第43話 返事をしに来た
踏み台を下りると、喉がからからだった。
ミアが杯を渡してくれた。両手で受け取った水が少し揺れ、エリナはこぼさないよう胸元へ寄せた。
「……喋った」
「聞いていました」
ミアが答えた。
テオは、くしゃくしゃになった紙を見た。
「ほとんど読まなかったですね」
「どこに何を書いたか、分からなくなって」
「昨日、あれだけ直したのに」
エリナは笑った。
笑ったら、涙が一つ落ちた。慌てて袖を上げると、ミアが布を差し出した。
「……来てほしいって、言っちゃった」
広場では、人々がそれぞれに動き始めていた。
すぐ帰る人も、知り合いと話す人もいる。今日その場で名を集める机は、置いていなかった。
「言いましたね」
テオが答えた。
「工房の話まで、するとは思いませんでした」
「……嫌だった?」
「いいえ」
テオは一度、広場へ目をやった。
「閉めたままには、しません」
ミアが、エリナの手から空いた杯を受け取った。
「私も、帰って眠ります。起こされるまでは」
やどかりは踏み台を壁際へ戻していた。エリナは布を下ろし、その手が空くのを待った。
「やどかりさん。さっき、どうしたの?」
「さっき?」
「最後に目が合ったとき。笑ってたけど、泣きそうにも見えたから」
男は台の脚を揃えた。すぐには答えなかった。
「……一緒に飯を食いたいって、お前が言っただろ」
「うん」
「昔も、そう言ってくれた奴がいたんだ」
エリナは聞いていた。町の食卓で、帰る場所は今はないと言った声を覚えていた。
「大事な人?」
「ああ」
やどかりは台から手を離し、少しだけ笑った。
「飯を食うときは必ず俺を待ってたんだ。先に食えって言っても、俺が来るまで待ってやがる」
エリナは、すぐに返事ができなかった。
母の手紙を読んで、また皆でご飯を食べたいと泣いたとき、この人は黙ってそばにいてくれた。あのときも、今話している人のことを思い出していたのだろうか。
「……一緒に食べたかったんだね」
「そう言われたよ」
エリナは、今どこにいるのかを聞きかけ、口を閉じた。
どんな人なのか、もっと知りたかった。でも、やどかりの笑みが消えた横顔を見ていると、すぐには尋ねられなかった。
握っていた布を緩め、少し待ってから声をかけた。
「……帰ったら、うちに来てくれる?」
やどかりが、彼女へ顔を戻した。
「私も、何か作るから」
男は頷いた。
「ああ。何を作ってくれるんだ?」
「……まだ、決めてない」
自分から誘っておいて、と少し恥ずかしくなった。けれど、男の口元が緩むのを見て、エリナも笑った。
エリナは布を畳んだ。
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広場の出口で、家族のそばに残りたいと話していた兵士が待っていた。
エリナが近づくと、彼は軽く頭を下げた。
「返事を、ありがとうございました」
エリナも頭を下げた。
「うまく、答えられたか……」
「なぜ行くのかも、私たちに何をしてほしいのかも、分かりました」
男はそこで言葉を切った。
「私は、まだ決められません」
エリナは頷いた。
残念ではあった。けれど、その返事を間違いにするために話したのではなかった。
「はい」
「家へ帰って、話します。今日聞いたことも」
男は少し迷い、それから尋ねた。
「家族を連れて、説明を聞きに来ても構いませんか。私だけでは、答えられないこともあると思うので」
「もちろんです。分からないことは、私も国王様たちに聞きます」
男の肩が少し下がった。
彼は礼をして、広場を出ていった。
エリナは、その背中を見送った。
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翌朝、エリナが中庭へ着くと、入口に人がいた。
一人ではなかった。二人で告知を読んでいる者と、少し離れて待っている者がいる。昨日見た顔もあれば、初めて見る顔もあった。
まだ机を出していない。
エリナが足を速めると、先頭にいた若い男が、こちらへ顔を向けた。
「あの、昨日の話を、兄から聞いて」
エリナは立ち止まった。
「俺、魔物と戦ったことはないんです。でも、荷車なら扱えます。何日くらい家を空けることになるのか、聞きたくて」
その後ろで、別の男が口を開いた。
「俺は、魔物と戦った経験がある。話が聞きたい」
エリナは、二人の顔を見た。
