奴美神は、素戔嗚尊と同じように近寄りにくい気配がある。
「《ひとまず鳴いた雉子は射ったとお伝えして欲しい》と言われております。《美味しい料理の下拵えが終わるまでお待ちくださいませ》とも。」
「何? 大己貴命、一人で射ったのか・・・・・・?」
「さあ、そこまでは・・・・・・?」
しかし、八嶋士奴美神の雰囲気はさっきまでの緊迫した雰囲気からは緩み、「ならば、待て。もう一枚、書く」と言われる。そして、今度は先程のように雑な押し付け方はせず、丁寧に封をして文を渡してくれた。
「東の対は須勢理に合わせて年若い者か多い。話し相手にお主をこちらに呼び寄せたのだが、早蕨にすげなく断られたのは、あれがそちらに紛れ込んだからのようだな。」
八嶋士奴美神は「萩乃もとんだ奴のお守りにさせられたな」と喉を鳴らして笑う。
「直接お話しさせていただきましたが、八嶋士奴美神より大人しそうな方にお見受けしましたよ?」
「猫被りが上手い奴だからな。だが、油断していると寝首を掻いてくるぞ?」
そして「春の嵐に巻き込まれぬよう、離れておくのが良かろう」と話しながら、二通目の文を渡してくる。
「用心せよ――。俺は萩乃を失いたくない。」
八嶋士奴美神はそれだけ言うと再び御簾の内に戻ってしまった。




