萌え出づる春になりけるかも
あくる朝。月影の君のまじないが聞いたのか、いつになく深く眠った須勢理は、早蕨が度々起こすこともなく昼過ぎを迎えた。
「珍しい事もあるものですね。姫様が一日起きていらっしゃるなど。」
自分でも確かにそう思う。いつもの昼過ぎながら、眠たくてうとうとしてしまうのに、春の陽気にも関わらず、不思議と元気で、いつもは苦手な裁縫まで手がけていた。
「そちらは懸守りですか?」
「ええ、始めるなら、これくらいが良いと若竹に聞いて。」
須勢理が「早蕨にも作るわね」と言うと、目を細めて嬉しそうにする。
「いつもなら苦手と仰せで避けられますのに、明日は冬に逆戻りでもするのでしょうか?」
「まあ、酷い。そんな事を言うなら早蕨の分は私が使おうかしら。」
少しむくれて答えれば、くすくすと笑いながら「あまり根を詰めないようになさいませ」と言われる。そうは言われても、この一週間の間には人前に出せる程度の物を作りたくて、裁縫上手の若竹に習うことにしたのだ。
気をつけて縫っては見たものの、目がところどころ不揃いになっているから、一部を解いてやり直す。
「姫様、いかがですか?」
母親譲りの笑顔で若竹が現れて、ちょこんと隣に陣取る。
「先程、早蕨に明日は冬に戻るのかと言われたわ。」
「まあ、かか様ったら。」
くすくすと笑いつつも、「ここはこう開いて縫うとやりやすいですよ」と教えてくれる。
「ところで、こちら、どんな殿方にお渡しなさるつもりなんです?」
どきりとして手を止めれば、若竹は目を三日月みたいにする。須勢理はにっこりとすると、「おもう様と、兄様よ」と返す。
「兄様はこの一週間しかお邸にいらっしゃらないでしょう? だから、急いで縫っているのよ。」
「そうなんですかあ?」
乳母子である若竹はこういう時に限って勘が鋭く「でも、合わせる細紐はこちらの色合いより、こちらの方が似合うのでは?」と指摘される。
須勢理も確かに若竹の指摘した細紐の方が八嶋士奴美神に似合うと思ったが、本当に上げたい相手には今の細紐の方が似合うから「そうかしら?」と答えた。
「そうですよ。いつも好んで着ていらっしゃる色合いの物を考えても、こちらの方が似合うかと。」
「では、紐の部分はふたつ作って選んでもらおうかしら。」
「細紐の所まではお手伝い致します。お渡しするタイミングで、今の姫様の袋部分と合わせましょう。」
そう言うと四苦八苦していた須勢理と違い、縫い方や細紐を二重叶結びにする方法を教えてくれながら、あっという間に同じ所まで仕上げてしまう。
「さすが、早いのね。」
「毎日、仕事柄、お針子仕事をしてますからね。」
「私も少し練習しなくてはだめね。」
若竹はくすりと笑うと須勢理の縫ったものも点検して「目の不揃いなところもないですし、とても綺麗に出来ています」と褒めてくれる。
「最初、兄君に一週間で衣を仕立てたいと仰った時はどうしようかと思いましたが・・・・・・。今もお仕立てになりたいですか?」
「これで半日がかりよ? とても無理。」
「それがお分かりになっただけ、今日は充分かと。」
くすくすと笑って「殿の分も頑張ってくださいませ」と話す。
「姫様のお手ずから渡したなら、きっとお喜びになりましょう。」
「ええ、でも、おもうさまの場合は懸け守りなどなくとも、邪な者が裸足のまま逃げ出しそうだけれど・・・・・・。」
その言葉に若竹は「確かにそうですね」と破顔した。夢中になって裁縫をしている間に、日が西に傾いている。
「あら、もうこんな時間。かか様はどうしたのかしら?」
「そうね、いつもなら顔を見せるのに。」
「ちょっと局を覗いて参りますね。」
須勢理は若竹の立ち去る後ろ姿が見えなくなるまで見送った。
一方、その頃、早蕨は一刻ほど前から、一人の青年と対峙していた。格好は妙白の部下に下賜している服と一緒だが見慣れぬ顔である。
「昨夜、一張羅を汚してしまいまして、かわりに妙白殿に借り受けているのです。」
流麗な笑みを浮かべる青年の様子に、若竹あたりが応対していたなら、きゃあきゃあ言いそうだと思いながら、「何の用か?」と訊ねる。
「須勢理毘売の乳母の早蕨殿に、ご挨拶に参ったのです。」
「挨拶――?」
訝しんで尋ねれば、「ええ、あと故郷から持ってきた豆ですがおすそ分けでお持ちしました」と黒豆を差し出される。
「私の治める地では豆くらいしか取れませぬゆえ、他に持ってこられるようなものがなく申し訳ないのですが。」
早蕨はこの不思議な青年を、八嶋士奴美神が連れてきた男の下男と思って、階の所に腰掛けるように誘導すると、黒豆を受け取った。
「黒真珠のような豆ですね。」
「幾度か煮零す必要がありますが、甘葛煮にすると美味しいんですよ。」
「それで、斯様な物まで持ち込んで姫の何を知りたいのです?」
すると不思議と「姫の事は特に」と返される。
「では、本当に挨拶に来ただけだとでも言うのですか?」
「ええ、それが目的ですから。」
若干、狐に摘まれたような顔をする早蕨に「このようななりで説得力もないお話ですが、姫に妻問に参った本人なのです」と補足する。
「はい・・・・・・?」
「大己貴と申します。と、申しましても、伊波乃国という猫の額ほどの土地の神なのですが。そこから旅を始めて、流れ流れて、八嶋士奴美神に懇意にして頂き、さらに流れ流れて五十猛神のところまで参ったのです。」