まだ、来ると決めた人たちではなかった。
けれど、昨日までここにいなかった人たちが、自分の話を聞きに来ていた。
「……はい。順番に、お話しさせてください」
中庭へ入り、テオと机を運んだ。
ミアが椅子を出し、やどかりが入口の人たちへ少し待ってくれと声をかけた。
エリナは紙を広げた。
千人と書いた紙ではなかった。
目の前の人が何をできるのか、何を確かめたいのかを書き留めるための、まだ白い紙だった。
「お待たせしました」
最初の椅子へ座った人に、顔を上げた。
「お名前を、教えてください」
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レオンが中庭へ来たのは、その数日後だった。
エリナが椅子を出すと、彼は礼をして座った。
「遠征への参加を、申し出ました」
エリナは、紙を押さえたまま手を止めた。
レオンは最初に会ったときと同じ、まっすぐな姿勢だった。
「持ち場の引き継ぎが済めば、同行します」
「……来てくれるんですか」
「はい」
それだけ答えてから、レオンは卓へ目を落とした。
「家に帰ってからも、あなたの話を考えていました。魔物を恐れて暮らすのは、私も嫌です」
紙の隅が、風で浮いた。
エリナは押さえ直した。
「怖さがなくなったわけではありません。ただ、帰るための備えも、戻ったあとの治療や相談先も聞けました。そのうえで、自分も力を貸したいと思いました」
レオンは顔を上げた。
エリナは頭を下げた。
ありがとうございますと言う声が、少し詰まった。
「まだ一人、増えるだけですよ」
レオンが言った。
エリナは顔を上げた。
「一人、来てくれるんです」
向かいの椅子を見た。
ここで断られるかもしれないと思っていた人が、今、自分の返事を持って座っている。
「……すごく、嬉しいです」
レオンは目を伏せ、そうですか、と小さく答えた。
立ち上がる前に、次は城の担当者と持ち場の引き継ぎを詰めると告げた。エリナは礼を言い、彼を見送った。
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まだ決められないと言った兵士も、中庭へ来た。
隣には、籠を腕に掛けた女がいた。入口で二人が小さく言葉を交わしてから、兵士がエリナへ顔を向けた。
「先日、家族と来てもよいかと聞いた者です」
「はい。覚えています」
エリナは椅子を二つ出した。
女は腰を下ろしても、籠を膝から離さなかった。中には包まれたパンが見えた。ここで話したあとにも、帰ってすることがあるのだろう。
「妻です」
兵士が紹介すると、女は軽く頭を下げた。
「……あの人、帰ってきてから、ずっと同じ話をするんです」
エリナは兵士を見た。
彼は少し困ったように、目を下げた。
「勇者様も、お父さんとお母さんのところへ帰りたいんだと。食堂の話を、何度も」
女は、籠の持ち手を撫でた。
「私は、行ってほしくありません」
兵士が顔を上げた。
女は彼ではなく、エリナを見ていた。
「魔王がいなくなればいいとは思います。でも、この人が帰らなくなるかもしれないと思うと、行っておいでとは、言えません」
エリナは頷いた。
兵士が口を開きかけたが、女は小さく首を振った。
「止めに来たんじゃないの。昨日、話したでしょう」
そう言ってから、エリナへ向き直った。
「この人が、行きたいと言うから。何を聞いて、そう思ったのか、私も、あなたと話して知りたかったんです」
エリナは、机の上の紙を寄せた。
出発までの準備、決まっている役目、帰るために考えていること。女は一つずつ聞き、ときどき夫の方を見た。
給金を受け取る手続きについては、城の担当者にも来てもらった。エリナが答えられないことがあると、女は急かさず、返事が来るまで椅子で待った。
最後に、兵士がエリナを見た。
「参加を、申し出ようと思います」
その声は、演説を聞いた直後の声より落ち着いていた。
「家族から離れるのは、今も怖いです。でも、あなたが食堂で皿を運んでいるところを、家に帰ってからも、何度も思い浮かべました。私も、妻といつもどおりに暮らしたいんです」
兵士は、一度、隣に座る妻を見た。
「前に出る役目を、私も引き受けたいです」
エリナは胸の前で、一度手を握った。
「……ありがとうございます」
女は、喜んだ顔はしなかった。
けれど立ち上がるとき、夫の肩についた糸屑を取り、籠を持ち直した。