そして、この根の堅洲国で心から欲しいと願うヒトと出会った。
「どうやら私は素戔嗚尊の血族の方と浅からぬ縁がある様子。八嶋士奴美神に須勢理毘売命の事をお伺いして、素戔嗚尊にご挨拶に伺ったのです。」
早蕨に「あとは、色々とお聞き及びでしょう?」と話せば、「殿に一週間、留めおくとは聞きましたが、確か、邸外れの室に篭められたと聞いております」と目を丸くする。
「ああ、それが私です。ひょんな事で妙白殿に気に入られたようで、多少汚れても差し障りのない、こちらの衣をお貸し頂きました。」
そう言って全くへこたれる様子のない青年の様子に、早蕨は口元を手で覆いはしたものの、声を立てて笑った。
「これは大変失礼致しました。局にお通し致しましょうか?」
「いえ、それでは汚してしまいますし、本当にご挨拶ですから。」
「私に挨拶せよとは、妙白殿の入れ知恵ですか?」
「いいえ、助言を貰ったのは確かですが、妙白殿とは別です。妙白殿には、柳舟殿に会うように推挙くださいました。ただ、これ以外、今は衣もないため、どうしたものかと思うております。」
武の妙白に、文の柳舟。二人を押さえれば確かに素戔嗚尊も無碍には出来ないだろう。
「では、柳舟殿に会うための衣を借り受けにいらっしゃったのですか?」
「ええ。それと、妙白殿とは別に《たとえ素戔嗚尊がお許しになっても、それだけでは姫君にはお会い出来ぬ。早蕨殿に気に入られねばならない》と伺ったものですから。」
早蕨はその話を聞きながら、「大方、若竹など若い女房あたりが口を滑らせたのか」と一瞬考えたが、青年に小声で「須勢理毘売命に」と言われると目を丸くした。
「今、なんと・・・・・・? 既に姫様にお会いになったのですか?」
「ええ、今回お伺いする前から、たまさかにお会いする機会がございまして、密かに通うております。」
声を潜めて、神妙な面持ちで話す青年の様子に、早蕨は顔面蒼白になる。
「そ、虚言をおっしゃいますな、そのような素振りは少しも・・・・・・。」
しかし、ふと「月影が綺麗で涙が出る」と話した憂い顔の須勢理の事を思い出して口篭る。
「須勢理毘売命を驚かせようと、内緒にして話しを進めていたのですが、一週間も留め置かれることになりましたので、昨夜、正式に妻問に参ったことを告げました。そして、話を伺い、貴女に味方になって頂いた方が良いだろうと思って、こうして挨拶と真実を話に参ったのです。」
今日は奇妙なまでに機嫌が良い須勢理の原因はこの青年だったかと思い至って、ため息を吐く。
「それでは姫様から私の正体も明かされているのでしょうか?」
「はい、白蛇の化身だとお伺いしています。嘘を見破る目をお持ちだとも――。」
「それなら、話は早いですね。貴方は姫様のことを、どう思われているのです?」
早蕨の瞳が蛇のそれに変わり、噛み付かんばかりに威嚇してくる。一方、大己貴は須勢理の事を思って、心底愛おしそうな表情になると、「ただ、慈しみたいと思うております」と答えた。
「今まで、平穏に暮らせさえすれば何も要らぬと思うていたのに、なぜか彼女の事だけは別なのです。」
ただ、傍らにいて、花のように笑っていて欲しいと願う。そして、和琴を弾いている時に見せた楽しげな笑顔を見ていたい。
早蕨は大己貴の言葉に嘘偽りが無いことを確認すると、拍子抜けした顔をした。
「本当に姫様だけが欲しくて、ここまでいらしたのですね?」
「ええ。本当にそれだけなのです。でも、だからこそ、素戔嗚尊は気に食わぬのかもしれませんが・・・・・・。」
困ったように笑う大己貴命は匂いやかな好青年で、しっかりとした衣を着せれば、須勢理毘売命の隣にいても見劣りする事はないだろう。
「柳舟殿にお会いになるのは、いつ頃です?」
「先程、妙白殿に今宵の七つ時か八つ時と言われております。そこまで柳舟殿の手が空かぬとか。」
「では、湯浴みされて、着替えをなさっていただいても、約束の時間に間に合いそうですね。衣も汚れても差し障りの無いものと、邸に上がるのにちょうど良さそうなものといくつかご用意しましょう。」
「ああ、それはありがたい。」
それから、早蕨はテキパキと采配を振るい、滞在する合間、滞在出来るよう使っていない局のひとつを整えさせる。
「ここなら、殿も滅多にまいりません。ご滞在中はこちらの局を自由にお使いください。八嶋士奴美神、妙白殿、柳舟殿にはこちらにいらっしゃる事はお伝えしておきます。」
「ですが・・・・・・。」
「殿の事ならご心配なさらず。私めがお味方すれば、こうする事を見越しておいででしょう。」
そして、それこそが素戔嗚尊の目論見の心地もしている。
「ここを使うも使わざるも、貴方様にお任せ申し上げます。」
そう告げて、あとは古参の女房の萩乃に任せて局を後にすれば、渡殿を渡る若竹の姿がちらりと見えた。きっと自分を探しているのだろう。
「萌え出づる 春になりにけるかも――。」
奇稲田姫が居なくなってから、火の消えたようになり、長い間、冬のようだった邸の中に、春風が吹き込んだかのような感覚に、早蕨は口ずさむ。
(ああ、騒がしき一週間になりそうだ事・・・・・・。)
庭の前栽が春のそよ風に揺れるのを眺め見て早蕨は微笑んだ。