「帰ってきたら、戸棚を直してもらいます。ずっと、後でって言われているので」
兵士が、今週直す、と答えた。
「帰ってきてからでいいのよ」
女が言うと、男は黙った。
それから、分かった、と頷いた。
エリナは二人を見送り、名を聞いて書いた紙へ目を戻した。
まだ決められないと言った人には、帰って直す戸棚があった。
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軍の窓口へも、返事が届き始めていた。
新しい報告にあった希望者は、四十三名。七人増えていたが、その隣には、まだ動かせぬ者がいると書かれていた。
指揮官は、元の持ち場と引き継ぐ者を確かめてから、遠征の名簿へ移すと言った。
話を聞いたうえで、残ると決めた者もいた。
その一人が中庭へ来て、レオンと留守の巡回について話した。遠征へ行く者が増えれば、残る者の仕事も変わる。誰がどの道を知っているか、誰に倉庫の鍵を預けるか。二人は紙を挟んで、何度も確かめていた。
「こっちは、こっちでやっておきます」
帰り際、男はエリナへ言った。
エリナは頭を下げた。
「お願いします」
男を見送ったあと、名簿へ目を戻した。
その人の名前は、遠征へ行く者の欄にはなかった。
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中庭へ来る人は、日ごとに増えていった。
初めは演説を聞いた本人が来た。やがて、話を聞いた家族が来て、仕事仲間が来た。荷を届けに来た商人が帰り道で話したらしく、王都の外から来た者もいた。
エリナは同じ説明を何度もした。
人数だけを聞いて喜ぶことは、もうできなかった。何ができて、どこまで行けて、何を心配しているのか。その話を聞くと、紙の上の一行が、少しずつ長くなった。
ベルタが連れてきた料理人は、到着してすぐ台所を見に行った。
テオの作った金具を持ってきた鍛冶屋は、見習いに持たせた箱を机へ置き、扱い方を説明し始めた。ミアの隣には、別の治療師が座るようになった。やり方の違うところを相談し、使う薬を確かめ合っていた。
「こちらの人は、私がお話を聞きます」
そう言われて、エリナは別の椅子へ向かった。
自分が席を離れても、話は続いた。
演説から二週間が過ぎた午後、城の担当者が、兵士を一人連れてきた。
男の靴には、乾いた泥が残っていた。担当者が机に広げた名簿は、王都の外に駐留する二つの隊から届いたものだった。
「百二十六名が、参加を申し出ています」
エリナは、紙と男の顔を交互に見た。
「そちらでも、話を聞いてくださったんですか」
「城から、遠征の役目と備えについて知らせが来ました。隊でも説明を受けて、家へ持ち帰って考えた者が、申し出ています」
男は、名簿の途中へ指を置いた。
「私も、申し出ました。ここです」
エリナはその名前を読んでから、顔を上げた。
「ありがとうございます」
「ただ、交代する兵が着くまで、持ち場を離れられない者もいます。皆でこちらへ来るのは、もう少し先になります」
担当者が、紙の脇に書かれた日付を確かめた。隣の隊から交代が着く日と、王都へ向かう日が分けて書かれていた。荷車と食料の手配も、その日に合わせているという。
エリナは、もう一度名簿を見た。ここへ来るために待っている人たちと、その人たちを送り出すために動いている人たちがいた。
「残る方にも、ありがとうございますって、伝えてください」
男は頷き、帰ったら皆に話します、と答えた。
その夕方、顔を上げると、中庭の端まで机が並んでいた。
それぞれの机で、誰かが誰かの話を聞いている。
最初の朝、置く場所を何度も変えた水差しは、今は誰かが空になる前に満たしてくれていた。
「エリナさん」
呼ばれて振り向くと、ダンが空いた木箱を持って立っていた。
以前のように、すぐ近くまでは来なかった。
「紙、こっちにも置くか。机が足りねえって」
エリナは箱を見た。
「……はい。お願いします」
男は頷き、ミアの示す場所へ運んだ。
そのあとでミアが、ダンも正式に同行を希望していると教えてくれた。荷を扱う者たちと一緒に、準備を進めているという。
エリナは、男の働いている方を見た。
昔のことが消えたわけではなかった。それでも、今日運んでくれた木箱を、なかったことにはできなかった。
「分かった。ありがとう」
ミアに答え、次の人のための紙を取った。




